第10話「涼風至」

文字数 24,027文字



涼風至


                  一


 永禄九年(1566)の賀詞を躑躅ヶ崎で終えたのち、小山田弥五郎信茂は谷村に戻った。郡内は喪に服している。弥三郎信有の死を、領民は悲しんでいた。
「うっ死んでから人の仁徳は量れるちゅうが、弥三郎殿の仁徳は大したもんずら」
 信茂は低く呟いた。
「戯れを」
 傍らにある僧形の者が、語尾を荒げた。
「桃陽坊、世俗のことである」
「しっくりせぬわ、その名前」
「慣れてもらうずら」
 桃陽と呼ばれた僧、誰の目にも弥三郎信有と分からない。ただ頭を丸めただけでは芸がないと、信茂は彼を肥えさせたのだ。痛い思いをせずに変相させたことは有難いが、躰が重くて仕方がないと、桃陽は愚痴を溢した。どちらにせよ、このことを郡内で知るのは、信茂の他には小林尾張守家親だけである。
「室はどうするのだ」
 弥三郎信有は津久井衆・内藤康行の娘を妻に迎えていたが、未だ子に恵まれなかった。情は濃いものの、これは縁だろう。姦淫と子作りは、似て異なる。仕儀も帰結も同じなのに不思議なものだが、容易に孕まぬゆえに〈子宝〉という。望むときであれば尚更だが、とうとう弥三郎信有は子を得ず終いだった。妻はまだ若いし、男好きもする淫奔さもあるから、再婚する道もある。
「未練か?」
「当たり前ずら。女は、いいものだ」
「親父殿と似たようなことをいう」
「は?」
「いや、何でもねえ。ならば尚のこと、早く郷へ戻そう。女は凡庸な顔をしながら、聡い。面相が変わっても、弥三郎殿と見抜かれたら元も子もなし」
 信茂はそう断じた。
 内藤康行の元へは丁重な詫び状を付し、信茂なりの誠意を以て、女を生家へと送り届けた。子がない以上、こうするよりない。そのことを内藤康行は理解していた。むしろ義理堅いことだと、信茂に感謝の意を伝えた。
 北条との盟約がある以上、両家はこののちも変わることなく親交を続けていく。

 この正月中、信茂は鶴瀬の佐藤与五右衛門に馬一疋分の通行を許可した。当主らしいことをしておきたかったのである。それだけ気持は、どこか定まってはいなかった。仕方のないことだった。
 小田原北条家から信茂に挨拶に来た男がいた。大石から復姓した北条氏照である。
「当主・相模守(北条氏政)の名代にござる。以後、お見知りおきを」
 若いが油断のならぬ気配を漂わせている。大石・三田を滅ぼして、多摩一円を掌握した氏照は、上杉輝虎に対する第一線を支えているのだ。歳不相応な気配も当然といえよう。
「小山田領は津久井に接しているので、何かとご迷惑をおかけしている」
「なんの、こちらこそ粗相が多いことと恥じ入る次第」
 形式的な挨拶は、お互いの牽制にも等しい。信茂が抱いた〈ただならぬもの〉という印象は、そっくり氏照が抱いたものでもあった。幸い武田と北条は同盟関係にある。この関係が壊れたときは……信茂は無視できぬ隣人を意識することとなった。
 氏照の滞在は僅かだ。その足で、小田原へ向かうのだろう、氏照は山中を経て籠坂峠を越えて行った。その報せを聞いて、やや置いてから
「加藤丹後殿にお使いを」
 信茂は上野原の加藤丹後守景忠へ宛てた文書を発した。氏照居城である滝山城への一般的な往還路は、川に沿った津久井経由であるが、他にも路がないものか、土地に明るい加藤景忠に質したのである。はたして幾つかの山越え路はあれど、どれも軍勢の渡れる規模ではない。土地の者が山へ入るための獣道だと、加藤景忠から回答があった。千木良路と案下路をはじめとする路は、確かに木地師が歩く路だった。津久井に出るのが安全な路であるし、もし遠回りをするにしても、小菅を経るしかない。そこまでの土地勘は加藤景忠にはなかった。
 なんとなく質したこの情報が、数年後に生かされることを、信茂はまだ知らない。

 京都における将軍・足利義輝暗殺劇により、幕府は形骸を留めるだけの空箱も同然だった。松永久秀や三好三兄弟は、出家を厭わず、足利の縁戚を探しては討った。そのため足利の血を引く者は畿内より脱し、地方へ庇護を求めて散った。
 その一方で、傀儡として完璧な血統を一四代将軍に据えた三好三兄弟は、今度は目障りな松永久秀を討とうと動き出した。気に聡い久秀は、かねてより信玄が関心を寄せる織田信長と接触する工作をはじめた。
 その信長は、中央の煩いに関わることなく美濃平定を急いでいた。信玄が大人しい間に力をつけなければ、いつ東美濃が侵されるか知れたものではない。約束は、交わしたその日から破られるために存在する。その〈戦国の倣い〉を、信長は十分に承知していた。

 三月に入ると、小山田信茂は信玄とともに上野出兵に従った。当主として初めての出陣だが、緊張感はない。誰もがこれまで通りに接するのが嬉しかった。軍議で意見を述べることが許された立場になったことだけが、大きな違いだった。
 留守を任せた郡内家臣団には、相談役として置いた桃陽を活用すべしと伝えてある。軍配者に相当する博識という触込みに、誰もがたちまち畏敬の念で接した。まさか去年まで政を司っていた弥三郎信有本人だとは、誰も思わなかった。意外と気付かれないものだ。ちらと小林家親をみる。桃陽の想いを察し、家親も頷いた。
 そも桃陽というのも、いい加減な命名だ。弥三郎信有の戒名にある桃陰を引っ繰り返して
「これからは陽気に生きよう」
という、信茂の思い付きからである。が、案外、嫌いではなかった。
 留守を任せるにこれ以上の適任者はいない。後顧の憂いがないというだけで、信茂は戦さに専念できた。
 三月一二日、岩村田に着陣した信玄は、その日のうちに小田原へ書状を発した。氏康・氏政父子の出馬を促したのである。
「こんなとき、太郎殿も健在なら」
 つい云いたくなる言葉を、信茂は飲み込んだ。
 このとき武田太郎義信は、板垣郷の東光寺に籠っていた。信玄による幽閉よと囁かれたが、保護という言葉こそ相応しい。義信信奉者に加勢する者が、義信の身柄を奪う動きがあったからだ。義信を誰にも渡さぬという信玄の決意の表れといってよい。そして、このような騒ぎに至った不名誉を恥じる義信は、謹慎の意を口にしていた。庇護であり謹慎、後世このことは結果論をして、幽閉という一言で片づけている。
 少なくとも信玄は、義信の廃嫡を些かも考えていない。
「武田の後継者は、太郎しかいない」
と、常に義信のことを気遣い、家臣の邪推をけん制した。
 北条父子はすぐに動こうとはしなかった。上杉輝虎が越山するのを待っていたのだろう。その間にも、信玄は独自の行動を推し進めていた。兵を入れ替えながら、箕輪城攻略の大詰めを迎えようとしていた。遅れて合流した諏訪勝頼は、一師団長に過ぎない。少なくとも帷幕においては後継者候補にあらず、諏訪家当主という位置付であった。
 この長陣は女日照りといってもよい。
 乱取りの出来る土地ならばいざ知らず、西上野は箕輪城を中心とした一帯が抵抗するのみだ。領民を飼い馴らすことは必至であり、決して警戒心を与えてはならない。こういうときは規律が厳しく、多くの兵も禁欲を耐え忍ぶものだ。こういう兵を相手にする渡り娼もいるが、あらかた他国の間者である。よって肌を合わす軽輩は自軍の予定すら知らない。この徹底ぶりが、武田の強さを支えていた。当然、士卒が渡り娼を寝ることなど、あってはならなかった。下手をすれば手柄頸とばかりに討たれかねない。
 勝頼の立場は、手本となって禁欲を演じるものだ。さりとて婚儀より毎夜も睦いだことが、一層肌寒さを覚えてならない。勝頼は男女のことを付人に習わずに初夜を迎えたこともあり、それだけに快楽に溺れて見境のない、無様な体だった。このことは当然、信玄の耳にも達していたが捨て置かれた。
 お雪の方は発育が優れず、臀部に限らず華奢な体躯だった。勝頼も少しは女を知っていれば、快楽より労りを優先しただろう。それが未熟だったことで、お雪の方は苦痛を強いられることが多かった。人の房事に口出しするほど野暮ではない信玄も、内心、勝頼の未熟な貪りには呆れていた。勝頼の母は房事に長けていた。その子だからといって色好みとは限らないのだなと、信玄は思った。
 こうして陣所で眺めていると、なまじ女を知らぬ頃の勝頼の方が落ち着いていたのではないか。まだまだ未熟だと、信玄は嘆息した。
 五月に入ると、信玄自身は一旦甲斐へ退いた。
 軍勢は武田信廉が総大将となり、休むことなく西上野を攻め続けた。このとき一緒に退いた信茂は、信玄に従い冨士御室浅間神社に社参した。北条氏政に嫁いだ娘の安産祈願という、父親らしい情を示す信玄の心底には、義信を何とかしたいという想いもあったことだろう。
「弥五郎」
「は」
「内政を相談する僧侶、なかなかの評判らしいな」
「はあ」
「せいぜい大事にするがいい。そなたの機転で、確かに郡内には不穏の影もねえずら」
「恐れ入ります」
 国中はまだ義信奪回を狙う者も多いと聞く。早く西上野を平定し、一度、甲斐の隅々まで〈大掃除〉しなければなるまい。いつまでも義信を寺には匿えないというのが、偽らざる信玄の本心だ。
 弥三郎信有に不穏な動きがあったと疑っていたのは、本栖を守備する西之海衆・渡辺囚獄佑守だけだった。その疑念も穴山彦八郎信嘉が往還していたことに根差すもので、具体的な確信ではない。だから表向き彼が死んだことで、郡内だけは信玄派・義信派という分裂を防ぐことが出来た。
「弥五郎ほどの者が当主となり、儂は有難いでや」
「勿体ない」
「亡き典厩や勘助も、おまんの晴れ姿を見たかっただろう」
「……」
「あやつらがおまんを薫陶したのも、この日のためずら」
「だっち(埒)もねえこん(事)で」
 信玄もそれ以上は云わなかったが、確かに信茂の非凡を一目で見抜き、郡内当主に据えることこそ大事と説いたのは、他ならぬ武田典厩信繁だった。山本勘助もそれに倣った。
 すべては、あの勧進能のときからだ。
 両名の遺志は、図らずも達成したことになる。〈義信事件〉は国内を混沌とせしめたが、それに見合う代償を得たのだと、信玄は思った。
 事実、信茂は人との結びつきが達者だった。今度のことも、富士御室浅間神社別当・小佐野能秀に肌理の細かな事前周知を整えていた。信玄は、ただそこに赴くだけで全てが済んだ。弥三郎信有のときにはなかったことだ。これは、事務的に処するというより、信茂のために一肌脱ごうという心意気にも似ていた。こういうことは、万人が出来ることではない。
「西上野を落とせば、おまんに嫁を世話するし」
「は?」
「跡取りを作るのは当主の務めぞ。せいぜい励め」
「はぁ」
 信茂は気乗りしなかった。
 弥三郎信有を僧籍に追いやって禁欲を強いておきながら、自分は子作りに精を出す。このようなこと、後ろめたくて堪らなかった。
 程なく、信玄は戦場に発った。信茂も従った。
 閏八月四日、信茂は富士御室浅間神社別当・小佐野能秀に、祈祷の巻数に対する令状を戦地より送った。
 その翌月。ついに西上野最後の要衝である箕輪城が陥落した。信玄が終生一度も勝ちと呼べる戦さをしたことがない唯一の武将が、長野信濃守業政だった。関東管領上杉家に尽くし中原の雄に徹した業政が、もし戦国の野心を滾らせたなら、きっと信玄も上杉輝虎も敵わなかったことだろう。
 苦い思い出が刻まれたこの箕輪城の陥落は、感慨一入だ。
 箕輪城が武田のものになることで、内心穏やかならざるのは、北条氏康だった。武蔵国を平定し、ようやく上野下野への侵出を果たそうとする矢先、既に武田が西上野を接収していた。しかも善政の途にあるという。民意を掴んだ武田勢の強さは、氏康も十分承知している。
 残りの上野国は武田に取られることがあってはならない。北条勢は上野経略の一歩として、金山城へ兵を充当した。武田を気にしつつも、毎年襲来する上杉輝虎への警戒も必要だった。兵站が延びると中間の拠点が重要になる。氏康は次男・氏照の居城・滝山城と管理下にある栗橋城、そして三男・氏那の居城・鉢形城を、大部隊が常駐できる中間基地として改修を急がせた。
 思えばこのときから、北条家は武田との対決を意識していたのかも知れない。

 帰国して間もなく、信茂の正室を迎える話が慌ただしく定まった。箕輪陥落の直前、信玄は西上野の陣中より小山田家四長老家宛へ使いを差し向けて打診していたのだ。信茂には内緒で、相手も決めていたから、郡内はすっかり嫁入りの支度が調っていたのである。
「儂は自分の嫁がどこから来るか、知らぬ。皆は知っているなんて、狡いもんずら」
 戦勝祝いの宴にて、郡内有力家臣を前にして最初に出た言葉が、これだ。
 一同は大笑いした。
「弾正殿、いったい誰じゃ」
 信茂は小山田弾正有誠に質した。大きく咳払いして、有誠は答えた。
「御宿監物殿の妹御じゃ」
「監物の妹?」
 御宿監物友綱。もとは葛山氏の出身とされる。そもそも葛山一族は駿河国駿東郡葛山(現・静岡県裾野市)の豪族で、甲相駿の国境に接していたことから、三国同盟を機に一族を三つに割ったとされる。医術の心得があった御宿監物友綱は、早くから信玄の近くに仕えていた。僥倖軒宗慶という典医がいたので、その補佐をしながら雑益もこなしていた。無論、戦場に立つことも多く、当然ながら近習だった信茂とも知己であった。
 御宿監物には妹が二人いる。
 上の妹は信茂より八歳下で一九、下なら一〇歳下だ。二七歳の信茂に釣り合うのは必然的に上となろう。それはそれで、気が楽だ。躑躅ヶ崎務めで数度となく言葉も交わしていたし、気心も知っている。
「じゃあ、女房殿に好かれる秘訣を、加賀殿に承ろうかのう」
「儂?」
 すっとんきょうな声で驚いたのは、小山田家〈おぼへの衆〉筆頭・奥秋加賀守房吉だ。堅物ゆえに弥三郎信有からは実務以外で言葉をかけられることがない人物だが、信茂は誰隔てなく戯れ言を振りまいた。堅物をこういう場で弄るのは、確かに弥三郎信有時代では考えられず、ために一同は大笑いした。
「いやいや、女房を持ったことがねえし、ここは年の功じゃよ。加賀殿」
「はあ」
 顔を真っ赤にして俯く奥秋房吉の可愛らしい仕草に、益々座は明るくなった。
 信茂は、房吉が愛妻家だと知っていたからこそ、こういう振りを投げたのだ。困らせようという底意地悪さではない。家臣の日常を知ればこその、親密な戯れだ。こういう点は、代替わりによって大きく変わった郡内の一面である。
「谷村様、儂に聞くことは」
 安左衛門が手を挙げた。
「ねえし」
「ねえですか」
「月江庵で坊主をやってたもんに、なんで夫婦のことを聞くずら。こん素惚けが」
 どっと座が湧いた。
 安左衛門は、もとは吉田の月江寺住僧で、還俗し、小山田の家臣になった。確かに男と女の道を説くには、不似合いである。こういう他愛のないやりとりが、小山田家中にとって新しい親睦となった。かといって、彼らは信茂を侮っていない。信茂が家臣の日常を知るということは、隠し事の出来ぬことも意味している。これほどの情報通は、これまで小山田家にはいなかった。さすがは信玄に鍛えられた将だ。戯れは、畏敬の念があればこそのものだった。
 二日後、信玄から正式に達しがきた。
 予想通り、上の妹が嫁入ることとなった。そこには、次の〈共引〉に花嫁が郡内に着くと記されていた。当時、〈六曜〉は鎌倉時代末期から室町初期に日本へ至り、戦国時代、その考えは浸透していた。共引は今日でいう友引で、大安に次ぐ吉日とされていた。
「あと三日ずら」
 急な話だが、既に大まかな段取りを家中に任せていたから、あとは自分だけの問題だった。出自のことは隠せまい。心構えが必要だ。信茂は中津森に隠棲する母のもとへ足を運んだ。
 母親は余り老けていない。これも、漂白民の何か技なのだろうか。いやいや、そんなことよりも、信茂には聞くことがあった。
「構わねえずら。自分は傀儡子の母親から生まれたと、相手には正直に云えばええし」
「でも」
「代わりに、いいこと教えてやる。女は、心じゃなく、躯でつなぎ止めるもんじゃ。傀儡には房中術が伝わっている。これを教えてやる。ああ、私の侍女を使えばいい、ここで、ちゃんと覚えていけ」
 呼ばれた侍女も心得たもので、陽のあるうちにも関わらず、手際よく寝床を整えて帯を解いた。何と云うことはない、侍女も傀儡なのだ。妙なことになったと思いながら、信茂は母親の面前で、幾つかの房中術を学ばされた。
 それも、強引に、である。覚えなければ帰さぬと凄まれ、おかげで一夜をここで過ごし、朝まで五度の精を放つことになった。朝、もう腰はふらふらだった。
 母親のところには、亡き父の側室とされた笠原の室がいた。剃髪しているが、以前より表情は豊かだ。
「おまん、この方には謝っておけし」
 母は諭すように呟いた。
 以前、トリカブトを盛ったと疑っていた信茂のそれは、勘違いだと母はいう。
「はて」
「トリカブトを盛ったのは侍女だったそうな。あの方は解毒の野草を積んでいたまで。おまんの罵倒は、かなり失礼だで」
「そう、そうなのか」
 昔のことで、すっかり忘れていた。
「許してくんにょ」
 信茂は素直に頭を下げた。
 蟠りが燻ぶっていた少年時代とは違うのだなと、信茂は不思議な心地だった。しかも、今なお駒橋あたりでは、この寵妃を慕う領民も多いと聞く。ひとの評判は、眼が曇れば伝わることがない。
 むかしの信茂は、狭い子供だったのだ。
「しかし、そんなこと、いま分かってもなあ」
 信茂の苦笑いは、照れ隠しに過ぎない。

 小山田信茂の婚礼は大々的なものではなく、こぢんまりとしたものだった。信玄名代で参列した御宿監物友綱は、涼しい表情でこの始終を見守り、宴の座でも冷静な物腰に徹した。
 何か粗相がと気遣う信茂に
「小山田家と縁戚になることは有難い。郷里の葛山が目と鼻の先にて、いい口実で寄ることも叶う。ただ、武田は駿河といい関係ではないという風聞にて、国境に妹を嫁がせることが、多少なりとも気懸かりである」
「へんからねえ(つまんない)心配ずら」
「だといいが」
 御宿友綱は太刀を手にする武士ではない。生きる力がどこか他力本願である。それゆえ、信茂の力強さが羨ましくもあった。これまでも信茂は、信玄の傍で西へ東へと走り回り、多くの戦さを重ねてきた。歴戦の老将からの薫陶もあり、多くの修練も積んでいる。そのことを、御宿友綱は目の当たりにしてきた。事あるときには決して妹を危険に置かぬ男と見込んでいる。
 ただ、つい心にもなく、臆した物云いをするのは癖である。
 信茂もまた、その癖くらいは、重々弁えていた。だから、笑って聞き流した。これから末永く世話になる義兄なのだ。七歳も年下であるが、義兄なのである。
「谷村様は女房殿に好かれる秘訣を加賀殿に伺ってのう」
 些か酩酊の安左衛門が割って入った。
「坊主、引っ込んでおれ。誰か、こやつを寝かしてやれし」
 信茂は笑いながら、安左衛門の丸い頭をぴしゃりと叩いた。この柔軟な主従のやりとりに、さても良き家に妹を嫁がせたものだと、御宿友綱は納得した。

 秋。
 信玄は山縣三郎兵衛尉昌景の具申を受けた。全ての将士に起請文を書かせ、信玄に忠節を誓わせる。古典的だが、形に残る手段が最良ではあるまいか。勿論、御親類衆とて真っ先に従い起請文を提出すべし。
「応じるかのう」
「応じぬは、二心の証。ただちに成敗あるも一興」
「穏やかではない」
「見せしめに格好と心得ます」
 山縣昌景は真面目な表情だ。
「おことが申すと、妙に重い」
「畏れ入ります」
 山縣三郎兵衛尉昌景。旧姓、飯富。そう、飯富虎昌の弟である。虎昌切腹ののち、彼は兄の兵を預かり飯富の棟梁となったが、義信事件は国内に大きな波乱を刻み、この姓が武田家にとっても不都合になっていた。態度にこそ出さないが、当の三郎兵衛尉にしても、厳しい風当たりである。信玄はそれを案じ、昨年、断絶していた甲斐の名家のひとつ山縣家の名跡を彼に与え再興を許した。義信事件について、信玄の苦衷をいちばん理解していた三郎兵衛尉昌景に対する、思いやりだ。
 山縣改姓は彼にとっても、家人にとっても、心機一転の場だった。
 唯一、兄から譲り守ったものがあるとしたら、それは赤一色で統一された甲冑の隊編成だろう。〈赤備え〉で恐れられた飯富虎昌の武辺に肖ったのである。
 辛酸を舐めた山縣三郎兵衛尉昌景がいうからこそ、起請文のことは説得力があった。本来なら自分が真っ先に書きたい気持を抑えて、御親類衆から書くべしと訴える心情を、信玄は理解した。
 このことを、信玄は弟・信廉に告げた。典厩信繁亡きいま、副将と呼べるのはこの弟である。信廉は自我の強い男ではない。すぐに理解し、これに応じると応えた。信繁の子・信豊も同意の意を示した。ある意味、この二人が理解をすれば御親類衆は従う。御親類衆が応じてこそ、重臣家臣が足並みを揃えることが出来るのだ。
 この起請文に応じぬ者がいたら、それはもう追放するしかない。これ以上の流血は避けたいのが、信玄の本心だった。
 念のため、信玄は穴山信君にこのことを告げた。信玄の婿でありながら、弟が騒動の首謀者格だったことで、辛い想いをした一人だ。信君は一斉署名に反対した。まずは騒ぎに近かった数家の改心を促すべしと説いた。
「なお一斉に起請文を取るならば、召集を以て然るべし」
 成る程と、信玄は頷いた。
 満座で誓詞をとることの意味は大きい。それは機をみて行うことがよい。穴山信君の案に従い、騒動関連の数家に宛て、信玄は起請文の提出を命じた。
 現在、信濃国生島足島神社へ捧げられた〈武田家将士起請文〉には八月二三日付起請文が三通現存する。ただし、この三通が全てとは思えない。散逸した可能性もある。穴山信君の起請文がそこに残されていないのが、散逸を疑わせる証といえよう。


                  二


 師走に入ると、富士は寒々しい白銀を湖面に照らす。その湖面を尻目に、桃陽は名代として、船津の小林尾張守家親を訪ねた。領内の民衆は、よもや先の当主と知ることない。
「導師様、おはよう」
 井出與五右衛門が親しく声を掛ける。桃陽も自然な物腰で、これに応じた。
(不思議なものだ)
 武士を捨てたことで、気忙な苛立ちが嘘のように消えた。病は気からというが、近頃は風邪ひとつない。当主の座は、神経質な己には、どこかで重圧だったのだろう。片や信茂はどうか、これも自然な振舞いを崩していない。元々、こういう役割であるべきだったのだろう。
 小林尾張守家親と二人きりになり、つい、桃陽はそのことを呟いた。
「人には持って生まれた天分がござる。弥三郎殿の才は当主にあらず、当主を導く側にあったと心得ます」
「かもな」
「いっとき穴山彦八郎殿に耳を傾けたのは、きっと常軌を逸してたが故かと」
「云い訳はせぬ」
「しかし、そう思いなされ。弥五郎殿に生かされたからには、まだ世に為すべき大役があるものかと。立場が代わっても、郡内を治める責任はあるのです。御不満は、腹にのっこんで(飲み込んで)くろうし」
 そうだなと、桃陽は笑った。
 さてと、桃陽は信茂からの伝言を告げた。富士山中宮神主に対し、毎月一駄ずつ御供の籾子の都留郡諸役所通行税を免許する、これは信玄からの直命だ。郡内への干渉よと目くじらを立てることなく、信茂はこれに従った。随所の主立った者にこれを周知させ、従うよう重ねて依頼したのである。
「御館様にとって、家中の乱れもなく内政の沙汰が出来るのは、甲斐ではこの郡内のみ。ここが滞りなく応じれば、他所に対する示しもつく。得心してくれと、あの弥五郎殿がいうのだ。嫁を取ると、ほんに領主みてえなことを、さらりと云うもんずら」
「あんちゅうこん、当主だし」
「そうだったな」
 両名は大声で笑った。
 この沙汰は、郡内の交通権に対し、武田家が小山田家の上位にあることを確立させた。信玄が意図的に郡内の権利を奪ったかどうかは定かでないが、義信事件の余波は大きく、国中は表の表情とは別の不穏な空気が漂い、信玄の威光が響き難かった。それを打破するためにも、粛々と応じる何処かが必要だったのは云うまでもない。
 信茂は、信玄の現状をよく理解し、従ったのである。

 そして、この師走。
 河内では穴山彦八郎信嘉が、身延山久遠寺の塔頭にて自害して果てた。最後まで義信擁立を兄・信君に訴え、今川と呼応し甲斐を一新することを曲げようとしなかったのだ。
 信君にも立場というものがある。
 小山田同様、河内の独立領主として武田と同盟関係にありながら、穴山家は信玄との結びつきが強すぎた。信君の母・南松院は信玄の姉であり、嫁は信玄の次女だ。もしこの腹から男子が生まれれば信玄の孫となり、武田とは切れぬ仲となる。例え義信が次代の当主であっても、信玄を無視することは出来ない。
 それが、いまの穴山家だ。
 穴山彦八郎信嘉には家の都合が、全く理解できなかったのである。いや、信君に取って代わる野心があったのかも知れない。しかし、そんなことは、もうどうでもよかった。穴山家は武田とともに生きる。そのためには、弟さえ処断しなければならない。断腸の思いだった。
 穴山家は今年四月に南松院が没したばかりだ。信君にしてみれば、母が生きている間に、弟を改心させたかったのだろう。このことを聞いた信玄は、ただちに見舞の使者を発した。信君は神妙にこれを承った。

 この年の瀬、若い男の性を持て余すのが、諏訪勝頼だった。
 盛りのついた牡という言葉は、勝頼のためにあるようなものだ。月の徴があろうが構うことなく、まるで狂ったように、毎夜、雪の方を責めた。男女のことに関して勝頼は理性のない獣だった。そして、房事が済めば、気の利く言葉をかけるでなし、まことに身勝手なものである。
 政略結婚に男女の情はなく、ただただ女性は道具として世の男は憚りなし。
 よく耳にすることだが、果たしてそうだろうか。男などは、女の側からしてみれば、釈迦の掌で戯れる孫悟空にも似ている。所詮はどちらが裏の実を握るか、であった。政略結婚は人質ではない。婚家の情報をさりげなく実家にもたらし、時として夫の寝首すら掻き斬ることすらある。雪の方は勝頼が嫌いだった。一方的な性欲を満たすだけの器の小さい男と蔑んでいた。寝首を掻かないのは、彼が信玄の子だからであり、今は実家の災いになることを自重しなければならないからだ。
 曰く、女は賢い。
 しかし、好き嫌いを超えて、為すべき事を重ねれば、実るのも人の性だ。
 年が明けて間もなく、雪の方は懐妊した。
「おめでとうございます」
 付家老の阿部勝宝が新年早々目出度いことだと、寿いだ。しかし、勝頼は実感が湧かなかった。あの痩せた臀部を、獣のように背後から差挿れする日常が失われたことは、焦燥であり物足りなかった。男を持て余すことを懸念した勝宝は
「お気に召す侍女は?何なら側室を、御館様に」
「無用じゃ」
「は?」
「肉置よい女は興味ない」
 勝頼は雪の方に拘った。腹の安定せぬ臀部を、構わずに責めようとして、侍女や若衆に止められもした。この性分が危険だと、勝宝は信玄に訴えた。
信玄はすぐに対応した。
「ただちに躑躅ヶ崎に出仕すべし」
 義信が東光寺で謹慎を続けるなか、勝頼を呼び寄せた信玄の行動は、このとき武田家中で誤解された。すわ義信を廃嫡かと、心ない流言飛語が飛び交った。
 勿論、これは潜伏する今川の間者を混乱させる目的であったが、心情穏やか為らざる国中にあって、このことは徒な刺激の基となったのは云うまでもない。
 信玄にとって、後継者は義信だ。
 しかし、当の義信はすっかり気鬱に沈んでいた。己の存在が武田家の内紛をもたらし、あたら近臣を多く死なせ、若しくは追放へと導いた。義信にも青雲の志があった。しかし、結果はどうだ。疫病神とはこのことではないか。生真面目な人間は、ひとつことに心を縛られ、ゆえに自己解決に迷い埋没していよいよ沈んでいく。
 義信に手を差し伸べようとした者もいた。
 しかし、それを装い、さらに追い込む不心得者もいた。義信正室がその一人だ。立ち直らせようと東光寺へ赴き、それでも数多いる従者たちの目を盗んで
「我が兄が、決して悪いように致しませぬ。ここを出で、国をお盗りなされ」
と囁いた。
 この言葉が、義信を一層に追い込んだ。
 母・三条華子が参じたときは、もはや誰とも会わぬと騒ぐ程で、信じられるものも失った狂乱ぶりが囁かれた。
 勝頼の府中入りは、たしかに誰もが根拠なき憶測を生んだ。たかが性癖を戒める仕儀だと云える筈もなく、信玄は無言を貫いた。それが一層の憶測を招いた。


                  三


 永禄一〇年、信茂は内政に尽力した。幸いにも、身近には桃陽という、内政を学ぶべき師もいた。緩和と締付けの均衡は、まさに感覚である。内政の多くは、その年の気候や天候、天災に左右されることが多い。前年に準じることがあれば、蔵前方も仕事が容易になるだろう。そんなことを呟いても、桃陽は呆れて苦笑するばかりである。
「せめてなあ、天災に備える策がありゃあな」
「そんなんねえら。真面目に覚えろし」
 しかし、信茂は色々と考えた。全てと云わずとも、何かひとつだけでも天災を回避できる術はないものか。民衆の生活を幾分でも救済できる、何かがあれば……。
 この年は例年に劣らず、〈雪しろ〉が吉田を襲った。
 雪しろとは、富士山麓に暮らす者が背負った宿命のような災害だ。融雪による雪泥流と考えてよい。積雪ある地域ならば、日本中のどこにでも発生する現象である。が、富士山のそれは、大規模なものだ。標高三千m級の斜面から流下するそれは、時として下流にある村を丸ごと飲み込む。これを避けることは、古来より困難とされていた。そんな雪しろに怯えて、吉田集落はひたすら神仏に加護を縋るのが現状である。
 その夜。信茂は書状を受け取った。同じ信玄近習を務めていた金丸平八郎昌続からである。昌続は、金丸筑前守虎義の次男だ。
 内容は、密談とある。
「勝沼大善寺に三日後とは、急なことだな」
大善寺は、麗らかな春霞のなかに佇んでいた。
「久しいのう、弥五郎殿」
「平八郎殿も」
「うちは弓矢だけじゃなく、〈ぢがた衆〉も世話するのでな。御館様の傍にいた頃が、いっとう気楽じゃった」
「ほんに」
金丸昌続の傍らにいた男が会釈した。
「覚えてないか?」
「誰じゃ」
 男は、大蔵太夫十郎信安の長男・新之丞だった。
「えっ?おまん、新之丞か?」
「弥五郎様は、郡内でお会いした頃より些かもお変わりなく」
「変わったずら。慣れぬことばかりしてるし」
 大蔵大夫にはもう一人、男子がいる。次男・藤十郎だ。こちらは蔵前衆・田辺太郎左衛門のもとで鉱山や釜無川の洪水対策をしていた筈だ。
「親父殿には、弔問にも行けず、すまなんだ」
「いえ」
 昨年の一蓮寺で披露した能が、大蔵大夫最後の舞だった。二人の男子が後を継がぬため、結局、一門で後継者を立てたと聞く。
「で、平八郎殿?」
「ああ、実はな。この新之丞を正式に士分としたのだ。その報告ずら」
「てっ!おまん、士分になるんか」
「平八郎様付の傍役に取り立ててもらえました」
 これは、驚いた。
 金丸昌続は嫡子でないから、やがて名家の名跡を継いで独立するだろう。そうなれば、ゆくゆくは新之丞も家老となる。猿楽師の倅が武家で大成することは、稀なることだった。まさにこれは、めでたいことだった。
「祝いを用意せなんだ。平八郎殿、こういうことは、早く教えてくんにょ」
「いや、これは前置きなんじゃ」
 大事なことが他にあると、金丸昌続は言葉を継いだ。
 先日、藤十郎より新之丞に宛て、ひとつの相談があった。釜無川と御勅使川の号する竜王堤の工事で学んだ治水術を、他で生かせることは出来ないか。このことは、田辺太郎左衛門に内緒の相談だ。
 藤十郎は長崎で技術を学び、昨年帰国したばかりだ。黒川金山に保金山、金峰山周辺の採掘等、甲州金の採掘に従事し、多忙を極めていた。しかし、他国を見てきた人間は、視野が広い。
最近、武田では敵城の水の手を切る戦術が用いられている。技術は色々と用いる場があるのだ。しかし、堤の施工が終われば、せっかくの技術者が、技を持て余す。これでは、民政に反映しない。新之丞は金丸昌続にこのことを相談した。金丸昌続はそっくり同じ言葉で、信玄に申し出た。
「治水治山は大事なことにて、人を巧みに用いる御館様にこそ妙案ござりましょうや」
 出過ぎた物云いだと舌打ちしながら、一応は尤もな話である。働ける者を遊ばせることは大いなる無駄であり、国の衰運をも左右する。
 信玄はややおいて
「郡内なら働ける場がある。小山田弥五郎を頼るべし」
 そう断じたというのだ。
 信茂は首を傾げた。
「儂は、御館様に何も報告しておらぬ」
「報告せんでも筒抜けじゃ。何か困っていることがあるんだろ。有難い救いの手だと思わぬか?な、何かあるだろ。な、な、な」
「うるさい男じゃ。〈ぢがた〉を頼りにしなければいかんこと……いかんこと……ううむ」
 信玄の情報網とあれば、日々の事は見通されたと思ってよい。やれやれ、郡内にも素波はいるが、とても足元に及ばぬと、信茂は舌を巻いた。
 ふと、雪しろのことが脳裏に浮かんだ。
 桃陽と交わした言葉は、お互いの中では戯言だった。ひょっとしたら、信玄はこれを知って、金丸昌続に答えたのではあるまいか。たしかに、雪しろの流れを変えることが出来れば、毎年天災に苛む吉田を救うことが出来る。
 しかし、それは妖術のような話だ。
 天災に対して、人が出来る力ではないだろう。
 つい呟くと
「それじゃ、そのことじゃ!」
 金丸昌続が叫んだ。
「御館様はみんなお見通しじゃ。いやいや、おまん、臥所の音まで知られてるぞ」
「うるさいな」
「竜王堤だって、手を出す前は洪水の巣じゃった。それがどうだ。見違えたじゃねえか。とにかく、おまんから御館様へ、そのこんを正式に申し入れすりゃあいいずら。新之丞も弟に顔向け出来るし、儂も鼻が高い」
「素惚けが」
「その弟も、おまんとは知らぬ仲ではねえ。力になってやれし」
 信茂にとって、悪い話ではなかった。近年、富士信仰で得た外貨は右肩上がりで、大きな飢饉に備えた備蓄も整っている。開墾も進んでいたし、商いの往来もいい。雪しろだけが、内政を脅かす懸念だった。これに充てる費用負担は破格だろう。しかし、こののちも奪われる天災と比較したら、どちらが利だろうか。仮に大きな解決を見出せたなら、損して得を得ることとなる。
 郡内に働き場があるのだと、信玄は金丸昌続に明言したという。そう、これは信玄の御墨付きだった。
 いっそ、街ごと作り直せたら。
「しかし、独断は出来ねえずら」
 ごもっともだ。
「四長老家に話をしよう」
 小山田家では四長老家の合議で物事を決することが決まりだ。時として四長老家筆頭の大老名が下す判断は、当主といえども随わねばならない。今の大老名は、境の小山田弾正有誠である。境は下暮地に接する場所で、富士山の全景は杓子山に隠されて観ることもない。吉田とは往還が盛んだが、雪しろの被害を直接蒙らない土地だった。理解を得るのは困難だろう。生々しい現状を知るのは、小林和泉守房実くらいだ。あとはせいぜい、船津の小林尾張守家親くらいか。とにかく富士山に密接な者だけが抱える、無間の悩みだった。
 人とは身勝手だ。自分に密接な禍でなければ、真摯に考えぬ。
 ならば、密接にするものは何か。
 信茂はその答えを、経済と思った。
 吉田の被災は、次の山開きまでの復旧を強いる。それはあらゆる生産を停滞させ、領民の暮らしを苦しめる原因だ。僅かな登山期で稼いだ収益も、雪しろで何もかもふりだしに戻してしまう。
 悪循環を断ち切る決断は、誰にも出来なかった。だから、今ここで敢行することに、価値があるのだ。
「そんなこん、出来るか?」
 誰もが難色した。
 当然だ。自然の禍に勝てる人間など、いない。
「だからこそ、やってみるべし」
 信茂は訴えた。やって駄目なら諦めもつく。やりもせずに諦めたら、そこで暮らす者に為政を施す意味もない。
「谷村様は、吉田衆の気位を知らぬのじゃ」
 小山田弥七郎が呟いた。気が好いだけの叔父にとって、したたかな吉田衆は苦手な存在だ。御師の多くは協力的だが、町衆には老若男女がおり、商人もいれば僧籍や百姓、様々な立場の人間が寄り合う。主義主張もバラバラで、それでも富士信仰で心を一致させていたのが、吉田衆だ。
「富士の恵みを頂くからには、厳しい試練も頂くというのが吉田の心ずら」
 弥七郎の子・小山田修理亮が呟いた。
「無責任じゃ」
 信茂は語尾を荒げた。
「信仰のもと信徒を迎え入れる側ならば、始終安心して迎えられる場を設ける想いなくして、何が信仰ずら」
「谷村様、そんなこんを吉田で云うたらいかんぞ」
「構うか。何処でも遠慮はせん」
 長老たちは思い出した。子供の頃から、信茂は自我を曲げぬ人間だった。思ったからには誰にも憚りなく物云いをした。正しいと信じたときの信茂は、始末に悪い。しかし、理に適う話ではあった。
 雪しろだけではない。この機に吉田の街を区割りすることは、合理性がある。信仰を中心にする集落にとって、多々整理しやすいこともあるのだ。
「吉田衆を説得できるなら、谷村様に従ってもいい」
 従兄弟の小山田八左衛門が呟いた。
 八左衛門の言葉は、理屈っぽい長老家の面々を迷わせ、結果的には意見が二つに割れた。最後の決定は大老名である小山田弾正有誠に委ねられた。小山田有誠も迷っていた。利を重視しつつも、面倒を避けたいというだけの反対する思い。何よりも決定したからには、全員が吉田衆に恨まれることも考慮しなければならない。
 信茂をみた。
 迷いのない目をしていた。その目に、背中を押された。
「吉田衆を説得しよう。施工の意は、谷村様より府中の御館様に進上してもらうが、よろしいか」
「ありがとう、弾正殿」
 この決定は、郡内を賑わす大事業となった。賛否両論に無関係の者までが騒ぎ立てた。しかし雪しろが生じれば、多くの人命を奪う。このことを重く受け止めていたのは、他ならぬ吉田衆だった。
 吉田の自治の中心にあるのは、御師衆だ。彼らを前に、信茂は伴ってきた妙法寺の僧たちより、雪しろの記録を口述させた。古くから歴代住持の記録が残されている妙法寺では、永禄六年以降、編纂作業を急いでいた。
 近年においても、その被害は甚大だ。吉田が流されただけではなく、至近の村も、旅する信徒さえも被災した。
「これでも富士の試練よと、無責任に嘯くものか」
 遠慮のない信茂の言葉は、かえって吉田衆へ現実を突きつける結果につながった。
「吉田衆の安心につなげてえ」
 信茂の、この想いだけは、御師たちに充分伝わった。
「谷村様の気持は受け取ったし。あとは我らの談合をするで、答えが出たら返事に伺うずら。今日は帰ってくんにょ」
 この談合は三日三晩続いた。
 とても大事なことだから、無理もなかった。信茂は急かすことなく、じっと待った。四日目の朝、吉田衆を代表して、大外川の仁科六郎右衛門が信茂を訪れた。
「谷村様がいいようにするなら。ただし、吉田は自治の街ずら。移転先のことについて、我らも談合に加えて欲しい。それが駄目なら、話は聞かねえずら」
 仁科六郎右衛門の目には隈がある。代表して来たからには、きっと賛成の筆頭だったのだろう。談合に加わるというのが折衷案に相違ない。
「施工の技術については、御館様へ相談し〈ぢがた衆〉に委ねることとなる。しかし、儂と一緒に、吉田衆の代表が談合へ参ずる手筈を屹度お願いすることとしよう」
 信茂の誠意に、仁科六郎右衛門は深く頭を下げた。
 こののち信茂は、主立った家臣に加え仁科六郎右衛門と猿屋宝性・小沢坊の同行を認めた。三名は形式とはいえ、信玄の面前に座す場へ誘う信茂の誠実に感服した。吉田衆の意向を汲んだ街割りをという要望を、信玄に宛て堂々と述べた信茂は、それだけで充分彼らの信頼を得たことになる。
 以後、着手までの計画談合は、金山衆より盛国という腕利きと心得のある職人衆が谷村へ逗留し、そこから吉田に通って実踏を踏まえた設計を描く。そのうえで吉田衆の要望を汲んだ。
この手法は面倒にみえて、合理的でもあった。
 土地の者しか分からぬ水の流れや土質の情報は、技術者たちを大いに助けた。着手は三年の後に行われ、移転は五年後になる。この大施工は、後年、吉田そのものの基礎造りとなる大事なものとなった。


                  四


 信玄は暇を見つけては東光寺へ通った。義信の立ち直りを期待していたが、その願いは、日に日に失意へと変わっていった。義信は食を受けつけなかった。意図的にではなく、身体がそういう反応を示すのだ。今日でいう、拒食症である。
「どうして、このような」
 信玄は泣きそうな表情で、随行させた僥倖軒宗慶に問うた。
「余程に、厭なことが」
「東光寺にあってか?」
「誰か、御館様の他に若殿を見舞う者はござらぬか」
「……ひとりだけ、いる」
 義信の妻だ。
 聞けば、三日と置かずに通っている。それは当然のことだろうと、誰も疑いはしなかったが、果たして見舞いの言葉が何であるものか。用心深い信玄も、このことばかりは間諜を用いていなかった。
 迂闊だった。
 躑躅ヶ崎に戻ると、東光寺周辺警護を厳重にするよう布告した。これは表向きのことだ。その上で、手練の素波五人を選り、昼夜絶え間なく東光寺仏堂内を監視させた。無論、信玄が見舞うときも、である。
 異変はすぐに報告された。
「御方様は駿河と通じております」
 面会時に、繰り返し言葉を継ぐ。その内容は
「我が兄が、決して悪いように致しませぬ。ここを出で、国をお盗りなされ。飯富兵部殿は御館様に殺されました。次は若殿の番にて、もはや猶予もなし。ここを出で挙兵なされば、駿河より加勢がただちに寄せましょう」
というものだった。
 どうやら、義信正室は、見舞うたびに同じことを繰り返し訴えているのだろう。思いもせぬことを親しい者から繰り言されたとき、気が触れそうになるのは想像に易い。義信は生真面目だから、尚更だ。
「室の見舞いはいつからだろうか」
「この正月明けからかと。北の方様が見舞う少し前と心得ます」
 そうだった。
 信玄正室・華子が見舞ったとき、もう義信は常軌を逸していたと聞いた。晦日に信玄が足を運んだときは、神妙だった。近臣たちの罪を軽んじあれと、訴えてきたのもそのときだ。
 間違いない、義信の正室が、心を乱していたのだ。
「駿河へ、追い返すしかないな」
 信玄は溜息を吐いた。
 その日のうちに、信玄は義信室を呼び寄せると
「今川殿への使いを頼みたい。せっかくだから、実家で暫くゆるりとして参れ。いやなに、駿河の商人が運ぶ塩が少ないのだ。なんとか工面できぬかと、兄上にお伝えあれ」
 このような使いは、別に彼女でなくてもよい。義信から遠ざける方便かと、彼女はすぐに察した。信玄のことだ、東光寺での一語一句も知られていよう。しかし、逆らって得はない。聡明な彼女は、このことに対し、素直に頷いた。
 義信の拒食は、容易に好転しなかった。滋養を求める術もない。信玄は苛立ちを隠せなかった。

 八月七日と八日。
 信玄は家臣すべてに対し祈願召集を命じた。信濃国塩田平の生島足島神社は、延喜式に連なる古刹である。奇しくも塩田を領していた飯富虎昌によって手厚く奉じられていた。その飯富虎昌ゆかりの地で、祈願とは名ばかりの試みが挙行された。
 信玄に対する忠節を誓わせる起請文の提出が強いられたのである。
 熊野牛王紙に誓詞血判を押すこの儀式に、逆らう者はなかった。各々が取り纏める奉行に宛て、それを記していった。奉行も己の記す際には同役に宛て記した。この起請文は二日間のもので八〇通が現存する。勿論、散逸も疑うべきだろう。これらの起請文を総じて〈武田家将士起請文〉という。信玄の苦衷を今日に伝える貴重な資料といえよう。
 小山田信茂は七日にこれを書いた。奉行である吉田左近助信生に宛てた文面は、次の通りである。

     敬白起請文
  一 此已前奉捧数通之誓詞、弥不可致相違事
  一 奉対 信玄様、逆心謀叛等不可相企事
  一 為始長尾輝虎、自御敵方以如何様所得申旨候共、不可致同意事
  一 甲・信・西上野三ヶ国諸卒、雖企逆心、於某者無二奉守 信玄様御前、
     可抽忠節事
  一 今度別而催人数、無表裏、不渉二途、可抽戦功旨可存定事
  一 家中之者、或者甲州御為悪儀、或者臆病之意見申候共一切ニ不可致同心事
                          以上
   右令違反者、可罷蒙梵天・帝釈・四大天王・春日・八幡・稲荷・祇園・賀茂上
   下・伊豆箱根両所権現・三嶋明神、別而冨士浅間大菩薩・甲州一二三明神・諏
   訪上下大明神・天満大自在天神御罸者也、
     仍如件、
   永禄十年       小山田兵衛尉
       八月七日      信茂(花押)(血判有)
      吉田左近助殿

 信茂の態度は郡内の総意である。家中もこれに準じる意思を持っていた。翌日、奥秋加賀守房吉・小林和泉守房実・河村冶部左衛門尉房秀・牛田善右衛門尉真綱は、取り纏め奉行である浅利信種・吉田信生に宛て連名で起請文を提出した。
 生島足島神社には起請文が現存する。この起請文は、武田家の一致団結を明確に示していた。国内のギスギスとした空気は、これにより緩やかに収束する筈だった。郡内は一切の騒乱もなく信玄に従うことで平穏を保った。
 このとき、機を掻き乱さんと、今川氏真は一石を投じた。
 一七日、駿河から、とある出荷物が途絶えた。事故ではなく、意図的に、だ。途絶えた品は、塩だった。海のない甲斐にとって、塩の流通が絶えることは大きな問題だった。
 ひとつ云えることは、義信室を駿河に送り出したことで信玄からは同盟の決裂を表明していない。駿河に送ったのは使いという建前であり、このとき正式に離縁を決していなかった。
 しかし、今川氏真は先に甲斐への経済制裁を仕掛けた。
 このとき、義信は未だ生きている。この機に塩止めをするのは、大きな意味を持つ。大義の片鱗がどこにもないからだ。
「兵衛尉に取次を申付る。急ぎ小田原へ発つべし」
 信玄は小山田信茂へ相模取次を命じた。相模からの塩流通を停止されたら、元も子もなくなる。先に手を出したのは今川であることを、氏康に訴えるのは早い方がいい。翌日には小田原城で北条氏康に対面し、信茂は切々とそれを説いた。信玄は氏政でなく氏康と念を押したが、それは人格を見込んでのことだった。
「あい分かった。相模より塩止めはなし、されど値は上がると思召すがよい」
「承知仕った」
 氏康は物事を静観しながら、委細を承知していた。今川氏真が武田の内部崩壊を誘っていたことも、である。
「ところで弥五郎殿。いや、今は兵衛尉殿か」
「構いませぬ」
「弥三郎殿のお悔やみを、未だ申しておらなんだ。儀礼は済ませているが、やはり直接口上したかったのでな」
「畏れ入ります」
 氏康の脇に控える男が、一歩にじり出た。
「あのしたたかな藤乙丸殿が、立派に御成りだ」
 聞き覚えのある声だ。
「控えよ」
 氏康は叱責した。
「構いませぬ。のう、風魔小太郎殿」
 男はにやりと笑った。
 体躯も異なる変相だが、大善寺勧進能のあの日以外に思い当たる節はない。何より〈藤乙丸〉が対峙した北条の者は、風魔小太郎をおいて他にない。
「果実は熟してこそ美味。それまで印地を鍛えなされ」
「主も養生あれ」
 信茂はぼそりと呟いた。
 退席後、氏康はにやりと笑いながら
「弥三郎は御し易いと思うたが、あの者は手強いな」
「養生あれか。いい諜報を持っているな」
「小太郎の不覚を知っているのだろう、嫌な奴よ」
 上州を探る小太郎は、真田の手練れに追われて足の甲を切った。毒草で被れたので、こうして変装し氏康付となり養生していたのだ。信茂は、それを見抜いている。だから、養生あれ、なのだ。
「果実は熟してこそ美味なり」
 風魔小太郎は、二度、繰り返した。
 数日後、今川から塩止めの誘いが北条に達した。氏康は弁明も聞かずに、この使者を追い返した。
「弓矢のことならいざ知らず、無辜の民を苦しめて憚らぬ下策に応じては北条の名折れぞ」
 これが戦略と説く使者の声に耳を貸さず、氏康は憤怒の意思を示した。
「今川に応じてもよかったでは?」
 氏政が呟いた。
「妻の郷を滅ぼすつもりか?」
「そんなつもりは。盟約を先に破ったのは信玄入道です」
「誰が、そのような?」
「つい先ほど、城下の商人から」
 今川氏真が如何にしたたかで食わせ者か、氏康は舌打ちした。氏康が拒否しても民意が塩止めに傾くよう、流言飛語をばらまいたのだ。義元は恐ろしい人物だったが、氏真は薄気味悪い人物だ。
 氏康は甲斐への塩出荷を保つよう厳命した。
 人情面で訴えても聞かぬ商人には
「品薄なら繁盛の機と心得よ」
と欲を擽った。それでも相模の商人は、世間の風に流されて甲斐への塩販売を躊躇った。僅かな商人がもたらす塩は、国を潤わせるには程遠い。
 不首尾を恥じて、信茂は詫びた。
「いい、相模の隠居はお見通しだ。隠居の心を掴めば、世の風はどう転ぶか知れたものではない。ようやったのう、兵衛尉」
 信玄が弥五郎と呼ばず、兵衛尉と呼ぶのが、妙にくすぐったかった。もう、若い頃の己ではない。官途名の呼び名は、否応なしに信茂に必要以上の責任感を焚き付けた。
 そういう立場なのだという自覚が、重かった。

 さて、この世にいう〈塩止め〉は、政策としては下策。
 されど戦略に置き換えれば、兵糧攻めに等しい。これは布告なき戦さと云ってもよい。甲斐からではなく、仕掛けたのは今川だ。相模に働きかけ、同時に越後へも強く働きかけた。弓矢のことなら精強な信玄を、塩で倒せるなら、こんなに合理的な戦さはない。頭の良すぎる人間は、痛みを感じるまでもなく、こういうことを考え、平然と実行する。
 苦しいのは軍勢ではなく、民衆だ。
 そのことは脳裏にない。合理性を追求すれば、こういうことに繋がるが、その代わり、家中にも疑問が育まれるものだった。
(いつか己も、容易く使い捨てられる)
 そういう懸念は、保守的な人間に必ず込み上げる感情だ。
 下剋上の家ならいざ知らず、今川家は古今東西に知られた名家。家臣もその流れに沿う連綿とした歴史を刻む。ゆえに綻びも生じやすい。織田信長は一介の弱小勢力から、一気にのし上がった。この状況と今川家は、根本的に違う。氏真は先を見すぎて、足下に気付いていなかった。頭の良すぎる人間の、最大の欠点がここだった。
 信玄は、決してここを見逃さない。
 駿河へ調略の手を加えたのは、等しくこの塩止めの時期だった。すでに戦さは仕掛けられたも同然、信玄は一切の手加減を加えなかった。氏真の知らぬ間に、今川重臣の乖離工作が進んでいた。
 一方、氏真の誤算が別して生じた。越後の上杉輝虎が塩止めに応じぬと断じたのだ。世間的には義に反すなどと叫んでいるが、何ということはない、越後の塩商人にとって甲信は主要な市場だった。駿河相模が出荷しないなら、一手商いとなる。これほど旨い噺はなかった。商売を推進しながら、ちゃっかりと美談を広めて自己宣伝する狡さも発揮した。
「汚い男だ」
 今川氏真は地団駄踏んだ。
 塩止めは一面的には成功したが、総合的には失敗だった。この塩止め騒動の渦中である一〇月一九日、とうとう義信は息絶えた。拒食もさながら、辛うじて飲ませてきた水に含む塩が欠乏した為であった。火種の発端もそうだが、義信にとどめを刺したのも氏真ということになる。
「もはや捨て置けぬ」
 今川氏真の所業を書き連ね、信玄はこれを小山田信茂に渡した。ともに今川と絶縁することを北条家に促すためだった。信茂はこの務めのため、多くの重臣を率いて小田原へ向かった。塩止めのことで後ろめたい氏康は、面会を拒んだ。代わりに応じた氏政は思慮浅く、今川寄りに傾いていた。
 結果として、交渉は失敗に終わった。
 もし武田が挙兵するなら、北条は今川に付くとさえ断じた。
「御父上に似ず、残念である」
 信茂は低く呻いた。
 小田原からの帰途は、来たときに用いた籠坂路ではなく、相模川沿いの路を選んだ。拒絶したときは相模川の路、最初からそう考えていた。
「なぜ、こちらへ?」
 怪訝そうに小林和泉守房実が訊ねた。
「戦さともなれば、津久井衆とも敵になる。弥三郎殿の妻女を迎えたり、長いこと当家とは親しくさせてもらった。こういうことになって、残念である。せめて挨拶くらいはしておきたい」
 信茂は明瞭に、一同に聞こえる声で答えた。
 小田原より下糟屋の大慈寺めざした信茂一行は、そこで少額の寄進を行い、とある人物の墓参をした。太田道灌である。その名将知謀ぶりを知らぬ者はない。武勇に肖りたいと云えば、咎める者もなかった。一行は更に愛甲、津久井と進んだ。津久井まで来ると、半地ということもあり、小山田家を悪く思う者はない。一同の表情にも安堵の色が浮かんだ。
「おや、津久井城に寄らぬので?」
 奥秋加賀守房吉が質した。信茂は郡内への路を変えようとはしない。
「谷村殿!」
「ああ、寄らぬ」
「しかし、挨拶をすると」
「素惚け。敵地で滅多なことを口にすれば、すべて筒抜けじゃ」
 ああと、小林尾張守家親は膝を叩いた。一行は気配のない輩に見張られていた。そう考えれば、下手な云い訳のひとつも必要である。
「桂川流域に狼煙台を急ぎ備える必要がある。ゆえに評議を省くため、おまんらを同行させた。北条の動きに備える設置箇所は、この津久井を見下ろす山じゃ。それだけではない、案下峠から杣保にいたる既存を生かした狼煙の網を敷くべし。前に谷村へ来た北条源三(氏照)が総大将になるだろう。網は広く持つ方がいいずら」
 津久井から見える頂で恰好と思われるものは、鉢岡山だろうか。その頂からは鶴島御前山が見通せる。そこの既存狼煙台を中継すれば、伝達は半刻も要さずに谷村に達し、一刻も経たずに躑躅ヶ崎へ届くだろう。
「桂川の北は武田に直属するし。包括して御館様に設置の手配を望むが宜しいかと」
「うむ。なれば尾張守と和泉守に府中への同行を頼むとしよう」
 一行は川沿いに遡上し、猿橋で一宿した。三人は初狩方面に向かい、残りは谷村へ戻ることとなった。初狩番所で馬を預け、徒歩で笹子峠を越えて駒飼で馬を得た。昼前には躑躅ヶ崎に到着した。
 北条が今川に付くという報告に、信玄は顔色を変えなかった。想定内のことだった。それを踏まえた狼煙台新設の意見具申こそ、信玄を驚かせ、喜ばせた。
「さすがは、兵衛尉である。よくも調べてきた。狼煙のことは然るべき者に設置を急がせよう。兵衛尉、お手柄ずら」
 武田の狼煙台はただの箱物ではない。その眺望と伝達先への障害の有無という構造面と、噴煙の調合や取扱いといった特殊技術、それらを包括した独自の機密組織が一手に扱っていた。信玄直轄で、誰が采配役か、一般的には知られていない。ゆえに武田家最高の軍事機密のひとつであった。
 その日、信茂は躑躅ヶ崎に留まった。
 小林房実は府中の屋敷に残り、小林家親は谷村へ報じるために郡内へ戻った。翌日、小菅五郎兵衛尉忠元と加藤丹後守景忠、西原武田源左衛門尉有氏が参集した。都留の狼煙台設置箇所について、信玄は在地の案を図上で討論するよう打診した。
「儂に代わり浅利右馬助(信種)を見聞役に置く。結果は右馬助が儂に届けるよう」
多忙に過ぎる信玄に代わり浅利右馬助信種が任命された。とにかく義信死後のことは、武田家にとっても諸事やることが多かったのだ。
「桂川の北側で見通しのいい場所を挙げるのが早えし」
 信茂は加藤景忠に仰いだ。景忠は武者奉行で有名な駿河守信邦の子だ。聡明な頭を持っており、さればと、案下峠を見下ろす鷹取山に朱墨で○を記した。
「元々ここにあったものがある。鶴島御前山に設置されている狼煙台へ見通しを繋ごう。津久井と案下の情報は、鶴島に集まるずら」
 鶴島御前山は上野原の対岸にあたる。上野原を領する加藤家は、これで即座に対応することが出来た。鶴島御前山からの狼煙は、駒橋御前山を経由すれば谷村に達する。小山田家もこれで対応が出来る。網には副網が必要だから、桂川北岸を縫う場所が生かされる。加藤景忠はこの中継を、四方津御前山・綱之上御前山・斧窪御前山を経て岩殿城へ向けるべしと提案した。既に設置完了されているもので、意見としては頷けるものだった。
「杣保はどうか?」
 信茂は西原武田有氏を仰いだ。西原武田氏は室町中期、上杉禅秀の乱に加担した武田信満が西原に同族を置いて興った在地分家だ。笹尾根の稜線向こうには、北条に属する平山氏の檜原城がある。甲武国境の交通の要所・西原峠の入口にあたり、辺境の最前線といってよい。
「この尾根は木が多いし。伐採すりゃあ、いくらでも見ること出来るずら。しかし、狼煙台を置けるような平地はねえ。陣小屋から西原へ音で伝達すんべ。屋敷前の丸山から小寺大寺の狼煙台を経れば、岩殿城に伝達は出来るし」
 西原武田氏は山岳戦にも精通している。平山氏の手口も熟知していた。この笹尾根稜線の北端が、小菅領にあたる。この一族も北条に属する杉田氏に接し、山岳戦に慣れていた。
「今の狼煙台で足りる」
 小菅五郎兵衛尉忠元は涼しげに笑った。この小菅忠元は一族を代表し、山縣昌景の寄騎に属す者だ。山の一族でありながら情報通で、どことなく垢抜けていた。
 この協議の内容をまとめ、浅利右馬助信種は信玄に報告した。
 三日後、鉢岡山に多くの猟師が入り込み、信玄の許可を得て〈狩り小屋〉を建てると称した。猪や鹿の害が多い裾野の農民は、喜んで彼らに寝食の場を提供した。この者等こそ、狼煙台の技術者だった。〈狩り小屋〉の建つ頃、今度は国中から軍勢がきた。通り道の村では兵たちが野菜や酒を買っていくので有り難がられた。一ヶ月後、この〈狩り小屋〉たちは完全な狼煙台として、北条領を睨む重要な要衝になっていた。
 永禄一〇年の年師走の頃、北条に対する備えは整っていた。それは、信玄が駿河侵攻を本気で考えた証でもあった。

 一一月一日、雪の方は男子を生んだ。
 勝頼は父となった実感すらないが、信玄は孫の誕生を心から喜んだ。それは、嫡男を失った悲しみの裏返しでもあった。雪の方は肥立ちが悪く、結局、出産後に亡くなった。元々、子を為すには痩せ過ぎていたのだ。失ってみて初めて、勝頼は彼女に対する性欲以外の感情を覚えた。失ったからこそ、気付かされたのかも知れない。愛情に薄かった彼は、初めて人のために泣いた。こんなに泣いたのは、母が死んだとき以来だろう。
「もう、後添えはいりません」
 勝頼は信玄にそう断じた。
 織田信長からはすぐに後添えの話が届いた。しかし、勝頼の決意は変わらない。武田との手切れを恐れた信長は、一二歳の嫡男・奇妙丸の正室に武田の姫を迎えたいと申し出てきた。この相手に選ばれたのが、六歳の松姫だった。婚約を取り交わしたものの、松姫は成人するまでは輿入れすることもなく、甲斐に留め置かれた。
                             つづく
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登場人物紹介

小山田信茂    

甲斐国郡内領主。武田二十四将。武田家を裏切ったと定説される文武の才に秀でた武将。

父・信有に嫌われて育つが、それは出自にまつわる秘密があった。

小山田弥三郎信有

小山田信茂と腹違いの兄弟。嫡流として小山田家を相続するが、のちに病没。ということになり、信茂を支える影の参謀となる。

武田信玄

甲斐国主。智謀に長けた戦国最強の武将。小山田信茂を高く評価し、その出自も含めて期待している。

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