第3話「三国同盟」

文字数 22,694文字


  三国同盟


                  一


 天文二〇年(1551)、千曲川に沿った戸石城下流の城郭は、次々と武田に落ちた。
 世の潮流は、一旦定まれば変えることも難い。村上義清は本拠地である葛尾城へと封じられていった。
 一〇月二四日、武田勢は小笠原長時の将・平瀬甚平を攻めて平瀬城を落とした。この寄せ手には郡内勢も含まれ、父の名代として小山田弥三郎が陣頭に立った。弥三郎はこの合戦においては家老任せである。村上勢が衰退気味の昨今ゆえ、戦さも厳しいものではない。
 一一月、武田晴信は弥三郎に平瀬城番を命じた。これは形式的なもので、番兵駐留に期間も一時的なものだった。この年の暮れ、弥三郎は谷村へ帰国した。
 父・信有の容態は、思わしいものではなかった。
 小山田弥五郎も、一旦は暇を取らすと晴信から云われていた。
 しかし
「別れは済んでおりますゆえ」
 この頑固さに、晴信は苦笑した。
「儂以上の親不孝者は要らぬ。命令じゃ、見舞え」
 いざ危篤となっても、駆けつけることは容易に許されないのが弥五郎の立場だ。これが今生の別れになるかも知れない。
「精一杯、罵声を浴びてこい。それも、最後の親不孝になるだろう」
 晴信の命令ならば、拒むことも出来ない。
「では」
 小山田弥五郎は三日間の暇を得、御坂峠より小立、吉田を経て、谷村へと向かった。
 この道程を選択したのは、晴信近習としての務めゆえである。領内の状況を見聞し、報告すべし。小山田支配下の郡内は、安易に武田の者が踏み込めない。
甲斐国は一枚でありながら、複雑な事情がある。その垣根も、小山田家に生まれた弥五郎のみが、障りもなく超えられた。それほどまでに、武田に対する郡内の民情は深刻だ。
 吉田に踏み込んだ弥五郎は、荒れた田畑に目を見張った。
 すべて、〈雪しろ〉による被害だ。苦々しく富士の嶺を見上げた。この霊峰は恵みとともに試練を強いる。郡内の民は、霊峰に試されているのだろうか。
(いつか、あの山さえも克服したいもんずら)
 先を急いだ。
 谷村館は見た目こそ平穏な様だ。当主が病床にあることを、民は知る由もあるまい。
「弥五郎殿、お待ちしておりました」
 出迎えたのは、叔父の小山田弥七郎である。
 谷村館へ足を踏み入れたのは一年ぶりになる。この一年で、弥五郎は容姿も大人びていた。会う者それぞれが、驚きの反応を示す。本人は何も変わったつもりはないが、見た目には貫禄が滲む。武田晴信や周りの者の薫陶あればこその、賜物だった。
「親父は?」
「ずっと伏せておった。弥五郎殿が来ると聞いて……」
「苛立ちを隠せませなんだか?」
「いや」
「ん?」
「その」
 面倒くさい反応だ。小山田弥七郎の表情も、心なしか暗い。
 信有が養生する離れに着くと、出迎えたのは、弥三郎だった。
「御役目ご苦労にござる」
 当主代行とは云いながらも、現在は事実上の当主そのものである。心なしか、顔色も蒼い。もともと丈夫ではない弥三郎にとって、政は心労そのものだった。
「親父の顔を拝みに参った。いや、厭味を聞きにとでも云おうかのう」
「そんな元気は、もうござらぬ」
「で、親父は?」
 弥三郎も表情が曇った。
 何か、あるのか。弥五郎は質した。
「駒橋へ」
 弥七郎が答えた。
「駒橋?」
「萎んだ姿を、弥五郎殿にだけは見せたくないと……その、妾宅へ」
 馬鹿なと、弥五郎は叫んだ。駒橋には元笠原清繁室だった妾宅がある。志賀城の恨みを忘れぬ女のもとへ行かせるなどと、小山田家の連中は何をしているのだ。散々怒鳴り、弥五郎は立ち上がった。
「どこへ!」
「知れたこと」
 弥五郎は駒橋の妾宅へと奔った。慌てて弥七郎が追った。谷村から駒橋までは、三里余。馬を責めれば造作もない距離である。
 信有が乗っただろう輿が道筋に控えていた。脇には、随行する小林和泉守房実が控えている。小林房実は顔を上げ、驚いた風に弥五郎を見た。
「久しいのう、和泉守殿」
「藤乙丸……いや、いまは弥五郎殿でしたな」
「親父に会う」
「いや、一切の出入を禁じられておりますゆえ」
「構わぬ」
 それは困ると、小林房実は立ちはだかった。
「ちょびい(生意気)か?でもな、あの女が親父の命を縮めていること、知っていながら黙っているのなら、おまん(前)は罪深い」
「そんな与太口(憎まれ口)など、変わりませぬな。変わらず、のぶい(無神経で図々しい)こん(事)で」
「親父が殺されるのだ。黙って、見過ごせぬ」
 小林房実は俯いた。
 ここ数ヶ月の小山田信有は、常軌を逸する発言が多かった。毒を盛られておかしくなっているのではと、誰もが思うようにはなっていた。
 しかし、誰も疑いたくない。
 弥三郎の意思を尊重した結果、手を付けられない錯乱ぶりを持て余すようになった。これは、事実だった。かつて弥五郎だけは、憎まれ口を叩きながらも笠原清繁室を糺弾してきた。それに耳を貸す者もいなかった。それほどまでに信有は実力のある当主であり、諫言することも憚られた。それが、この事態に至ったとしたら。
 小林房実が弥五郎に何事か云える立場ではなかった。
「いいな?罷り通るぞ」
 小林房実は道を開けた。
「和泉守殿、忝ない」
 はっと、小林房実は顔を上げた。そして、気がついた。弥五郎は、以前の粗野な者ではない、物腰も確かな分別ある人間に成長していたことに。忝ないなどという言葉は、これまで聞いたこともなかった。
 先程までの会話も、感情的なものではなかった。弥五郎はこの一年余、多くのことを学んでいたようだ。小林房実は俯いたまま、その背中を目で追った。
 弥五郎はずけずけと敷地に入る。
 そのあとを弥七郎が従う。背中が丸いのは、先の弥五郎の言葉が堪えたからだ。
「親父の命を縮めていること、知っていながら黙っているのなら、おまんは罪深い」
 等しくそれは自分にも、郡内の誰にも、当てはまる。いまの弥七郎には、弥五郎を諫める立場ではなかった。
 家屋の前には侍女が控えていた。
「なりませぬ!」
「どけ」
 立ちはだかる侍女は懐剣を抜いた。弥五郎は一歩踏み出し、瞬時に腕をねじ上げて懐剣を奪うと、それを放り投げて侍女を突き飛ばした。
「親父、入るぞ!」
 弥五郎は障子を開いた。
 その一間は、異様な光景だった。
「なんつこん(何てこと)……」
 弥七郎が思わず呟いた。
 弥五郎は、立ち尽くしたまま、凝視していた。
 病が昂じたのだろうか、老獪な表情の信有がそこにいた。いや、いただけではない、寵姫を後ろより抱きかかえるようにして、どっしりと立っていた。その肌蹴た寝着の袂から左手を差し入れ、熟れた乳房をむんずと握り締めていた。指の隙間から食み出す乳房は、身の内から弾けるものと思わずにはいられない張りと艶やかで汗ばんでいた。そして醜悪な体躯を隠すこともなく、病んだ者とは思えぬ黒々として隆々の陰茎が、その寵姫を後ろから貫いて、生々しい香気が辺りに漂っていた。
「ちょうすく(調子付く)なよ、藤乙丸」
 信有が笑った。
 弥五郎は、毅然と云い放った。
「へっちゅもねえ(くだらない)こん(事)で毒を食らうか、親父」
 信有はじっと弥五郎を睨んだ。
 律動を止め、ずるりと陰茎を抜いて、信有は寵姫を突き飛ばした。転がりながら、それでも勝ち誇ったように、上気した表情で姫は弥五郎を睨んだ。信有の陰茎はみるみると枯れていき、まるで身体が縮んだように映った。肌つやが、たちまちのうちに灰色へと変化した。死病に取り憑かれた姿が、そこにはあった。
「郡内の民は疲弊しているぞ。当主の務めもしねえで、何してるのだ、親父」
 弥五郎の言葉は容赦ない。
 信有は言葉を継ぐ力もない。肩で息をするのが精一杯だ。
「叔父御、和泉守殿を。谷村へ連れてくずら」
「よけっこんしちょ!(よけいなことをするな)」
「親父こそ、へっちゅもねえこんを(下らない事を)云う」
 その間、寵姫は弥五郎を睨んでいた。
 弥七郎に抱えられるように、信有は輿へと運ばれた。寵姫は弥五郎を睨み、弥五郎もまた、激しい敵意を籠めてこれを睨み返した。
「戸石城で武田は敗れた。しかし、最後は落とした。何つうこんもねえ、笠原の残党はじちゃあねえ(大したことない)。これが、結果ずら」
 信有は吐き捨てた。
 寵姫はぷいと顔を逸らした。
「女、親父が死んだら、ただでは済まさぬ」
 そう云うと、弥五郎も背を向けた。
 この夜、信有の意識は混濁し、容易に起きあがることが出来なかった。弥五郎は弥三郎をはじめ家中の重鎮を集めて、この状況を問い質した。
 信有が死んで得する者などいないのに、何故、放置したのだ。この正論に、きちんと答えられる者はいない。ただただ信有に逆らうことが出来なかったという結果だ。
「弥三郎様を育てるためなら、我が儘も許して差し上げねば。そうでもしなければ、教えてくれぬことも多いのです」
 小林尾張守貞親が呟いた。
 吉田を支配する小林貞親は、飢饉については小山田家の助力なくしては立ち行かない。我が儘に目を瞑らねば、どうすることも出来ないのだ。船津支配の小林和泉守房実も同様だった。在地豪族にとっては、仕方がないのである。
「弥三郎殿。もう当主はそなたのようなもの。されど親父の晩節を台無しにすれば、小山田が、引いては郡内が物笑いとなる」
 弥五郎はやんわりと、自覚の甘い兄弟を責めた。弥三郎には返す言葉もない。この郡内を背負う覚悟はあるものの、重荷に臆していることは事実だ。当主の自覚は、まだない。ただただ前例強襲に徹することを心懸けている。だから、信有の暴走も看過してしまうのだ。
「弥五郎殿、これからどうしたらよろしいか」
 ふと、小林和泉守房実が言葉を洩らした。
 誰もが、耳を疑った。しかし、宝林寺での振る舞いや言動ぶりから、弥五郎は分別ある一己の漢であると、小林房実は説いた。
「買い被るな、和泉守殿」
「さぞや武田家で、多くを学んでおられるのでしょうな」
「まだまだじゃ。まだ足りぬわ」
「して、如何にしたら」
 弥五郎は大きく息を吐いた。
「よけっこん(余計なこと)は、云えないずら」
 小山田の一族であっても、今の立場は武田家に属する弥五郎である。迂闊な物云いは、後々問題になる。お互いのため、云わずがものだった。
「しょんねえ(仕方ない)ずら。弥五郎殿の立場も考えてくりょうし」
 弥三郎が差し挟んだ。
 弥五郎の云いたいことは、口に出さずとも分かるつもりだった。信有を離れに封じ、平癒するまで一切外部と断つ。前例強襲を改め、経験豊富な家中の意見を用いて諸事実行する。そして、二度と妾宅へは行かさない。
 この三点を、弥五郎は無言で訴えているのだ。
「色々あったが、もう年も明けるら。弥三郎殿の思うままの来年とすりゃあええ」
 一族の内より、小山田弾正有誠が呟いた。
 誰も異存はなかった。信有に頼るがゆえの内政遅滞ならば、今を生きる者たちが責任を持って統べるのみである。これを為さねば、郡内は武田との同盟を維持できず、やがては併合されるだろう。武田の家臣に取り込まれずに同盟を維持すること。このことだけは、譲れぬ意地と云ってもよい。
「弥五郎殿はろくに見舞いもしておりますまい。大殿が目覚めるまでは、暫しゆるりと逗留しませい。ここは、貴方様の里でありますゆえ」
 弥三郎の労いに、弥五郎は頭を下げた。
「のう、国中のことを聞かせてくりょう。我らは御役目以外の国中を知らねえずら」
「まずはおごっそう(御馳走)ずら。腹減ったし」
「これは、これは。早く用意しろし」
 笑いながら弥三郎は促した。
 まずは酒と芋が振る舞われた。飢饉の郡内で得られる糧は少ない。これらは富士参拝の行者や商人からの流通品である。庶民の口に届かぬものばかりで、小山田家中の席でも格別の馳走だった。
「御坂峠からここまで来た。途中、吉田の窮乏を見たずら。けえぎ(可哀想だ)と思った。他所の戦さでぶん取らねば、暮らしは大変だ。尾張守殿の御苦労を察するだあよ」
「畏れ入る」
 小林尾張守貞親は慌てて頭を下げた。確かに昔の藤乙丸ならば、このような気の利いた言葉など用いることはない。小林和泉守房実の気持が、ようやく理解できた。
「国中のことより、戸石城に振り回された一年だった」
 弥五郎は酒に手を付けず、白湯を所望した。酒を口にするには、まだ早いという自覚だった。反面、弥三郎は酒を口にした。酒に頼りたい日々なのだという。
「御館様の身辺にいると、まるで坊主にでもなった様ずら。何かと朝晩の決まりが多い。刻限にもうるさくなるら。それを除けば、じちゃあねえ(大したことない)こん(事)べえずら」
 晴信の供で一番退屈なのは
「寺社を巡ることずら」
「どうして」
「坊主の経はよく眠れるが、あとで御館様に叱られるだ。お前には、馬の耳に念仏だなと、散々云われる」
 その話に、どっと座が湧いた。
「やっぱ弥五郎殿じゃ。おかんじがねえ(無神経だ)し」
「そうじゃ。ええからかげん(いい加減)なこんでねえと、調子狂うら」
「ほんに、のぶい(無神経で図々しい)弥五郎殿ずら」
 久しく笑いを忘れていた家中が、声を上げて笑った。
「こんねん(こんなに)云われたくねえら」
 弥五郎の呟きに、また家中は笑った。弥三郎だけが笑っていなかった。どうしたのだと質す弥五郎に、弥三郎は寂しそうに応えた。
「なんちょにも(どうにもこうにも)、儂は、皆をこれほど笑わせたこん(事)はねえら」
「当主は笑わせる必要ねえずら」
「そうかな」
「儂がおさっさ(おっちょこちょい)なだけ。なんも変わらねえら」
 かつては郡内の持て余し者とされた弥五郎。それもすべて、信有目線の解釈にすぎない。行動的な彼の陽性を、内心微笑ましく見ていた者も少なくはなかった。だからこそ、こうして座に笑いがある。出来のいい弥三郎は、〈出来て当たり前〉だから陽性も必要ない。笑いも自然と省かれてしまう。さりとて、人には感情がある。弥五郎のような人物に人は惹かれてしまうのだ。
 腹違いの庶兄がいないことは、弥三郎にとって都合はよかった。否応にも弥三郎に従ってくれるからだ。弥五郎がいたら、御家はいつか割れるかも知れない。信有は弥五郎の本質を知っていたのだろうか。それゆえ冷たく扱い他所へ放り出したのだろうか。
 そのときである。
「大殿が、弥五郎殿をお呼びにて」
 使い番の言葉に、和んだ座が一瞬で褪めた。
 弥五郎はゆっくりとした口調で
「親父は落ち着かれているか?」
「お言葉は、はっきりと」
 使い番の返事に、判ったと応え、弥五郎は立ち上がった。座の者たちは、不安そうに弥五郎を見守った。
 同道しようという弥三郎の声に、弥五郎は首を横に振った。
「呼ばれたのは儂じゃ」
 そう云って、弥五郎は信有の元へと赴いた。


                  二


 床に臥す信有の表情は、肌つやも悪い。歳よりも老けた表情で、じっと、弥五郎を見上げた。
「きたか、小僧」
力なく微笑んでみせた。弥五郎はずけずけと歩み寄り、枕元へどっかと腰を下ろした。
「おまんの云うとおりじゃ」
「は?」
「儂は毒に冒されて、余命幾何もない」
 自覚していてこの様かと、弥五郎は吐き捨てた。
 信有は反論しない。ただ眩しそうに、弥五郎を見上げるだけだ。
「のう、親父」
「ん?」
「あの女を、誅せられませ」
「無理じゃ」
「何ゆえに」
「男は、毒のある蜜に惹かれるもの」
「わからん」
「あれを殺したところで、儂には悶々とした後悔が残る。男とは哀れじゃ。毒のある女に捕らえられたら、もう逃れる術がない」
 信有の表情は穏やかだ。もはや、弥五郎に毒付く余裕がない。
 弥五郎も黙ったままだ。気の利いた言葉など、ここには必要がない。強いて吐いたとて、薄っぺらい言葉遊びに過ぎない。
 かといって、今更激しく罵りあう気分でもなかった。
「おまんのことを嫌った理由、一度も尋ねなかったな」
「聞いても意味がござるまい」
「そうだな。それで、ここまで来てしまった。おい、遺言代わりに聞いていけ」
「存分に」
「すべては、おまんの母親の出自じゃ」
 弥五郎の母は谷村城より離れた旧屋敷、すなわち中津森で自適に過ごしている。自らその暮らしを望んで、谷村での暮らしを拒んだとも聞いていた。さりとて弥五郎は子供の頃から頻繁に往還していたし、明日にも中津森を訪ねようと思っている。
「出自とはなにか」
「漂白民〈わたり〉」
「は?」
「おまんの母は、傀儡子だった」
 弥五郎はじっと信有の目をみた。
 錯乱はしていない、目の色は正気だった。
「戯れに閨を所望したら、さても孕みおった。それがお主だ」
「知りませんでした」
「誰も知らぬことだからな。儂と先代だけの秘密だ」
「それで?」
「公界の女から世継ぎが生まれたとあれば、世の笑いもの。ゆえに弥三郎を設けるため、儂は必死じゃったわ」
「そのときから、弥三郎を次代にと」
「当たり前ずら。漂白民の血を引くおまんなんぞに、当主の座はくれてやらぬ」
 確かに、思い当たる節がある。
 信有は、母を蔑んでいた。その罵声の何処かには、脅えすら感じられた。得体の知れぬモノへの恐れだ。
 成る程。初狩の印地に対する過剰な反応が脳裏を過ぎった。漂白民の気味悪さを、信有は恐れたのだろう。
 そうか。
 嫌われて当然の鬼子というわけだ。弥五郎は得心した。生まれたときから相容れぬ父子だったのだ。
「しかしな、弥三郎は弱い。頭はいいが、身体は弱い。おまん、こののちは弥五郎の支えになれ」
「そんなこと」
 弥五郎は呆れた。
 生まれはどうあれ、弥五郎は小山田の人間だ。当主を支えるのは、当然の責務である。馬鹿馬鹿しい、そう吐き捨てた。
「いいか、おまんはいつか、小山田の家督を奪うだろう」
「ええからかげん(いい加減)な」
「いや、おまんに望みなくとも、きっと担がれて、弥三郎は家督を奪われる」
「怒るぞ」
「分かるまい。おまんは、人を惹きつける。それは公界の血が導く魔性ずら」
 信有はじっと弥五郎を見据えた。
「いいか、おまんが小山田を継げば、きっと不幸になる。儂には見える、おまんは当主になってはならぬ。魔性じゃ、魔性の者ずら」
 三度、その言葉を繰り返して、信有は大きく息を吐いた。
 ふんと、弥五郎は鼻を鳴らした。
 今更、小山田家の家督には興味がなかった。そういう生き方をしてきたし、今は武田家に仕えているだけで、面白い。郡内とは別に独立し、いつかは信州のどこかで小城でも任されるのが、身の丈に合う生き方だ。弥五郎はそう思っていた。
 信有は虚ろな視線を泳がせていた。三三とは思えぬ老いた相貌。病ではなく、毒の仕業でなくして何という。
「毒はもうやめろ。生きてこそ、いいことがある」
「出来ぬ」
「己の欲望に塗れて、当主といえようか」
「淫門を差し抜きするときは、別の者になった気がする。思えば笠原新三郎が取り憑いて、そのときは別の何かになっていたのだろう。もはや我が意の儘では、どうにもならぬわ」
 汚らわしいと、弥五郎は吐き捨てた。
 笑止と、信有は説いた。
「色恋も知らぬ小僧が、利いた口を叩くな。情欲に溺れると、逃れる術などないこと、今におまんも思い知る。よう憶えておけし」
 これ以上は無駄だ。早晩、毒に冒されて、信有は死ぬだろう。
 哀れなことだ。
 このとき、弥五郎には憎しみがなかった。罵声のひとつも浴びせたならば、どんなに気が楽だろう。しかし、そんな気が微塵も浮かばない。
 不思議なことだった。

 天文二一年(1552)一月二三日。
 小山田出羽守信有が病没した。腹上死を願い、駄々を捏ねながら周囲はそれを許さず、悶絶するなかの、壮絶なる死であった。無論、内々のことであり、このようなことは世に露呈も出来ない。あくまでも〈郡内の王者〉として、尊厳ある往生を遂げたのだと、世上に評されたのは申すまでもない。
 小山田家中はそれを演出し、世間に流布しなければならない。
 このことを知るのは四長老家と僅かな重臣のみ。多くの家臣も領民も、郡内の為政者が病に斃れたのだと信じたし、疑いもしなかった。駒橋妾宅の旧笠原清繁室の侍女が急逝したのも、同じ日のことである。
「愛妾のこと、どうしたものかな」
 弥三郎信有の困惑に、皆も困惑した。ふと、小林尾張守貞親は内々に、弥五郎へこのことを報せた。
「中津森のおっ母のところに留めておこう。見張っておくよう、こちらからも伝えておく」
 そんな結び文がすぐに返ってきた。小林尾張守貞親は弥三郎信有に伝えると
「弥五郎殿の申し出に従うべし」
と断じた。
 愛妾は駒橋から中津森に移された。弥五郎の母親は疑いもなく迎え入れ、その飾り気のない人柄に、無口な愛妾はすぐに打ち解けた。歴史の表舞台からこの女は降りたが、どうしたものか、こののち長生きをして、小山田家を支える一助となるのである。
 
 小山田信有の存在は大きかった。
 郡内はおろか、武田家でもその実力を無視することは出来なかった。それだけではない。小田原からも名代の使徒僧が弔問にきた。『小田原衆所領役帳』によると、小山田家は北条氏他国衆としてそれに記載されている。これは北条にとって、取次に対して知行が宛行われる取次給だろう。小山田家は北条に対する武田の取次を担ってきたからという意味だと考えるべきか。少なくとも、北条家も、信有の死を軽く見てはいなかったのである。
 記録によれば、二五日に執り行われた信有葬儀の参列者は、およそ一万に及んだとされる。この喪主として、小山田弥三郎は忙しく対応した。
 とかく影響力の大きい信有は、後身に多くを指導しなかった。
 生真面目な弥三郎は遠慮もあり、肩身の狭い当主代理を辛抱した。その心の重荷が取れたのは、皮肉にも信有が死んでくれたおかげと云ってもよい。重荷を取ることと引換えに、多くの山積課題が現実として残された。それを手探りで片付けていく試練が、弥三郎を縛り付けた。
 その取次の任は、若い弥三郎の双肩に重く圧し掛かった。
 幸い、信有の補佐をしていたのが、小林尾張守貞親である。立場上のことを除けば、段取り手際の多くを知っている。これは心強いことであった。その取次の任は、表向き講和関係がない甲相両国において、小山田家の独壇場でもあった。水面下での物流交渉は武田晴信の関知するところではない。郡内の独立性に委ねられている。
 その建前として、富士信仰があった。
 富士講のため、郡内吉田は諸国の信者を受容れている。吉田は自治領を自負していたが武力を持たない。そのため在地支配と称する者も必要になる。それが、小林尾張守貞親だ。
 信仰というものは、金を生む。
 喜捨は地域の支えであり、小山田の経済の源となり、ひいては武田の財力へとつながっていく。だから晴信は吉田の自治性を損なうことなく、その状態に敢えて口を出そうとはしなかった。
 信仰には商業も工業も接し、時として情報も交差する。
 それらの全ては、総じて金を生んだ。生産性の低い郡内が領内を維持できたのは、偏にこの信仰という部分が大きい。この仕組みの全てを理解するには、弥三郎は若すぎた。四長老家をはじめ家老の小林一族が中心となり、一丸となってこれを支えていくしかなかった。
 弥三郎は正式に家督を継ぎ、諱を〈信有〉とした。
 これは勧進能の際に、武田晴信の発した言葉による。すなわち
「小山田の次代ゆえ、代々の仮名である弥三郎を名乗るがいい。出羽守が家督を譲るときに、その諱も譲るべし」
に従ったまでだ。
 が、信有の諱は、外交において都合のよい響きでもあった。
 小山田の当主が諱を〈信有〉としたのは、これで三代目である。家督継承者の符号といってもよい。その響きが先代の威徳を髣髴させ、誰にも一瞬の身構えを促す効果があった。
 以後、弥三郎信有と称す。


                  三


 天文二一年(1552)五月六日、武田晴信・信繁兄弟の実母・北の方が世を去った。患いもなかったが、突如倒れ、そのまま帰らぬ人になったという。
 公式行事として、弥三郎信有はこの葬列に参じた。このとき被官衆の最初に焼香を行ったのが、小山田弥三郎信有だった。表舞台に立つ弥三郎信有は、このとき裏方として慌しい弥五郎とは、恐らく顔を合わせる暇もなかっただろう。
 このことで喪に服す反面、武田家においては、粛々と慶事も段取られていた。
 晴信嫡男・太郎と今川義元息女との婚姻は、予てよりの約定であった。甲斐にとって駿河との盟約は信濃進出に欠かせなかったし、駿河もまた北条を抑える上で甲斐との盟約は必定といえる。それにも増して、武田家は先代・信虎の隠居先として今川への遠慮があった。関係を維持するためには、この婚姻は疑うべくもない現実として、誰もが納得するものだった。
 この婚姻は、この年一一月二七日に執り行われた。

 郡内の長となった弥三郎信有が就任当初に行った事業のひとつに、〈二十八紙曼荼羅御開帳〉がある。ただし主催は寺社により、弥三郎信有は通行の配慮を試みた程度だったが、とにもかくにも自国他国からの信者が吉田へ殺到したことは、景気向上につながったことは申すまでもない。
 他国からも商人がきて、物資が流通し市が立つと、その上納金だけでも馬鹿にはならなかった。とにかく生産性の低い吉田を潤わせるためには、絶好の機であったことには違いなかった。
 二十八紙曼荼羅。
 これは駿河国沼津にある光長寺に伝えられるもので、日蓮筆とされる。周辺の信徒にとって、これは生涯二度とない機会でもあった。甲斐には、日蓮ゆかりの身延山久遠寺がある。しかし、穴山氏支配の南部河内に属すため、本栖から下部を経た駿河口にあり、近くて遠い場所だった。
それだけに、このことは、郡内の日蓮信徒には有難い。郡内だけではない。御坂を越えて国中からも信者がきた。駿河からも、相模からも、勿論武蔵からも。信仰は金になると、生前の信有は口にしていた。それが、現実になった。
 弥三郎信有は、これら民衆が放つ熱気と、情熱と、信仰の一徹さに、言葉を失った。
 昔、信有から越中のことを聞いた。信徒が国を奪い大名不在の国がある。それが越中だと。成る程、この狂騒と熱情は、云い得て然るべきだ。
 醒めた目で見れば、どうということはない。しかし、信徒の瞳には、この曼荼羅は至宝であり、仏であり、この世の総てだった。
「鬼美濃殿も御覧の様子にて」
 小林尾張守貞親が指す先には、原美濃守虎胤がいた。
 戸石崩れの傷も癒え、わざわざこの曼荼羅を見るために来たのだろう。そもそも原虎胤は甲斐の生まれではない。下総の名族千葉氏の傍流にあたる。下総上総安房の三国は、日蓮の信徒が多い。そもそも日蓮は安房の出身だから、その出自を知るものなら自然だと得心する。
「鬼の目にも仏でござりますなぁ」
 小林貞親は苦笑した。
 弥三郎信有が原虎胤を見たのは、ひょっとして初めてではあるまいか。顔までも刀疵に被われ、毛穴から噴き出すような威圧感に包まれながら、民百姓にまみれて曼荼羅を拝むのである。なんと不思議な光景だろう。
 この曼荼羅開帳は、七月いっぱいまで続いた。
 善男善女の賽銭は、教団の資金となり、ともすれば郡内に還元もされた。

 相模国小田原城に居を構える北条氏康は、関東支配を望んでいた。
 北条氏は鎌倉執権のそれとは無縁の、元は今川家の食客であり、引いては室町幕府の要職もあった伊勢一族の末である。祖父・伊勢宗瑞の頃より関東進出を始めた。以来三代に渡り、着々と勢力を拡大しつつあった。公に関東を支配するのは、関東足利家の古河公方であり、その執事だった関東管領上杉氏だ。しかし、室町幕府が政治力を喪失したように、関東行政府も没落した。
北条氏はそれを実力で侵略した。
 領民は侵略者に対し寛大だった。北条の税率は四公六民、旧来よりも安い。民衆は暮らし向きをよくする者を受容れた。この北条氏の目指す上杉一掃の動きは、武田の利と一致した。
 信濃の豪族はかつて関東管領に服していた。
 当然、武田との対立も必然だった。
 志賀城をみせしめとした戦いも、関東管領に対する威圧が含まれている。自然と武田晴信は北条との盟約を欲していた。先代の小山田信有が内々に負っていた任務こそ、その取次である。が、内々という行動が、当時の武田が試みる精一杯の外交だ。武田家は今川家との盟約を強くすることに邁進していた。双方ともに利の多い盟約であり、これを覆すことは互いの益にも繋がらなかった。そして、今川と北条は、仲違いの関係である。
 今川義元の父・氏親は伊勢宗瑞の甥。血縁が近いのだから、その頃までの両者の関係は良好であった。氏親の死後、嫡子・氏輝の頃も親北条路線だった。氏輝早世により〈花倉の乱〉を以て家督を継承した義元の代から、今川と北条は対立した。何ということはない、義元が親武田派となり、家督争いをした庶兄・恵探が親北条だったのだから、自然なことだ。以来、今川と北条は対立し、武田は常に今川の側にあった。
 しかし、武田にとっては、北条との和も有利なものだった。
 今川と北条を結ぶ仲介が出来るのは、このとき武田家のみだった。その仲介は三者にとって、当面の理に適った。今川は三河尾張を、北条は武蔵上野を、武田は北信濃を、互いに後顧の憂いなく進むことが適う。与する益は三者ともにあった。
 しかし、国と国の講和は難しい。
 今川義元と北条氏康の融和は互いの面子もあり、理では判っても立場上頷けない焦燥もあった。互いの顔を潰さぬよう仲介を進めたのは、晴信自身であり、その意を直接交渉した駒井高白斎だった。小田原取次役として、小山田弥三郎信有もこの一翼を担ったのは、申すまでもない。

 面倒なことが起きたのは、この年の暮れだ。
 宗論の一方に加担した咎で、原美濃守虎胤が相模に出奔した。出奔といえば原虎胤の身勝手に聞こえるが、正しくは追放である。武田家で制定された〈甲州法度之次第〉に照らし、処断されたのだ。
 講和の道を探りつつも、表向き、武田と北条の間で戦さは継続している。籠坂峠から須走にかけて、今もなお、双方の兵が小競り合いしていた。
 敵国に出奔した原虎胤を
「一騎当千の兵を得たり。渡邉綱にも勝る」
と、北条氏康は快く迎え入れた。
 翌年、原虎胤は今川との係争地である富士川に配された。試されたといってよい。この対陣には、今川の同盟として武田からも寄騎が参じた。馬場民部少輔信房・小幡山城守虎盛・小山田弥三郎信有がこの任に就いた。功を焦る弥三郎信有は、歴戦の将である鬼美濃に勝てる気がしない。如何にして采配したらよいものか、迷いを覚えていた。
「伝令」
 馬場信房の使い番が駆け込んできた。
「鬼美濃殿に手向かうこと、無用なり」
 弥三郎信有は首を傾げた。
「御役目大義なり」
 代わって小林和泉守房実が応じた。馬場信房がそう伝令を発するということは、武田晴信から云い含められた何かがあるのである。言葉にせずとも、そう察するものだと、小林房実は呟いた。伝令は、小幡の陣にも駆け込んだ。小幡山城守虎盛は原虎胤に匹敵する合戦巧者だ。すぐに事情を察し、全軍に手出し不要と大声で触れた。
 原虎胤も戦場に立ち、今川勢に馬首を向けて、武田勢を無視した。
「美濃殿、横槍に備えたまえ」
 北条勢は訝しがり、虎胤を窘めた。すると、馬上に立ち上がった虎胤は首を武田勢に向けると
「甲州は縁につながる故」
と、響き渡る程の大声で一喝した。すなわち〈戦いたくないので向かってくるな〉と制したことになる。今川を討つ邪魔をするなとも聞いて取れる。兎にも角にも、武田は相手にしないという意思表示だ。
 武田方もこの意を理解してこそ、伝令が廻ったのだろう。弥三郎信有はそう思うことにした。しかし、戦場の空気に昂ぶり、律することも儘ならぬ者もいる。命令に背いてまで武功を立てようとする不埒者だ。こういう輩が、戦場で美談の添え物となるのも、この時代の特徴といえた。
 陣立てした以上、見物もしていられず、武田勢はこののち原虎胤とは異なる北条勢へと軍勢を進めた。北条勢は馬場・小幡の猛襲を支えきれず、崩れ去ろうとしていた。
「いざ、助成仕らん」
 それを見た原虎胤は、傍らの太田新六郎康資を伴い甲州勢へと馬を駆った。太田康資は往年の名将・太田道灌の曾孫である。両騎は武田勢と北条勢を割るように、馬を奔らせた。その勢いに、武田勢は一歩退き、北条勢は後退の機を得た。
 合戦場の空気は微妙な違和感で白けることがある。武田勢はまさにそれで、退く北条勢を追撃もしない。
「退け退け」
 原虎胤と知らぬ武田方の雑兵が立ち向かってくるが、馬上の一鎗でこれを叩きのめし、目も暮れずに走り抜けていく。雑兵の首など興味はない。虎胤の背中が語るのだから、追従する太田康資もそれに徹した。
「美濃殿!」
 敵陣の大将が一礼する。小幡山城守虎盛だ。虎胤も一礼し、駆け抜けた。馬場民部少輔信春の脇も素通りした。馬場勢も手出しせず、虎胤を見守った。そして、勢い付く小山田勢へと、虎胤は割って入った。
「鬼美濃殿じゃ、退け!」
 随所で声が挙がる。しかし、討ち掛かる者もいた。代替わりしたばかりの小山田勢では、統率も儘ならず、こういう命令無視もよくあることだった。
「馬鹿者―!」
 虎胤は峰打ちで、これら七、八騎を馬上から叩き落とした。なんという熟練の技か。弥三郎信有は思わず叫んだ。
「美濃殿が敵前での馬の乗りよう、一同、しかと見よ」
 それは、戦場の魔性だった。
 美しい姿といってもよい。戦意など誰もが失う程の、恰も軍神を宿す神々しいものであった。
「斯様な戦さの術、郡内の衆も学ばねばなりますまい」
 小林和泉守房実は呻くように呟いた。
 そのときである。
「推参なり!」
 郡内勢より近藤右馬丞なる者が飛び出し、原虎胤に挑んできた。
「殊勝な心掛けなり」
「いざ」
 近藤右馬丞は臆せず馬上から攻め掛けた。その首筋へ二度三度、原虎胤は峰打ちを当てた。近藤右馬丞は気を失い、落馬した。一瞬の出来事で、実力差は歴然といってよい。太田康資が駆け寄り、その御級を取ろうとすると
「罷りならぬ!」
 虎胤が一喝した。
「この者、甲州で知己にて。命だけは助けてやってくれ」
 倒した者に云われれば、仕方がない。太田康資は引き下がった。
 戦局全体をみれば、この合戦そのものは小競り合い程度の規模に過ぎない。しかし、敵味方に原虎胤の存在感を印象付ける結果が残されたのは申すまでもない。原虎胤の為さり様は、戦さの場においては邪道だ。鬼に逢っては斬り、仏に逢っては斬るという戦場の倣いで、一言で表すなら甘いことだった。が、精一杯の者ならいざ知れず、戦場の鬼と例えられる武人にかかれば、そういうことも納得がいくのが、不思議なことといえよう。
「鬼美濃の目にも涙よ」
 この目溢し美談は、敵に味方にそう囁かれた。
 きまりの悪いのが、近藤右馬丞だ。命令を無視し蛮勇に逸り、挙句手加減されて死ぬことすら出来ない。郡内の兵は、冷やかに彼を見た。決まり悪そうに、弥三郎信有の前で頭を下げる彼の顔は、羞恥で紅潮していた。
「このままでは済ますまい」
 小林和泉守房実が睨んだ。
 信有はじっと近藤右馬丞を見ると
「当方の軍は強くあるべし。鬼美濃殿の恐さを唯一知るのは、右馬丞のみである。以後は軍勢を如何に強くするべきかを考え、励むべし」
「許すのですか?示しがつきませぬぞ」
「和泉守の申すことは当然じゃ。父ならば、厳しく罰しただろう。されど、許す」
「よろしいのですか」
「いいのだ」
 近藤右馬丞は腑に落ちぬ表情で俯いた。
 腑に落ちないのは、小林和泉守房も一緒だ。理由を質すと、意外な答えが返ってきた。
「もし、弥五郎殿なら、この場を何としただろう。一度の非より次回の勝利を択ぶだろうと、ふと思うたのじゃ。罰よりも我が軍勢のためとなるなら、生き恥に耐えて強い軍勢へと精進あるべし」
 なるほど。
 近藤右馬丞は得心した。抜け駆けよりも大きな手柄こそ、小山田の為になる。恥を教訓に生かすことこそ大義であった。
 しかしながら、この処分はふたつの評価に割れた。人をよく目利きし諸役に応じる慈悲の肝要を称える声。そして、奉公人は過ちも顧みず増長するだろうという懸念であった。
 人は、強い者に一目置く。為政者の資質は、その匙加減の上手下手の器量といえる。美談と引替えに、小山田家には気まずさも残されたのであった。

 富士川の美談は、馬場民部少輔信房を通じて晴信の知るところとなった。
「鬼美濃殿を北条にくれてやるは、気前がよすぎます。ぜひ、復帰をお許し召され」
 馬場信房は諫言したが、晴信は笑うばかりだった。

 この合戦の数日後の一月一七日、小山田弥三郎信有は北条の使者と会った。このことを『高白斎記』は次のように記している。

    正月十七日甲午、小田原ヨリノ使者に御対面ノ時、小山田、宮川バカリ
    烏帽子着申サレ候。
    二月廿一日戌刻、来ル甲寅ノ年、小田原へ御輿ヲ入レラレルベキノ由、
    晴信公ヨリ御誓詞句。氏康ヨリノ御誓句ハサル正月十七日ニキタル

 数日前には、戦場にいた弥三郎信有である。この真逆の境遇に、内心複雑を覚えつつも、これが国と国の外交であることを自覚していた。北条との和睦は、こうして構築しつつあった。

 天文二二年(1553)は、武田家にとって宿命といえる邂逅を果たす。
 四月、北信濃より村上義清を遂に追ったものの、席の温まらぬ間に援軍と称し、越後から長尾景虎が攻めてきたのである。
 長尾弾正少弼景虎。
 後世の史書は〈義侠の将〉とも囁き、それが定着した感がある。確かにその意思もあるだろうが、人はそれだけでは生きていけない。義の綺麗事を口にしながらも、裏腹な本音も秘めていたのではあるまいか。それを為せるのは、強さがあったからかも知れない。
 長尾景虎は不敗の将だ。それゆえに統一ままならない越後を、紛いなりにもひとつの形にまとめた。
 前年暮れ、関東管領・上杉憲政が関東を追われ越後に逃れた。長尾景虎はこれを庇護した。それが世間よりどう見られるかを知っていたからだろう。今回、村上義清を迎えたのも同様だ。
 景虎は弱者を援ける義侠の者。
 この印象を世間に定着させる創業期を、長尾景虎は迎えていた。
 高梨刑部政頼は長尾景虎の外戚にあたる信濃の豪族だ。元々村上義清はこれと対立していたのだが、北信濃が武田に侵されるに至っては遺恨を拭い去り、頭を下げて長尾景虎への取次を頼んだといわれる。双方の私怨よりも、武田侵攻こそ現実問題だ。高梨政頼は快く長尾景虎へ援軍要請を仲介したのである。
 とまれ長尾景虎の行動は早かった。
 五月、村上義清は北信濃の国人衆と景虎からの支援の兵五〇〇〇を率いて反攻した。このときはまだ、長尾景虎は出馬していない。八幡(現・千曲市武水別神社付近)で合戦となり、村上勢は葛尾城奪回に成功する。しかし、それもすぐに武田勢に奪われた。九月一日、遂に景虎自らが兵を率いて北信濃へ出陣してくる。
 信濃の豪族には、長尾景虎が神々しく映ったことだろう。強い武将であるにも関わらず、領土欲を欲しない。その煌びやかな謳い文句は、支配を徹底する武田とは真逆だ。このときの戦いは、長尾景虎も武田晴信も、互いの実力を全て発揮していない。戦術と戦略の駆け引きに徹し、局地戦こそ避けられぬものの、決戦に臨むことなく兵を退いている。
 世にこれを〈第一次川中島合戦〉という。
 武田晴信にとって、忌むべき越後との一二年に及ぶ損耗の始まりだった。
 この出陣で世間への好印象を定着させたのは、長尾景虎だ。合戦の後に上洛し、後奈良天皇に拝謁したという。
「私敵治罰の綸旨」
を得たことにより、長尾景虎は信濃進出の大義名分を得た。
 格式と権威を重んじ、どこか浮世離れのしている印象が強い景虎だが、本当にそうだろうか。むしろ領土欲を見せずに人心を掠め、結局は直接支配に等しい深謀遠慮を目的としているのなら、長尾景虎もまた、一己の戦国大名たる大望を抱いていると得心が附く。
 長尾景虎。
 のちの上杉謙信である。


                  四


 この年一一月八日。小山田弥三郎信有は頭を悩ませていた。
 郡内猿橋にある永昌院寺領の年貢が難渋していると、寺側から武田晴信に訴えが為されたというのだ。
 どういうことか。
 龍石山永昌院は、武田晴信の曾祖父・信昌が一華文英を開山に迎えて開創した寺社である。この一華文英は、時の天皇である後柏原帝から〈神嶽通龍禅師〉の称号を賜るほどの高僧で、この当時〈日本三蔵司〉の一人とされるほどの人物だった。
 当然、晴信の代となっても、武田家は永昌院への帰依が厚い。その永昌院の寺領地が猿橋にあった。そこの百姓が永昌院への年貢を滞らせているというのだ。が、これは百姓だけの思惟ではない。そうさせている者がいる。晴信はその者の処置を、名指しで指示してきたのだ。
「お呼びで?」
 小山田弥七郎が谷村へと出頭した。渋い表情で、弥三郎信有は晴信からの申付を読んで聞かせた。弥七郎は晴信の情報網の綿密さに舌を巻きながら
「さすがは武田の御当主よ」
と降参した。これ以上の騒動は、小山田家の為にもならぬと、瞬時に理解したのだろう。
「郡内は肥えた土地が少ないずら。国中の寺は出しゃばって貰いたくねえ。それだけの気持ゆえ」
 小山田弥七郎は悪びれる様子はなかった。
 一応の理由はあった。そのうえでの、ささやかな狼藉でしかない。しかし、弥三郎信有は当主である。そのことを承知した上で、政治的な決断をしなければならぬ立場だった。弥七郎の永昌院寺領出入り禁止は、この場で下知された。弥七郎は特に反論もなく、それに従った。
 このことは直ちに武田晴信へ報され、一応の決着とされた。
 今は北条との交渉が重要案件であり、このような小事に煩うときではない。小山田家は忙殺のなかにあり、それがために小山田弥七郎は物分かりの良い風を装ったのである。
 天文二三年は正月から、雪しろの被害が多かった。その対応に、弥三郎信有は振り回された。
吉田の西念寺はこのとき本堂の傷みが著しかった。そのため武田晴信に図り、富士参詣の道者に宛て、西念寺造営のため一人四銭の勧進をするよう措置された。
 先立つものがなければ、北条との交渉もままならない。
 現実の厳しさがそこにあった。

 武田晴信は北条との取次を小山田に託しながら、一方では今川に対し、とある交渉を持ちかけていた。すなわち仲介役となって今川と北条を結ぶこと、その利を大声で説いたのである。
 水面下の交渉は、早い時期から始まっていた。
 山本勘助は駿河の執権とされる太原雪斎に接触し、大凡の同意を得ていた。太原雪斎は僧籍にありながら義元の非凡さを見抜き、軍師となりて〈海道一の弓取り〉へと育て上げた才人である。感情や損得を超えた物事の道理を弁えた人物であり、その眼からみて、甲相駿の三国同盟は利に富み害なしという見解を抱いていた。
 山本勘助が水面下交渉を推進すると同時に、晴信は正使として穴山伊豆守信友を任じた。穴山信友は駒井高白斎とともに武田太郎義信・今川家息女の婚姻に尽力した実績があり、信頼がある。正式な交渉役として恰好な人選だった。山本勘助の根回しを華咲かせるのは、彼をおいて他にない。
 駒井高白斎は『高白斎記』を後世に残している。その筆は天文二二年で途絶えていることから、恐らくその時期に死没したと考えられている。もし健在なら、穴山信友ともどもこの重責を為したに相違ない。
 後世、ひとつの名称が議論の種となっている。
 世にこれは〈善得寺会盟〉と呼ばれているが、実際に国主三人が一堂に介すことなど、現実味がないと評される。これは、確かに御伽噺にも似た無理らしからぬ出来事だろうと思う。このことは、江戸時代に編まれた『関八州古戦録』『鎌倉九代後記』『相州兵乱記』『北条記』といった、北条氏寄りの史料に記されるのみである。同じく江戸時代編纂の武田寄りの書『甲陽軍鑑』には、このことは記されていない。
 善得寺は臨済宗寺院であるが、善徳寺城と呼ばれる城郭機能も持ち合わせていた。そして、ここの住持が太原雪斎だった。交渉主導権は今川家が握れるよう、武田家が上手に立ち回ったのだろう。
 天文二三年七月、今川義元の嫡子・氏真の許に、北条氏康長女が嫁いだ。
「かくなる上は、一刻も早く、武田と北条も結ぶべし」
 太原雪斎の口上は形式的だった。
 水面下で双方が折衝していることくらい、太原雪斎は承知していた。それでも今川の面子を保つことを優先させた、晴信の心憎い義理堅さが有難かった。太原雪斎はそういう深慮遠謀に長けた、宰相と呼ぶに相応しき能力者だった。

 甲相駿の三国は、互いに婚姻で結びつく。後顧の憂いなく、銘々の実利へ邁進する道を赴くべし。最後に締め括るのは、小山田弥三郎信有の仕事であった。
 
 一二月。武田晴信の長女が北条氏康の嫡男・氏政の元に嫁いた。この様子を、『妙法寺記』はかく記す。

    此年極月、武田晴信様の御息女様を、相州氏康の御息新九郎殿の御前の被成候。
    去程に甲州一家国人色々様々のきらめき或は熨斗付或はかひらけ或はかた熨斗
    付或は金覆輪鞍輿は十二挺氷岐女の役は小山田三郎殿被成候。御供の牙甲州より
    三千騎、人数は一萬人、長持四挺二挺請取渡は上野原にて御座候。相州より御迎
    には遠山殿・桑原殿・松山殿是も五千計にて罷越候。去程甲州人数は皆悉小田原
    にて越年被食候。小山田彌三郎殿の御内には小林尾張守殿氏康の御座へ参候。
    加様成儀は末代有間敷候間書付申候。

 この輿入れにあたり、小山田弥三郎信有は武田方の全権を担う重責に徹した。上野原までは警護役に徹し、ここで北条方に姫を託したのちも小田原まで従った。小山田勢はこのまま小田原で越年したという。このとき北条氏康は、弥三郎信有を決して冷遇することはなかった。陪臣でありながら小林尾張守貞親までも氏康に親しく言葉をかけられたというから、何事も破格の厚遇と云ってよい。この北条家との盟約の成立は、先代信有からの積み上げてきた小山田家の取次が成果となったもので、大きな功績だった。

 三国同盟の渦中にあって、武田晴信は信濃計略に一切の手抜きをすることはなかった。
 長尾景虎という化け物がいつ出張るかも判らぬなか、堅実に勢力を拡大した。力攻めを避け、人心の欲得に訴え、実利に応じた調略を駆使して無血のまま攻略する術を大いに発揮した。
 このとき活躍した品がある。世にこれを、甲州金という。
 この甲州金、『甲斐国志』曰く、都留郡を除く国中三郡で流通していた戦国期の領国貨幣である。碁石金とも云われた。重さは約五.八糸目(匁)、現代に換算すると約二二g。驚くべきは金含有量で、約八二%という純金度である。季節毎に躑躅ヶ崎へ納められる甲州金は、木箱に詰められ荻原路より運ばれた。その管理や運搬にあたっては、金丸筑前守虎義の役目だった。
「いつも見事なものだ。黒川金山はまだ万全か?」
 晴信の問いに、金丸虎義は傍らに控える蔵前衆筆頭・田辺太郎左衛門へ仰いだ。
「今のままでは、いつかは枯れます。しかし、猿楽の衆より聞いたところによると、遠い長崎なる地には、南蛮より伝わりし秘法がある由」
「ほう、秘法とな」
「甲州金はクサリと呼ばれる金の含む土を精錬します。そのとき不用な土は捨てられますが、件の秘法は捨てられた土からも金を取り出すものとか」
「妖術の様じゃ」
 猿楽の衆とは、大蔵太夫十郎信安のことである。勝沼大善寺の勧進能以来、大蔵太夫十郎信安一座はすっかり甲斐に腰を下ろした。甲斐を根城に諸国興業に勤しんでいた。そのとき興行先で聞いた話が長崎のことだった。田辺太郎左衛門はこの話が半信半疑だが、将来の産出量のためなら、人材育成は無駄でないという考えだった。
「長崎に送るなら、恰好な者が二人おります」
 田辺太郎左衛門が呟いた。
「こら、御館様は何も決していない。勝手を申すな」
 金丸筑前守虎義が窘めた。
 晴信はじっと田辺太郎左衛門を見た。
「恰好な者とは?」
「自身と見習い者なり」
「それは、いかん」
 田辺太郎左衛門が不在では、金山経営に支障が出るだろうと、晴信は窘めた。また、見習い者も僅か齢一〇では心許ない。
「されば然るべき者を伴わせて、見習いを派遣するというのはどうか」
 事実上、晴信は長崎行きを承知したのである。
「ただし、肥前長崎はどういう土地か?それが定かになることが、この話の前提となる」
 こののち齢一〇の見習い者が田辺太郎左衛門のもとで修練し、一五になった頃に、単身、隠密裏に長崎へと派遣された。このことにより、武田の金山は再生し、金の歳出領を増すこととなる。このとき修得した技を〈アマルガム法〉という。
 金丸虎義と田辺太郎左衛門、それに面会適わず控えていた見習い者の三人は、躑躅ヶ崎館を辞した。その馬出しのところで、一行は小山田弥五郎と擦れ違った。
「もしや、藤乙丸様?」
 見習い者が声を発した。
「ああ、やはり小山田の藤乙丸様だ。お変わりがないので、すぐに判りました」
「誰か?」
「私です。大蔵太夫が次男・藤十郎です」
「藤十郎?お前、あの藤十郎か?大きくなったな、幾つになった?」
「一〇です」
 金丸虎義が咳払いした。
 あっと、弥五郎は舌を出した。
「小山田弥五郎よ。御館様の近習なら、いま少し落着きを保たねばいかんな?」
「筑前守様の仰せ、ごもっとも。いや、この取り合わせに驚いてござる」
「ん?」
「五年前の大善寺勧進能。儂と藤十郎が一緒にいた折、お声を掛けて下されたのが筑前守様です」
「んんん、そんなこと、あったか?」
「ございました」
「一々覚えておらぬわ、あほう」
 弥五郎は大蔵藤十郎が猿楽の道を辞めて蔵前衆を志していることを、知らなかった。このとき、弥五郎は郡内への使いの帰りだった。二月に予定される大善寺彼岸供養の段取りを、弥三郎信有から確認してきたのである。武田家からも相応の援助をしなければならない。その規模を把握するため、晴信は弥五郎を派遣したのである。
 この彼岸供養は、先の勧進能興業により為した、大善寺本堂槍皮茸の屋根の修復の完成披露も兼ねていた。いわゆる〈本堂落慶大供養式典〉というべき大事業だ。天文九年と同一九年の勧進能は、すべてこのためのものである。そして、小山田弥三郎信有が先代に成り代わり、これの上席に参列するのは当然だった。何と云っても、五年前の勧進能成功の功労者は、先代・小山田出羽守信有である。武田家としても疎かには出来ない。
 報告の一切を終えた弥五郎に、晴信は労いを掛けた。
「楽しみにしている。儂もお忍びで参るので、弥五郎も同行せいよ」
「はい」
「この供養が終わったら、ひとつ頼みがあるのだ」
「如何な?」
「それは、楽しみにしとけし」
 晴信は悪戯な笑みを隠せなかった。
 大善寺彼岸供養の正式な月日は、記録から読み解くことは難しい。この行事が営まれたことは『天文二十四年九月五日付柏尾山造営勧進状案』より窺い知ることが出来る。高野山より導師を招き、盛大な落慶供養だったという。
 大善寺庭前には、数百流の幡が飾られた。衆僧は読誦七日、その間は経典の声が絶える事なし。そして、彼岸ゆえ村々の六斎念仏衆達が我先にと雲集し、鉦や太鼓を打ち鳴らして、踊り狂って歩いた。本堂秘仏も特別御開帳され、京都や田舎の商人が大勢集まり、寺の庭や門に至るまで市を成して賑わい、諸国から遊芸者も集まった。
 その賑わいは、物の例え様もなかった。
 さても勧進能再びと、誤解した者もいたのではあるまいか。その誤解さえ気にならぬ信仰の力とは、図らずも喜捨の力を以て経済効果を生んだ。漂白民が芸を興業することは、活気以外にも情報の売買も呼んだ。公界の民は上ナシゆえに誰憚りない存在だ。情報には偏りも遠慮すらない。
 五年前も賑やかだったが、それにも勝る活気が、あの狭い峡へと殺到したのである。
 晴信は夜のうちに勝沼信元館に渡り、払暁のうちに大善寺に入った。お忍びなどと云うが、その警護の多さは誰の目にも武田晴信参詣を露骨に周知させてしまう。
 ここで弥五郎は機転した。先のとき同様、印地を境内随所に配したのである。上ナシの彼らも、同じ血を引く弥五郎は同族同然だ。無理のない願いくらいは、安んじて耳を傾けた。信頼あってのことだった。
 この供養成功の後、改めて弥五郎は晴信より
「小田原へ、使いに参るべし」
と命じられた。同伴したのは、郡内より小林尾張守貞親である。
「弥五郎殿も、面持ちが大人になりましたな」
「なんの。武田家では学ぶことだらけよ」
 弥五郎の言葉は謙遜ではない。事実、晴信の近くにいれば、内政だけで済まぬことが多い。信濃は勿論、こうして相駿へと気を配る。外交を巧みにすれば合戦を避けて領国を増やし安泰をもたらした。武力は最後の手段だが、それを用いるためには、必勝の策を巡らせた上で調練万全としなければならない。その巧者だらけの只中で、どれだけの知恵を学び取れるか、近習同士の競合いも強いられた。
 春日源五郎などは、いまや信州小諸城代に立身している。衆道の贔屓目だけではない、彼も多くを学んでいたし、そうでなければ城を任される筈などない。近習とはそういう立身の機会を掴む最短の道だった。
 同輩は、すべてが競うべき相手なのである。
「それはそれで、躑躅ヶ崎のことは、我らの解らぬ厳しいところなのでしょうな」
「それは、お互いにな」
 弥五郎はそう云って笑った。
 小田原城への道は道志から津久井を経るもので、小山田の者というだけで些かの警戒が薄いことに弥五郎は気がついた。弥三郎信有の日頃の腐心の賜だろう。有難いことだ。
 小田原城に着くと、弥五郎はすんなりと北条氏康に会えることとなった。小林尾張守貞親を伴ったことは、こういうことに繋がるのだ。あらためて晴信の深慮遠謀に、弥五郎は舌を巻いた。
 弥五郎の差出した書状に、北条氏康は思わず吹き出した。
「そなた、なんと書いてあるか、知っていたのか?」
「いえ」
「だろうな。知っていたら、そんな面でいられまいよ」
 弥五郎は当惑した。
 氏康は傍らの近習に、急いで原美濃守虎胤を呼ぶよう申し付けた。原虎胤はすぐに参じた。小山田弥五郎を一瞥しただけで、言葉を発することなく座した。
「武田殿からの召還である」
 原虎胤の目覚ましい活躍を耳にするに至り、追放の浅慮を反省するゆえ甲斐に帰参するよう説得願うといった、晴信から氏康への懇願が、この文面だ。
「どうするか?美濃殿の好きにするがよろしい」
 原美濃守虎胤は躊躇わなかった。
「帰ります」
「随分と早い決断だな?」
「武田家で非を認めてくれるなら、情の残るところで老後を過ごしたい」
 簡潔にして理の通った物云いだ。
「北条には、情が残らぬか?」
「一七の歳から居着いた場所には勝てますまい」
「惜しいな。しかし、心を他国に置いている者を引き留めることは出来ぬ。さっそく支度するべし。この者等と一緒に帰るがよい」
「世話になり申した」
 素っ気ない遣り取りだ。
 氏康は引き留めもしないし、虎胤も未練がましい芝居もない。このことから、宗論よりの一連は、晴信と虎胤だけが胸の内に秘めた、相模内偵の間者仕事ではないかという声が北条家に湧き起こった。ぬけぬけと戻り悪びれぬ姿から、武田家でもそういう声が湧き起こった。
 真相は全く分からない。
 そうなのかも知れないし、そうではないのかも知れない。
 すべては、原美濃守虎胤のみ知ることだった。

 天文二四年。
 世の天皇は後奈良帝であり、室町将軍は一三代・足利義輝である。この年、改元が行われた。戦乱などの災異のためというのが、その理由だ。
 新しい年号は〈弘治〉という。改元の施行日は一〇月二三日。その僅か八日前まで、武田晴信は信州善光寺平の犀川を挟み、長尾景虎と二〇〇日に及ぶ対陣を行っていた。今川義元の仲裁で一時和睦となったとされる。世にこれを〈第二次川中島合戦〉という。
                        
                               つづく

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登場人物紹介

小山田信茂    

甲斐国郡内領主。武田二十四将。武田家を裏切ったと定説される文武の才に秀でた武将。

父・信有に嫌われて育つが、それは出自にまつわる秘密があった。

小山田弥三郎信有

小山田信茂と腹違いの兄弟。嫡流として小山田家を相続するが、のちに病没。ということになり、信茂を支える影の参謀となる。

武田信玄

甲斐国主。智謀に長けた戦国最強の武将。小山田信茂を高く評価し、その出自も含めて期待している。

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