第18話「皐月の長篠(一)」

文字数 5,239文字



皐月の長篠(一)


                  一


 天正三年(1575)一月、武田勝頼と宿老たちの理解の溝は深く、未だ埋まらない有り様だった。
 その間、徳川家康は奥三河に間者を送り、武田を恐れる人心掌握に尽していた。山家三方衆と呼ばれるこの土地の一族は、かつて将来を賭して信玄に与した。今、この地方を采配する山縣三郎右兵衛尉昌景は、信玄の内政外交合戦の全てを学び取った武田家の重臣である。この者と戦ってはいけないと思いつつ、その背後にいる勝頼という人間の器への疑問を、山家三方衆は須らく隠せずにいた。
 当然、彼らの〈こころ〉を知らぬ山縣昌景ではない。
 しかし、勝頼は目先の合戦にこだわり続け、水面下の駈引きを疎かにした。元を叩けば小勢力は従う、そんな程度の発想である。しかし、城を取っても人心を得られぬような成果は、およそ将たる者が目指すものではない。
 勝頼の思惟は猪武者そのものである。
 このことを諌める者は身辺に少なく、また、極めて稀なるその声を、側近たちが黙殺した。結果として、山家三方衆は勝頼の器を低く評価した。山家三方衆が勝頼に抱く疑問は、一族そのものの死活問題である。この地に暮らす者が、その将来を託すに足る将として選択する自由は当然のものだ。彼らは信玄と異なり、勝頼は絶対のものではないと見下した。
 直接接する山縣昌景は、器も大きい。
「奥三河の命運を頼むに値する人物」
ではある。が、彼は甲斐の国主でない。勝頼が理不尽な決定を発すれば、これに従わざるを得ない立場なのである。
 この状況が、徳川家康に味方した。
 将来の一族存亡を思えば
「損して得を取る」
ことを誰もが選択する。利するのは家康の誠意だった。
 長篠城が武田の手を離れたのは、天正元年九月八日のことである。武田逍遥軒の敗戦がきっかけであるが、それだけが理由ではない。勝頼の自覚はないが、やはり全ての起因は、武田家当主の、誠意の有無だった。
「高天神も落せた。長篠も、造作ない」
 たかが山城。
 そう侮る勝頼は、力攻めで長篠城を落とすことを主張した。力攻めで落とせるとも豪語した。ただ、武田から反する覚悟を決めた時点で、彼らの腹は定まっていた。ここは最前線の敵地となる以上、きっと長篠城に、武田勢は襲来する。そのことを想定するのは自然な流れではあるまいか。彼らだけではない、家康も、信長も、せっかく武田から離れたこの長篠城が、簡単に落ちぬ工夫をこのとき考えていた。
 徳川の手で、長篠城は短期間のうちに大改修された。一山城ではなく、一己の堅固なる要塞へと、長篠城は変わっていたのだ。そのことを、勝頼はまだ知らない。このような情報すら得られない程に、武田の諜報機関は、その機能を停滞していた。
 理由は簡単だ。
 銭、である。
 信玄は諜報活動を重んじた。それは、合戦以上の戦果をもたらすことを、信玄はよくよく知っていたからである。諸国御使衆を全国に潜伏させ、その活動を円滑とする。そのための資金援助を信玄は惜しまなかった。この経済支援があるからこそ、いかなる情報も疾風のように、信玄の耳へと達した。
 信玄の死後、その支援が滞った。
 この極秘の組織を知る者は限られている。彼らの声を遮り、勝頼の望む軍費優先の意志を尊重したのは長坂釣閑斎だ。困窮した諸国御使衆は在野にあるから、表の生業に精を出す羽目になる。食わねば、いざというときに働けない。情報の収集を二の次とした彼らは、本来の諜報機関としての実力を失っていた。
「諜報に資金を惜しむことなかれ。先代様が気を配った点にござる」
 山縣昌景は直接諌言した。
 そのことが、勝頼には耳障りだった。だからだろうか。
「三郎右兵衛尉に内々の頼みがある」
「は」
「高野山へ行って参れ」
「はぁ?」
「今年は先代様の三回忌にあたる。その前に高野山成慶院へ参詣し、先代様の位牌を奉納するのじゃ。本来ならば儂が行きたいが、それも適わぬ。よって、それなりの者を差し向けねばならぬのだ。頼む」
「今このときに、行かねばならぬものか?」
「ならぬものじゃ」
 山縣昌景は奥三河から目が離せぬと食い下がり、高野山には御親類衆の然るべき者を差し向けるべしと訴えた。しかし、勝頼は聞き入れようとしなかった。こうなったからには、一日も早く用向きを済ませてしまうに限る。さりとて一言で云う程に、この行程は安泰なものではない。
「無心これあり」
「なにか」
「表向きは当方のみとし、内々に小山田兵衛尉(信茂)を同行したい」
「なぜ」
「兵衛尉は伊勢龍大夫とも親しく、高野山に登ったこともある。見知る者も多く、顔が広いことは何事においても都合がよろしい」
 勝頼は考えることなく同意した。煩い者を遠ざけるためなら。多少のことは聞き届けたかった。
「ならば、これにて」
「任せる」
 山縣昌景は直ちに屋敷に戻ると、随行する世話役の選抜をして、彼らに身支度を急ぐよう命じた。そのうえで、自ら小山田屋敷に足を運んだ。このとき小山田信茂が府中にいたのは幸いだった。
「弥五郎、当代の許可を得た。一緒に高野山へ行って欲しい」
 顔を見るなり、昌景はそう継いだ。
「なんですか、いったい」
「一刻も早く、行って戻りたい。奥三河の情勢は予断を許さぬ」
 呆れたように、信茂は笑った。
「なぜ笑うのか」
と、山縣昌景は渋い顔で睨んだ。
「当代様は、奥三河が徳川に盗られても惜しくないのだな。世間知らずもここまで来れば笑い話ずら」
「いや、笑い事ではねえし」
「そうじゃ。笑いごとにしたらいかん」
 いつしか信茂の表情から笑みが消えていた。
「急ぐなら、ひとまず清水より海路で伊勢へ向かうずら。これならかなり早く動ける。奥三河へは心利きたる宿老を差向け、決して徳川へ靡かぬよう努めるべしと、再度当代様へ諌言あるべし」
「聞く耳は、持たぬだろうよ」
「云わぬよりはよろしい」
 山縣昌景が辞してのち、信茂は小山田弾正有誠に高野山行きのことを告げた。隠密を要すため、他言無用と釘を刺した。表向きは真田への軍令で信州へ行くことにして、留守を託した。小山田家重鎮である小山田有誠は、この異常な命令に不服を漏らした。
「我が家には、大老名殿がいるからな。だからこそ、当家はどっしりしていられる」
「何を申す」
 仏頂面に薄笑いを浮かべて、小山田有誠は頷いた。信茂が褒めると、ついその気にさせられる。実に得な気質だ。その陽性は、紛れもなく天性である。勝頼には不服だが、信茂がやることならば、仕方がない。
「人の噂では戦さも近いとか。早くお帰りあれ」
「そうする」
 翌朝、山縣昌景の従者に紛れて、信茂は富士川沿いに南下した。途中から舟に乗り、駿河国境まで一気に下った。そこからは馬を用いて、まる一日で清水城に至った。そこから伊勢までは、海路となる。


                  二


 信玄時代に編成された武田水軍を〈海賊衆〉という。旧今川水軍をそのまま登用しつつ、更には伊勢や北条からの海将を引き抜いていた。海を知り尽くした漢による、本格的な水軍といってもよい。戦歴の稀少から、後世、武田水軍は実績もなく無為な刻を過ごしたように評価される。
が、それは一側面に過ぎない。
 軍兵が平素百姓であるように、海将は交易の一助を為して日々海を学んでいる。こういうことは記録に残らないものだ。現に海の雄である安房の里見水軍とて、平素の記録は全くない。里見水軍がそれならば、歴史の浅い武田水軍の記録が薄いのも道理だろう。
 清水城は湊も兼ねている。そこから伊勢への海路はおよそ二日。伊勢龍大夫は報せもなく現れた山縣昌景に驚いた。
「なんと、弥五郎殿まで」
 高野山行きを望む山縣昌景を、伊勢龍大夫は制した。
「伊勢方面は山中が不穏ですわ。武田なら本願寺と懇意ゆえ、そちらから行くのがええ。紀ノ川一帯は雑賀衆で守られておる」
「遠回りだな」
「命取りよりは、ましぞ」
 道理だ。
 それとは別に、伊勢龍大夫は寄進が滞っていることを明かした。勝頼はそれすら出し渋っているのだ。
「なんてことだ」
 山縣昌景も小山田信茂も、顔を赤くした。なんという失態だろう。
「亡き清順殿に、これでは顔向けが出来ぬ。戻ったらその金子は一先ず郡内より捻出しよう。申し訳ない」
「弥五郎殿を信頼するからこそ、正直に伝えた」
「かたじけない」
「それにしても、当代になってからの武田の風聞は、余りよいものではないな」
 伊勢龍大夫の言葉は、世間の情報そのものだ。
 二人とも真摯に受け止めた。勝ちすぎる大将は、逆向けに倒れるのが世の常だ。勝頼はその岐路にある。伊勢龍大夫はやんわりと忠告をしてくれているのだ。
「厚情、感謝する」
 信茂は頭を下げた。
 紀伊半島の迂回は、海流の難所である。旧伊勢水軍の者も尻込みする海域だ。大きく膨らむと、本願寺領までは三日を要するだろう。しかし命あってのものならば、仕方がない。本願寺のある石山へ着いたのは、海流の関係で四日後になった。高屋城の戦いを制した本願寺は、信長なにするものぞの気風に満ち溢れていた。
「よう来たな。世に聞こえ高い山縣三郎右兵衛尉殿がお越しでや」
 本願寺門主・顕如光佐は、舟を快く迎え入れた。
「高野山へ、先代様の供養をと仰せにて」
 山縣昌景の言葉に、顕如は頷いた。すぐに道中の手配を指図した。雑賀衆・根来衆と友好関係にある本願寺である。高野山までは安全が確保されていた。道中の水先案内を務めたのは、顕如の軍師と目される下間頼龍だ。下間頼龍は大蔵藤十郎が精錬技術を習得するため長崎へ赴いたときに、世話をしたことがある。武田に好意的な人物だ。
「儂は、あの藤十郎が小さいときから知り合いずら」
 信茂の言葉に、寡黙そうな下間頼龍の頬が緩んだ。藤十郎は余程気に入られているのだろう。
「儂はあの者が好きでな。いい仕事をする男は、世に至福をもたらす。よい折ゆえ、甲斐に戻ったら伝えてくれ。藤十郎殿に娘をあげたい、もらってやってくれとな」
 高野山の使いなのに、祝言の使いを頼まれるとは。
「弥五郎と一緒だと、なぜか面白いことに巻き込まれるずら」
 山縣昌景も愉快そうに笑った。
 一行が高野山成慶院に着いたのは三月。持参した位牌を成慶院は受領した。これは日牌として毎日供養されることとなる。成慶院には絵師・長谷川等伯の描いた信玄肖像が既に奉納されていた。もともと朝倉・足利・本願寺による信長包囲網に信玄を加えるための機嫌取りのため、当時無名だった等伯に描かせたものだ。
「あまり、似ておらぬな」
 つい山縣昌景は呟いた。
「そう云われるな。顔も見ずに描いたのじゃ。仕方あるまい」
 下間頼龍の物云いはもっともなことだ。
 とまれ、用向きは済んだ。三月六日、一行は急ぎ本願寺へ向かった。途中、馬を駆り、八日には石山へ戻った。顕如は上機嫌で土産を持たせた。
「ところで、四郎殿は家督継承者でよいのか?」
「左様で」
「聞けば孫子の軍旗も許されず、従来の旗を用いておると」
「それは偽りにて、当代様は武田の棟梁にござる」
「ならば、ええ」
 顕如の疑問も、世の風聞だ。武田への関心は未だ高い。なんとしても良き形に立て直さなければいけないと、信茂は考えた。
 舟は伊勢を経由して、清水へ向かった。
 山縣昌景は平気だが、従者たちは舟酔いに悩まされた。このたび従ったのは曲淵庄左衛門・広瀬郷右衛門・辻弥兵衛といった、山縣勢生抜きの荒くれである。それらが悉く舟に酔った。
「こんだあ舟に乗るめぇ(前)に、さかっくれえ(酒飲み)すんずら。先に酔っていりゃあ、舟酔いじゃあねえだぁ」
 悔しまぎれに叫ぶ曲淵庄左衛門の悲鳴じみた言葉に、山縣昌景は大笑いした。
 帰国後、小山田信茂は土屋右衛門尉昌続を訪ね、下間頼龍の言葉を告げた。土屋新之丞がこれを取次ぎ、蔵前衆組頭・田辺太郎左衛門に直接伝えた。田辺太郎左衛門は大いに喜び、時期が来たらそうさせると請け負った。大蔵藤十郎が下間頼龍の娘を妻に迎えるのは、翌年のことである。

 四月一二日、躑躅ヶ崎館において信玄の三回忌が営まれた。
 勝頼はその席で、奥三河平定を公言した。このことについて、誰の異論はない。問題は、どういう行動を起こすかである。財政面から温存策を叫ぶ声も大きく、さすがに勝頼側近衆も、これを無視できない現実を感じていた。
「長篠城の奪回である」
 勝頼のその言葉は、拠点確保の上でもっともなものだ。
 御親類衆もこれに反論はない。
「動員の見積は?」
 穴山信君の問いに、一万七千だと跡部勝資が口添えした。上杉に備えた春日弾正忠虎綱を中心とした勢力、東美濃を固める秋山信友に関連する者、北条を伺う駿河衆を除く広域から徴する編成という案に、ひとまず道理だと信君は頷いた。そのときは、あくまでも長篠城奪回だけの出陣だと、誰もが信じた。
 が。
 勝頼はこのとき、大事なことを隠していたのである。
                                つづく
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登場人物紹介

小山田信茂    

甲斐国郡内領主。武田二十四将。武田家を裏切ったと定説される文武の才に秀でた武将。

父・信有に嫌われて育つが、それは出自にまつわる秘密があった。

小山田弥三郎信有

小山田信茂と腹違いの兄弟。嫡流として小山田家を相続するが、のちに病没。ということになり、信茂を支える影の参謀となる。

武田信玄

甲斐国主。智謀に長けた戦国最強の武将。小山田信茂を高く評価し、その出自も含めて期待している。

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