第6話「川中島血戦(後)」

文字数 23,620文字

  川中島血戦(後)

                  一


 八月一四日。
 上杉政虎は善光寺平へ向けて軍勢を発した。越後に入った素波は、軒猿の追っ手をかわして、次々に割ヶ嶽城へと駆け込んだ。
「越軍、出陣!」
 その報せは矢継ぎ早に、割ヶ嶽城から海津城へと早馬で報された。春日弾正忠虎綱は城内狼煙台にて、このことを表示した。
「正確な情報が欲しい」
 春日虎綱は斥候を差し向けた。越後国境近くまで踏み込んだ斥候は、彼方の土煙を稜線に認めた。更に越後より戻った素波が、上杉勢の編制を確認してきた。
 情報は、ただちに春日虎綱へもたらされた。
「越後勢は三隊にて、柿崎和泉守の先陣・長尾弾正の本隊・後陣は村上周防守等信濃勢。本隊は倉持峠より向かい、先陣は北国街道を直進なり」
 春日虎綱は腕組みし、小山田備中守虎満をみた。
「明日には、善光寺平に至るかも知れぬ。海津城の備えを固めるべし」
「相解った」
 松代の百姓には刈り取ったばかりの米を城へ運ぶよう命じた。ここにあれば、陥落しない限り略奪されることはない。米を運び入れると、百姓たちには急いで山へ身を潜めるよう沙汰された。
 一五日になると、上杉勢の移動状況がすべて把握された。その動きを図面に書き留めると、小山田虎満は春日虎綱を仰ぎ見た。
「弾正殿、甲斐へ報せたし」
「応」
 春日虎綱は海津城内に設置された狼煙台へ合図の命令を発した。着色加工のされた狼煙が二条、秋空へ向け、するすると登っていった。
 海津城を見下ろす位置にある尼巌城は、これを視認すると、急ぎ奇妙山の狼煙台でこれを中継した。この狼煙網は綿密で、二重三重に伝達を拡大しながら、途切れることなく、まるで競うように甲斐へと突き進んだ。海津城から発した一刻(およそ2時間)ののちには若神子城・獅子吼城へと至り、湯村山城の狼煙台が最後の伝達を受けた。この報せは馬にて、ただちに躑躅ヶ崎へもたらされた。
 この日の午刻過ぎ、信玄は越後勢の動向を知った。
 太鼓や法螺貝の音が響いた。軍勢招集の合図である。早い者は躑躅ヶ崎の屋敷へ兵馬を揃えて待機していたし、そうでない者も在所にて準備は整えていた。続々と府中へ軍勢が参集してきた。
 上杉政虎が関東にいる頃から、この出陣は想定のなかにある。兵役に取られる百姓たちは、繁忙期のうちに生産に勤しみ、士卒は調練に明け暮れていた。越後勢の強さは、誰もが知っている。しかし、信玄への信頼が、それへの恐怖に勝っていた。
 信玄は甲斐譜代を信頼し、そのために便宜も惜しまなかった。
 その答えが、これである。
 それほどまでに、信濃先方衆を信用し切れなかったし、その空気は前線にも漂っていた。前線で奮闘する譜代や子飼、それに古参は、その意を痛いほど汲み、自らの役割を充分に自覚していた。
 川中島へ至る武田の戦いには、こういう不安要素が重く凝り固まっていた。
 翌朝、主立った重臣が軍議の評定へと参じてきた。この席に限り、小山田弥三郎信有が参加した。信濃に腰を下ろして合流を待つ譜代以外は、おおよそこの評定の場にいた。
「軍勢の参集状況はどうか?」
 信玄の問いに
「河内と荻原と郡内の兵が未着」
であることを義信が告げた。兵が集まる前に、信玄は府中出陣を一八日と断じた。兵糧荷駄はまだ補給を終えていない。これを充実させることが全てだった。
「北条から援兵が来るという報せですが」
 弥三郎信有が言を発した。
「郡内与力にするべし」
「は」
「今川からも援軍がくる由」
 穴山信君が差し挟んだ。
「河内勢与力とするべし」
「は」
 信玄は海津城攻防が今度の戦さの要だろうと睨んでいた。越後勢にとって、海津城の存在は、それほどまでに目障りな存在である。
「海津城を包囲する長尾弾正の背後を突く策を練る。小田原の厭戦を思い出せば、当方有利に事は運ぶものなり」
 越後勢は恐らく千曲川対岸に布陣するだろう。一方に退き口を開けておけば、自然と瓦解するに違いない。
「気になるのは、大堀館・広田砦・横田城である」
 信玄の示唆する三つの砦は、川中島の只中にあるもので、海津城に比べれば堅固な縄張ではない。これが陥落すれば、越後勢の退路を防ぐことが困難になる。ましてや寝返りなどあっては、それこそ命取りだ。
「献策これあり」
 武田典厩信繁が進み出た。
「大堀の町田兵庫(正之)、広田砦の大日方佐渡守(直長)、横田城の原大隅守(虎吉)。もしも越後に転がれば、海津城が中間に孤立するは必定。ゆえに当方が駆けつけた折には、然るべき兵を入城させることが肝要なり」
 信玄は呻った。
「誰を入れると?」
「今は時期尚早です。上田辺りに至るまで、情報を精査したうえで定めても遅くはないものかと」
「相解った」
 出陣前の情報次第では、策は色々と変化する。臨機応変に対処するためにも、過ぎた決めつけは禁物だった。
 出陣は一八日と決した。
 佐久方面からの兵糧物資は、若神子城へ運ばれることとなっている。この采配は、武田信繁と山本入道道鬼斎が担っていた。
「弥三郎」
「典厩様、何事」
「大石と三田、その後はどうか。何か掴んでいるか?」
「加藤駿河守殿の話では、未だなにも」
「北条はこれら寝返り者へきっと報復するだろう。深入りして妙な風向きにならぬよう、心して当たるべし」
「はい」
 つと、諸角豊後守虎定が耳打ちした。
「典厩様も甘い。小山田は当主が不在などと、御館様を蔑ろにしているのではあるまいか」
「爺、気にするな」
「しかし」
「誰彼という事はあるが、国境筋に備える必要はあるのだよ」
「はあ」
「その代わりに、弥五郎が上手くやるだろう」
 信繁は郡内勢に弥五郎が加わることを楽しみにしていた。武田家近習となって一一年、そろそろ独り立ちのきっかけを与える時期でもあった。その眼鏡に適う働きとなるか、否か、すべては弥五郎の器量ひとつだった。


                  二


 八月一八日、武田勢は府中を発った。
 途中、若神子城にて、兵糧荷駄が合流した。その前日、上杉勢が奇抜な布陣をしたという早馬があった。さる一六日、海津城を囲む素振りをみせた上杉勢は、そののち斎場山へ移ったという。
斎場山は西条山とも呼ばれ、後世史書においては妻女山とも記す。『甲陽軍鑑』の記載は〈西條山〉とある。ただし西条山とは、狼煙山とも呼ばれる武田の砦で、これは善光寺平より離れてしまう異なる要衝だ。本編は学術書でもなく、また新説を生むほどの知識や研究もないことから、ほぼ定説に従い、上杉政虎が〈妻女山〉に布陣したこととする。
「妻女山……」
 一報を受け取った信玄は、腕組み思案した。
 常識ではありえない布陣だ。自ら退路を断ち、信玄を誘っているのである。となれば、政虎は是が非でも信玄の御級を討つ覚悟だと判る。
 もし信玄を討てば、北信濃は軍門に下る。さすれば労せずに、関東諸豪族も上杉に靡くだろう。
(奴の都合のために討たれてやる筋合いなどないわ)
 かつて山本入道道鬼斎は、決着を急ぐなと進言した。
 激突すれば双方無傷で済まぬ。
(誘いには乗るまい)
 これが、信玄の腹積もりだった。

 若神子からは棒道で諏訪方面に向かった。途中、信玄は近習のひとりである一五歳の武藤喜兵衛を召し出し
「諏訪の四郎が参陣を望んでいるという報せがある。供する秋山善右衛門尉に別して云い含める所存じゃが、今度の参陣は罷り成らぬ由。その旨、先に伝えて参れ」
「は。四郎様は何処へ」
「はや上原城に入ったと聞く」
「されば」
 武藤喜兵衛は七歳より府中に留め置き教育する、真田一徳斎の三男である。信濃先方衆への不信とは別に、信玄は子飼の輩だけは温かく接した。こういう芽が、いつか武田を大事にする在地の要となる。特に武藤喜兵衛には、特に目を掛けていた。武藤姓は母方の甲斐豪族で、この名跡を継がせたことからも、信玄の信頼が垣間見える。
 のちに信玄は曾根昌世ともども
「我が両目」
と称し、武藤喜兵衛を重く用いた。後世〈小信玄〉と恐れられた知将・真田昌幸の、若き日の姿である。
 信玄は追って山本入道道鬼斎を招いた。馬主を並べながら、四郎の諏訪留守居の念押しを頼むとともに、付臣である伊那郡代・秋山善右衛門尉虎繁には
「長尾弾正のことだ。美濃の勢に南信濃を侵せと云い含めている恐れがある。木曾の寝返りに警戒しつつ、備えるよう申し伝えるべし」
「四郎様は初陣を楽しみにしておられたことでしょうな」
「万が一じゃ」
「御級を差し上げるお覚悟で?」
「馬鹿を申せ。万が一のことを云っておる。今度の戦さに初陣の小僧は足手まといずら」
 それは正しい見方だ。四郎は邪魔でしかない。
「されば、申し伝えて参ります」
「先に大門峠へ向かっておるぞ」
「は」
 山本入道道鬼斎の言葉は、妙に説得力がある。きっと渋る四郎も引き下がることだろう。
 軍勢はこののち、大門峠を経て上田へと向かった。その動きに併せて深志城の馬場隊も猿ヶ馬場峠を越え、両軍は屋代で合流した。ここから妻女山が遠望できる。
(あのような小山に籠もっても、尼巌城からは丸見えじゃわ)
 さて、どうするか。
 迂闊に近づいたところで、高い位置取りにいる政虎が有利だ。まず距離を置きながら、出方を見るよりない。信玄は敢えて千曲川を雨宮渡から渡って、対岸に身を置いた。
「どうだ」
 信玄の声が聞こえたようで、上杉政虎は忌々しく頭を振った。信濃の豪族からは、信玄は地蔵峠から真直ぐ海津城へ至るという情報を得ていた。妻女山布陣は、ある意味、そこを急襲するためのものだった。
 が、信濃の豪族は嘘を云ってない。恐らく信玄が臨機応変に采配したのだろう。信玄は茶臼山に布陣し、兵を千曲川沿いに配した。越後勢を完全に封鎖したのである。このとき妻女山にいる兵は八〇〇〇、残り五〇〇〇は善光寺に陣を置いている。
「やりおる」
 政虎はなぜか嬉しそうな表情だ。
 もしも政虎が活路を見出すならば、善光寺の兵を用い、武田勢を背後から攻めることになる。ある意味、信玄もそれを待った。上杉政虎との直接対決よりも、こちらとの小競り合いで、今回も片付けたいのが本音だった。
 茶臼山に布陣した信玄は、善光寺方面の動きを探らせた。
「敵は動く気配がございません」
 その報告に、信玄は眉を動かした。
 政虎の戦術は常軌を逸している。狂人にも等しい。ただただ信玄の御級のみに固執する、尋常為らざる采配だった。迂闊に関わるまい、信玄は口中で二度呟いた。
「喜兵衛、これへ」
 ふと、信玄は茶臼山より見下ろした光景に、近習・武藤喜兵衛を招いた。
「茶臼山の麓は、まだ刈取りを終えていない田があるな」
「あれは蔵の米かと」
 信玄は思い出した。麓の今井には、酒蔵がある。そうか、その米か。
「越後勢が乱取りに及べば、蔵の米とて奪われよう。早々に刈取るよう申し触れるがいいずら。お前(まん)、云って聞かせるべし」
「は」
 今井の酒蔵はこの地にて、天文九年に創業を開始した。以来二一年、信濃の治世は大きく揺らぎ、為政者もたびたび移り変わった。信玄が治世を預かったとて、こうして越後より招かれざる敵を迎えてしまう。それでもこの蔵は、研鑽を怠らなかった。信玄からの提言に頷いた蔵の主が、荷駄を従え武藤喜兵衛とともに茶臼山に来たのは、一刻余のことだった。
「武田様の仰せに従い、早々のうちに刈取ります。これは新しく醸したものにて、お納めさせて頂きます」
 荷駄には三斗の酒が積まれていた。
「心遣い、感謝する」
 信玄は碁石金を一掬いし、手ずから蔵主に授けた。
「これからも、よい酒をのう?」
「心得てございます」
 当時の酒は、現代の概念から強いて云えば、濁酒のようなものだ。味醂のようにこってりとしたものだったという記述すら見受けられる。大量生産が可能となるのは、更に時代を下ってからのことだろう。
 天文二一年、宣教師フランシスコ・ザビエルは報告書のなかに
「酒は米より造れるが、そのほかに酒なく、その量は少なくして価は高し」
と記している。西洋南蛮の感性からいえば、果実酒以外は驚きの対象だっただろう。とまれ如何な戦国武将とて、滅多に味わうことのない貴重品のひとつが、酒であったのである。

 定説による川中島合戦は、江戸時代に編纂された『甲陽軍鑑』を基礎とし、以来現代に至るまで様々な亜流史書が、多くはそれを模したに過ぎない。『甲陽軍鑑』の影響力は大きく、真偽も定かならぬ事蹟をも包括し、なお研究の余地が深い。様々な観点から俯瞰すれば、数字的や物量的に、『甲陽軍鑑』の記す川中島合戦を否定する赴きもある。無論、娯楽の見知で申せば肯定も多い。
 江戸時代は戦さの知らぬ侍の時代だ。しかも戦国時代にはない〈儒教〉の思想もある。史書に対する観念は異なるだろう。現代もまた然りだ。
 この作品は小説である。乱暴にいえば娯楽の散文に過ぎず、学術書でも研究論文でもない。
眦上げて糺弾の的となる謂われはないが、それでも世上では批判の種とされることも鷹揚としてあり得る。その覚悟のうえで、これよりは夢酔流の解釈にて、川中島を綴ろうと存ずる。
 批判は、敢えて甘んじて被りたい。

 永禄四年八月二四日、茶臼山に布陣した信玄は、妻女山から微塵の動きさえ示さぬ上杉政虎をじっと見据えた。
 上杉政虎はまともではないと、信玄は感じていた。ただひとつ、信玄の御級だけを望み、無謀な布陣を試みつつも兵に動揺さえ与えず、平然と機を待っている。
 戦国大名とは、一国の主であり経営者そのものだ。
 部下の危険を顧みぬどころか、自らをも最前線に身を置くなど、為政者としてあるまじき行為である。合理主義者の武田信玄には、その蛮勇が信じがたい。総大将が決戦を挑むことなど、古典の逸話で充分だ。大将とは、常に臆病で丁度いい。大将が討たれれば、その国はどうなるか。後継者と家臣がそれを受け継げるなら、それでいい。しかし、悪しき見本が駿河にはある。家中に分裂傾向を孕みながら、引締め策である尾張侵攻すら行わない今川氏真。出来ぬのか、やらぬのか、そのどちらを考えても詮なきこと。
 結果だけが人の評価に繋がる。
 越後には後継者がいるのか。いなければ、家臣は路頭に迷うだろう。近隣の餌食となるは必定。そのことを顧みぬなら、上杉政虎の人物も知れる。
 信玄とて、死に方くらい選びたい。
 討ち死には御免だ。
 同陣している以上、嫡男の義信さえ危うい。諏訪に置いてきた四郎も武田の後継者ではない。そして、信濃の豪族は信頼できぬ。決戦などという甘美な言葉を口に出せるほど、信玄は夢想家ではなかった。
「御親類衆を集めるべし。それと、譜代と勘助も。あとは寄せるな」
 茶臼山本陣で行われた最初の軍議。信玄は信濃先方衆をこれに加えなかった。
 この状況を変だと思う者はまだいない。これは信玄ならではの密謀であり、いつかは自分たちの出番がくるものと思う者や、甲越天秤に徹し損耗を憂う者、とにかくこのときの信濃先方衆は、建前上の位置を維持しようと誰もが考えていた。
「信濃先方衆で、ここに出兵している主な者は誰か」
 信玄の問いに、飯富兵部少輔虎昌が小声で
「真田一徳斎、相木市兵衛、芦田四郎左衛門それから室賀入道に、保科弾正」
 頷きながら、信玄は小声で
「うち真田と室賀は、長尾弾正に太刀を贈った者ゆえ、格別に警戒せねばいかんずら」
と呟いた。
「それがしは塩田を預かっており、信濃先方衆の気持も少しは考えるところがございます」
 飯富虎昌の意見は同情的に響く。
「小国の者は、大国を渡り泳がねば生きられぬことくらい承知している。そのことは長尾弾正が小田原を攻めたことで、色々と見えた」
「仰せのとおり」
「飯富兵部にも考えはあろう。されど、毅然と武田の為に振る舞えぬ者は、風向きで変節する。断じて信濃は安定せぬ」
「しかし」
「この戦さで武田に附くなら、能書きではなく態度で示すべし」
「されば……」
「去るなら別して滅ぼすべし。その篩を掛けるまで。いくら数ばかり揃えたところで、頼りとなるはここにいる諸将のみと思し召せ」
 戦場の場で、ここまで不信感を露わとする信玄は初めてだ。それほどまでに、事態は由々しきことなのだろう。
「長尾弾正を干乾しにするも一興だが、今度の戦さに刻を要したくない。まずは妻女山を囲む山城すべてで昼夜鬨の声を挙げて心を揺さぶるべし」
 定説では妻女山の背後にあるのは、尼巌城くらいと認識される。しかし、盆地平城である海津城が孤立しないよう、更なる砦規模の山城が無数に配されていることを知る者は少ない。成る程、妻女山からは眼下半里に海津城を見下ろすことが出来る。しかし妻女山もまた、多くの砦城から丸見えなのだ。
 最も近い高所である天城城、ついで鞍骨城である。これらは尾根伝いに妻女山へ至る城だ。信濃衆が城代をしている。
 これに鬨の声を命じた。
 反応はすぐにあった。越後勢は尾根伝いにまず天城城を攻め立てた。天城城は戦わずして逃散した。手狭な越後勢は、こうして妻女山より先の広い空間を手に入れた。これをみて、信玄は益々信濃衆への不審を確信した。
 これより五日間、信玄は茶臼山を動かなかった。
「お命じ下されば、善光寺の越後勢を討ちます」
 真田一徳斎が具申してきた。しかし信玄は取り合おうとはしなかった。真田勢が善光寺で越後勢に合流したら、今度は茶臼山が孤立の死地となる。
 この頃になると、如何に真田幸隆とて、信玄の不審に対し気付かぬ筈はない。武藤喜兵衛を呼び出し、どういうことかと質した。武藤喜兵衛は躊躇いもなく、その理由を答えた。永禄二年一一月一三日の〈御太刀持参之衆〉の一件を、信玄はすべて知っている。関東豪族が政虎に寝返ったように、信濃先方衆が寝返ることを懸念しているのだ。
「馬鹿な」
 まさかあのときの事を、信玄がすべて知っていたのか。
「それを理由に不審を抱かれておいでか」
「はい」
 真田一徳斎は驚きで言葉もなかった。このままでは信頼がないまま、取り返しのつかぬことになる。確かに二枚舌な外交をしたし、それがあのときの最善と信じて、信濃衆は結束し行動したのだ。
 真田家の今があるのは、すべて信玄のおかげだ。越後へ裏切るつもりなど毛頭ない。それだけは真実だった。
「茶臼山で御親類衆を集めた際、御館様はこうもおっしゃったそうです。武田に附くなら態度で示すべし。去るなら別して滅ぼすべし。その篩を掛けるまで。このことは道鬼様も知っている筈です」
「勘助か!」
 ここまでこじれた以上は、一刻も早く誤解を解くべきだ。山本入道道鬼斎に仲裁を頼むことが近道かも知れない。真田一徳斎は内々に山本入道道鬼斎を訊ね、信玄の誤解を解く仲裁を依願した。
「何か結果を出せませぬか?」
 山本入道道鬼斎の一言に、すべてが籠められていた。疑念を払拭する働きがあれば、信玄も心を改める。とは申せ、簡単に糸口など見つかるものではない。
「村上周防守に対する動向を探り、それに備える行動の裁可なら、如何?」
 その言葉に、真田一徳斎も膝を叩いた。村上義清ならば真田の仇敵、相容れぬ余地が寸分もないのだ。これを絡めた越後勢の情報収集なら、独断で適う。その情報に基づく献策をすれば、或いは信玄との溝が埋まるかも知れない。
 山本入道道鬼斎はこのことを、そっと信玄に耳打ちした。
「真田だけではねえら。信濃衆を総じて疑っている」
 信玄は頑なだ。
「生きるためには、謀もございましょうに」
「意味なき権威が儂よりも勝った。そのことが許し難い」
「しかし、こうして武田に与していることは、間違いないことです」
 頑なすぎることは、時として悪しき結果となる。
 山本入道道鬼斎は暗に訴えていた。そのことくらいは、信玄とて承知の上だ。その落とし処として、村上義清のことを持ち出した山本入道道鬼斎は流石と云える。これなら真田の立場は、白黒はっきりとする。疑いなく信玄も納得するだろう。
「勘助、御苦労じゃったな」
「は」
 この陣中、もう〈呼ばれ名〉を正すことも面倒な山本入道道鬼斎だった。

 八月二九日、信玄は茶臼山を引き払い、海津城へと向かった。わざわざ迂回するように広瀬渡で千曲川を渡河している。一見、善光寺に攻めるかと誤解した上杉政虎が動くかと思われたが、相変わらず静観していた。
「気味が悪いな」
 誰云うとなく、信玄はそう呟いた。
 渡河の行軍は大堀館と広田砦の真ん中を通過した。このとき信玄は、双方の要衝へ人材を配した。これは甲斐出陣前に協議した、武田典厩信繁の言によるものだ。大堀館に諸角豊後守虎定、広田砦には初鹿野源五郎忠次と山本入道道鬼斎が入った。横田城の原大隅守虎吉は信玄の本隊に引き抜かれ、代わりに三枝新十郎守直・油川彦三郎等が入城した。これで海津城を包括する、千曲川を挟んだ八幡原全体の勢力圏を確保した。
 善光寺の敵が南下すれば、どれかの城が合図を示し、その援軍に向かう。妻女山の敵が動いても同様だ。この配置を完了させた信玄は、海津城にてようやく春日虎綱と会い、労った。
 状況は進展がない。
 それでも徐々に包囲の輪を絞めるのは、信玄の側だった。越後勢は焦りを示し始めた。ただ一人、上杉政虎だけは平然とし、この戦さの駆け引きを楽しんでいる風だった。


                  三

 
 膠着はその後、八日続いた。
 その間、上杉勢が夜陰に乗じて妻女山から下り、麓で乱取りを始めたという報せが届いた。先に海津城へ蓄えているから、せいぜい百姓家の微々たる糧を奪う程度である。が、それ程までに軍律が乱れ、兵が飢えている証といえた。
 九月七日。秋の終わりを告げる、冷たい雨が降っていた。この日も、雨のなかを越後勢の足軽五名が、ただ糧を求めて彷徨っていた。そこを、真田の素波三名が急襲し討ち取った。その身包みを剥がすと、善光寺に滞在する部隊への結び文が見つかった。
 素波はただちに真田一徳斎へ報せ、これを介して信玄に届けられた。
 海津城では、この結び文が波紋となった。
「厭戦気運につき、数日中に陣払いしたいとあるが、信じていいのか?」
 馬場民部少輔信房が訝しそうに呟いた。伝令の軒猿ではなく、飢えた足軽がこれを所持していたことが問題だった。
 そもそも、誰が書いた文だ。上杉政虎か、その目を盗んだ家臣か。
「越後勢が動くのかどうか。そこを考えるべきでは?」
 春日虎綱の指摘がすべてだった。これが野戦への誘いならば、動くべきではない。更に云うと、信濃先方衆である真田からの情報だという点が大きい。よもや罠かと、危惧する譜代も少なからずいた。
「それは、ないでしょう」
 緊迫する場に不釣り合いな、明るい声が響いた。小山田弥五郎だ。
「真田の素波が討った越後兵。郡内の素波が腹を割いて確認しましたが、奴らは胃の腑が空です。五人とも、空腹でした」
 信玄は弥五郎を睨み
「儂はお前に郡内勢の軍監をやれと命じたのだ。勝手なことを……」
と吐き捨てた。
 暫くと、信繁が割って入った。
「弥五郎の情報は重要です。真田がやり忘れたことを、ちゃんと尻拭いしている。とにかく越後勢が飢えていることだけは明白でしょう」
「だから、山を下ると?」
「長尾弾正が独善的で兵のことを顧みない性格だと、成田下総守の一件で示されておりますぞ。兵が附いてこない以上、もう意地は張れますまい」
 信玄は腕組みした。
 ならば、どうするか。
「尼巌城からは妻女山の委細を掌握できるな?」
 定期連絡により、尼巌城からは妻女山の情報が昼に夜に届いている。その情報は委細に渡るものだ。春日虎綱はそう答えた。
「その回数を、半刻に一度に増やせるか?」
「素波の数をそちらに増やせれば、出来ます」
「ならば真田の素波をそこに加えよう。どうだ、出来るか?」
 この戦場において、信玄から真田一徳斎へと声を掛けたのは、初めてのことだった。
「存分に!」
 真田一徳斎は嬉しさに、思わず大声を挙げた。ここで応えねば、信頼を取り戻すことなど出来ない。
「春日弾正、この雨は長引くかのう」
「いや、明日の夕刻には止むものかと」
「千曲川の増水は?」
「明後日の昼には下がると思われます」
 信玄は思案した。決戦を避けることは、今後のために益である。が、ここで息の根を止めておかねば、越後との因縁が続く。どちらが得策か。
「一同に問う。一戦に及ぶべきか、否か」
 信玄の言葉に、家臣団は二分の意見を述べた。
「温存こそ上策」
という武田典厩信繁の言葉に、春日虎綱が
「退き口の随所に伏兵を置いて一戦に及ぶもありでは」
と告げた。
「弾正、それは毒の心味なり」
 馬場信房が危険だと制した。
「関東で長尾弾正が犯した失態は、合戦の意気込みを関東諸侯に示さなかったこと。あれはただの遠征なり。御館様は長尾とは異なり、遠征に及ばず」
 飯富虎昌が断じた。信濃先方衆の顔を立てたい想いが籠められていた。これを、弟・源四郎昌景も支持し、工藤源左衛門昌豊と望月三郎信頼も同意した。
「三郎、思慮が浅い!」
 信繁が叱った。望月信頼は信繁の長男である。
「叔父上、有無の一戦は大事なり」
 武田太郎義信が望月信頼を庇う。もはや収集はつかず、遂に信玄は決断した。
「明日夕刻までに雨が止むなら野戦を仕掛ける。雨が続くなら甲斐へ退く」
「なぜ、雨にこだわりますか」
 原隼人佑昌胤が質した。
「その方は陣場奉行である。雨が続けば八幡原のどこに布陣するのじゃ?」
「それは……」
「戦わずに兵を温存出来るなら、そうしたい。されど、何も仕掛けられずに退けば、長尾弾正の二の舞となる」
 信玄は明言した。
 雨というきっかけがあれば、兵を退く理由となる。むしろ降り続けて欲しいのが、本音だ。それが理解できたからこそ、信繁や馬場信房も得心できた。
 雨は、降り続いた。
 千曲川は水かさが増し、渡河が難しい。対岸の諸角豊後守虎定や山本入道道鬼斎へ、このことを伝える必要があった。
「小山田弥七郎」
 信玄の名指しに、小山田弥七郎は驚き声を上擦らせた。
「その方は弥三郎の陣代、郡内勢を率いる者である。軍監の弥五郎ともども軍勢を率い、今宵のうちに広瀬を渡河して大堀・広田の砦と横田城に今のことを伝えるべし」
「雨のことを?」
「明日夕刻までに雨が止めば海津城の兵は八幡原に陣を張り、退き上げる越後勢に立ちはだかるものである。各砦は守りを固め、越後勢を封じる要衝たるべし。なお、雨降り続けたなら、海津城より本隊は地蔵峠を経て小県へ退く。各砦は塩崎城に参集し、猿ヶ馬場峠から深志経由で甲斐に退くべし」
「はい」
「なお、これを伝え終えたら、小山田勢は塩崎城に入れ」
「なんと、塩崎城に?」
「城代・桑原式部少輔には先んじて知らせておく」
 弥七郎は当惑しながら、大声で返事した。
「武具が濡れれば鎧紐がきつく締まる。叔父上、櫃のある者は脱いでおく方がいい」
 弥五郎が進言した。
「不用心ではないか?」
「渡り終えるまでに妻女山から兵が繰り出せば、手前に陣取る海津城が、これを見過ごす筈などござろうか」
 あっと、弥七郎が驚いた。そういわれれば、そうだ。
「弥五郎、豊後守に用を頼まれて欲しい」
 信繁が言葉を掛けた。諸角豊後守虎定は信繁にとっての傳役。もう八一の高齢だ。矍鑠とした容姿とは裏腹に、さぞや疲れも隠せまい。
「豊後守に会うたら、この丸薬を届けてくれ。昨日、儂が作らせた。蝮がたっぷり入れてある」
「蝮でござるか?」
「昔から豊後守が好んでいる。身体を労うべしと、よう伝えてくんにょ」
「心得てござる」
 油紙を巻いた袋を手渡しながら、信繁は微笑んで告げた。
「この戦さが終わったら、お前(まん)も諱を頂戴し、一家を興すようだの」
「は」
「帰ったら、祝ってやるでよう」
 信繁は大声で笑った。
 これが、弥五郎の見る武田典厩信繁の、最後の姿だった。

 その夜、郡内勢は千曲川を渡河し、まず大堀館へ向かった。
「典厩様の御気遣い、有難し」
 諸角豊後守虎定は感涙に咽いだ。広田砦の山本入道道鬼斎も、上策だと頷いた。横田城も承知した。この夜間行軍は約一刻半、塩崎城に入った頃には日付も変わっていた。晩秋の雨は凍るようで、多くの兵が震えていた。
「弥五郎殿、火を用意してござる」
 桑原式部少輔康盛が大声で叫んだ。戸板を並べて軒にして、その下に薪が燃えていた。
「兵たちはこれに甘えよ」
 砦は吹き曝しで、囲炉裏の暖が得にくい。士卒は囲炉裏を囲んだが、白湯を呑んでも寒い。弥五郎は酒を所望する弥七郎を叱責し、これを禁じた。
「弥五郎殿、それはないずら」
 弥七郎が泣き言を漏らした。
「叔父上は御陣代。ここで評判を上げないと、兵が云うことを聞かなくなるずら」
 そんなものかと、弥七郎は上擦った。
「この雨で兵は士気を失っておる。陣中で酒なんぞ呑むような大将に、いったい誰が従うものか」
 そう云われれば、そんな気がする。しかし、寒いのは変わりない。
「弥三郎殿がいたら、ほんなこん(事)には為らなかった」
 聞こえよがしに呟く者もいたが、弥五郎は無視をした。
 雨が止んだのは丑刻過ぎだった。桑原康盛が海津城からの命令を取り次いだ。主立った小山田勢は目を擦りながら、その命令に耳を傾けた。
「今夕、海津城からの遊軍が屋代城から妻女山を攻めるとのこと」
「屋代には、誰が?」
「委細は、まだ何も」
「いつ出陣かも?」
「なにも、まだ」
 信玄は二重三重に策を巡らせているのだろう。決戦を避けると云いながら、最悪に備えて軍略を練り上げているのである。
「畏れ入った」
 弥五郎はそれに同意し、睡眠を急がせ自身も横になると、すぐに熟睡した。


                  四


 九月八日、降ったり止んだりを繰り返す雨は、夕刻に止んだ。
 雲が切れ、一番星が輝く頃、海津城から炊煙が立ち上った。それは、自然な光景だった。炊煙すら許されぬ妻女山の将兵は、厭戦の苛立ちをどこにぶつけるべきか、悶々としながらこれを見下ろした。
 越後の将士は意を決し、政虎へ帰国を諫言した。政虎はこれを認めなかった。
「ならば我らは勝手に帰国します」
「なに?」
「二日前、当方の足軽を善光寺へ向かわせました。厭戦気分とも書き連ねました。飢えているのに満足な戦いが出来ましょうや。きっと今頃、善光寺の後詰等は、我らのために炊煙を上げているに相違ございませぬ」
 断じたのは、柿崎和泉守景家だった。この独断は、陣中の有様を見るに見かねての仕儀である。柿崎景家ほどの将士がこうも云うなら、もはや窮乏極まったと云わざるよりない。上杉政虎は落胆し、善光寺まで退くことを宣言した。蓄えた兵糧は殆どないが、微々たる〈かんずり〉があった。兵の末端には行き届かぬため、重臣でこれを舐め分け合い、撤収準備を開始した。
 この動きは、尼巌城から朧気に見えた。月明かりのなか、人が慌ただしく動いていた。これは撤収かと、城代・西条治部少輔は判断し、定期ではない伝令を海津城へ発した。この素波は数名で各々異なる道を伝い、暗い山間を駆け下りていく。
 そのなかの一人が善徳寺に至った頃、上杉の軒猿に襲われた。撤退を決した以上、軒猿には武田の伝令を見つけ次第、すべて討つよう命じられたのだろう。しかし、飢えた軒猿の動きは鈍い。
 素波はこれを返り討ちにし、先を急いだ。半刻も経たぬ間に、発した素波がすべて海津城に達した。誰もが軒猿の襲撃に遭遇し、撃退したという。
 信玄は越後勢の撤退を確信した。
 空腹で動けぬ兵など恐るるに足らずと、太郎義信が豪語した。
「お約束じゃ。御館様、兵を繰り出しましょうぞ」
 敵が山を下る前に、屋代城に大軍を送り込んで渡河させぬことを飯富虎昌が進言した。信玄も雨が止んだ以上は、決戦も仕方なしと、信繁を一瞥した。信繁も頷き、屋代城へ向かう人選を発した。
 総大将は飯富虎昌、先導役に春日虎綱、これに属す者として馬場信房・甘利昌忠・一徳斎・相木市兵衛・芦田信守・小山田虎満・小幡憲重等総勢一二〇〇〇である。討ち洩らした越後勢が善光寺まで辿り着かぬよう、八幡原に信玄の本陣を構えることとなった。海津城は常に尼巌城を中心とした高所からの状況報告を受け、すべて信玄に伝令する中継拠点と定めた。
「大堀館、広田砦、横田城にも、急ぎ報せよ。それから屋代城への軍勢のこと、塩崎の郡内勢へ伝えるべし」
 信玄の下知に従い、素波が発した。塩崎城の郡内勢はじっと報せを待った。ここから月明かりに照らされる妻女山の山影が見えた。しかし、何が起きているのか、動きまでは把握出来ない。
「待つこん(事)は苦手ずら」
 小山田弥七郎はぼやいた。
 亥刻、最初の伝令がようやく塩崎城にきた。
「越後勢は夜陰に乗じ下山の模様。屋代城に兵一二〇〇〇を送りこれを討つ由」
 戸惑う弥七郎に代わり、弥五郎が対応した。
「総大将は?」
「飯富兵部殿」
「して塩崎勢は、どう動けばいい」
「追って屋代勢から伝令が参ります」
「相解った。軍備を整えて待つ」
 弥五郎は桑原式部少輔康盛に物音を立てず平時を装いながら支度を急ぐよう促した。
 亥刻。屋代城へ向かう予定の別働隊は、未だ海津城を出ていない。しかし、妻女山の越後勢は、早くも下山を開始していた。このことは尼巌城からは視認できた。急いで発した伝令は、今度は悉く軒猿に狩られてしまった。そのため、妻女山の動きが海津城に伝わらなかったのである。
 子刻、越後勢は屋代城を襲撃し、あっという間に兵糧を奪った。火の手が上がらなかったことで、高所の城から異変が察知できなかった。略奪した兵糧で空腹を満たした越後勢は、一二ヶ瀬・戌ヶ瀬・雨宮渡に分散して、ようよう千曲川を渡河した。増水気味の瀬音は、行軍の水音さえ隠していた。
 塩崎城からは、この異変を察知することが出来なかった。同時刻、別働隊は海津城を発し屋代城へと動いた。
 丑刻。東福寺にて休息する越後勢は、ここで冷静さを取り戻した。屋代への襲撃はじきに露呈する、きっと追っ手が来るだろう。その前に善光寺へ辿り着かねばならない。
「我が殿となって踏み留まるものなり」
 甘糟近江守長重が進み出た。
「ならば、我も一緒に」
 村上義清が進み出ると、有志が挙って名乗り出た。上杉政虎はこれを許した。そして、このまま一気に善光寺へ向かうべきかを再び思案した。図面を拡げると、三つの砦が目に留まった。定法ならば、これを無視して八幡原を突き進むべきだろう。
 しかし、こうとも思う。
(ここには兵糧もある)
 飢えた兵を少しでも満たすのではあるまいか。
「土地の古老の言葉によれば、善光寺平には霧が出るそうじゃの」
「されば」
と、高梨政頼が進み出た。
「冬の近い頃合い、雨の続いたあとに晴れた夜があると、払暁には川中島を中心に濃い霧が出るとのこと」
「川中島?」
「千曲川と犀川に挟まれた八幡原辺りを総じて、島に例えてござる」
 条件はいい。霧が出るなら、今払暁。その霧に乗じて、先ず横田城を襲い、兵糧を奪う。休む暇もなく今度は広田砦へ攻め掛ける。適うなら大堀館も襲えばいい。多勢に無勢、これらの砦を落とすことは造作もなかった。
「早い者勝ちじゃ。兵糧をぶん取れ」
 上杉政虎の下知に、兵たちの士気は上がった。
「信玄坊主が気付いたときは、我らは霧に乗して善光寺じゃわ。よし、霧を待つぞ」
 その戦略に不安を覚えた直江与兵衛尉景綱が、霧なくば如何するかと質した。
「そのときは一気に駆け抜ける。砦の兵などたかが知れていよう」
 上杉政虎は涼しげに答えた。
 軍略なのか、思いつきなのか。その紙一重な決断力は、空腹で冷静な判断を失っている越後勢にとって、従わざるを得ないものだった。代案など、誰も考えられなかった。この狂気にも等しい作戦に、越後の将士は黙って従った。

 丑刻半。
 この頃になってから、武田信玄は全ての異変に気付いた。
 まず、血塗れで瀕死の素波ひとりが、海津城に転がり込んできた。尼巌城から亥刻以降、次々と発した素波は軒猿に狩られ、この者だけが突破してきたのだ。
「越後勢、すでに千曲川を渡った由」
 それだけ云い終えると、素波は息絶えた。
「屋代の様子はどうだ、すぐに報せを発すべし」
 信繁は使い番を三度に分け、道筋を違えて屋代城へと派遣した。その直後、屋代へ向かった別働隊からの伝令が海津城に駆け込んだ。
「屋代の城兵は皆殺し。兵糧は空にて」
「妻女山は?」
「既に誰もなし」
 してやられた。妻女山から下った越後勢は屋代城を襲い、空腹を満たして渡河したのだ。その軍勢は善光寺に向かうだろう。その行く手を抑え込むことが出来れば、或いは上杉政虎を討てるかも知れない。
 しかし、決戦を急くのは本意ではなかった。
「追っても間に合うまい」
 誰にも聞こえるように、信玄は呟いた。信繁も同意しようと立ち上がった。
「ここで討ち洩らすことは武門の恥辱なり」
 武田義信が大声で叫んだ。
「屋代に向かった軍勢に、急ぎ渡河して追撃を促すのじゃ。海津城本隊も、今なら越後勢の横腹を突くこと能うものなり。いまこそ長尾弾正を討ち取る好機なり」
 義信の言葉は、信玄の意に逆らうものだった。さりとて、軍議の場にいる諸将の気運は、義信に同調するものだ。義信は焚き付けてしまったのである。
 もはや、どうすることも出来ない。
 寅刻、武田本隊は海津城を発し、八幡原方面へ向かった。有無の一戦などと綺麗事を語るより、損なわずして利を得ることを重視することが信玄の好む〈戦さの定石〉だ。慎重に慎重を期す信玄が、その生涯で唯一、無謀とも云える決戦を決断した。
 もう、流れは止められなかった。
 窮鼠猫を噛む、若い義信はそういう経験を知らない。だから蛮勇にこそ価値を見出し易かった。
(しかし)
 この場の、ざらりとした感覚は、上田原で敗戦したときと同じものだった。
(出来るものなら避けたいが)
 もしもここで退けば、信濃の豪族はいよいよ日和見となる。甲斐の手で完全勝利とせぬ限り、この心情を変えることが出来ない。どのみち出陣は
(やむを得ない)
のだと、信玄は諦めた。
 願うなら、越後勢に遭遇しければいい。
 しかし、信玄の祈りは天に通じることはなかった。
「火の手が!」
 ほの暗い彼方に、確かに火の手が上がった。
「恐らくは、横田城!」
 直後、霧が立ちこめて、みるみると視界を覆い尽くした。
(この状況は、いったい何事か)
 信玄は考えた。上杉政虎は間違いなく横田城を攻めている。飢えた兵が兵糧欲しさに襲撃しているとみてよい。
「父上、好機ですぞ。直ぐに突撃を!」
 義信だけが気色付いた。
 信玄は信繁をみた。信繁も不安そうに目を泳がせ
「次は、広田。その次は大堀。我らがここにいると解れば、善光寺に留まる越後勢は挟撃に転じましょう。我らは包囲されてしまいました」
 そう断言した。上田原のときと同じ、苦い感覚が胸を締め付ける。霧は敵から姿を隠してくれるが、同時に敵の位置さえ見失った。
「伝令を出す」
 信玄は広田砦の山本入道道鬼斎と大堀館の諸角豊後守虎定に宛て、すぐに退去して本隊に合流するべしと発した。あのような小砦では、越後の大軍相手に持ち堪えることなど不可能だった。
「父上、なぜ退くのです。増援を送り込むべきでしょう」
「太郎の了見では人が損なわれる。もう、黙れ」
 静かな口調に滲む怒気に、義信は気圧された。
 上杉政虎が何を考え、何を為さんと動くのか、信玄は思案した。常人の計り知れぬ人物なればこそ、常軌を逸した発想を行動とするだろう。あの男は兵糧を奪い、腹を満たしたのちに、いったい何をしようというのだろうか。こちらも常識を棄てなければならない。
 信玄は軍配で絵図の一点を指した。
「ここに本陣を構えよ。陣場奉行の采配に皆が従うべし」
 信玄は小島田とよばれる辺りの荒れ地に、陣幕を張らせた。この設営は手際よく行われ、卯刻前に完了した。
 既に夜が明け始め、霧の白さは濃さを増した。
 重臣は本陣に集められ、信玄は図面に従い各部隊の布陣を指図した。こうも視界が開けない以上、広く展開し、敵の位置を探らねばならない。陣形でいう〈鶴翼〉にあたる。もし敵に接触したら合図を忘れぬよう、強く云い含めた。鶴翼が破られたら、その陣形は負けである。とにかく屋代に向かった別働隊が合流するまでは堪えるしかない。
 展開して間もなく、斥候に出した浦野民部左衛門遠隅が戻ってきた。
「霧の奥に物音甚だしく、越後勢に間違いなし」
「こちらへか」
「こちらに向かってござります」
 横田城から一気に善光寺へ向かってきたというのか。大番狂わせだ。敵はここに武田勢がいると知らずに飛び込んでくるのだろう。こちらの備えは薄い。別働隊が一刻も早く合流しなければ、勝機は薄い。
 死力を尽くした決戦になることは必死だった。
「是非もなし」
 霧は相変わらず敵を覆い隠したままだ。
 どうする。まずは敵の足を止めること、広田・大堀の軍勢に合流を促すこと、屋代へ向かった部隊に危機を伝えることが急務だった。
「鉄砲用意」
 信玄は鉄砲を天に向け、多数発砲することで、このことを伝えることにした。ただし、越後勢は音を頼りに、きっと本陣へ攻め寄せてくるだろう。
 それはもはや、仕方がなかった。
「放てー」
 数十挺の鉄砲が火を噴いた。
 上杉政虎は軍勢の足を止めた。
 敵がいる。斥候を放てば、確かに武田勢がいることが判明した。立ち止まる理由はない。
「敵中突破すべし」
 上杉政虎は大きく采配を揮った。


                  五


 霧のなか、響く銃声に、塩崎城の小山田弥五郎は驚愕した。
「何か異変が起きたのでは?」
 桑原式部少輔康盛は斥候を塩崎渡に送り込み、対岸の様子を伺わせた。せせらぎが騒がしくて耳が利かぬ。斥候は地に伏し、目を凝らした。
 何も見えない。
(霧が、よくない)
 斥候は溜息吐いた。
 ふと、斥候は顔を上げた。下流で馬が嘶いた。弓の風切り音も微かに響いた。しずかに、下流へ歩き出し、やがて、気配を感じて伏せた。かすかに怒号が聞こえてくる。
(越後訛りだ)
 こちらの岸に、越後勢がいる。そして対岸と戦っているのだ。このことを、斥候は急ぎ城へ伝えた。
「図られたな」
 弥五郎は苦々しく呟いた。
「孫子曰く、善く戦う者は不敗の地に立ちて敵の敗を失わざるなり。夜のうちに千曲川を越えた越後勢は、恐らく屋代からの各渡し場に殿兵を据えておる。これが抜けないのでしょうな」
 おろおろしながら、弥七郎が問う。
「もしも武田勢がこれを渡れずば、なんと」
「面倒なことになりましょうな」
「面倒とは……」
「そんなことよりも、あの銃声が気になるな」
 弥五郎はそのことが頭から離れない。
 悪い予感ばかりが浮かぶ。
「よもや御館様が城を出ておいでなら、越後勢と遭遇していると考えてもよい。銃声はそのためだろう」
 それが自然な答えだ。
「なんとしよう、弥五郎殿、なんとする」
「叔父上、落ち着かれませ。あなたは郡内勢の陣代、いま少しどっしりと為されよ」
「お、おお」
 弥五郎は腕組みした。
 情報が不足する以上、すべては推測だ。
「まずは塩崎が戦場の一番端にあるは必定。渡河出来ぬ味方の軍勢を、無事に渡らせることが第一。次に御館様の安否を確かめることが第二。この際、越後の本隊など、どうでもよろしい」
 桑原康盛に図面を求め、大きく拡げた。
 塩崎城の北東にある一二ヶ瀬・戌ヶ瀬・雨宮渡は、屋代から渡河する最短箇所だ。このなかで最も塩崎から近いのは雨宮渡。
「まずはここを襲撃し、我らが渡河路を確保する必要がある」
 この濃い霧なら遠弓こそ効果的である。ならば、霧が晴れる前に仕掛ける必要があった。
「この塩崎城は幸い越後勢に忘れられたようじゃ。ならば音を立てずに出陣しよう。まず桑原式部殿の先導で雨宮渡の半町(約五〇m強)にて遠弓を放つ。敵も弓で応戦するだろう。その風切り音を頼りに、郡内勢が越後勢を背後から襲撃する」
「一歩間違えたら、全滅しますぞ」
 桑原康盛が眉を顰めた。
「成否は郡内勢の動き次第。叔父上、大丈夫か?」
「やれる。ここでやらねば、儂にいいところがない」
 弥五郎の策に誰もが頷いた。
「弓隊は」
「儂がやる」
 桑原康盛が名乗り出た。郡内勢は弥五郎に託したいと訴えた。
「どうか我らを見殺しになさるな」
「心得た」
 桑原康盛はありったけの矢を用意し、千曲川上流から雨宮渡に近付いた。郡内勢は塩崎城より稲荷山を経て、川音が聞こえるところまで近づいた。
 彼方で、再び銃声が響いた。
 もはや辰刻にもなろうか。相当数の、弓の風切り音が響いた。
「敵だ」
 思ったより近いところで、越後訛りの声が響いた。
「ちゃっちゃど矢射て、でれすけ」
「すたばって、矢は昨夜びしゃったと」
 びしゃるは捨てるという方言だ。いつか印地から聞いたことがある。
 越後勢には、弓がない。
(得たり!)
 弥五郎は郡内勢の弓隊を前面に出し、采で合図した。至近距離の筈である。果たして郡内勢の弓は、多くの越後勢を討った。
 弥五郎は槍を前面に押し出し、突撃した。
「敵襲!」
 雨宮渡の越後勢は、まさか背後から攻撃されると思っていなかったのだろう。多くが討たれて下流の戌ヶ瀬へと退いた。
 桑原式部少輔康盛が郡内勢と合流した。
「式部殿はこの渡し場を確保されたし。対岸の御味方に伝令を発し、急ぎ渡河させること急務なり。郡内勢は先を急ぐ」
「弥五郎殿?」
「遠くの銃声が気になるずら。まずは砦伝いに善光寺へ向かうものなり」
 辰刻は現代でいうところの午前八時。この時点で、霧は薄くなり始めていた。しかし彼方には馬の嘶きが響く。間違いなく、戦場になっているようだ。
 もし武田本隊が戦っているとしたら、数のうえで不利な状況だろう。一刻も早い合流が要求された。
「まずは横田城に行き、初鹿野伝右衛門殿に委細を伺う」
「渡河した御味方にもお伝えする」
「では」
 郡内勢が発って程なく、対岸の武田勢が上陸してきた。多くは戌ヶ瀬に殺到しているため、そこを確保するのが急務という報せに
「急げ」
 桑原式部少輔康盛は下流へ向け移動を開始した。
 霧が途切れ始めていた。果たして、山影が朝日に浮かび上がり、霧が飛び去るように千切れていった。その眼前には、戌ヶ瀬の応酬が視認することが出来た。
「弓隊、用意」
 桑原康盛の采配で弓が一斉に放たれた。ここで味方を渡河せしめれば、値千金だ。矢を惜しまず射尽くせと、桑原康盛は叱責した。
 この遠弓が功を奏した。
 遂に武田別働隊が渡河を果たし、越後の殿軍に槍を差したのである。こうなると、勢いに勝る武田勢が有利だ。
「急いで善光寺まで退くべし」
 甘糟近江守長重が叫んだ。しかし時間稼ぎを果たした甘糟長重等のそれは、決して無駄ではなかった。

 郡内勢が横田城でみたものは、襲撃により壊滅した姿であった。彼らはまるで夜盗に襲われたように、滅多刺しにされ、腹が割かれて、胃の中が空という有様だ。当然、兵糧もない。その凄惨な様に、小山田弥五郎は目を背けた。
「広田砦には山本入道様がいる。叔父上、急いで広田へ」
 郡内勢は広田砦へ向かった。そこは野戦の状況だった。しかし、おおよその戦況は終わっていた。
「山本入道殿は何処!」
 弥五郎は山本入道道鬼斎を呼んだ。返事はない。彼方で混戦が認められる。武田本陣にあるべき孫子の旗も映えた。
 信玄があそこにいる。
 しかも、窮地と見受けた。
「叔父上、御館様の危機にござる。ここは捨ておき、敵勢の後陣に槍を突けるべし!」
 頷いた弥七郎は、郡内勢を前進させた。
 このとき諸角豊後守虎定は圧倒的な包囲のなかで、獅子奮迅の活躍をしていた。その諸角虎定を救援するべく駆けつけた武田典厩信繁の部隊も、敵の包囲の中にあった。
「屋代の部隊が間もなく来るずら」
 信繁は大声で兵たちを叱責した。
 
 信玄は次々と押し寄せる戦況を、じっと目を閉じて受け止めていた。その多くが、名だたる甲斐の一族譜代の討死に関するものばかりだった。
 一人だけ、その死の報せに信玄はカッと目を見開いた。
「武田典厩殿、御討死に」
 信玄にとって、片腕にも等しい弟の死は大きい。しかし、悲嘆する暇はなかった。ここは戦場の只中で、白刃がギラギラと輝く渦中なのである。そして、事態が変わるまでは、どんなことをしてでも堪えなければならない。
「郡内勢、越後勢の後方より攻め掛かる由」
 信玄は、思わず立ち上がった。
 屋代の部隊はまだ来ていないが、郡内勢が駆けつけたと云うことは、程なく合流するに相違ない。弥五郎ならば、単独で合流する間抜けなことをしないだろう、絶対に渡河の合力をしたに相違ない。
 果たして辰刻半頃。
 続々と屋代別働隊が越後勢後方より攻撃を開始した。今度は、包囲される側になった越後勢が浮き足立った。
 信玄は対岸に本陣を移した。今度は春日虎綱を中心とする部隊が越後勢の犀川渡河を阻んだ。丹波島渡を辛うじて逃れる者以外は行き場を失い、越後勢は続々と武田勢に討たれていった。丹波島渡を死守する甘糟近江守長重は、こことは見当違いの方向へ撤退する上杉政虎と旗本の姿を認めた。渡河した軍勢に善光寺へ向かうよう促しつつ、政虎が何処へ向かうのか、その目で追った。
 政虎は馬場ヶ瀬から山の方へと消えていった。
 その行動は、一軍の総大将としては、解せぬものだった。
 
 申刻。
 武田勢は完全に戦場を制圧した。
 越後勢は善光寺に集結し、越後へと引き上げていった。その軍勢の輪に上杉政虎の姿はない。そのため善光寺の越後勢は、三日間この場で待機した。
 やがて、政虎からの伝令がきた。
「御実城様は信玄入道へ切りかかるも失敗。ただいまは単独で春日山へ向かわれた由。各々心して越後へ退却されたし」
との口上だった。
 越後勢は複雑だった。
 結局、この戦さは勝ちなのか、負けなのか。飢えて疲れたその果てに、いったい何を得たというのか。ただただ上杉政虎という、戦さ好きなだけの大将の気儘に、誰もが振り回されただけではないのか。
 この疑問は当然だった。
 結果がすべてという点でいえば、越後勢は結果を残していない。名のある武将を討ったところで、信玄が生きていれば、それは無意味といえた。
 越後勢は疲れの癒えぬまま、一一月には関東へ出兵するのである。

 信玄がこの合戦で失うものは多かった。
 信濃の豪族はこの激戦のなか、どちらつかずの態度を臭わせていた。これは北条にも上杉にもいい顔をする関東の豪族と同じ反応だ。
 最後の追撃戦になってから、彼らは俄然張り切りだした。この曖昧さこそが、この陣中の終始において、信玄を縛った信濃先方衆への不信感そのものを表していた。
 彼らが本当に武田へ従っていたなら、このような死傷者を出すことはなかった。
 信玄が惜しんだ武田の討死者は七人だった。

  武田典厩信繁(信玄次弟)
  油川彦三郎信連(信玄側室兄)
  諸角豊後守虎定(譜代侍大将・武田縁者)
  三枝新十郎守直(甲斐国人・信玄旗本)
  初鹿野源五郎忠次(武田家庶流・足軽大将)
  安間三右衛門弘家(信虎時代の古参・甲斐信濃訴人頭)
  山本勘助入道道鬼斎(軍師・足軽大将)

 すべて甲斐本国に属する者たちであり、信濃国人はここにはいない。
 信濃先方衆は激戦の矢面に立った筈なのに、主立った死者がいないのだ。信玄の懸念は、ここに表れていた。
「武田の殿様は、末端の者にも隔てなく優しいだよ」
 そんな戯れ言が暫く漂った。身内の血を流してでも信濃を大事にしてくれるという流言飛語が、果たしてどこから流れたものか。そのなかで真田一徳斎だけは、信玄の本意を洞察し、こののち武田家で生きていくためには誰よりも率先して働き、誰よりも大きな結果を残さなければいけないのだと自覚していた。事実、この後の真田家は西上野攻略の最前線を担い、滅私にも等しい覚悟を公言し続けた。信玄が真田家を重んじたのは、その誠意をようやく汲んだからに他ならない。
 小山田勢はこの合戦において信玄から賞された。
 弥七郎も陣代の面目を保った。『妙法寺記』には次の記述がある。

    此年の九月十日に、晴信公、景虎と合戦被成候而、景虎悉人数打死いたさし申候。
    甲州は晴信御舎弟典厩の打死にて御座候。就中郡内弥三郎殿は御立無く候而、
    人衆計立候へ共、よこいれを被成候而、入くずし近国へ名を上げ被申候

 弥三郎信有は参陣していないから、その点は誤記ではある。しかし、『妙法寺記』はその当時に記されたとされ、時間を置いていない分、誇張や改竄も少ない。このとき郡内小山田勢が別動の一翼を担ったことは、確かに事実だろう。

 帰国後、信玄は河浦湯へ通った。
 自らも負傷したという激戦なれば、湯治も仕方のないことだった。近習としての人選を、信玄は吟味した。小山田弥五郎はこれに外れた。そのうえで、別して弥五郎は河浦湯に呼ばれた。
「弥五郎にふたつのことを申し渡す」
「はい」
「その方に一年間の暇をやる」
 弥五郎は首を傾げた。
 意味が分からぬので、謎かけは勘弁願いたいと呟くと、信玄は愉快そうに笑った。
「ならば、こう云おう。どこでもいい、こののち武田家にとって必要となる諸国からの情報源はどこだ?」
 しばし考え、弥五郎はゆっくりとした口調で
「伊勢」
「なぜだ?」
「神職は諸国に通じます。伊勢はすべての国の情報が集約されるでしょう」
「富士御師もか?」
「神職なら、凡そ」
「いい考えだ。情報とは、末端を吟味するより真ん中を握ることが大事である。典厩か、勘助の教えか?」
「言葉で聞いておりませぬが、教えられた気がします」
「いい師を失ったな」
「はい」
 信玄は伊勢へ行くなら、高野山まで足を伸ばせと告げた。昨年、信玄得度にあわせ武田家は成慶院・持明院と宿坊契約を結んでいた。その挨拶もしていない。ついでに畿内の様子を見てこいと、信玄は呟いた。
「暇ではなく、内偵と心得ます」
「暇じゃ。単独でも従者付でも、好きなようにしていい」
「本当によろしいので?」
「いい」
 わからぬことだと、弥五郎は首を傾げた。
「勘助はな、お前の出自を知っていたぞ」
 信玄の言葉に、弥五郎は戸惑った。
 埒外と武士、ふたつの血を持つ以上、どの道を選択しても責められることはない。暇というからには、漂白民として旅をしてもいいと解釈もできた。
 そうだ。
 弥五郎が埒外の血を引くことを、信玄は知っているのだ。
 漂白民(わたり)と呼ばれる傀儡子の血を引く弥五郎が、武門を極める修練の影で、別の血のことを悩んでいる。そのことも信玄は知っているのだ。
「だからだ、楽しんでこい」
 信玄に云える言葉は、それだけだった。
「……して、いまひとつは?」
「ああ、あれだ」
 信玄は黄ばんだ懐紙を差し出した。そこには〈信茂〉と記されていた。
「この筆の手は、典厩様のものですね」
「おまんの諱だ」
「は?」
「一字違いで与えてくれと、次郎の遺言ずら」
 弥五郎は絶句した。
 言葉が出なかった。代わりに、大粒の泪が溢れて落ちた。
「来年の大晦日までに、帰って来いよ」
「帰らないかも知れませんよ」
「そうだな。それでも帰れと云うぞ。山の奥に入れば判らなくなることもあるら。おまんの観るもの全てが、我が目の如し。些少なこと程、儂には大事なもんになる。心せよ」
「はい」
「いつ、発つ?」
「三日下され」
「三日?」
「原入道様に、今度のことをお報せする約束が」
「そうか、鬼美濃に養生せいと伝えよ。儂は、まだまだあの爺を頼りとしているで」
「必ず」
 翌朝、弥五郎は荒川土手で印地と会った。一年間、無縁の者になるから伊勢へ行くのだというと
「儂等は同胞じゃん。一緒に行こうし」
 快く同行を承知した。
 漂白民は妙な情報網を持っている。このことは甲斐国中の公界人に拡まり、五人ほどの供連れに膨らんだ。彼らの知恵は、武家にとっての非常識である。しかし、知らぬよりは知ることで無駄はない。
 弥五郎は小山田屋敷に一切の武具を置き、小者から野良着を拝借した。何事が起きたのだろうかと、家中は訝しんだ。暇のことは、弥五郎は公言しなかった。そして、ある日、ぷいと姿を消したのである。
 小山田屋敷では何事かと騒然となり、郡内にも報せが飛んだ。
 弥三郎信有は血相を変えたが、密かな情報を持っている弥五郎の母が訪れ
「御館様から内偵を仰せつかったのです。騒いだらいけませぬ」
 ニコニコしながらそう告げた。
 成る程、そういう務めもあるのだろう。弥三郎信有は河浦湯へ赴き、屋敷の者には
「内偵のこと、他言無用」
と云い含めた。そして、弥三郎信有は信玄と会った。信玄が知りたいのは、多摩筋の情報だ。
「大石心月斎は滝山城に連行され、婿によって処断された由」
 弥三郎信有は畏まって口上した。
「残るのは、三田弾正に寄る一党のみか」
 杣保を領する三田弾正少弼綱秀は、人望に長けた将と聞く。
「その三田弾正、岩附の太田美濃守と綿密な連携を取っているとか」
「なるほど。厄介なのは三田弾正だな。しかし、こちらから手出しすることはないぞ。北条が直接手を下すのだ、黙って観ているがよい。ただし、北都留に三田が介入せぬよう、よくよく注意すべし」
 弥三郎信有は目を丸くした。
「それだけで?」
「いいのだ」
「しかし」
「北条がやるべきことに手を出せば、同盟関係が面倒になるだろう」
 そういうものなのか。
「ところで、弥三郎よ。子はまだか」
「はあ」
 弥三郎信有が妻を迎えたのは、今年の初めだ。北条家から然るべき家臣の息女をという申し出に、信玄が応じた。取次役という関係から云えば、北条家臣と親密であることは、自然といえよう。相手は津久井衆・内藤康行の娘である。しかし、弥三郎信有は性欲が淡泊だった。絶倫だった父に対し、嫌悪感を抱く多感な少年時代を過ごした為だろう。しかし、世継ぎが大事だという理屈だけは承知していた。
「まあ、励むことだ」
「面目ございません」
「房事に面目などない」
 初心なことだと、信玄はほくそ笑んだ。弥三郎信有は弥五郎と同い年だから、齢二二の筈。淡白とはいえ、夜な夜な盛りがついてもおかしくない。弥五郎は所帯の持てぬ身の上だから仕方がないが、弥三郎信有なら連日励むことの許される身の上なのだ。
(淡白か)
 さぞや若妻も切ないだろうな。おぼこい訳でもあるまいし、きっと内に込み上げるものに苦慮しておろう。
(罪な男だ)
 信玄は顔にも出すことなく、ついつい悪態じみたことを想うのであった。と同時に、ああ、生娘でも抱いてみたいと、不埒に思わぬでもなかった。男の性である。
 小山田弥五郎。
 こののちは、小山田信茂と称す。
                               つづく
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登場人物紹介

小山田信茂    

甲斐国郡内領主。武田二十四将。武田家を裏切ったと定説される文武の才に秀でた武将。

父・信有に嫌われて育つが、それは出自にまつわる秘密があった。

小山田弥三郎信有

小山田信茂と腹違いの兄弟。嫡流として小山田家を相続するが、のちに病没。ということになり、信茂を支える影の参謀となる。

武田信玄

甲斐国主。智謀に長けた戦国最強の武将。小山田信茂を高く評価し、その出自も含めて期待している。

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