第22話「再生の烽火」

文字数 23,894文字


再生の烽火


                  一


 天正四年(1576)二月二三日、織田信長は新築された安土城に移り住んだ。
この城は外観内装的に
「観せるだけの建物」
と、後世は誤解するが、さにあらず。安土という立地環境を信長は重要視した。
 東山道と北陸道を睨む拠点。選択したのは、戦略的な意図である。すなわち想定するのは、対上杉謙信のためである。竣工の時期を含めれば、かなりの早い時期から、信長は将来の強敵として上杉戦を意識していた。立地のことはともあれ、その構造建築物は奇抜にして独特だ。天主閣という高層建築を中心に、城域一帯から城下町をあらたに形成するもの。城のなかに重臣の屋敷を設け、商工業は区画で割ったものとし、従来の方針である楽市楽座が設けられた。
 天主閣の概念は、松永弾正久秀の献策だろう。居城である多聞山城には天守閣が設けられた。しかし、安土の規模は桁外れに異なる。その巨大構造物を支える芯柱は、並大抵の大木では耐えられない。
 信長はその木材調達先を木曾に求めた。
 木曽は、武田領内である。
「木曽は敵地にて」
 その材料入手は至難であると、築城奉行の丹羽長秀は訴えた。
「そんなこん、知っているでや」
 信長は決して譲らなかった。
 木曽伊予守義昌は信玄の婿であり、御親類衆に属する。信玄の身内となった誉に奮起していた彼は、長篠敗戦と東美濃の喪失で心が浮ついていた。これまでは美濃に隣接しながらも、木曾一帯はいささかも緊張感を持っていなかった。
 しかし、いまは援軍さえ期待が出来ない。岩村城の有様をみれば、考えるまでもないことだろう。
 このことは重要だ。
「勝頼は末端を蔑にする」
 すでに、そのような風聞もあるくらいだ。こういうときこそ、武田の親族として奮起しなければならないのだが、元々、日和見なところが義昌にはある。こういう大事のときこそと、腹を括る器量がない。
 春日弾正忠虎綱はそれを見抜いていた。長篠の敗戦から立て直す組織改革において、木曾義昌を上野へ替え地すべしと、春日虎綱は進言した。
 しかし、勝頼は応じなかった。
「また余計な口を挟んできた」
 小舅への愚痴めいた、不服が勝ったのだ。すなわち物事の深刻さを見通せなかったのである。春日虎綱が進言するからには、物事の奥底に、二つ三つの含みがあるのだと、勝頼の狭量は感じ取れなかった。勿論、近臣にその才は薄い。
 ただ動かせというくらいなら、春日虎綱ほどの男が口を出そうか。虎綱は木曽義昌の正体を見抜いていたのだ。
「これは商いにて、武田とは別儀にて」
と、木曾義昌はその建前に甘んじこれまでも木曽材を他国に売っていた。信玄が存命中はこのようなことはなかった。すべて勝頼の無関心ゆえだ。
 安土普請に必要な檜材は、勝頼に知らせることなく売られた。
 虎綱の慧眼は無に帰すことになる。

 この年、郡内で工面した資金を小山田信茂は伊勢へ送った。これで、小田原との交渉が出来るものと、信茂は安堵しながら
「あの変節漢をどう口説けばよいものか」
と思案した。
 勝頼の正室を迎える。目的はそれだが
(こののち裏切られぬためにも)
北条家中の然るべき者を迎えることが望ましい。願うものなら、氏政の妹か、娘だ。氏政に血縁が近い程、いざというときは親身になるだろうというのが、信茂の思惑である。
 既に小林尾張守家親を名代として小田原と往還している。その介添役には、武田左衛門佐信堯が付いていた。使者の体裁としては申し分がない。
「どれ、小田原殿の顔を見てくるずら」
 そういって信茂が谷村を発ったのは、三月初頭のことだった。供は家老で従弟の小山田八左衛門、それに奥秋加賀守房吉が従った。一行は籠坂峠を経て矢倉沢往還に出で、足柄峠、関本を経由し小田原城へ向かった。城下の逗留先で小林家親と合流した信茂は、交渉の進捗を訊ねた。
「まあ、癖者と聞いていましたが、ひどいもだぁ(ひどいものだ)」
 家親は忌々しそうに吐き捨てた。武田信堯も頷いていた。
「何事も、利なくば動かぬ。小田原の御館の評判ずら。当たり前の態度と割り切りゃあ、いいずら」
 信茂は事もなげに呟いた。
 武田信堯は勝頼の従弟にあたるが、経歴は他の御親類衆とは異なる。信堯の父・上野介信友は、信虎が駿府に隠居をしたのちに設けた子だ。つまり生まれも育ちも駿河なのである。今川家臣団に潜り込み、信玄の駿府侵攻を父子で手引きした。信友は功で駿府城代となり、信堯は長篠以後、その跡を継いだ。しかし、駿府よりも郡内にいることが多かったのは、信堯の正室は御宿監物友綱の妹、すなわち信茂とは相婿同士となるためだ。
 甲府の兄よりも、信茂の方がウマが合う。何よりも僻みがちな勝頼とは、話をしても面白くない。だから、国中よりも郡内を好んだ。今度のことも、信茂の役に立てばというだけのことであり、正直なところ、勝頼のために交渉しているつもりはない。
「駿河はな、穴山玄蕃頭殿がやりくり大変と聞いておるし。早う戻って、助けてやらねばならんずら」
 長篠以後、穴山信君は官途を左衛門大夫から玄蕃頭に改めた。代わりに、左衛門大夫を信茂が継いだのである。
「帰っても、面白くねえ」
「当たり前ずら。面白いことなんか、どこにある。駿河には海がある、退屈はしねえ」
「退屈じゃ」
「どうせ小田原とは長くなる。左衛門佐殿には、また御供を頼むずら」
 武田信堯が駿府に帰ると、信茂は取次役の山角刑部左衛門尉定勝に氏政との面会を申し入れた。山角定勝は氏政の側近であり、この者を通した方が、話は早い。
 北条氏政はすぐに会ってくれた。
「久しいな、弥五郎殿」
「は」
「一瞥の折は、入道殿の御傍役だったな。今では、郡内領主様か」
「恐れ入ります」
「小山田の棟梁が直々に御出でとは、畏れ入ることよ」
 氏政の表情は、上辺の愛想笑いだ。
 信茂は涼しい表情で、形ばかりの挨拶をした。暫くは他愛もない雑談を続けていたが
「里見家との交渉は、御苦労なことですな」
 ふいに信茂の洩らした一言に、氏政は顔を強ばらせた。
 江戸湾を巡る制海権の攻防は、甲斐とは無縁の話だった。しかし、事実、氏政は里見義弘に圧倒されていた。いまは武力の限界を感じ、四〇年もの抗争に終止符を打つべく、和睦の交渉をしている。里見家の勢いは、油断できないものがあった。
 これを抑えねば、いつかは三浦半島まで奪われかねない。
 そんな危惧があったのである。
「吉田御師は安房上総へ富士講の信徒が多いのです。おかげで、あちらからの話も、色々と耳に入るのでござるよ。武田と北条は盟約がござるから、何事かお役に立てたらと思う次第にて」
「これだから小山田は厄介なのじゃ。しかし、御懸念無用」
 氏政は虚勢を張った。
 信茂も無理強いしなかった。
 このときは、これで引き上げた。勝頼のことを話題にも出さずにいる信茂を、怪訝そうな表情で小山田八左衛門はみた。
「よろしいので?我々の用向きは……」
「ん?ああ、いいのだよ」
「しかし……」
 信茂は愉快そうに笑った。
「今頃な、小田原城では是非を巡って、大騒ぎぞ」
 事実、氏政は慌てて評定を行っていた。下手に出てまでも里見と縁を結びたいと願うのは、他ならぬ北条の側だ。いまは伝手もなく、長年の遺恨もあり、すっかりお手上げだった。
 そこへ、小山田信茂の一言である。
 かつて房甲同盟を結んでいた武田を介するならば、このこと、交渉の門は開きやすいだろう。ただし、氏政がこだわったのは、小山田に借りを作る事だった。氏政は常に見下すことで外交を為したいと願っていた。里見に頭を下げることすら苦痛なのである。このうえ小山田信茂に縋ることなど、屈辱だった。
 氏政という人物は、そういう狭矮な性分だった。
「渡りに舟とは、このこと」
 一族の長老・北条幻庵が口を開いた。
「武田は同盟相手にござるぞ。何を渋るのか?長篠のことは聞いたが、それでも武田は健在である。貸しでも借りでもいい、こちらに利があるのならば、助けを求めて何がいけないというのだ?」
 北条幻庵は、さらに厳しく諭した。
「大叔父様の仰せは尤もなれど」
「ならばそうなされ」
「しかし」
「しかしも何もない」
「されど」
「恥も外聞も、すべて一時のことである。そなたの父上(氏康)は必要とあらば、武田にも上杉にも頭を下げたぞ。それが一国一城の主の器量である」
 氏康が名君だったことは、北条家の記憶にまだ新しい。これを引合いにされては、適わない。
氏政にだって、見栄というものがある。名君たる父を越えたいという見栄だ。ならば、借りを作ることも忍ばねばなるまい。
 北条家が信茂を通じて武田家へ、房相同盟の橋渡しを内々に依願したのは、それから間もなくのことだった。勝頼は信茂より委細の報告を受けた。それにしても、外交の気長さ面倒さを、勝頼は呟いた。
「気短では得るもの能わず。そろそろ、孫子を学ぶが宜しい」
 信茂は飾らぬ言葉を突きつけた。
 勝頼は顰め面で、やれやれと呟いた。


                  二


 五月一六日、恵林寺において武田信玄本葬儀が執り行われた。昨年の三回忌は、建前上秘匿されていた喪が明けた意味のもので、今回のものが本葬儀になる。
 参列する御親類衆や譜代家老衆は、それぞれ正装で臨んだ。
 烏帽子に色衣、慶弔の姿である。ただし春日虎綱は特別に許され、剃髪墨衣の参列が許された。宿老の中でも上位にあるのだから、許すも道理といえよう。
「去年やっておいてよかったな。美濃殿も三郎右兵衛殿も参加できたのだから、いうなれば、不幸中の幸いかも知れんなぁ」
 ふと、信茂は口にした。
「滅多なことを!」
 穴山信君が小声で制した。声を耳にした勝頼が睨んでいたが、信茂は知らぬ風を装った。
 葬儀にあたり、主たる役割を務めたのは、御親類衆だ。

  遺影  仁科五郎盛信
  位牌  葛山十郎信貞
  御剣  小山田左衛門大夫信茂
  御腰物 秋山惣九郎昌詮・原隼人佑昌栄
  前龕  武田逍遥軒信綱・穴山玄蕃頭信君
  後龕  武田典厩信豊・武田左衛門佐信堯
  龕囲み その他の御親類衆
  肩紼懸 武田四郎勝頼

 この年、主な者たちの年齢は次のとおりである。

  武田勝頼三一歳
  武田逍遙軒四九歳
  武田信豊二八歳
  穴山信君三六歳。
  春日虎綱五三歳
  長坂釣閑斎六三歳
  跡部勝資は生年不明だが六〇は越している。
  そして、小山田信茂は三七歳。

 いま、長老となった跡部・長坂両名のことを勝頼は無視できない。春日虎綱が勝頼に厳しく接するのは、残された唯一の宿老ゆえの、強い責任感だったことは想像に易い。
 甲斐の全ての者にとって、信玄は神も同然だった。
 それは、内政と人材術を巧みに用い、常に戦勝を重ねたがゆえだ。その戦勝も、長期に渡る調略で敵を取り込み、軍勢を用いるときは九分九厘勝つことが分かってから動いたためだ。目に見える形で勝利を演出したのだから、常勝将軍という印象は強い。それでいて虚像の勝利のみならず、いざ采配を奮えば比類なき強さを発揮したのは、勿論、申すまでもない。
 戦国において、強いことは正しい。
 勝頼は父の背から、戦さに勝つことだけしか学ばなかった。それは武田家ではなく諏訪家を継がせることを意図してきた、信玄の目算が甘かった結果である。教育の時間も手法も間違えたのかも知れない。信玄から多くを学び、周辺から震え恐れられる存在となった宿老たちも、今は世にない。
 家臣団筆頭として御剣を持つ大役を担う信茂は、残された人材のなかで、武田家が頼りとすべき重責のなかにある。そのことに、郡内の人々の中でも、薄々疑問視し始めるものが現れていた。
 郡内は国中・河内と対等である。
 よって武田とは同盟関係にあり、従属にあらず。信玄の圧倒的な求心力により、その時期はじっと風下にあっただけだ。小山田家は決して武田の従属者ではない。そのことは、信茂も十分に承知していた。長篠の敗戦によって、建前が、次第に剥がれ落ちている。このことを口にする者は、年々増えていくのも道理だった。
 そして、このことは、郡内に限ることではない。穴山信君の本拠である南部河内もまた、武田への畏敬が薄れつつあった。郡内と異なることといえば、穴山家は武田の同族であるという点だろう。ゆえに、こののち穴山家は、小山田家と違う選択肢を手繰り寄せていくのである。

 葬儀ののち、信茂は暫く府中に留まった。
 北条との取次調整もあるが、ようは、訪問客が多すぎて、郡内に帰る暇さえないのである。それでも生母や妻子と接する時間が持てるのは、府中ゆえの特権だ。聞けば妻は、信堯の屋敷へ頻繁に足を運んで、姉妹の団欒を重ねているという。
「退屈はしていませぬ」
「そうか、羨ましいもんずら」
 信茂は心からそう思った。
 この日、小山田屋敷を武藤喜兵衛と土屋惣蔵昌恒が訪ねてきた。
 武藤喜兵衛という呼称は、正しくない。長篠で兄・真田信綱と昌輝が討死にしたため、真田家に復帰したのだ。今は真田安房守昌幸と名乗っていた。以後、物語もそのように名を改める。
 土屋昌恒は、信茂と懇意だった土屋昌続の弟である。こちらも兄が長篠で討たれたため、舅にあたる海賊衆・土屋豊前守貞綱の養子から本家に復帰した。
「実家を急に継がねばならぬこと、何もかも慌ただしく変わって面倒じゃ」
 真田昌幸は呟いた。
 ああ、そうか、我らは同じ境遇なのだなと、信茂は気がついた。
「弥五郎殿、実家を継ぐ秘訣などは、ござろうか」
 土屋昌恒が困惑気味に呟いた。
「ねえよ」
 信茂の返事は素っ気ない。
「そんな面倒なこん、考えねえずら。ただ領内のもんが暮らしていけるよう、努力だけすりゃあ、いい」
「そんなもので?」
「それが分かって貰えりゃあ、いざ合戦になっても、皆が働いてくれる」
「威厳を示すとか、そういうことは……」
「したことねえよ」
 成る程と、昌恒は頷いた。弟の惣九郎昌詮は秋山信友の跡を継いで苦労していると聞いていたが、信茂の話は真逆だ。そのことを告げると、信茂は大笑いした。
「真似っこんもいいが、ようは何をしたいかが大事ずら。おまんは武辺で評判だが、そのことを生かせばいいんじゃねえか?肝を太く持って臨めばいい」
「はい」
 土屋昌恒が武術に長けていることは、甲斐で知らぬ者はない。そのことを頼みにする者はきっといる。それを生かせば、新しい土屋家が出来るだろう。
「よかっただろ、弥五郎殿に相談して」
 昌幸が笑った。
「おまん、面倒をこちらに押しつけたんか?」
「いや、儂にも答えが分からなかったのじゃ。堪忍、堪忍」
「そういうおまんは、どうじゃ。真田家は親父の代から癖者揃いじゃろ」
「川中島のときのことが、ずっと我が家の戒めじゃ」
「戒め?」
「信濃先方衆が先代から信頼を失ったため、古典厩様も勘助様も、死んでしもうた。絶対に死なせたらいけない二人だった。信頼を損ねる真似は、もう二度と出来ん。儂もそれを忘れたくねえ」
「そうだったな」
 信濃先方衆が連名で上杉とも誼を通じたのは、辺境の小豪族ゆえの延命策だった。よりによって、その時期に川中島の激突が重なった。信玄が甲斐国人衆を中心に上杉謙信と対峙したのは当然だ。あのときの信濃先方衆を、信頼しろというのが無理な話だった。
「もし、あの連判状のことがなければ」
「喜兵衛殿?」
「きっと、武田の損害はもっと少なかった筈なもだ」
 そうかも知れない。武田信繁が死なずに済んだなら、義信事件も防げただろう。代替わりをしても、今のような苦境になかった筈だ。昌幸は、そのことをよく弁えていた。
「二人とも、頼りにしてるずら」
 信茂は笑って送り出した。その背を見送りながら、この手の代替わりをしみじみと思った。やはり、長篠の痛手は大きいのだ。負け慣れていない武田勢が被った痛恨の敗戦。
 こののちは、一日も早く立ち直ることが必要だった。

 山縣昌景支配だった江尻は、駿河経営の要であった。この重要な場所を任せるに足る人物は、穴山信君をおいて他にない。この人事に不服を唱えたのは、昌景の子・三郎見日兵衛尉昌満だ。
「子が父の遺領を継いで励むものと考えていたのに、ひどい扱いじゃ」
 それだけではない。
 あらゆる風評が勝頼への不満を煽るものばかりで、そのため耳にした側が感情的になるのも不平の理由だった。勝頼が譜代家老をわざと死なせただの、穴山信君が勝手に戦線を退いたから譜代が逃げ遅れただの、風評には、決していいことが含まれていない。
 山縣昌満からの訴えは、勝頼の耳に届く前に跡部・長坂両名が握り潰した。
 山縣寄騎の荒くれどもは、長篠の戦場を生き延びた者が多い。彼らは合戦を熟慮していたから、あの戦いは采配の失敗であることを見抜いている。
「御曹司が暴れるつもりなら、加勢するし」
 曲淵庄左衛門は板垣信方の被官時代から訴訟好きで評判の癖者だ。さっそくやる気になって、荒くれどもを煽り立てた。この騒ぎはたちまち大きくなった。
 跡部・長坂の両名は、府中に留まる小山田信茂のもとへ忍んできた。
「このこと、家中に広がることよろしからず。揉み消す助成を」
「なぜ、揉み消すのだ?」
 怪訝そうに信茂は訊ねた。
「揉み消さなければ、こんな騒ぎは、ひとつ炎上すれば、誰もが口にするだろう」
 長坂釣閑斎はヒステリックに騒いだ。
「そうじゃない。江尻のことだって、きちんと話せば誰も文句などねえずら。やりかたが、おかしい」
 そうかなと、釣閑斎は首を傾げた。
「今までもこんなことをしてきたのだろう。でも、当代に内緒で問題を揉み消ような真似は、もう止めるべし。よかれと思うてしていることは、巡り巡って、すべて当代の批判につながるずら。今が一番大事な時期なのに、譜代を怒らせれば連鎖的に家中に不満が拡がる。お二人は、もっと人というものを知るべし」
 信茂は一喝したうえで、遠江田中城へ山縣昌満を据えるよう、両名から勝頼に進言すべしと断じた。
「江尻では父の仇は討てまい。徳川に対する攻め手の前衛を担うは田中城。これ以上、三郎見日兵衛尉殿が相応しい場所があろうか。そう伝えさせるが宜しい。使い番は三郎右兵衛殿の従弟である小菅五郎兵衛がいい」
 信茂の言葉に従い、両名は勝頼にこのことを進言した。
「理に適うものなり。よくも気がついた。さすがは跡部・長坂じゃのう」
「畏れ入ります」
「このこと、すぐに山縣の倅に伝えるべし」
 田中城代任地の沙汰は得られ、さっそく小菅五郎兵衛が使者に立った。
 山縣昌満や郎党たちも
「そういうことならば」
と、一様に納得した。
 こうして江尻は、あっさりと穴山信君に明け渡された。
 跡部・長坂の両名は、このことが信茂の案であることを、勝頼に伝えていない。結果的には、手柄の横取りのようなものだ。もっとも穴山信君は、このことの真相を程なく知った。山縣昌満との円滑な江尻移譲が不思議だったので、気にはなっていたのだ。それにしても、このようなことがあったとは、思いも寄らなかった。
「何か役に立てることがあれば、申され度」
 信君は感謝を籠めて、内々に信茂へ伝えた。
 その機はすぐに訪れた。勝頼に北条氏政の縁者を正室に迎えるため、武田家は房相同盟の橋渡し幇助をする必要がある。そのための工作に、海賊衆の助成が必要だった。信茂は土屋惣蔵昌恒の養父が海賊衆の土屋豊前守貞綱であることから
「海から上総へ行きてえ」
と、信君に伝えた。
 このことは直ぐに了承された。
 信茂はこういう手際に長けていた。すぐに勝頼を訪れ
「かつて里見との盟約ありし際は、亡き右衛門尉(土屋昌続)殿が取次であった。その跡を継ぎし惣蔵殿こそ交渉の代表としたい。このこと御裁可たまわりたく」
 土屋昌恒を召出すと、信茂に協力するよう勝頼は命じた。土屋昌恒はかつて房甲同盟交渉にあたり、兄に随行し里見義堯とも面識があった。多少は房総の事情を知っているつもりだ。適任といえば適任なのである。そのことをすぐに思い出す信茂の柔軟さに、土屋昌恒は改めて感服した。
「どうい(どうり)で、安房(真田昌幸)殿が左衛門大夫殿に一目置く訳だな」
 土屋昌恒は、つい、心境を漏らした。
「なんじゃ?」
「いえ、何も」
 変な奴だなと、信茂は首を傾げた。
 話しがまとまると、信茂はただちに吉田へ使いを発した。房総の檀那を多く預かる御師・小猿屋新之丞に同行を促すためである。御師自らが檀那を訪れることは珍しい。それは檀那にとって賓客にもなり、御師にとっては信仰普及の拡大にも繋がる。

 今度のことは、小猿屋新之丞にとっては利点があった。
 ただ、これまで易々と出来ず配下を用いたのは、偏に戦国乱世ゆえといえる。しかし今は、郡内領主が同伴だから、安全このうえない。翌朝早々、小猿屋新之丞は旅支度を調えて、付人ともども信茂のもとを訪れた。
「ご足労を掛けて、済まぬな」
「谷村様の誘いなら、なんなりと」
「このこと、吉田では何と?」
「各地の檀那巡りに次こそを我をと、御師衆は僻んでいたずら」
「遊びではねえのによう」
 苦笑しながら、今度の房総渡りが房相同盟の橋渡し交渉であることをまず伝え、その円滑さを保つためには御師と檀那の関係が必要不可欠なのだと、信茂は説いた。とにかく小猿屋新之丞の存在は欠かせないのだ。その言葉だけで、小猿屋新之丞は高揚した。吉田新宿移転に尽力してくれた信茂へ恩返しが出来るからだ。
「何事も、谷村様の仰せのままに」
「頼むぞ」
 土屋昌恒主従と合流し、一行は江尻に発った。このことは前夜の内に、早馬で穴山信君に伝えてある。江尻に赴いた一行は、穴山信君の指図により、既に土屋豊前守貞綱が舟を用意していることを知った。
 信君の手際はよい。土産となる駿河の茶も、既に用意させていた。
「高価なものだろうに」
「駿河では、普通に栽培しておるもんじゃ」
 駿府茶は鎌倉時代初期、栄西禅師より四〇年後に中国に渡った聖一国師により臨済宗ともども伝えられた。普通に生産されており、当地では破格という物ではない。
 この日は清水城に留まり、交渉の段取りを綿密に重ねた。里見家を知る土屋昌恒と、御師である小猿屋新之丞の存在が頼りだった。
 翌朝は快晴だ。波も穏やかである。
 舟は清水湊を出、伊豆半島沖合を迂回しながら北上した。清水から上総安房の境にあたる造海城への航路は、海流を掴めば一日で足りる。ただし江戸湾は北条・里見とも係争の地だ。面倒に巻き込まぬため、まず三崎城に立ち寄ることとした。突然の武田水軍登場に、城内の者は驚きを隠せなかった。北条氏政が房相同盟に動いていることを、三崎城主・北条氏規は承知していた。そのための仲介とあれば、北条側から邪魔をすることなど出来はしない。
「こちらから手は出さぬ」
 氏規はそう約した。
 三崎城を出港した舟は、一旦城ケ島の西側より沖合に出てから、伊豆大島と大房岬の軸線で取り舵を命じた。江戸湾の入口は狭く、里見の監視台が内房沿岸には多数設置されている。三崎城から真っ直ぐ湾内に進入すれば、北条の舟として、たちまち拿捕されてしまうだろう。
「見事な情報じゃな」
 信茂は感心した。海将のことは、陸の常識外である。
「こういうことは、持ちつ持たれつの事もあり」
 照れたそうに、土屋貞綱は小声で呟いた。
 大房岬の内湾には、里見義弘の弟で養子の里見義継が居を置く岡本城がある。土屋貞綱は武田菱の旗と、白い旗を掲げた。それでも怪しい他国の舟だと、岡本津より小早仕立の舟群が、わらわらと現われ、たちまち取り囲んだ。
「当方は富士吉田御師講を庇護する郡内領主・小山田左衛門大夫である。御師・小猿屋ともども推参なり。このこと、里見左馬助(義弘)殿にお伝えあれ」
 信茂は身を乗り出して叫んだ。囲む舟群のなかで一番偉そうな男が、傍らの者に何かを囁いた。富士講の浸透により吉田御師・小猿屋の名前に覚えがあったようだ。小山田という名前も一応耳にはしていたようである。
「ならば、このまま造海まで供するっぺ。おかしな真似をすれば、舟は沈める」
「承知した」
 造海城の湊へ上陸した信茂等は、一旦城内に留め置かれた。幾度か来たことがある土屋貞綱の面相はすぐに認められた。房甲同盟の取次をした土屋昌続の弟ということで、土屋昌恒もすぐに面通しが出来た。小猿屋新之丞の面相も知る者が多い。小山田信茂は初めての房総入りだから、あれは誰かと、ただちに城内で協議が為された。
「あれが吉田の主である」
と、富士講をしたことがある兵卒が信茂を見知っていた。この証言により、間違いなく武田家の重臣であると確認された。ただちに佐貫城へ伝令が発ち、里見義弘が造海城へと駆けつけた。
「客人に不自由をお掛けした」
 笑いながら、義弘は一行と対面した。まずは小猿屋新之丞に対し謝辞があった。講のことで家臣領民が世話になっている以上、里見家は大檀那にも等しい。是非にも領内で富士を知らぬ者たちへの講を開いて欲しいと述べた。
「願ってもないことで」
 講を求められることは、御師としても有難いことであった。
「さて、武田の譜代衆がお越しとは、如何なる用向きか」
 里見義弘は物腰が柔らかい。父親の義堯は豪奢だったが、その片鱗が感じられないと、土屋昌恒は思った。
「越後との盟約は、その後も?」
 小山田信茂の言葉に、義弘は笑った。上杉謙信は天正二年秋に越山して以来、関東に姿を現していない。毛利家に身を寄せた足利義昭からの指図で〈甲相越一和〉に応じたためだ。そのことを口にしながら、明確に越後との関係に触れようとしない義弘は、存外したたかなようだ。
「上杉に倣い北条と結ぶのは、領民の意でないと?」
「北条は仇敵ゆえ」
 義弘ははっきりと応えた。この考え方は、その土地だけのもので、武田の物差しで考えてはいけない。この日は確信に踏み込まず
「庁南武田家に赴きたいが、里見とは敵対であったかな?」
「明確には敵視してない。なぜか?」
「御師の希望ゆえ」
 これは嘘だ。
 穴山信君に託された密書を、当主・武田豊信に届けるためである。
「御師のためならば、仕方がない」
と、義弘は庁南武田家へ仲介することにした。庁南城へ使者を送ると、翌日には迎えが来た。一行はそれに従い、庁南城へと向かった。
「里見殿」
「ん?」
「小田原と講和する意思があれば、甲斐が仲介するでのん」
「なんと」
「他意はござらん。海は穏やかなのがよろしいと思うまで。されば、庁南から戻るまで、ご思案のほど」
 見送る義弘に、信茂はそっと囁いた。義弘はやはり笑うだけで、返事もなかった。
 庁南豊信は一行を出迎えた。先の長篠敗戦に労いつつも、信玄死後の風聞がよろしくないことに言及した。戦うことだけに傾注しては、上杉謙信の二の舞だとも告げた。
「実のない勝ちより、蓄えのある外交。これこそ国の舵取りの基にござります。そのことを御親類衆筆頭は常に憂いてござる」
「さもありなん」
 穴山信君からの書状を拡げ、一瞥してから、思わず豊信は信茂をみた。大きく溜息を吐き、読みかけの書状を信茂に突き返した。
「内容を知っておるか?」
「関知せず」
「されば、答えよう。儂は庁南の人間にて、もう甲斐に戻ることはない。この玄蕃頭とやらに左様伝えよ」
 突き返された書状を、信茂は手に取った。内容は、勝頼を廃して甲斐の家督を継がれたしという誘いだった。豊信はそれを一蹴した。望郷の念よりも、庁南への愛着が勝っていた。それは、甲斐よりも上総で過ごした時間が長いことの、愛着そのものだった。その言葉に
「仰せの通りで」
 信茂はそう答えるしかなかった。
 この日、庁南城下で小猿屋新之丞の祈祷が設けられた。富士信仰の者が多い庁南では、御師そのものが信仰だ。すっかり気をよくした小猿屋新之丞は
「なんだか、竜宮城へきたみてえずら」
と、満足げに笑った。
「これくらいでいい、甲斐のことを思い出したくとも、もう忘れた」
 聴講する武田豊信は、寂しそうに笑った。
 翌日、佐貫城へ赴いた信茂たちに、里見義弘は微笑んでみせた。
「北条とのことは、きっかけが欲しかったのだ。父は北条嫌いで、死ぬまでその意思を曲げず終い。儂はな、戦さを避ける術を捜していた。江戸湾が鎮まれば、領民も助かる。小山田殿、当方の面子を損ねることなく橋渡ししてくれまいか」
 里見義弘の決断は、英断だった。従来からの方針を一新するものだ。しかし、江戸湾の静謐は、房総の悲願である。この決断に至った義弘の器に、信茂は感服した。
 
 交渉の結果は芳しいものだった。
 信茂は穴山信君に状況を報告した。庁南武田豊信のことは残念だったが、小田原外交の決定打を得られたのは大きい。また、信仰を餌に房総との折衝を試みた信茂の発案は、喝采ものだった。
「当代への報告のうえで、小田原へ赴くべきかのう」
「当代へはこちらから知らそう。房総のことは手段であり、目的にあらず。弥五郎殿の目的は、小田原との交渉成立であるゆえ、ただちに発つがよろしい」
「忝ない」
「儂は土屋惣蔵ともども、このことを躑躅ヶ崎へ報じよう。吉田までは御師も送り届けるゆえ、御安堵召されよ」
 信君の言葉に甘え、信茂は休む間もなく小田原へ向かった。江尻から小田原までは、馬を替えながら足柄経由で一日の道程である。小林尾張守家親と合流した信茂は、交渉の駆引きを綿密に打ち合わせた。面会の許可はすぐに出たが、信茂は慌てることなく、気を持たせるような間を置いてから推参した。
「して、里見は何と?」
 氏政は覗き込むような目線を傾けた。
「里見左馬頭(義弘)殿は聡明な御方ですなぁ。江戸湾の係争は、双方の利にならぬこと、よく御承知の由」
「されば」
「まずは和睦の条件を双方で提示なされよ。お互いの条件が一致すれば、この話は纏まることでしょう」
 おおと、北条家臣団がどよめいた。
「武田家には、大きな借りが出来てしもうたな」
 氏政が呟いた。
 里見との講和は、それほどの大事だった。例え譲歩が大きくとも、達成したいことだった。もしも信茂の橋渡しがなければ、その糸口さえ見出せなかっただろう。
「武田の誠意、疎かに致すまい。忝ない」
 氏政が神妙に頭を下げた。珍しいことだった。
「さればでござる」
 ここで、信茂は本題を切り出した。
 勝頼の正室は長いこと空席だった。然るべき御家から迎えたいという意向が強かったのだ。よって、気心の知れる北条家より、是非とも迎えたいのだと、信茂は明言した。
「武田と北条は、背と腹のような関係にござる。今より更なる結束を結びたい。このことは、当代御館の強い願いにござります」
 この美辞麗句には、誰も反論は出来なかった。
「何卒よしなに」
 信茂の口上に、北条家臣団は圧倒された。これに応えねば、恥を掻くのはこちらである。
「されば正式な使者を立て、武田殿に御返答したいが」
「心得てござる」
 信茂はただちに甲斐へと引き上げた。
「里見の前に、武田に筋を通すべきじゃな」
 北条幻庵は一族長老として、このことを早々に対処すべしと訴えた。重臣一同、異存はなかった。氏政も観念した。
「使者には儂が行ってもよいぞ」
 幻庵が身を乗り出した。
「大叔父に、山道は厳しゅうござる」
「他に誰がいる」
 北条幻庵の納得する人選に、氏政は苦慮させられた。それを納得させたとして、次は花嫁の候補である。誰が勝頼のもとへ赴くべきか。氏政は思案の末、勝頼の歳に見合う親族子女の内より、妹・妙を選出した。妙は齢一四歳、もう立派な大人だ。
 このことに一族からは異論がなかった。
「輿入れは年明けということで、使者に口上させよう」
 氏政はそう決定した。

 北条との縁組は、両家の使者が往還することにより、早々のうちに正式な約束事として定められた。勝頼は小山田信茂の功績を認め、直々に労いの言葉を掛けた。
「頼むべきは小山田、御苦労であった」
 勝頼の言葉には重みがない。
 武田豊信や里見義弘のような、人間的な重みがないのだ。その虚ろぶりは、腹立たしくもある。が、そのことを咎めても仕方がなかった。教えられず、学ばず、そうやって長じたのだから、どうすることも出来ない。
「孫子くらいは読んで欲しい」
 信茂も素っ気なく応じた。
「読んでいるよ、難しいな」
「いつから?」
「おまんが、江尻に発ってからじゃ」
「ならば、ご精進あれ」
 勝頼もそれなりに努力をしようと試みているのだろう。信茂は、そう思うことにした。

 房相和睦の糸口を得た北条氏政は、里見義弘の後継者である養子・義継へ自身の娘・鶴姫を嫁がせることで講和条件とした。
 里見義弘はこれを受け容れた。
 長年に渡る江戸湾の争いは終息した。双方ともに得るものは大きかった。


                  三


 天正四年に出た〈甲相越一和〉の話は、現実的なものではなかった。
 しかし、上杉謙信一己の所作が、結果として同様の結果となったことは偶然であろう。天正三年よりは関東への遠征をやめ、長篠敗戦後は川中島への侵攻を控えた。このことの背景には、越前越中の本願寺勢力と対峙がある。状況的には、三者の間に中立な状況が誕生した。足利義昭の顔を立てるためか、上杉謙信は〈甲相越一和〉に関して肯定も否定もしていない。
 この講和に滑り込みたいと考えていたのが、織田信長だった。
 上杉謙信の存在は、武田信玄に匹敵する脅威である。
 戦わずして、武力温存の時間を稼ぎたい。そのためならば卑屈な外交も厭わない。信長の強みは、明日の為に今を恥じぬ精神力にある。かつて信玄との外交も、そういう低姿勢だった。
 しかし、上杉謙信が講和を拒絶するならば、もっと恥を忍ぶことになる。
 そう、武田との講和だ。
 武田を取り込み越後包囲の一翼と為せば、万に一つの勝機はあるだろう。代わりに徳川家康が機嫌を損ねるだろうが、これと謙信を秤に掛ければ、死活問題の是非は明白である。
 信長はこの状況をじっと伺いつつ、本願寺との宗教戦争に全力を傾けていた。

 天正五年(1577)一月二二日。
 小田原からの輿入れ行列は、籠坂峠より山中を抜け、吉田宿を粛々と進んだ。見守る群衆は、壮麗な様に息を飲み、河口へと去り行く行列を見送った。そののち、河口で一息入れた行列は、御坂峠に至る。
 この郡内領通過の際は、小山田信茂の采配で、従者や輿担ぎに至るまで、温め酒が振舞われた。寒風のなか進んできた者たちには、格別の馳走である。こういう気配りが出来る者が当主にいるだけで、領民も同様に感謝される。郡内安泰の秘訣はそこにあった。
 姫の御輿添役である甲野内匠助は
「めでたきことに抜かりなき小山田殿の御采配、まことに有難い」
と、大声で感謝を示した。
 御坂峠を下って先は、跡部・長坂といった勝頼側近衆の采配で輿は誘導される。躑躅ヶ崎館は花嫁を迎える支度が整い、勝頼以下、整然と御親類衆が揃っていた。
「太郎は何処か?」
 勝頼は跡部勝資に質した。
「先ほどまで、おられたのですが」
「母となる御方をまともに迎えられぬでは、恥である」
「すぐに探して参ります」
 武田太郎信勝、このとき一一歳。先の正室・雪の方の子であり。
 若年慣れど聡明である。それがゆえ、今度の婚儀が、芝居じみた茶番のように映り、それが厭で、こっそりと館の外に出歩いていた。
「若殿、このようなところに居ては」
 見つけたのは、小山田屋敷にいた小山田平左衛門だ。すぐに館へ送り届けたが、勝頼は憮然とした口調で、御曹司衆を詰った。
「儂の一存、温井等に落ち度はない」
 太郎信勝は顔を背けて答えた。
「その方の軽はずみな所作で、叱られる者の身にもなれ」
「……」
 太郎信勝は口を曲げた。返事することも出来なかった。輿が着いたのは、そのときのことだった。輿から下りた一四歳の花嫁に、信勝は目を丸くした。僅か三つ年上の母の美貌に、思わずときめいたのだ。
 婚儀は極めて儀礼的だった。
 凝らした趣向もなく、退屈なものである。
 ああ、こういう退屈な男なのだろうな。白無垢の妙は、細面で無表情な夫となる男をちらと見た。戦国の女は性に旺盛だ。一四歳だろうが関係ない、妙は十分その道に通じていた。純潔な花嫁など勝頼には勿体無い。これが、氏政の気持でもあった。このあたり、氏政という男の人間性といえよう。
(退屈な閨なら、若い者を食ってしまおうかな)
 妙は脇に控える純朴そうな太郎信勝を見た。こういう若者を誑かしたいが、さすがに義理の母ともなれば、大名の正室としての人倫は重んじなければならない。片や勝頼も、未成熟な尻を久しぶりに堪能できる歓びに、笑いを必死で堪えていた。変態な夫と旺盛な妻、この取り合わせは、世間体としては
「似合いの夫婦」
という形で収まるのであった。

 この天正五年という年は、勝頼にとって再生を試みる試練であった。
 三月三日、諏訪下社秋宮の千手堂社および三重塔が再建され、勝頼をはじめとする一門が上棟式に参列した。諏訪大社は勝頼の母方である諏訪一族を大祝とする氏神であり、諸国諏訪信仰の中心地だ。この上棟式は、軍神・諏訪明神へ想いを寄せる勝頼の強い意思表示とも云えた。ただし、局地的な勝ちばかりを拾い、実のないことを繰り返しては、長篠以前と変わりがない。
「側近衆、過ちを重ねることなきよう、よくよく務め給え」
 参列する小山田信茂は、安部勝宝にそっと呟いた。側近衆のなかで物の道理を理解しているのは、この安部勝宝だけだった。
「長篠の後始末ほど、苦いもんはねえし。跡部大炊介殿はよく洩らしておる。馬場・山縣両名から、もっと学ぶべきだった。今になって、二人の重責が骨身に凍みるとな」
 安部勝宝の言葉に、そうだなと、信茂も頷いた。
「本当に大事なことは、戦さで勝つことではねえずら。四郎殿が図に乗らぬよう、よくよく睨むことじゃ」
「仰せ、肝に銘じまする」
 信茂は大きく息を吐いた。甲相同盟の強化により、今のところは東からの脅威を回避出来たが、予断を許さぬ状況であることに変わりはない。一歩間違えれば東西に挟まれて孤立無援となる。そうなれば、現在の武田家が単独で持ち堪えることも難しい。
 外交こそが、再生に向けた一番の政策だという信茂に
「さもありなん」
 安部勝宝は小さく呟いた。
                                
 夏になれば富士の山開きだ。それまでの支度で、吉田は活気に溢れていた。
「郡内だけは戦乱の影を落としたくねえずら」
 それが信茂の願いだった。吉田の新宿は規模が拡張している。
 御師のことだけではなく、商いについても、吉田は郡内の経済基盤だった。雪しろの直撃がなくなったことが、これだけの活気を自然と生み出している。
 吉田を一回りすると、信茂は馬を山中へと走らせた。籠坂峠には、好きを許す二人の山窩がいる。峠まで赴き、指笛を吹くと、半刻もせぬ間に二人が駆けつけた。この指笛は若い頃に〈イシ〉から習ったものだ。今では山窩との合図に用いる。
「風魔衆は年明け前から出入りしてねえ」
 山窩の報せに、信茂は頷いた。二人にとって、この富士東麓の原生林は暮らしやすい場所らしい。最初に会ったときよりも、ふっくらとしている。それだけ〈弥右衛門の子〉の下では居心地が悪かったのだろう。
 信茂は山窩を従えようとはしない。協力者として、対等に接した。上ナシという元来の掟に従うのが、漂白民の自然な姿なのだ。信茂はそれを尊重しているだけである。
「儂は近いうちに遠江へ出ることになるだろう。留守中は、頼むずら」
「任せておけ」
「北条と同盟を結んでおるので、暫くは静かだと思う」
「ありがてえ」
 山窩から際立った報せがないことは、この山麓が平穏な証である。吉田まで戻ると、一本道の街道で小山田八左衛門と出会った。
「上総より使いの者が」
「上総?」
 急いで谷村へ戻ると、上総からの使いとして、里見義弘の家臣・正木左近大夫頼忠が待っていた。この四月より〈房相一和〉の協議が始まったことを、とりあえず伝えようと参じたという。
「一和の仲介に立ったのは小山田左衛門大夫殿ゆえ、きちんと報告あるべしと、主から命ぜられました」
「律儀じゃのう」
「里見の殿は、人が好いのが取り柄にて」
 この正木頼忠は、若い頃は北条に人質だったこともある苦労人だ。ゆえに北条側へも顔が利くので、現在は一和交渉を任されているのだという。そういう人間だから、今回も小田原からここまで来たのだ。
「どの路で参られたか?」
 信茂は首を傾げた。最短の官道である籠坂峠を通行した形跡がないことは、信茂が承知している。正木頼忠は
「三増峠から」
と答えた。信玄の退却戦は、遠く房総の地でも評判だったという。その場所を歩いてみて、あらためて武田の戦さ上手を思い知らされたと、頼忠は語った。こういう熱心な家臣が居る里見家は侮れない。北条氏政が徹底抗戦よりも休戦を望んだのは、やはり手強い相手だからだろう。
「なかなかに御熱心であるな」
「まだまだ未熟ゆえ」
 正木頼忠は控え目に微笑んだ。
 時期でないため、まともな土産を持たせることが出来ず、信茂は身近なところから講札を数枚手に取った。三日前に小猿屋新之丞から頂いたばかりである。
「これは有難い」
 正木頼忠は両手でこれを頂いた。
 里見家中の身内にも富士信仰者は多い。この土産は大いに喜ばれると、頼忠は笑った。この夜、正木頼忠を谷村に留め置いた信茂は、小猿屋新之丞へと使いを発した。小猿屋新之丞は供を従え谷村に赴き、檀那である里見家の家臣に挨拶をした。
「こないだ上総へ行っただろ。小猿屋の話が評判だったから、こうして聞きに来て下されたのじゃ。よかったのう」
「まことで?」
「嘘じゃ」
 信茂は舌を出して笑った。そして、頂いた講札をすべて頼忠に渡したと告げた。
「いくらでも刷りますゆえ」
と、供が所持する札を一束差し出した。
「こんなに?」
「正木様といえば、いつも当家を御重用くださる里見の重臣です。これくらいのことは」
 このとき小猿屋新之丞は、日頃より文書を交わす正木時茂と、この頼忠の同族なのだと勘違いした。しかし、頼忠は敢えて否定しなかった。これも配慮というものだ。
 この夜は海を知らぬ身内や重臣が谷村に来て、色々と正木頼忠を質問攻めにした。実に好奇心旺盛だが、この隔てのない親密感は独特といってよい。これも信茂の人柄というものなのだろう。しかし、余りにも執拗な問いが多く、さすがの頼忠も辟易してしまった。
「客人を困らせるな、もう終わりにせよ」
 信茂の一言で、一同は引き上げていった。
「上下の隔てない親密ぶりは、当家でも見習いとうござる」
「真似こんするものではねえずら」
 正木頼忠の言葉には、些かの裏がある。
 里見家の後継者問題は既に始まっていたのだ。無論、信茂の情報網はそのことを察知している。御師とは便利なものだ。それゆえ、知らぬ顔を装うことも、やはり配慮であった。


                  四


 八月一〇日、保科正俊に南信濃の防衛体制を再構築するよう、勝頼は命じた。勝頼の目は三河・遠江を見ていた。このとき遠江方面では、武田・徳川の攻防が繰り広げられていた。二五日、勝頼は大井川を越えて徳川勢を攻めたてようとしたが、家康の嫡男・岡崎三郎信康はこれを凌いで、敵勢渡河を死守した。
 岡崎三郎信康。
 家康と正室・築山殿の子であり、才気に溢れる若者だ。これは、多分に今川家の血が濃い。ゆえに家康は、出自からの劣等感から、この煌びやかな嫡男を頼もしく思う反面、忌々しくも思っていた。
 信康の手柄は徳川勢を湧き立たせた。
 家臣の人望は、将来あるこの若者に向いている。そして、家康は面白くない。世の中には、こうして〈出来すぎる人〉が稀に登場する。〈出来すぎる人〉は孤高ゆえ、理解者が薄弱になる。信康もその一人だ。
 この当時、徳川家は二つの意見で割れていた。
 徹底的に武田へ抗うことで領土拡大を目指す派と、信長の内示による〈甲江和与〉への準備に従う派だ。前者は意気揚々な信康が旗頭である。無論、後者は家康だ。そのため、信康はこのとき大いに励み、家臣の信望を一身に集めた。片や家康は、必要以上の損耗を避ける振舞いに徹した。
 信長の意図は、まだ内々のことである。
 公に、勝頼へ申し入れすらしていない。その意思を行動にするためには、越後交渉の進展次第だった。しかし、このとき上杉謙信は仇敵だった本願寺と同盟し、信長と対峙していた。
 更にこの当時、両軍は手取川にて対陣していた。この戦さに破れたときこそ、織田・徳川・武田の三国同盟で上杉に対峙するべきだというのが、信長の考えだった。
 家康には、世の風向きが読み取れない。
 ゆえに、対上杉の結果を見届けるまでは、慎重を期する必要があった。
 このとき、小山田信茂の手勢や北都留郡の者たちは、勝頼の要請に従い、遠江に出兵していた。大井川の確保は、諏訪原城を奪われたため陸路からの高天神城補給拠点を回復するための、重要な行動だった。高天神を制する者は遠江を制すると云われるが、それは所有のみならず、維持を含めてのことだ。
 正直なところ、現在の武田家にとって、高天神城は重荷だった。
 穴山信君はこれを明け渡す見返りに
「徳川と和議を固めることこそ、国力回復の重大事」
と説いてきたが、勝頼にその意思はない。むしろ父にも落とせなかったあの高天神を保持することが、自身を軽視する御親類衆への〈示し〉なのだとも嘯く有様だった。これでは軍費ばかりが嵩むこととなる。
 穴山信君の意図と、織田信長の思惑は、この瞬間において、やや一致していたことになる。勝頼個人の認識だけが、意固地であった。遠江出陣は、高天神城保持のための意地に過ぎない。その意地に真っ正面から挑んだのが、岡崎信康だった。
 この対陣は長くはなかった。
 勝頼自身はすぐに陣を退き、後陣も一〇日を待たずして甲斐へ退いた。この後陣にいたのは北都留勢だ。軍の構成上、主将に据えられていたのは、加藤丹後守景忠の娘婿・次郎左衛門尉信景である。長篠で討死にした景忠の後継者である加藤信景は、小山田信茂に何事も相談する勤勉実直な若武者だった。
「国境の者は、北条とは敵味方になったりして遣り辛えこんばかりだったが、徳川とは縁もねえし。だから、遠慮なく戦えるずら」
 傍らの小菅五郎兵衛忠元が呟く。山縣昌景寄騎として、幾度も三河を駆けた歴戦の将である小菅忠元は、命からがら長篠より追われた雪辱を果たす機を望んでいる。
「五郎兵衛殿、大将首にはありつけそうにねえな」
 加藤信景の声に、如何にもと、小菅忠元は呻いた。
 この後陣の面子は、秋の収穫を終えると、出陣した勝頼に従い再び遠江に出陣した。今度は小山田信茂が彼らの大将となり、そのためか、手柄にありつけそうな陣立を得られた。国を離れてきたからには、合戦の手柄は勿論、略奪のひとつもしなければ、散財するだけの草臥れ損だ。手持の兵糧は一家の生活を左右する。元を取らねば家族に面目立たないという兵の気持は、信茂にはよく分かった。
 一〇月二〇日、勝頼は遠江小山城に入り、家康・信康父子は馬伏塚城に着陣した。
 このとき初めて、武田の主だった面々は信長からの和議があったことを知る。徳川勢も然り。
織田勢は手取川にて、上杉謙信に大敗した。
 この勢いで西へと攻められたら、かつて信玄が押し寄せたときの恐怖が再来する。
「儂はこの機に、織田弾正ともども徳川も滅ぼすべしと思う」
 勝頼の言葉には、温存と回復を顧みる反省が全くない。
「これ以上、先代よりの人材を損なうつもりか?」」
 同陣した穴山信君が詰った。岩村城から奪った信長の実子を交渉の駒に用い、東美濃・奥三河の回復をするため、形だけでも講和を結ぶべしと訴えた。
 勝頼は信君が嫌いだった。正論だとしても、素直に耳を貸す気にもなれなかった。
 このとき信茂はどちらにも加担せず静観した。決断は、このように筒抜けな陣中で行うものではない。今は目的を果たして、すみやかに兵を退くことが優先だ。講和の是非はそれから論じればいい。
「申し上げます」
 都留勢の斥候が徳川勢を迎え撃ち、取り逃がした。しかし、善戦の末に大将兜を拾ったというのだ。それは、岡崎信康のものだった。
「みろ、徳川の倅のものということは、奴らに講和の意思はないということじゃ」
 勝頼は息巻いた。
「徳川は割れているという情報もある」
 早計は危ういと、信君は質した。
「情報など、所詮は人の噂じゃ」
 勝頼は、即座に否定した。
「情報は重要であり、正否を見抜く目を持つことが重要。当代殿の曇った目では、せいぜいそれくらいの認識だろうなあ」
 つい、信茂は口に出した。
 じろりと勝頼が睨んだ。睨んだまま、腹で笑った。そのせせら笑いの見下す様は、一国の主にしては醜悪な態度のようで、信茂も呆れたような苦笑を浮かべた。
 この瞬間。
 猪突武者である勝頼を、穴山信君は心の底から見限ったのかも知れない。

 織田信長にとって、劇毒の如き者がいる。
 松永弾正久秀。
 世渡りと先見に長けた、この天下一の奸物は、上杉・本願寺の挟撃に逼迫する信長の将来を見限り反旗を翻した。このとき信長は、紛れもなく信玄が奥三河を席巻したときのような、危機的状況にあった。
「掃部助をこれへ」
信長は織田掃部助忠寛を手元に招いた。かつて武田外交を束ね、幾度も甲斐を往還した者である。
「おみゃあ、甲斐に行け」
「用向きは」
「講和でや」
「困難でござるな」
「信玄入道存命中は、我らも卑屈に徹した。今は情勢が異なるゆえ、卑屈になる意味もねえが、武田の隣に火種がある」
 上杉謙信のことだ。
 手取川での敗戦は、大きな痛手である。損なったのは兵力だけではなく、士気である。ゆえに、武田勝頼と和を結び、背後から上杉を攻めてくれたなら、何とも有難いことである。そのためなら、もう一度、卑屈な振る舞いも辞さぬ。
「武田四郎は器が小さいだろう。もしも激昂して害されたとしても、おみゃあ、喜んで殺されるべし。掃部助の家の子の跡は、きっと儂が責任をとるでよう。いいか、殺されてでも必ず講和を結んで参れ」
「必ず家の子のことを約されてちょう。きっと忘れまいらすな」
「忘れいでか」
 信長はそう云って織田忠寛を送り出した。
 そのうえで、三河より呼び出した酒井忠次へ、くどくどと武田との講和を進めることを命じた。甲斐本国に織田忠寛を送り出したそのうえで、駿河における武田の責任者たる穴山信君との独自交渉を行う権限を、酒井忠次に与えた。家康に背いてでも、きっと講和すべしという信長の意思を、忠次は尊重した。
「穴山とは武田の親族筆頭にて、その気にさせれば心強い。頼むでや」
「承知仕った」
「このこと、狸(家康)によう伝えるべし」
 信長は少なくとも、対上杉謙信のため、この時点においては、本気で〈甲江和与〉を結ぶつもりだった。さらに信長は、織田掃部助忠寛とは別に使徒僧を甲斐に派遣した。形式的にはこちらが正使となろう。『甲陽軍鑑』によると、京六角堂の照善院を以て、勝頼に対上杉の同盟を働きかけたと記されている。この交渉について、勝頼は長篠以降の立場を理由に一蹴したとある。
 この交渉は武田家中においても公ではなく、むしろ勝頼の独断といえよう。もしも武田を再生させるなら、このとき、北条・織田・徳川との戦闘状態を停止し、全力で内政の立て直しを試みるのが妥当な判断だ。四方に敵を持つよりも、かりそめとはいえ講和で軍費を抑えることが出来たなら、武田家の運命は大きく変わっていただろう。
 信長を巡る情勢については、伊勢からの情報がいちばん正確だ。
 その伊勢からの情報も、武田からの資金支援が絶え、小山田信茂からの微々たるものでは、質量ともに満足できるものではない。〈小山田すっぱ衆〉の情報にも限界がある。
 そんななか、〈小山田すっぱ衆〉の一人、数珠屋小澤彦左衛門が、とある情報を信茂に報じた。
「本願寺より真行大法尼様へ、幸若舞の舞台写本が献じられた由」
「本願寺?」
「顕如上人の御父・証如上人とはご入魂だったゆえとか」
「聞いたことがあるぞ。証如上人は、幸若舞が好きな人だったそうな。真行大法尼様は先代様(信玄)と御正室様に頼み込んで、石山本願寺まで幸若舞の御遊学をされた筈じゃ。その御縁だろうよ」
 真行大法尼は信玄の妹で、若くして出家した女性だ。信玄正室の伝手で本願寺に赴き、証如と幸若舞のことで意気投合したことは、多くの者の知るところではない。
 当時、武田家近習衆だった信茂は、甲斐に戻ってきた真行大法尼とも会話をしたことがあった。社交的で、学があるのに嫌味ではない、聡明な女性だ。たしか天文年間末に武州吉田村へ庵を結んだが、自身は甲斐に留まり、信玄の扶養で学問を重ねていた。
「大事な写本を贈るなんて、まるで、形見分けみたいですな」
「滅多なことを申すな」
 第一次木津川口合戦で織田勢を制した本願寺と毛利水軍は、瀬戸内海の制海権を掌握している。兵糧はここから運ばれており、ゆえに信長との徹底抗戦も可能であった。現状からみれば、不安要素はどこにもない。
 形見分け。
 そんな言葉が、実は信茂の心に引っかかっていた。
「まさかな」
 そう独り言を呟いても、何やら釈然とはしない。
 数日後、穴山信君の随行で、稀なる客が信茂のもとを訪れた。伊勢龍太夫だ。
「来年は清順様が常世渡りされて一三年、儂も隠居のつもりである」
「まだ若かろう」
「いや、神職に近い者は、相伝のために若い者へ経験をさせねば。せっかく清順様が為し果せた外宮正遷宮を絶やしてはいかん」
 伊勢龍太夫を随行した穴山信君は
「弥五郎殿は伊勢との情報に尽力されたが、恐らくは当代龍太夫以後の接触は、厳しいとのことじゃ」
と囁いた。訝しげに、信茂は龍太夫をみた。
「大きな寄進をする者がおる。武田からの寄進とは比べものにならぬでな、これまでは儂が無理を云ってきたのだが、伊勢の祭礼にその者の影響が大きく関わってくる」
「織田弾正か」
 龍太夫は頷いた。
 清順の後継者である周養は織田信長に接近し、経済支援を漕ぎ着けた。条件は、武田への情報提供を止めること。ゆえにこれまでのことは、すべて龍太夫の私的判断であった。微禄な信茂の寄進はただの喜捨程度に受け止め、こののちは武田と関わらず。伊勢神宮を巡る構造社会の決定だ。
「適わないな」
 信茂は苦笑した。
 商業基盤を握り、兵農分離を為し、外交の限りを尽くす信長には、こののち武田が勝てる要素などないではないか。知謀において及ばぬ信玄あってこそ、信長は武田に頭を下げてきた。その信玄なきいま、信長は武田に劣るものはない。
「玄蕃頭(信君)殿」
「ん?」
「和与のこと、急がねばなりますまい」
「そう思う」
 信長にとって上杉謙信は、信玄と同じ対象だ。勝てぬから平気で媚びる。戦っても勝てぬから、利がある者に和も請える。もし、謙信が消えてしまえば、織田信長は武田と和する理由がなくなる。
 信長に利があるように、武田にも利はあった。蓄える猶予が欲しい。時間を稼ぐためには、戦さのない期間が少しでも長いことが望ましいのだ。
「龍太夫殿の長きに渡る御厚情を嬉しく存ずる」
「弥五郎殿もどうか無事であれ」
「そのつもりずら」
 こうして、穴山信君ともども、伊勢龍太夫は去っていった。

 年の瀬が迫る頃、小山田信茂は羽置城へ足を運んだ。加藤次郎左衛門尉信景はこれを迎え、急のお越しを質した。
「国境である都留郡の地の利を見込んで、頼みがある」
「何か面倒なことを?」
「武蔵国の諸国御使衆にな、伝えたいことがあるのよ」
「どのような」
「上杉入道が関東遠征する場合、北条との誼で当方も援軍を発することがある。永禄三年のときに何を為したか、在野のことを知っておきたい。松山から当麻あたりまででいい、その土地のことが知りたいずら」
 さてと、加藤信景は首を傾げた。
 上杉謙信の関東遠征は随分とご無沙汰だが、さては動く予兆でもあるものかと、つい信茂に尋ねた。が、信茂は笑いながらも
「用心じゃ。上野国あたりでは、真田安房守も同様に動いている」
 成る程と、加藤信景は頷いた。
 武蔵国北条領に潜む諸国御使衆は、表向きには在地の者に溶け込んでいる。生計の術もまちまちだ。百姓や出家、ときには敵の家来にも紛れている。これらに繋ぎを取ることは、元来、武田家当主の一存であり、各地の頭目が下知をあらゆる手法で行っていた。
 勝頼はこの機能を生かしていない。
 ゆえに今日では、情報を多く司る家臣が、独自のパイプを用いて、関連する方面の在地衆と綿密に繋がっていた。彼らが窮乏する諜報資金は、これら情報将校により支えられることも多い。
 資金がなければ、在地衆は食うことで精一杯である。
 勝頼はこのことすら疎い。いや、側近衆が疎いというべきだろう。跡部勝資ですら、諜報機関の詳細をかつての宿老から聞いていない。ゆえに知らないという状況だ。
「武州葛飾郡吉田村の荒れ寺へ行って欲しい」
「はて、そこは?」
「そこは武蔵国に置かれた諸国御使衆の拠点であり、使番衆の情報が集められる」
 信茂の言葉に、加藤信景はただちに石井五郎右衛門を召し出して破戒僧を装い、その荒れ寺に向かわせた。戦国にあって清らかな出家ほど目立つ者はない。むしろ荒んだ風体こそ、自然なのである。石井五郎右衛門は〈上野原七騎〉と呼ばれる加藤家臣団の中心だ。
「供はどれほど付けてよろしいか」
 僧形を装うからには、仕込み錫杖以外の武器携行は厳しい。供を多く持ちたいと思うのが人情だ。
 しかし、信茂は敢えて
「三人まで」
と断じた。
 多すぎれば目立つ。これでは、困るのだ。
「帷子は許してくんにょ」
「それくらいはいいずら。北条の者に咎められても、拾ったというべし。それくらい、古くさい帷子がいい」
 このとき石井五郎右衛門には、ただ荒れ寺に向かい、住持に書状を渡してくることだけを命じた。ただし北条の領内も、よくよく観てくることが前提である。
 石井五郎右衛門が発ったのは翌日。云われた通りのことだけをして、半月後に戻ってきた。
「あの寺は何ですか。見てくれは荒れているのに、堂は小奇麗で信者も多い。儂なんか、まるで客みたいな扱いじゃったし」
 その問いに加藤信景は答えず、観たままの行程を聞き出した。北条領内は畑も荒れず、百姓も小綺麗だった。生活に余裕がありそうな印象すら感じたという報告に
「ゆっくり休めし」
 翌日、加藤信景は谷村に赴き、そのままの報告を告げた。
「百姓が小綺麗というのは、兵の徴用がない村なのだろうな」
 後日、吉田村から僧形の者が谷村を訪れた。持参した返書を一瞥し
「委細はお任せするし」
と、信茂は応じた。
 北条家は小田原城の拡張を重ねたこともあり、籠城に自信がある。よって、仮に上杉謙信が長駆してきても、途中では一切の戦闘をしない方針だ。
 永禄三年の教訓が、いまも生きていた。
「大したものじゃ」
 北条は上杉謙信と野戦で戦わない。恐らくは最善の策だろう。小田原城を囲む謙信の背後を、援軍である武田勢が突く。云い換えれば、他力本願とも受け取れる策だ。
「相変わらず、小狡い男じゃ」
 信茂はそう思った。
                                つづく
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登場人物紹介

小山田信茂    

甲斐国郡内領主。武田二十四将。武田家を裏切ったと定説される文武の才に秀でた武将。

父・信有に嫌われて育つが、それは出自にまつわる秘密があった。

小山田弥三郎信有

小山田信茂と腹違いの兄弟。嫡流として小山田家を相続するが、のちに病没。ということになり、信茂を支える影の参謀となる。

武田信玄

甲斐国主。智謀に長けた戦国最強の武将。小山田信茂を高く評価し、その出自も含めて期待している。

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