第4話「信仰と素波」

文字数 26,636文字


  信仰と素波


                  一


 弘治二年(1556)、武田勢は北信濃方面へ進撃した。塩田城に飯富兵部少輔虎昌を据え佐久方面を磐石とし、そこから千曲川沿いの豪族たちに威力と甲州金を用いた調略を用いながら、支配地域を広げていった。善光寺国衆・栗田刑部丞鶴寿が武田に付いたことで、善光寺平の南側はおおむね武田に属した。
 しかし、これら豪族を信用することは危険だと説いたのが、山本勘助だった。
「長尾弾正、肩書きを以て北信の豪族を従えております。力で切り従えても、どうにも人とは古き権威に弱いものにて」
「厄介だな」
 武田晴信は信濃の民情をまだ理解していない。
「人は欲得で動くもの。柳のように風に流されるものです」
「今は武田でも、長尾に鞍替えすると?」
「現に村上から武田に変わった者もおります」
「そうだな」
 長尾景虎は合戦に達者であり、こののちの障害である。これを除くことこそ重要であった。その策を、晴信は勘助に求めた。
「されば、越後に調略の手を」
「全てを任せる」
「はっ」
 前年、木曽義康を降伏せしめ、武田領は南信濃を完全に掌握した。
 北信濃の平定を急ぐ晴信は、越後の海を望んでいた。山国である甲斐は、海を持たぬがゆえに不都合も多い。相駿二国と盟約がある以上は、北に海を求める以外にない。
 山本勘助は人の弱みに付け入る天才だった。
 あらゆる伝手で情報を集め、窮地へ誘い調略で籠絡し、この年は越後随所で景虎への謀叛が相次いだ。さすがの長尾景虎も世を嘆き出奔するという騒ぎを起こしたが、家臣の引止めで思い留まった。その間にも越後の有力豪族・大熊朝秀が武田に応じ、謀叛の挙兵を引き起こしている。大熊朝秀はのちに敗れて甲斐へ逃れ、そのまま武田家臣となった。
 このような駆引きが活発に行われたのも、偏にふたたび越後との一戦を想定したもので間違いはなかった。
 一七歳の小山田弥五郎は、晴信近習だから色々と取り次ぐ。とにかく山本勘助の関連が顕著で、目が回るほどだった。しかし、生きた教材ともいえる。激しい調略と騙しあいの火花を、このとき弥五郎は、まざまざと見せつけられた。
 小山田の兄弟は、このとき、ふたつの岐路の先を目指していた。
 都留郡内の盟主を志す弥三郎信有。
 知略軍略を極めていつかは独立の武将を目指す弥五郎。
 それぞれの道は、前途多難だった。

 小山田弥三郎信有は、内政の苦慮に悩まされていた。
 上吉田の住民二〇人が小林尾張守貞親の非分を訴えてきたのは、この年のことである。全ての発端は、弥三郎信有の被官探題だ。被官探題とは、被官改めともいう。この任命にあたり小林貞親の行った行為か、もしくは任命そのものか、とにかく上吉田衆が非分を申し立ててきたのだ。
 三省堂大辞林曰く、非分とは〈自分の分を越えていること。身分不相応。過分。〉または〈道理に合わないさま。非理。〉という意味であるが、小山田の家老実績を思えば前者というより、後者とも受け取れる。任命早々に何か事を起こし、それが地元の反発に繋がったのだろうか。とまれ非分とはいうものの、重役である小林貞親を一方的に責めることも出来ない。弥三郎信有の任命根拠は、吉田全体の利になるためのものである。
 が、これは危険な訴えだった。
 地域豪族の寄合組織である郡内は、ただの一箇所の騒動が、全体へと波及に至る危険性もある。
「果たして上手な仕置はなんとしようか」
 四長老家に仰いだところで、決断に達することもなく、刻だけが無為に過ぎた。すると、上吉田の住民は思いがけぬ行動に出た。この沙汰を武田晴信へ訴え出たのである。
武田家が介入すれば、自治の権利も乱れる。
 四長老家は騒動の収束を騒ぎ、当事者の小林貞親は悪びれもなし。弥三郎信有は思わぬ面倒で、目眩すら覚えていた。
 晴信の裁可は迅速だった。
 上吉田の小林貞親被官屋敷を破却、上吉田衆は弥三郎信有の馬廻役へ配置転換。これにより小林貞親の面目は潰れた。しかし武田晴信に逆らうことも出来ず、とは申せ小山田弥三郎信有を責めることも出来ない。小林貞親は、内心、面白くもなかった。
 四長老家の意向も
「武田の意とあれば、是非もなし」
という統一見解だった。
 これには、理由がある。
 結局は手を汚すことなく、上吉田を小山田宗家の直轄に組み込めたのだ。このことは、内政面で大きなことだった。むしろ武田家の裁可に感謝したい程だ。
 非分問題は、こういう幕引きを迎えたのである。

 吉田には多くの御師がいる。
 御師とは、もともと〈御禱師〉という言葉であり、〈おいのりし〉と呼ばれた。これが縮んで〈御師〉となったという。『神道辞典』曰く、特定の社寺に所属し参詣者をその社寺に案内し、祈祷・宿泊などの便宜を図る宗教者とあるが、吉田御師は少し異なる。特定の社寺に所属せず、富士山そのものを信仰の対象としているからだ。
 富士山信仰は古い。
 戦国乱世にあっても、その信仰は日本全国に根付いている。その参拝に訪れた信者を支えたのが、吉田や河口の御師だ。迎え入れ便宜を図るだけではない、時には御札を配るために行脚をし、祈祷もした。それら御師に対する多くの施策が為されたのも、この年の特徴だった。
 御師への気配りは、小山田の生命線といえた。
 宗教とは、政治であり経済である。時として利を生むが、弊害も招く。厚く庇護し教団が力を増せば、一向一揆の如きものとなる。それでは国は成立しない。ゆえに政教分離は永遠の悩みどころといえよう。匙加減の巧みな者が、国を富ますと云ってもよい。
 弥三郎信有は小林貞親の仕儀から現実逃避するため、強いて御師への庇護を厚くしているのかも知れない。師走に相次ぐ諸役免除の沙汰を下したあたり、弥三郎信有がいかに御師を大事にしているか、世間に吹聴するかのようである。
 ただし、御師を厚遇する理由は、別にある。
 富士御師を記す貴重な文献『吉田御師由緒覚書』のなかに〈小山田家来すつぱ侍二十騎〉という名称がある。主に諜報を行ったとされているが、小山田家が武田家臣に組み込まれず同盟を保っているのは、偏にこの独自情報網を掌握していたからと云ってよい。武田晴信も諜報を重んじ、諸国に潜伏させている者もいれば、宗教活動の延長で間者と為した者もいた。そして、この諸国へ光らせる目を研ぎ澄ますためには、資金が必要だった。御師を厚遇するのは、その資金のためである。
 弥三郎信有は諜報の事がまだ理解出来ていない。これは四長老家で合議のうえ、采配していた。だから、弥三郎信有は御師を表面的に庇護していたと考えて正しい。
 とにもかくにも、このときの上吉田は小山田直轄の采配地となったのである。
 この年、もうひとつの非分問題が生じていた。こちらは下吉田だ。小林和泉守房実が多くの非分を行ったとして、下吉田衆一〇〇人が小山田家へ訴訟を起こした。先の小林貞親騒動を知っている小林房実は、狡猾な立ち回りを試みた。四長老を味方にしようという策である。まず小山田弾正有誠のところへ、日に三度も使者を差し向けた。付届けもあっただろう。すなわち下吉田衆の訴訟を阻止する圧力をかけるよう、依頼をしたのだ。小山田弾正家は境(現・都留市境)を領し、下吉田にも近い。この小山田有誠が小林房実に味方したことで、またしても弥三郎信有は苦しい立場に立たされた。
 下吉田衆と小林房実の立場。そして小山田弾正家からの下吉田衆への圧力。結果的に、下吉田衆の小林文三が府中に駆け込み晴信へと訴え出たのである。
「こういうことばかりでは」
 晴信は苦笑した。
 先代の出羽守信有のときには、立て続けの訴えなどなかった。若輩の弥三郎信有は領民に侮られているのではないかとさえ思った。
 郡内の内情はどうなのだろう。駒井高白斎がいたなら詰問にも事欠かないが、然るべき人材はない。かといって、このままにしておくのもどうか。苦慮の末、晴信は小山田弥五郎を呼んで、二件の訴訟事について語った。
「郡内とは、そんなに面倒な土地なのか?」
「面倒というより、地元意識が強いのでしょう」
「なればこそ、先の事例は民衆の立場を重んじたのだ。今度のことは、どうあるべきと思うか?」
「同じでよろしいかと」
「なぜ?」
「まずは争いの元を断つことが先にございます。『孫子』曰く、乱は治に生じ、怯は勇に生じ、弱は強に生ず。時間を設けて和解を進めることが、弥三郎殿の務めでござる。御館様はじっと見守ることが肝要かと」
「じれったいのう」
「三度目はないと、言及するだけでよろしいのです」
 晴信は頷いた。
 この五年、弥五郎は多くのことを修得している。傍目にも分かり易い成長だ。暫くののち、小山田弥三郎信有から晴信宛に訴状が来た。
「自裁のため小林文三を返して欲しいという。どうしたものか」
 熟慮の末、晴信は弥五郎を名代に任じ、小林文三を谷村に引率することとした。弥三郎信有に対する弥五郎の立場は、武田家近習である。その主張は郡内寄りではないことを訴えた上で、郡内自治は小山田主導が望ましいと口上した。
「有難い」
 弥三郎信有は呟いた。
 あらためて小林文三は谷村にて、下吉田衆の主張を弥三郎信有へ訴えた。この裁許の場に弥五郎も立ち会った。しかし、訴えられた側の小林房実は同席していない。弥三郎信有の苦慮がそこにあった。家老の面目を保たせる配慮といっていい。
 この裁許は下吉田衆の勝訴だった。そして、先例に従い、下吉田衆は小林和泉守房実の寄子から配置替となる。
(当主とは、たいへんなのだな)
 弥五郎は心からそう思った。

 この年、武田晴信は心痛に悩んだ。
 次男・次郎が疱瘡を患ったのである。次郎は一六歳、晴信はその聡明さを期待していただけに、いつになく狼狽えた。このように感情を露にすることなど滅多にない。
 疱瘡、当時は死亡率の高い感染症である。人の親なら当然の狼狽だ。霊験あらたかな神仏を方々に探した。やがて、八代の瑜伽寺の薬師如来の噂を聞きつけ、晴信は自ら参拝した。
「無事に平癒の暁には米穀を寄進しよう、隻眼とならば仏門に入れよう。もし、盲とならば、我が右目を次郎に与えたまえ」
 真実、これは父親の言葉だった。
 この祈りは、果たして神仏に届くことはなかった。次郎は弱視となり、武将として弓矢を鍛える道が閉ざされたのである。弱視ならばまだいいと、晴信は希望を捨てなかった。
 が。翌年、次郎の目は光を閉ざした。
 晴信は落胆した。それでも私情で振舞うことを戒め、気丈を装った。救いは、次郎の性根の明るさだった。目が見えないことを悲嘆せず、それゆえに為せることがあると公言し、前途を憂いなかった。この陽性は、やせ我慢ではない。運命を逍遥と受け入れ、それに沿って生きる。これこそ人の器量よと、次郎は口にした。
 たった一七の若者の言葉だ。
 晴信が立ち直ったのは、すべて次郎の
「人の器量よ」
という言葉に過ぎない。もしも目が健在ならば、さぞや立派な武将となったであろう。
 誰もが悔やみ、その結果を惜しんだ。


                  二


 弘治三年(1557)も、郡内は騒がしかった。
 昨年の反省を踏まえて、小山田弥三郎信有は吉田へと奉行衆を派遣し、色々と巡見させた。このなかに小林和泉守房実の一族とされる小林一兵衛なる者がいた。この巡見中、下吉田衆から小林一兵衛の悪口が相次いだ。谷村で裁判に及んだが、非は小林一兵衛にあることが判明した。この小林一兵衛はその後も問題を起こし、武田晴信を煩わせている。
 この騒ぎを尻目に、武田晴信は越後との合戦に備えていた。
 二月一五日、晴信は長尾景虎が雪で動けない間にと、葛山城に内応者工作を施した。前年、既に真田幸隆により落合三郎左衛門尉らの内応を得ていたから、城内は武田に傾く者が増していた。城攻めにより、程なく葛山は落城した。
 この間、松代において大掛かりな城普請の準備が為されていた。もとの場所は、清野清寿軒の屋敷地である。この清野清寿軒は戸石崩れの折に武田へ属したが、もともとは村上義清に付く者だ。義清が越後へ落ちたときに、一緒に従った。代わりに清寿軒の弟が武田に属し、在地豪族西条氏の名跡を継いで治部少輔信清を名乗った。清野屋敷は接収され、山本勘助が縄張りを構想した。
 この城は、のちに越後との一戦で重要な役割を果たす。

 四月二一日、長尾景虎が善光寺に布陣した。
 このときは城塞回復のみに徹し、五月になると景虎は早々に越後へと引き上げた。代わりに、景虎は高井郡計見城主・市河藤若信房のもとへ高梨政頼を差し向けた。高梨政頼は景虎の意を組み、市河藤若信房への調略を行った。
 市河藤若信房は先年武田側へ属したばかりの在地豪族だ。高井郡は甲越勢力の境である。
 市河藤若信房は悩んだ。双方どれかに属せば、他方から攻められるのは宿命だ。それゆえどちらに与するか、在地の豪族には死活問題である。
 市河藤若信房は、武田に懸けた。
 高梨政頼の手勢が包囲する中、使いの者は塩田城へ走った。これを取り次いだ飯富虎昌により、状況は甲斐に達した。晴信はただちに
「市河藤若を支援するよう」
と、佐久一帯に布告した。そのうえで密使を仕立て
「上野衆や北条からの援軍が上田に集結している。武田は見捨てない」
ことを市河藤若信房へ直接伝えた。
「武田の御館は、よく分かっている」
 これは北信濃の機微な情報さえ掌握している証だ。事実、武田の情報網は迅速で正確だった。現代風にいえばハードとソフトの充実と云ってよいだろう。ハードは、烽火と早馬だった。特に武田の烽火術は独自に工夫を凝らした機密事項である。この技術力で情報伝達を迅速に行うことが出来た。ソフトは素波を用いた正確さである。在地潜伏の者もいれば商人や僧侶もいたし、神職にある者もいた。信仰の布教と引換に得る情報は信憑性が高く、地元の本音が隠れている。事が生じる前に予測することも可能だった。
 市河藤若信房への支援は、このソフトとハードが最大限に活用されたものだ。二月に葛山城を調略した時点から、このことは充分に予測されていたのである。
 密使から一〇日後、今度は山本勘助が計見城に忍んできた。
「まずは御館様の密書を御覧あれ」
 そういって晴信の密書を差し出た。そこには、上州倉賀野城の原与左衛門尉を援兵とし、信州真田へこれを派遣していると記されていた。また、今後の援兵指図は塩田城主・飯富兵部少輔虎昌に一任するとも添えられている。
「猶可有山本菅助口上候」
 晴信の文面には、こう記されていた。
「御館様は近いうちに善光寺平へ向け出馬されよう」
「確かにか?」
「見捨てぬ。左様申すべしとの仰せじゃ」
「ほんに、人の心を握るのが得手である。これだから武田様には逆らえぬわ」
 市河藤若信房は、城兵の士気を高めるよう号令した。これを裏付けるように、晴信は板垣左京亮信安に命じ、戸隠山を越えて、安積郡小谷城を攻撃させた。板垣信安は晴信傳役だった板垣信方の娘婿であり、板垣の名跡を継いだ者である。
 七月五日、武田勢は安積郡小谷城を攻略したのち、善光寺平へ向けて転進した。武田の動きに、長尾景虎も反応した。
 八月下旬、甲越両軍は善光寺平上野原において合戦に及んだ。世にこれを〈第三次川中島合戦〉という。この戦場に郡内勢も参陣した。小山田弥三郎信有は武田親族衆に組み込まれ兵二〇〇〇で臨んだ。軍装は黒で統一された。この戦いは大規模な会戦がなく、小山田勢は威圧の役割を多分に発揮した。
 この合戦も長くはなかった。
 京都の室町幕府が、和睦の仲介に乗り出したのである。

 室町幕府、一三代将軍・足利義輝の時代。当時、幕府という組織は虚ろな器と例えられた。室町幕府を私化していたのは、管領・細川晴元の家臣である三好長慶と、更にその家臣・松永久秀であった。もっとも三好長慶にしてみれば、無能な高官に代わり、事実上、畿内の治安を平らかにした自負がある。
 ようは建前と実利の衝突だ。足利義輝はただの夢想家ではない。『穴太記』曰く〈天下を治むべき器用有〉と評されるが、それは諸国争乱の仲裁能力を指している。例えば、伊達晴宗・稙宗父子の内紛、里見義堯・北条氏康の抗争仲裁などがある。今回のように、武田晴信・長尾景虎の仲裁も行った。これは鉾を収める交渉能力が問われるもので、足利義輝はそれが長けていたことを立証した。
 その源泉は、恐らく胆力だろう。
 世に〈剣豪将軍〉と評されるとおり、足利義輝は武芸を愛で自らも精進した。例えば、新当流の達人・塚原卜伝から指導を受け、直弟子の一人とされた。剣技だけではない、弓馬も極めようとした。その頃、京には武田晴信に追われた小笠原長時がいた。小笠原長時は〈小笠原流弓馬術礼法〉の相続者でもある。
 剣も、弓馬も、個人を極める求道だ。幕府にあっては飾り雛に据え置かれる将軍は、一己を磨いて胆力を鍛えた。その胆力が仲裁という才を開花させたとしたら、実に皮肉な話である。
 第三次川中島合戦仲裁の利点は何か。
 足利義輝は幕府を傍若無人に采配する三好長慶と、静かな対立を続けていた。味方なき将軍が三好長慶に抗するためには、将軍に服従する強大な武力を必要とした。足利義輝が目をつけたのは長尾景虎だった。
 なんということはない。
 将軍は長尾景虎を上洛させたい一心で、〈第三次川中島合戦〉を仲裁したのである。この下心など、諸国に張り巡らせた情報網で知らぬ晴信ではない。
「信濃守護職の任官が条件なれば」
と将軍の使者に嘯いたところ、あっさりと承認された。
 これは大きな意味を持つ。
 以後、信濃守護職の名において長尾景虎と抗することが適うのだ。在地豪族にも聞こえが云い。
「してやったり」
と、晴信はほくそ笑んだ。
 長尾景虎は二年後に上洛した。
 そのときに
「信濃守護職に匹敵する位階を」
と望んで凱旋する。長尾景虎も、かなりの野心家だった。

 晴信の弟・武田左馬助信繁が躑躅ヶ崎館へ足を運んだのは、永禄元年(1561)四月のことである。これまで信繁は信濃衆への睨みのため、その懐柔に勤しんだ。信繁はすべて晴信の意とすることに徹し、私感を含めなかった。
 ゆえに人は、清廉潔白な信繁を
「武田の副将よ」
と慕い崇めた。
 信繁の官位である左馬助を、唐名で〈典厩〉という。馬寮の長官を務める官職という意味が、左馬頭・右馬頭(従五位下)であり、唐ではこれを典厩と呼ぶのだ。
 ゆえに人は、信繁を
「典厩様」
と呼び親しんだ。
 これを呼び名としたのは、日本では他に細川典厩家しかなく、これを自然に浸透させる気品と鷹揚さは、まさに副将たる信繁ならではのものといえよう。
「如何した。信濃で何かあったのか?」
 その来訪に驚いた晴信は、人払いを命じ、差し向かいで信繁をみた。
「信濃衆の配置を具申に参りました」
「そなたの見立てゆえ、きっと大事なことなのだろうな」
「是非にも」
「承る」
 かりそめの和議は早晩破棄されよう。きっと越後勢と一戦交えることとなる。そうなれば、重要なのは拠点の守りだ。信繁は海津城普請準備の山本勘助と意見を重ねて推参したのである。絵図を拡げると、信繁は三つの城を指した。
「水内郡の柏鉢城、更級郡の大岡城、それに埴科郡の尼巌城か」
 晴信が読み上げた。
「この三つは、善光寺平の南を抑えるもの。その真ん中に、勘助が縄張する城がきます」
「三つの城でいいのだな」
「三つが連携すれば、越後勢に備えることが適うものと」
 口髭を撫でながら、晴信は低く呻いた。
「で、何を、どうせよと?」
「在番衆と譜代を交えた配置に変えて頂きたい」
 信繁は懐から名簿を出した。その筆跡は、勘助のものだ。
 尼飾城には、小山田備中守昌辰・真田弾正忠幸隆と佐久の北方衆。柏鉢城には、諸角豊後守虎定・大日向上総介直武と伊那箕輪衆。大岡城には、市川梅蔭斎等長・青柳近江守清長。
「譜代と信濃先方衆の混在か」
「その背後に塩田の飯富兵部がおります」
「で、なぜか?」
 混成軍の利点を晴信は質した。
 信繁は腕組みをしながら
「ところで」
と、話題を変えた。
「小山田弥五郎を呼んでくだされ」
「弥五郎を?」
「このこと、勘助の意もあれば」
「妙な話だな」
 怪訝そうに晴信は弥五郎を呼んだ。信繁と弥五郎が顔を合わせるのは、大善寺以来である。
「おお、いつまでも子供だと思うていたが、すっかり大きくなったな」
「典厩様も、御壮健でなにより」
「こいつめ、世辞まで云えるとは、大した成長ずら」
 信繁は手招きして、さきの絵図と配置したい者の名を告げて
「なぜこの人選か、わかるか?」
 弥五郎に質した。
 暫く絵図と名簿を見比べて、弥五郎は顔を上げた。
「孫子曰く。戦勢は奇正に過ぎざるも、奇正の変は、勝げて窮むべかざる」
「そのこころは」
「軍勢の組み合わせ次第で縦横無尽に変化する攻撃は、誰も予測する事ができませぬ。譜代には長年の軍法があり、先方衆は各己で受け継いだ技がございます。これの混成は、攻め難きものかと」
 上出来だと、信繁は笑った。
「当たり前すぎるぞ」
 呆れたように、晴信は呟いた。しかし、この配置の真意は解せぬと、弥五郎は言葉を継いだ。
「真田弾正殿までも信用能いませぬか?」
 どういうことかと、晴信は訊ねた。この組み合わせは、露骨な監視でもあると弥五郎は応えた。
「監視?」
「上杉に靡き易い者を分散し、譜代の影響下に置いてござる」
「弥五郎、それはまことか?」
 信繁はにっこりと笑った。
「よく学んだな、弥五郎」
 これこそが勘助の真意だと、信繁は答えた。
「疑い過ぎては、心が離れる」
「既に信濃衆の大半は、上杉から調略されております」
「なんと?」
 信繁の妻は佐久の望月盛昌の娘である。望月一族は巫女忍が多い。隠密裏に調べ上げた結果、人選にある先方衆は、上洛より戻った長尾景虎から書状を受け取っているのだ。
「ばかな」
「地の者の情報は、確かです」
「そうか、そうだな」
 晴信も頷いた。この人選は迅速に沙汰することとなった。
 信繁は弥五郎の精進を褒めた。ここまで孫子を学ぶとは畏れ入ったと、笑った。
「大善寺謹慎の折に典厩様より承った孫子を、朝に昼に読んでございます。されど浅学を恥じ入る次第にて」
「儂の知らぬ間に、勘助から教わることもあったそうだな」
「はい」
「勘助の教えをどう思った?」
「孫子は所詮、空論。それを実践して、初めて理に適うと」
「上出来じゃ」
 信繁は充分だと頷き、晴信をみた。
「弥五郎、下がっていいぞ」
「は」
 弥五郎が退席し、一瞬、静かな刻が流れた。
 雲が流れているのだろう、やや陽が翳り、再び室内が明るくなるまで、信繁は何事かを思案しているようだった。
 やがて。
 信繁は更なる懐紙を晴信に示した。
「なんじゃ、これは」
「弥五郎の諱はまだありますまい。もし、お考えでないのならば、なにとぞ御参考に」
 そこには、〈信茂〉とあった。
「一字違いですが、我が諱と同じにて」
 弥五郎の精進を見定めたので、提示したのだろう。懐紙は黄ばんでいるから、随分前から考えていたに違いない。そこまで弥五郎を気に留めているのなら、この意は汲んでやらねばならない。
「このこと、時期をみて」
「有難きかな」
 ところでと、信繁は言葉を継いだ。
「ゆくゆくはうちの三郎を、望月へ養子に出そうと思うております」
 信繁は佐久の安定をはかるつもりだ。
「誰の養子にするつもりか」
「望月左衛門佐が適当かと」
「大丈夫か?」
「いつまでも、好きにさせておけませぬ」
 望月左衛門佐信雅とは、佐久侵攻にあたり最後まで武田に抵抗した一人だ。これを許し望月惣領を承認したが、晴信はこれを未だ信用していない。成る程、武田に取り込んでしまえば、以後の望月は、決して裏切ることはないだろう。
「よいことだ。時期をみて養子にするがいい」
「はい」
 三郎の望月家養子入りは二年後、一七歳のときである。
「して、次郎よ」
 晴信は信繁を、強いて幼名で呼んだ。
「おまん、弥五郎へこんねん(こんなに)入れ込むんは、どういで(どうして)か?」
「恐らくは」
「恐らくは?」
「兄上と、おなし(同じ)かんげえ(考え)だあよ」
 晴信は意地悪そうに口元を歪めて笑った。
 信繁もまた、上目遣いでほくそ笑んだ。
「よく父上の目を盗んで、こんなやり取りをしましたなぁ、兄上」
「おまんは人の心を読むのが得手じゃったし。今も、我が意を読んでいるんじゃろ。恐い弟ずら」
「兄上を裏切らないことだけが、取り柄じゃ」
「これからも頼りは、おまんだけじゃわ」
 晴信は心からそう思っていた。身内は最大の敵というこの時代、最高の信頼を寄せる弟を持つことの果報を、晴信は強く噛み締めていた。

 武田典厩信繁がその一族のために〈家訓九十九ヶ条〉を定めたのは、この四月のことである。


                  三


 五月。
 予てからの約定通り、瑞林寺使途僧が、将軍・足利義輝の内書を携えて甲斐に下向した。
「丁重にお迎えするように」
 晴信は将軍に接するが如く、使途僧を出迎えた。
 長尾景虎との休戦に応じる交換条件として要請した信濃守護職を、武田晴信は正式に任じられたのである。このとき嫡男・義信についても、建前とはいえ、三管領に准ぜられた。
 戦国武将の常識と、幕府の常識には違いがある。
 約束に関する通念だ。戦乱に明け暮れる戦国の武者にとって、約束とは、必ず守るべきものでは断じてない。都合により、いつでも反故に出来る。事実、晴信は大義名分さえ手に入れれば、景虎に遠慮をする気など些かもない
 ただし、事を起こすには、何事も、機と理由が必要だった。
 この点が慎重だ。
 奪うだけではなく、民意まで根こそぎ支配する。これこそ領国支配の基本だ。侵略者ではなく為政者でなければ、国は太く大きく育たない。信濃を奪ったうえは、そこを富ませてこそ次に進めるのである。
 晴信とは、そういう人物だった。

 富士山の山開きは毎年六月一日である。
 これに合わせて信者は集い、御師は迎える支度をする。富士は女人禁制の山だ。しかし熱心な女性信者は、同行する男性が無事に下山するまで吉田から拝し、滞在もした。
 僅かな時期、登頂が出来る間の吉田は活気に溢れた。それは、富士を信仰する者にとって、人生のすべてを賭した季節なのかも知れない。ここでいう六月一日は旧暦に基づく。山仕舞までの間、山頂の祠に参詣する行事を富士詣と云う。新暦に正すと七月一日が山開きであり、七月二七日を山仕舞としているが、今日の富士信仰はこの換算に準えている。
 吉田の富士信仰には、古い歴史がある。今日の富士講とよばれるものは、長谷川左近邦武こと角行の説いたところが大きい。角行は永禄元年に人穴で修行をしたのだとされる。しかし、この角行が来る前から、郡内には御師はいた。それを庇護したのは、小山田家である。角行が富士修行をはじめたこの年、やはり多くの信徒や行者たちが、富士の嶺を目指した。
 見上げれば碧々として、優美な撫で肩の女神の山である霊峰富士。
 さりとて一歩頂きへ向け踏み出せば、狂暴なまでの急峻が信者を苛む。時には気候風土に悩まされ、風雨に凍え、予測もない鳴動に怯える。この苦しみに打ち勝ち頂きに立ったとき、人は何か価値観が変わるとともに、己の小ささと謙虚さを顧みる。
 富士山とは魔性を秘めた山であり、その魔性こそ信仰の源であった。
 例えようもない信仰に惹かれて、多くの信者は吉田に集った。この季節、郡内は最も活気に満ち、人の往還に伴い物資が流通した。農作物の収穫が少ないこの土地は、この季節、信仰だけを頼りに経済を活性化した。それが、生きていくうえで必要なことだった。

 そして、この年九月二五日。
 国中にひとつの信仰が増えた。甲斐善光寺の創建である。もとは信州にあった善光寺が、なぜ甲斐に開山しなければならないのか。すべては相次ぐ川中島合戦のためだった。二度目の対陣の際、先に移転を試みたのは長尾景虎である。このとき景虎は、善光寺大御堂本尊の善光寺如来や寺宝を越後へ持ち帰り、直江津に如来堂を建設した。浜善光寺と呼ばれるのが、それである。
 武田晴信は、それに対抗したに過ぎない。
 ただし、物的移転に留まらず、善光寺機能も含めて移転を進めたところに、晴信の信仰に対する理解が垣間見える。このとき晴信は、善光寺本尊の阿弥陀如来像や寺宝を一旦小県へ移し、迎える建築物を設けて甲斐へと移転させた。と同時に、善光寺別当・栗田刑部大輔寛安をも甲斐に迎え入れたのである。
 正統を主張するためには、然るべき立場の人物が必要だ。
 晴信はそのあたりが周到だった。『塩山向嶽庵小年代記』によると、善光寺如来は永禄元年九月一五日に甲斐に到着したとある。『王代記』によれば九月二五日の到着だ。その差は一〇日であるが、この時期に善光寺如来が甲斐へ来たことに違いはない。領民は大いに喜んだだろうと推察される。善光寺如来は仮堂に安置され、一〇月三日から板垣郷で普請が開始されたことが『王代記』に記される。この甲斐善光寺は、これより武田家の盛衰を間近で見つめていく。
 七日、晴信の巡見に従った小山田弥五郎は、普請中の本堂を見上げていた。
「こんな大きな寺など」
 感嘆する弥五郎へ、晴信は愉快そうに
「信州の善光寺は、同じ大きさだ」
「へえ」
「今に見ることもあるだろう。それまでは甲斐の善光寺をたっぷりと拝んでおけし」
 季節は秋風から凩に変わろうとしていた。
 晴信はこののち長禅寺へ向かった。母・大井の方の月命日である。晴信は墓前に手を合わせ、住持の岐秀元伯と親しく言葉を交わした。ここには母の肖像画がある。五年前、大井の方の一周忌に描かれたものだ。筆を取ったのは、晴信の弟・武田刑部少輔信廉である。容姿は晴信に似ているが、どこか浮世離れした風で、画才に長けていた。
「孫六(信廉)は坊主にでもなった方がよいのかも知れぬ」
 時折、晴信はそう呟いた。
 武将に画才は必要ではない。なまじ得手なだけに、そう評したのである。出家者ならば才を世に生かす道もあるだろう。しかし、信繁がそれを制してきた。
「世に無用なものなどございません」
 信繁の言葉だ。
 晴信もこれには従わざるを得ない。
「神仏に帰依なさるのは、いいことなれど、形ばかりでは有難味もございますまい」
 岐秀元伯は柔和な笑みで呟いた。
「仰せの意味が分かりませぬ」
 これは一種の公案だろうか。岐秀元伯は微笑むばかりだ。
「形ばかりとは。形がなければ、人は神仏を思い描けませぬ」
「思い描くのは、何でしょうな」
「さて」
「意味が分かりましたら、ここへお出でませ」
 晴信は首を傾げるばかりであった。
 
 翌年、海津城の普請が本格的に着工された。
 山本勘助は、この海津城が善光寺平における定石になると考えている。そのため千曲川そのものを濠に見立て、更に流水を引き込み、平城ながらも攻め難い縄張りを考案した。
 あとは、一刻も早く、これを完成させる必要があった。
(いつ越後勢が動くか)
 その焦りとは裏腹に
(いまのうちに)
という気負いもあった。
 素波の報せによれば、長尾景虎が再び上洛の準備をしている。先の合戦で停戦に応じれば上洛するという約束を、景虎は忠実に履行する気なのだ。
「鬼のいぬ間に事を為す」
 これが勘助の一念だった。


                  四


 永禄二年新年早々、吉田を雪しろが襲った。これさえなければ、吉田はもう少し栄えるのにと、被災救援に人を差し向けた弥三郎信有は溜息を吐いた。
 当主となり数年も経ると、弥三郎信有にも、それなりの考えや方向性が生まれてくる。支配地をどう治めるかという知恵と、人をどう動かすかという欲だ。これは当主として、自然な想いである。
 この想いと現実というものは、常に一致するものではない。少なからず、不一致が生じる。その差を如何に埋めて目的に近づけることが出来るか、これが、当主の器量というものだろう。
 弥三郎信有は人品申し分がない。思慮もある。しかし、華がなかった。こればかりは精進で得られるものではない。生来の生真面目さが醸し出す、残念な部分としか云い様がない。堅実な存在は頼りがいがあるものの、どこか孤高で体温を感じさせない。決して悪いことではないが、集団の飾りとしては面白味がなかった。
 こればかりは、どうしようもないのだ。
 だから、弥三郎信有は堅実を磨くこととした。何事も、むしろ極まればそれが武器となる。郡内の潤う方策はないものか、弥三郎信有は真剣に考えた。阿祖谷を中心に伝わる織物業が外貨への一端になればと思い、奨励策も始めた。それは、簡単に効果の表れるものではなく、根気を予見させた。これが〈郡内縞〉として脚光浴びるのは、これより遥か先の世のことである。
 当面、郡内の経済を支えた土台は富士信仰だ。
 四月一四日、弥三郎信有は
「富士参詣の道者が、領内に悪銭を持ち込まぬよう、厳しく見張るべし」
と、吉田御師・小沢坊に申し入れ、近在の御師にそう伝えるよう命じた。
 悪銭法度のことは、郡内独自の触れである。
 このことは武田晴信が布告した『甲州法度之次第』とは異質である。

  悪銭の事、市中に立つの外之を撰るべからず
                   (『甲州法度之次第』第四二条)

 つまり晴信の法においては、悪銭は市場で流通する場合は選り分けられるが、町中以外において撰銭してはならないことになっている。しかし、弥三郎信有はこれに縛られず独自の方針を優先した。それほどまでに、信仰に基づく通行税や喜捨は、小山田の財源の根幹だ。いや、死活問題といってよい。ゆえに、御師へも厳しく取締を求めた。
 それだけではない。対策のため参詣口に役所を設け、奉行を置いて悪銭改めを行った。悪銭は賽銭として造営の助用にはならぬうえ、このことは神慮に背くことであることを訴えた。
 御師はその正論に頷きつつも、厳しさが信者の足を遠ざけることを恐れ、長年の慣習に頼ろうとも考えた。しかし、弥三郎信有はそれを許さなかった。
「悪銭改めが行われていない場合には、御師を改易するものである」
 これは本気だろう。
 生真面目な弥三郎信有は、きっとこれを実施する。御師たちは、悪銭法度を受け容れざるを得なかった。
 自然と、弥三郎信有へ恨み言が重なった。その真意が、御師の経営安泰にあることを、彼らは顧みない。ただ堅物の施策を嘆き恨むのであった。
まさに
「親の心子知らず」
であった。弥三郎信有に他意などあるはずもない。当主として、思う儘に私欲のない決断をしただけだった。これを庇う者はいなかった。四長老家も家老衆も、悪評を恐れて説明に徹することを怠った。狡いといえばそれまでだが、これが人情でもあった。
 小山田家は人材を育てる余裕がない。このときの郡内は、紛れもなく寄合所帯だ。ゆえに悪評はすべて一人が負う。弥三郎信有にとっては、不幸だった。

 同じ頃。
 京洛の片隅に、長尾景虎がいた。軍事力と豊富な財源を背景に、景虎は朝廷工作を行った。無欲で義侠とは思えぬ程の、徹底した官位への執着がそこにはあった。
 将軍・足利義輝はこれを叶えるべく後押しした。
 景虎が在京の間は、三好も松永も首を引っ込めて表立った干渉をしない。久しく忘れていた将軍らしい心地だ。とにかく帰国を引き留め、一日でも長く京にいて欲しいと、義輝は縋った。
 景虎在京時、足利義輝はとある御内書を発する。
 六月二六日、今後の関東管領上杉憲政の処遇については、景虎の判断をもって取り計らうべきこと。および武田晴信と抗戦中の信濃国諸侍への援助については、今後は景虎が差配するべき。
 長尾景虎の狙いは、これだった。
 関東管領を庇護し、信濃守護以上の公権力で信濃への影響を持つ。無欲の顔をかぶった貪欲な大願成就といえよう。信濃守などは、この御内書の前では無力である。更には庇護している上杉憲政からの名跡譲渡、関東管領職の譲渡を、口約束から幕府公認に確約させるしたたかさを見せた。
「関東管領として、幕府の威光を東国に知らしめる策がございます」
 景虎は大義名分にこだわった。
 大義名分は労なく人を従わせることが出来る。北条氏康は古河公方を傀儡にしているが、これも立派な大義名分だ。晴信が信濃守護にこだわったのも、そのためである。景虎の策とは、新しい秩序の構築と反する者を討伐する正当性の主張だった。
「まずは新たな関東公方として、関白の御足労を願います」
 関白・近衛前嗣はこの上洛で景虎がもっとも懇意とした人物だ。現職の関白ならば傀儡の古河公方より威光はある。逆らうことの罪を覚えた者は、きっと景虎に従うだろう。それは関八州のみならず、信濃・甲斐にも及ぶものである。
 この大義名分は、厄介なものだった。
 人は生きている限り、大なり小なりの後ろめたさを抱いている。真っ当なつもりでも、どこかで罪悪感も隠せない。それが人の業というものだ。この時代、如何に戦国乱世とは申せ、下剋上は全国に定着していない。多くの者は強き貴種に従い富国に徹している。それに取って代わった者は力なき貴種から実権を奪ったに過ぎず、実力ある貴種は依然として出自が看板だった。これに弓引くことは、まだ心に残されている良心を迷わせた。
 景虎の公案は、東国への踏み絵だ。
「関白に逆らえるか?」
 この突きつけられた問いの答えは容易に見出せまい。
「逃げるか」
 或いは思考を止めて
「降参」
するか。それが大義名分というものだ。そして逆らう者には、大義名のもと、長尾景虎の天誅を被る。
 京には武田の諜報機関が潜伏している。景虎のすることは、矢継ぎ早に甲斐へ知らされた。連日のように飛び込んでくる報せに一喜一憂した武田晴信だったが、関東管領相続のことは、さすがに言葉を失った。
 もしも関東管領を長尾景虎が襲名したら、信濃国はどうなるか。晴信が一〇数年を要して切り取った信濃国である。その地に棲む者の本質が変わらぬ以上、信濃守護職以上の権威に迷うだろう。人は武田から離反し、長尾の拾った大義に飲まれる。
 人心を繋ぎとめるのは、それ以上の信頼しかない。だからこそ、晴信はその厄介さに苦悩した。
「徳のある坊主ならば、斯程の苦労もないのにな」
 つい、独り言を呟いた。
 晴信は、一瞬、所作を止めた。そして、自分の言葉を反芻しながら、みるみると目を輝かせた。
「これだ」
と、叫んだ。これこそ岐秀元伯の公案を解くものだと悟ったのだ。大声で、弥五郎を呼んだ。
「何事で?」
「長禅寺にいく。ついてこい」
「如何なる御用で」
「仏門に帰依するのよ」
「はあ?」
「いいから、ついてこい。来ないなら、置いていくぞ」
 供せいと云いながら、置いていくと嘯く。なんとも扱い難い国主である。それにしても仏門などと、どこまで本気か、冗談か。
 岐秀元伯は予想していたように、悠然と晴信を迎えた。
「禅師に得度を頼みに参った」
 弥五郎は絶句した。
 本気だと知ると、必死で引き留めた。
「弓矢で敵わぬ戦いがある。そのためには、儂自らが僧となりて、皆の象徴である事こそ大事なりや」
 岐秀元伯は柔和な笑みで頷いた。
「先日の公案が解けましたな。神仏に帰依なさるのはよきことなれど、形ばかりでは有難味もなし。もはや還俗する気など?」
「毛頭無し」
「されば、この岐秀が導師となりましょう」
 岐秀元伯は、やはり柔和な笑みで呟いた。
「ちょっと……こんなこと、止めなければ、それがしが叱られます」
「大丈夫。心配はいらぬ」
「そういうことでは、ああ、ならば和尚。儂もまとめて剃髪を!」
「素惚け!子供のくせに生意気いうな!」
 この騒ぎに、長禅寺の小僧はつい気を利かせて、近場の一条屋敷に駆け込んだ。主の一条右衛門大夫信龍は、晴信の異母弟だ。すぐに府中の家臣等にこのことを触れた。程なく大勢が長禅寺に駆け込み、戯れが過ぎると訴えた。
「戯れにあらず。もはや越後との一戦は武のみでは如何ともし難い。神仏の弟子とならねば危ういものである。これ以上引き留めるなら、その者は我が家臣とは金輪際思わぬものなり」
 家臣たちには晴信の云う意味が、全く理解できなかった。
 岐秀元伯は、柔和な笑みで一同にこう諭した。
「権威に裏付けられた大義名分に対峙し得るは、俗世と無縁の為政者のみと覚えたり」
 ああと、若い飯富三郎右兵衛が声を挙げた。
「越後の長尾弾正は関東管領職を譲り受け、名門上杉家の名跡も継ぎ、関白を後ろ盾にあらたな国盗りを始めると聞いたずら。御館様が法体となりて神仏の御加護を得ると叫べば、不安な信州の輩も安堵いたしましょうぞ」
 岐秀元伯は頷いた。若いのに賢いと、褒めた。晴信の周りでは、若い力が育っていた。
「なれば、儂の頭も剃ってくれ」
 前に出たのは、原美濃守虎胤だ。
「御館を裏切り北条に奔った罪を拭いたし。御坊、頼む」
 拒む理由はなかった。
 晴信は合掌姿のなかで、剃髪した。家臣等はそれを黙って見守った。
 得度を終えた晴信は、まるで別人のようだった。これまでの知的な才人の印象から、心なしか近寄り難い貫禄が増した。その神々しい表情で
「どうだ、弥五郎。見違えたか?」
 同じ口調を発しても、どことなく別人のようだ。
「どれ、御館に法名を授けようか」
「承る」
「これよりは、〈機山信玄〉と名乗るべし」
 信は武田家代々の諱であり、玄は〈はる〉とも呼ぶので晴信に通ずる。この晴の一字は足利義晴より賜ったものであり、これを残すとは、岐秀元伯も心憎い。更には唐代中国の臨済義玄の一字にも通じ、縁起がいい一文字といえた。
 以後、晴信はその名を信玄と改める。
 原美濃守虎胤は入道清岩と改めた。この報せはたちまち信州へ伝播した。なら己もと、剃髪に及んだのが、真田幸隆と山本勘助である。真田幸隆は一徳斎と号し、山本勘助は入道道鬼と号した。
 この報せは、長尾景虎の権威付に揺らぐ信濃先方衆の心を更に掻き乱し、どちらに付くが筋であるかを、秤に掛けることにも繋がった。
 そのしたたかな国人たちは、結論を意外なところへ運ぶこととなる。

 七月一八日、弥三郎信有は諏訪浅間社にて、戦勝祈願を行った。この諏訪浅間社、今日でいう北口本宮富士浅間神社である。当時、この一帯は諏訪森と呼ばれる聖地だった。
 永禄二年の合戦祈願は、信濃方面ではない。西上野である。上杉憲政が越後に去ってのち、関東の情勢は北条氏康に靡きつつあった。それでも合戦巧者が中原にあって、その行く手を阻んでいた。武蔵国では大田道灌の末裔・資正、上野国では箕輪城の長野業政であった。北条氏康が武蔵国に手こずる頃、武田信玄は佐久より西上野への侵攻を開始していた。この年は、安中城まで長躯しており、弥三郎信有もこれに随兵したのである。
 この侵攻は、武田ならではの堅実な戦法だった。
 その土地を攻めつつも、まずは間者を送り込み、民衆の懐柔から始めた。その土地の暮らしぶりも調べた。有望な人材で生かして用いることが利となる者も調べ上げた。利にならざる者は評判を下げる流言飛語を用いた。内山峠から南牧まで至ると、そこは平野乏しき山中である。ここの暮らし向きは厳しいが、上杉の重税で泣かされていたという。兵役につけば免税とし、杣の産業を奨励するという囁きに、彼らは武田へと心を動かした。
 武田の侵攻は急ぐことはない。
 ただし、兵が動くときは調略が済んだのちのことだ。無傷で人も土地も手に入れるというのが、信玄の心得だった。
 永禄二年の出陣で行く手を阻んだ安中城は、上野の国衆・安中越前守重繁が構築した要衝である。その安中城の北には、箕輪城がある。信玄が大敗した相手は村上義清だが、生涯勝ちを拾えなかったのは、箕輪城主・長野信濃守業政だった。安中で手こずれば、厄介な箕輪勢が援兵として押し寄せよう。そのため、信玄は安中城を脅かしただけで直ぐに兵を退いた。代わりに甘楽方面の人心を揺さぶり、武田へ靡くよう工作を進めた。
 上野国の切取りは、まだ機が熟さない。
 信玄はそれを弁え、地道に調略という種を蒔き続けた。こういう戦況は、人の目にめざましい成果が見えないものだ。弥三郎信有は若い。こういう目に見えない水面下の戦さが、苦手であった。弓矢以外の戦さを理解していない。彼は学問好きだったが、『孫子』を読んでいなかった。目にしていれば、きっと理解できただろう。
 この出兵は、すぐに陣払いとなった。
 学のある弥三郎信有を、信玄はこう評した。

    文のいるところは弥三郎を召して七書五経をいはせて聞き給ふ

 これは『甲陽軍鑑』に記されたもので、文官としての賛辞だ。しかし、当主としては軍事に関わることを別儀とする不得手者とも、置き換えることが出来る。郡内の動員数は甲斐随一とされるが、これは軍配者の秀逸さを評することに必ずしも繋がらない。実績は結果論だ。先代信有からの家老が采配に関わっていたから、それなりの実績を残したとも考えられる。
「調略なんて、気の長い話だ」
 弥三郎信有は呟いた。
 毎年の雪しろや飢饉、度重なる地震に天災。先のことよりも今を肥やすための努力に縛られる弥三郎信有にとって、これは価値観の違いだろう。人知れず、この愚痴を弥五郎に密書で漏らしたこともある。
 弥五郎は違った。
 戦わずして勝つための手段として、調略は望ましいと明言する。常に『孫子』を読んで学ぼうとする弥五郎の思考は、領民を思う当主のそれとは異なって、当たり前だ。
「弥五郎殿も、武田の人になってしまったのだな」
 弥三郎信有は孤独な気分を覚えていった。
 何だか裏切られたような気分だ。しかし、その気分は勝手な思い込みであることも承知している。弥五郎にとっては、迷惑な押しつけがましい評価だろう。でも、このときの弥三郎信有は、そうとでも思わなければ我慢できないほど鬱屈していた。
 信仰とは、便利である。
 ささくれた弥三郎信有の心を癒したのは、富士信仰だった。雄大な霊峰を仰ぎ拝すだけで、心は鎮まった。小さな事で悩むことの無駄を、富士山は無言で教えてくれた。
 師走、大雨をきっかけとした雪しろ水が出た。雪しろは下吉田村下町付近法華堂を押し流し、中村の家屋さえも流した。富士は試練も与える。この試練に対し、弥三郎信有は迅速に被災措置を執った。

 信心深い当主の姿勢は、ときどき民衆の感化を生む。
 永禄三年(1560)一月二三日、この一件は起きた。小明見に羽田惣衛門吉次という男がいる。多少は蓄えのあった者だ。土地の神仏に帰依する真面目な人物だった。この日、羽田惣衛門吉次は一念発起し、二年前に長老尾から移転した臨済宗山之寺へ土地を寄進することを決心した。
 山之寺はもともと方山寺といい、新田義貞の五男より開山された縁起を持つ。永禄元年に山寺と呼ばれる地に移転し、山之寺と名を変えたのである。
「和尚、どうか納めて欲しい」
 羽田惣衛門吉次の申し出に、山之寺住持・貴室禅師は戸惑った。
「在家の衆が我慢をしてまで信心することは、間違っておりますぞ」
「寄進こそ我が望み。他意はなし」
 こうして羽田惣衛門吉次は寄進の証文を差し出した。そして、これを複写した文面を、従う眷属に示して、こう云った。
「一同、この証文にかく記すものなり。寄進したからには、例え子孫であっても此に異を唱えた者は、所の鎮守・南無浅間大菩薩の罰を被るものなり。左様心得たし」
 眷属は無言だった。ただ迷惑そうに、皆の眉が複雑に揺れるだけだった。この山之寺はこののち廃寺となるのだが、後年、浄土宗西方寺として再興される。その頃には羽田惣衛門吉次の名前も残されていない。
 信仰とは、名を残さぬことこそ普通であった。


                  五


 この年五月、今川義元は尾張へ向け出兵した。
 前年、信玄得度の報せを聞き
「坊主になれば解決出来るとは、面白い考えだな」
と失笑した義元評が残る。義元は僧籍から還俗した者だから、この意味不意味を、よくよく承知していた。
 嘲笑しつつも、決して否定はしていない。
 世間の今川義元像は、公家かぶれという印象が今なお根強い。しかし、信玄をして駿河侵攻を断念せざるを得ない程の才覚者だ。それは知略、軍略、血筋、政治力、あらゆる面で、信玄すら敵わないことを意味する。
 もしもただの公家かぶれなら、信玄は信濃をめざす無駄はしない。真っ向からも、調略でも、万に一つも無傷で済まぬ存在だと、信玄は自覚していた。それが今川義元という人物だった。この完全無欠な海道一の弓取りは、武田と北条の盟約を背景に、遠江・三河を次々と平定した。そして、いよいよ尾張侵攻の徒に附いたのである。
 大義名分はあった。
 尾張はもともと今川の領国だ。義元の兄・今川左馬助氏豊は尾張守護で那古野城主である。その城を奪ったのが織田信秀だ。その信秀は死に、いまは年若い嫡子・信長が那古野城主を務めていた。尾張平定の大義名分は、今川にこそあった。これは上洛というよりも、尾張平定の遠征だった。
 五月一九日、天の配剤は誰も予想し得ない事態を引き起こした。今川義元の軍勢が、織田信長率いる寡兵に敗れたのである。しかも、義元は討ち取られた。東海の大大名が、守護代ほどの者に梟首されたのだ。
 これは世間を揺るがす大事件だった。
 後世は勝者の都合で歴史を刻む。義元を公家狂いの暗君とし、奇襲する信長を英雄に仕立てた。江戸時代に創作史書を多く残した小瀬甫庵の書は、なぜか今日の定説とされることが多い。彼の著書『信長記』は義元を貶め、信長を徒に持ち上げた。これが義元の悪い印象の発端であり、今なお定説の基礎とされている。
 世にこれを〈桶狭間の戦い〉という。
 これを論ずることはしないが、紛れもない真実がある。このとき信玄は、駿河への道が開いたことを、はっきりと自覚した。駿河今川家は義元一人の絶対君主制ではなく、合議による組織の形態化を完成させていた。義元ひとりが死んだところで、すぐに揺らぐことはない。
 しかし、時間の経過とともに破綻は起こる。絶対に、である。
 弥五郎は信玄に呼び出された。
「すぐに郡内へ行くべし」
「何をすれば」
「当主に御師素波を用いよと申し付けるべし」
「どちらへ」
「駿河じゃ」
 吉田の御師なら駿河でも怪しまれることはない。駿河側の富士山本宮浅間大社山宮および本社へと出向き挨拶するといえば、それを疑う者はきっといなかった。更に村山・須山・須走・御殿場・静岡の浅間神社を巡ったところで、誰が気に留めようか。
 例えその真意が
「将来、保護者が武田になっても代わりのない格式を保つ」
という安堵伺いだったとしても。
 信仰は残酷だ。都合のよい為政者が現れれば庇護者に認め容易に転ぶ。義元が死んですぐ、信玄は来るべきその日のための種をまいた。機が熟し状況が定まれば、きっと駿河側の御師は武田になびくだろう。
 弥三郎信有は信玄の指図通り、すっぱ衆を富士周辺へ差し向けることとした。そのなかの一隊に、弥五郎も同行した。身形を御師に変装すれば、駿河を徘徊しても怪しまれることはない。
 このとき弥五郎は富士の裾野の広さを痛感した。それだけではない。別して駿河の傀儡子たちと、弥五郎は誼を通じた。印地同様、埒外の民がいれば避ける理由などない。
「武士のくせに変わった人じゃん」
 傀儡子たちは、しかし弥五郎に流れる血が公界のそれと知り、急速に打ち解けていった。

 関東にも変事が生じた。
 八月二六日、里見義堯の要請に応じ長尾景虎が軍勢を発した。越後勢は三国峠を越えて沼田城を陥落した。当時の沼田城主は沼田治部少輔康元という。実は北条綱成の子で、沼田に養子入りし家督を継いだのである。北条一族は、得てしてこのような形で家を奪う。越後勢によって沼田康元は追われ、本来の城主・沼田勘解由左衛門尉顕泰が返り咲いた。彼は景虎に終生の忠節を誓い、沼田衆を率いて小田原随行を望んだ。
「沼田は北条との境にて、大事な要衝である。よって、越後の然るべき者を常駐させるものなり」
 景虎は上野家成・河田重親・松本景繁の三人を指名し、沼田城在勤を命じた。のちに彼らを〈沼田三人衆〉と称し、対北条の要とした。越後勢は怒濤の勢いで厩橋城を落とした。旧上杉陣営で北条・武田と徹底抗戦していた長野業政が厩橋へ赴くと、それまで日和見を決めていた上野・下野の豪族がこぞって参陣してきた。
「おお、信濃守」
 景虎に随行していた上杉憲政は、泣きながら長野業政の手を取った。
「不甲斐ないばかりに、苦労をかけた」
「勿体ない」
 長野業政は憲政を責めなかった。聞けば上杉の名跡は長尾景虎が継ぐという。こののちは景虎に従い、戦う主君を頂くべきと決めていた。わらわらと集まる諸豪族たちに
「我が苦衷を見捨て北条に靡いた不埒者め」
と憲政は罵倒した。
「従わねば、彼らも生きてはいけません。上杉家が彼らの柱石であれば、決して北条を頼ったりしませんでした」
 厳しい長野業政の言葉に、上杉憲政もそれ以上のことは云えなかった。
「長野信濃守。主君に諫言できる者は、よき家臣である。こののちはこの弾正少弼にも、よき力となって欲しい」
 長尾景虎は頭を下げた。
「勿体なきかな」
 戦さ上手の二人は、この出会いで双方の力量を見計らった。
 景虎は満足したようだが、業政は不安を覚えた。地の利の不利である。景虎が越後に去れば、きっと北条・武田は再び侵攻するだろう。
 越後勢は厩橋で越年ののち、小田原へ向かうこととなる。北条氏康は籠城策に切り替え、小田原城の防備を急がせた。と同時に、武田信玄と今川氏真へ援軍を要請した。義元が討たれて混乱しているにも関わらず、今川氏真は律儀に兵を河越城へと派遣した。信玄もこれに応じる返事を出したが、すぐには動かなかった。混成軍の長期遠征は上手く行かないものである。
 一向に動かぬ信玄に、小田原からの使いが幾度も駆け込んできた。
 取り次ぐ弥五郎に、信玄は意地悪い笑みを浮かべた。
「弥五郎なら、いつが出陣時と思うか?」
「それは来年三月でしょう」
 なぜと問う信玄に、弥五郎は笑って答えた。『孫子』曰く、兵は勝つを貴び久しきを貴ばず。長陣は難しいうえ、混成軍では意思の疎通も難しい。小田原籠城は上策であり、決して相手にしなければ敵は瓦解する。そのときこそ、攻めに転じるべきだと、弥五郎は答えた。
「上出来じゃ。まさにその通りである」
「ならば」
「いまは、動かぬ」
 弥五郎の教育は見事に実りつつある。信玄は満足だった。いつかは独立させてやるのも手ではあるが、もう少し、成熟させようと信玄は思った。
(それよりも)
 関東諸豪族の動きは、逐一耳に入っていた。
 上杉憲政が越後に逃げたため、多くの豪族は北条の軍門に下った。単独では勝てないし、滅びるくらいなら生きる道を選ぶのは罪ではない。主君への忠節心は、当時それほど重くはなかった。現代人は勘違いするが、この観念は江戸時代の儒教教育の影響である。当時は裏切りについて、罪悪感などなかった。
 そんな彼らも、今は北条を捨て、上杉に従っている。
 越後を頼った関東管領・上杉憲政にではない。朝廷から権威を賜った長尾景虎に、である。この権威が厄介であるがため、信玄は僧籍に身を置いて世間への印象を改めた。しかし、そのようなことでは、まだまだ手緩いことも知っている。
 長尾景虎が京で権威を得て帰国すると、信濃の豪族は信玄に内緒で春日山へ挨拶伺いをした。これは信繁の情報だから、間違いはない。越後寄りの豪族ならまだしも、武田寄りの者もいる。
由々しき事実だった。

    栗田殿、須田殿、井上殿、屋代殿、海野殿、仁科殿、望月殿、市川殿、
    河田殿、清野殿、島津殿、保科殿、西条殿、東条殿、真田殿、禰津殿、
    室賀殿、綱島殿、大日向殿

 これは『上杉家文書』に記される〈御太刀持参之衆〉の内訳だ。武田に服した信濃先方衆の殆どが、ここに名を連ねていた。彼らは朝廷権威の前に、武田との天秤を計り、延命のため景虎にも臣従を示したのである。
 関東の動きは、信濃の縮図だ。次に越後と戦うときに、信濃先方衆は頼りに出来ない。信用することが危険すぎた。ただし、士気を保つためには、このことを黙っているしかないのだ。

 二月二三日、北関東の軍勢を糾合した越後の軍勢七万騎が小田原へと進発した。この数字は『松隣夜話』によるものである。また『関八州古戦録』によれば十一万三千騎と誇張された数字になっている。つまりはそれほどの大軍が集結し、怒濤の進撃をした、ということだ。
 郡内に隣接する武蔵国多摩地方で、その動きが露わとなったのは、これより数日後のことだった。大石源左衛門入道道俊は滝山城主だったが、北条家から養子を迎え、御家を奪われた。大石入道道俊が養子を無視して行動に移すということは、旧来の上杉支配を望む者がこの地方に多いことを意味する。三田弾正少弼綱秀という小豪族が、この中核だった。小豪族といえども、当時の三田氏の影響力は大きい。小菅・丹波口に隣接する支配を持っていたから、この行動は直接郡内に伝わってきた。
 これまで関東のことなど、甲斐国内では他人事だった。しかし、隣接する多摩の風聞は、不安や迷いを誘う。それを一笑しつつも、影響力をいちばん懸念していたのは武田信玄だったかも知れない。
 通説がある。
 武田信玄の従弟・勝沼五郎信元。佐久出兵に戦功を挙げ、信玄も信頼していた親族の一人だ。この人物が、長尾景虎に通じて謀叛を企てたというのだ。この者は小田原への景虎出兵に乗じて、小山田弥三郎信有を誘った。のちに証拠文書が摘発され、処刑され勝沼家は断絶した。
 世評では長尾景虎は正攻法しか用いないという。しかし事実だとしたら、長尾景虎もかなりの策士ではあるまいか。
 しかし、この通説を鵜呑みには出来ないところもある。
 この事件を記すのは『甲陽軍鑑』である。

    甲州勝沼五郎殿御成敗の儀、前未の年より御目付の御小人頭を殊の外御馳走有故
    此よしを廿人衆頭より隠密に言上仕り、横目の御中間頭衆も心付て甲州恵林寺の
    入、中まきと云所に待て、あやしきものをとらへたれば、武蔵国藤田右衛門と云
    侍大将と勝沼五郎殿と内通有信玄公御出陣の御留守に甲州東部へ藤田右衛門をひ
    き入、五郎殿甲州府中へ、なおり侯はんと有、逆心の文あらはれて、勝沼五郎殿
    御成敗也。其跡二百八十騎の同心被官二百騎をば、跡部大炊助に預下され、八十
    騎をば御舎弟信連様へ進じ置るる也

 文中に登場する藤田右衛門佐重利は、大石・三田と並んで長尾景虎関東入りに応じた人物で、天神山城主だった。北条からの婿養子に家督を取られて隠居を余儀なくされていたが、この事情は大石源左衛門入道道俊のそれと一致する。恐らく藤田重利は大石入道道俊と気脈を通じていたことだろう。大石・三田が郡内を揺さぶり、藤田が雁坂峠を隔てて笛吹川上流筋から勝沼信元を往還することは物理的には可能だ。
 しかし、勝沼信元が誅されるのは、永禄四年暮れ近く。
 放置期間が長い。通説とは異なり、別の理由があったとしたらどうか。
 少なくとも勝沼氏が処断されたことだけは、現実のようである。しかし『甲陽軍鑑』を鵜呑みには出来ない。この部分については、私見に基づき物語を進めていく。

 長尾景虎が小田原城へ向かうと、その権威に動揺する信濃国人も現れた。
 無理もない。彼らにとって、越後は甲斐より近いのだ。生きるための損得を考えることは自然である。この年に完成した海津城は、北信濃の国人を十二分に監視できた。如何なる動きも機微に察知することが可能だ。
 海津城を任されたのは春日弾正忠虎綱である。かつて信玄近習を務めた、あの春日源五郎だ。目覚ましい立身といえる。しかし、ただの衆道つながりで抜擢するほど信玄は愚かではない。彼の能力を評価した結果だった。
「小山田備中殿のお調べは、かなりのもんずら」
 春日虎綱は城将・小山田備中守虎満の近隣調査の報告書に感嘆した。この小山田虎満は郡内の一族ではない。もとは郡内四長老家のひとつだったが、数代前に独立し、国中に移転した。その絶えた名跡を、佐久攻めの功で上原伊賀守が相続したのである。
 ひとつの縁起担ぎがある。
 小山田虎満が築城した城は落城することがないというものだ。ゆえに新しい城を築いた際、信玄は虎満を必ず入城させた。この恒例の出所は『甲陽軍鑑』なので、やはり鵜呑みには出来ない。しかし、士気を煽るという意味では、そういう無理な宣伝も有効である。
 小山田虎満の調査とは、信濃国人の状況だった。
「香坂の動きが、一番危うい」
という指摘に、春日虎綱は頷いた。真っ先に行動すべき立場なのが春日虎綱なのだと、小山田虎満は申し添えた。牧城主・香坂筑前守宗重は、春日虎綱にとっては舅にあたる。これを率先して誅せねば、川中島一帯の引き締めは出来ない。
「備中殿のお言葉、有難く承ります」
「やるのか?」
「早急に」
 春日虎綱は仕事の早い男だった。舅に新築の海津城を披露したいと誘い、赴いた香坂宗重を即座に誅殺した。その報告の迅速さに、信玄も感服した。
「勘助よ」
「道鬼にござる」
「そうだったな」
 信玄の傍らには、山本勘助改め山本入道道鬼斎がいた。
「あの源五郎を、よくあそこまで育てたな」
「天賦の才にて」
「弥五郎の才も、あれほどにしてくれ」
「当分、死ねませんな」
「簡単に死ねるものか。信濃の次があるのだ」
 信玄は義元という障壁のない駿河を奪う意思を抱いていた。このことを知る者は、まだ片手程しかいない。山本入道道鬼斎もその一人だった。
「石田小山田の調べは見事なものよ。香坂筑前は越後との密談により、海津城の縄張を伝えるつもりだったようだな。長尾弾正の権威付に迷う者は、まだまだいると考えてよい」
「佐久も怪しいと。これは典厩様の調べにて」
「これには布石を打っておる。海野小太郎(幸義)の娘に、我が子・龍芳を娶せるつもりじゃ」
 一七歳で目に光を失った信玄次男・次郎は、得度して龍芳軒と号していた。
「龍芳様は僧籍にて、如何なものかと」
「一向宗なれば妻帯は問題ないぞ」
「畏れ入ります」
 これにて海野氏を再興すれば、佐久衆もおとなしくなるだろう。
 このこと、『甲陽軍鑑』によれば、海野・香坂・仁科三氏の謀叛につき成敗と記されている。しかし、処断されたのは香坂宗重だけだった。海野氏は宗家不在だったし、仁科右衛門大夫盛政は生存の物証を『紙本墨書生島足島神社文書』に残している。武田の史料として重きを為す『甲陽軍鑑』は、やや時間を経た江戸時代に編纂された。それに従い後世の武田史とする点がある。これが『妙法寺記』『高白斎記』などのリアルタイムな記録との違いだ。『甲陽軍鑑』は史料というより軍学書であり講談的要素が高い。素地があるにしろ、脚色性も否定できなかった。海野・香坂・仁科の三氏をして謀叛という下りは、脚色ではないかと思う。
 それでも事蹟の参照として、『甲陽軍鑑』が重きにあることは事実だろう。幕末期の頼山陽『日本外史』、明治の『国史大事典』、旧陸軍編纂の『大日本戦史』などは、『甲陽軍鑑』に影響を受けただろうことは想像に易い。

 永禄四年(1561)三月、長尾景虎は小田原城を包囲した。
 このとき北条氏康は籠城に徹した。城下を包括する堅固な平城としての改修は、一応の完成をしていた。この城を落とすことは、困難である。
 古来、籠城には援軍がつきものだ。三国同盟に従い武田信玄もようやく援軍を派遣した。といっても、この援軍は小田原へ馳せ参じる類ではない。後方攪乱や、長駆遠征する越後勢の退路を脅かすためのものだ。心理的には、こちらの方が不気味だった。
 三月三日、まず上野原城主・加藤駿河守信邦が千喜良口(現在の大垂水峠)より武蔵国に侵攻した。加藤信邦は武田家最高の武者奉行とまで囁かれる逸材で、軍略の知己は山本勘助に匹敵する。この知将の軍事行動は、滝山城主・大石源三(のちの北条氏照)に同陣し当麻へ兵を置くことにあった。若い大石源三は、義父が率先して多摩の豪族を煽動した負い目を覚えている。越後勢よりも多摩勢討伐こそしたいのだと、息巻いていた。
(若いのだな)
 加藤信邦は眼を細めて、ただ微笑むばかりだ。助言もしないし否定もしない。ただ内紛になれば、甲武国境の豪族として、これほど有難いことはなかった。このしたたかさが、加藤駿河守信邦であった。
 小山田勢も吉田で軍勢を整え出陣した。この軍勢に弥三郎信有自身はない。あくまでも牽制のみ、兵の損耗を控えるべしという信玄の厳命に従ったのだ。
「近いうちに大きな戦さがある」
 そういう意味だった。
 長尾景虎は小田原城を包囲したものの、これを容易に落とせぬと悟った。季節は作付けである。兵農分離の出来ていない当時の軍勢にとって、長駆遠征がいかに難しいか、景虎は悩んだことだろう。
 更には成果のない長陣が、ともすれば厭戦気分を誘う。軍律も乱れた。関東管領と関白を伴う遠征軍が、小田原城下で略奪放火を繰り返した。
「なんと聞こえの悪いことか」
 長尾景虎は小田原城の制圧を断念せざるを得なかった。このままでは略奪軍の汚名を残し、せっかくの大義名分も霞んでしまう。
 新たな大義名分を考えた。書式のみの上杉名跡譲渡をわざわざ古式に則った就任式に仕立てたのは、遠征軍の正当性を主張するためだ。
 閏三月一六日。
 鎌倉鶴岡八幡宮にて、関東管領就任式が挙行された。上杉憲政は満座にて職の譲渡と上杉氏の名跡を与えるための養子相続を宣言した。関白・近衛前嗣がこれを承認する宣言をした。無垢な坂東武者たちは、この小芝居で厭戦気分を拭い去り勝手に感激した。
 以後、長尾景虎は上杉憲政より諱を与えられ、名を〈上杉弾正少弼政虎〉と改める。

                                つづく
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

小山田信茂    

甲斐国郡内領主。武田二十四将。武田家を裏切ったと定説される文武の才に秀でた武将。

父・信有に嫌われて育つが、それは出自にまつわる秘密があった。

小山田弥三郎信有

小山田信茂と腹違いの兄弟。嫡流として小山田家を相続するが、のちに病没。ということになり、信茂を支える影の参謀となる。

武田信玄

甲斐国主。智謀に長けた戦国最強の武将。小山田信茂を高く評価し、その出自も含めて期待している。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み