第26話「滅亡の賦」

文字数 28,165文字



   滅亡の賦


                  一


 天正九年(1581)五月三日、都留郡譲原(現上野原市)に檜原衆と呼ばれる北条勢が奇襲を仕掛けてきた。今度は境界線ではなく、完全な甲斐領内である。この局地戦に対処したのは羽置城の加藤次郎左衛門尉信景だった。指示を仰ぐべき岩殿城へ急使を発したものの、城から譲原はそれより近い。援軍を差し向けることが優先された。
 加藤信景は武田家随一の武者奉行と讃えられた駿河守信邦の孫にあたる。しかし、若い彼には、まだまだ学ぶことは多すぎた。こういう事態で処する策も浅い。経験に勝る上野原七騎に一切を託すよりなかった。
 譲原を奇襲したのは、檜原城の精鋭だ。時坂峠、浅間峠を経て、電撃的に攻め入ったのである。浅間峠は笹尾根の要衝で、武田方も堅固に固めていた。それがこうも容易く越されたのは、都留の国衆が武田勝頼への期待を保てなくなったことに起因する。彼らは高天神城のことを耳にし、いざとなったら見捨てられるという懸念を抱いていた。
 加藤家の援軍は檜原衆を蹴散らし、譲原を取り戻した。そして陣を張り、反抗に備えた。反撃はなかった。一日遅れて、岩殿城からの援軍が駆けつけた。手際の悪さは、岩殿城番・荻原昌明が病んでおり代役の決断が遅れたことによる。
 小山田信茂はこのとき躑躅ヶ崎にいた。
 上杉家との取次事務のため、二日前から呼び出されていたのだ。上杉景勝は越中を巡り、織田信長との係争状態にある。
跡部・長坂だけで何とかして欲しいのにと、信茂は悪態を吐いた。無論、他意はない。思った通りのことを口にしたまでだ。
 それほどまでに、対北条の方策は、やるべきことばかりだった。
 五月一七日、越後に派遣されていた西山土佐守の回答に対し、信茂は返書を発した。そのうえで、譲原のこともあり、早々に郡内へ退いた。
「後手だ」
 つい口にした独り言は、己に向けた侮蔑に過ぎない。

 天正九年の武田家は、一致団結には程遠く、誰もが危機感を夢想しながら、自分を守ることばかりに固執していた。韮崎で築城の采配をしていた真田安房守昌幸は、馬鹿馬鹿しいと思いながらも、黙々と命令に従っていた。陣中見舞いは誰もしない。勝頼でさえしないのだ、無責任にも程がある。
(穴山入道も、あれっきりだ)
 いざ竣工を始めたら、知らぬ顔である。普請にあたり人足の飯場に手当も届かず、このことは昌幸が持ち出している。そろそろこちらの面も、どうにかして欲しいものだ。
 原隼人佑貞胤は表向きの普請奉行だが、裏方の労苦を知らないだろう。三月六日に届いた勝頼からの書状を有り難がっている。
「安房殿、ほれ、普請のために布陣し昼夜にわたり働いている労煩を察すると、当代様は仰せだし」
 愛想笑いを浮かべたものの、昌幸はどこか面白くない。しかし、感情を露わにすることなく、人足の指図に徹した。
 梅雨の入りになって、やっと見舞ったのは小山田信茂だけだった。土産だと、里芋を荷駄に詰んできた。
「食えるものは食え。残ったら近在に植えるんだ。築城後にな、兵糧の足しになるずら」
 何もないよりは遥かによい。昌幸はこの築城の無益をつい口にした。
「云いたい気持も分かるがな」
「云うだけなら、構うまい」
「なら腹の底だけは、申すなよ」
 信茂は昌幸の目の奥を覗いた。昌幸は視線を絡ませ、悟った。考えていることは、同じだ。今は誰も勝頼に信頼を寄せていない。信茂も、昌幸も。国という器は保っているが、中身は烏合の衆に等しいのだと。
「だけど、逃げることは、お互い出来ないよな」
 信茂の言葉は、現実を表したものだ。
 お互い武田家を去ったところで、何が出来るものでもない。武田家があってこそ、働くことが出来るのだ。そのための城だと、今は割り切るしかない。
「儂の娘が武川衆に嫁いでいてな、孫娘がいる。その孫を迎えに来たついでに、ここへ寄ったのだ。すまぬな」
 信茂は明け透けだ。思わず、昌幸は大笑いした。
「黙っていればいいのに。で、迎えとは、何事で?」
「孫を養女にしてな、当代の姫の付女にと考えている」
「当代の?」
「貞姫様といってな、まだ五歳じゃ。孫とは歳も近い」
「そんなに小さいうちから、御傍付にしなくても」
「そうは思うが、ここが戦場になれば武川も焼かれるからな。少しでも身の安全を考えてやりたいのよ」
 ああそうか。
 昌幸は眼下に拡がる釜無川の流れを見下ろした。確かに武川はこの真下に等しいから、もし戦場になったら、一溜まりもないだろう。幼い姫を安全なところに置くならば、武田家当代の近くがよい。
「だから、いい普請を頼むずら」
「適いませぬな」
 真田昌幸は大声で笑った。
 この城の大まかな縄張りが完成したのは、九月。半造作とされながらも、勝頼は城の完成を吹聴し、諸国へ鉄壁の要害と触れ回った。軍事機能を付随するための施工は更に続けられたが、ここで勝頼は思いも寄らぬことを発言した。
「韮崎の城を新たなる府中とし、武田の拠点とするものなり」
 首都機能の移転は、多くの家臣を困惑させた。躑躅ヶ崎の街割が完全であるがゆえ、なぜ移転するのかと、多くの者が疑念を口にした。
「城と屋敷を一体とする街割は、どの大名も行っており不思議ではない」
 勝頼の言葉は、跡部勝資や側近衆が各々代弁した。しかし、日頃からの信用がないためか、このことを受け容れる者は少なかった。殊、御親類衆ほど、その傾向が強かった。
「未完成の城に、無謀でござる」
 真田昌幸も時期尚早だと説いたが、勝頼は曲げなかった。
 新府中韮崎城と命名し、城下に区割りされた場所への移転を繰り返し説いた。しかし、直ぐに応じる者は少なかった。
 こうして、季節は一〇月を迎えた。
 七日、谷村に岩殿城からの急使がきた。城番・荻原昌明が危篤というのだ。信茂は急いで駆けつけた。北都留の知己にある者たちも、続々と駆けつけた。
「豊前殿、お気を確かに!」
 信茂が耳元で訴えた。微かに目を明け、一瞬だけ意識を取り戻した。
「せがれ、よしなに」
 そう呟くと、再び意識を失った。多くの者が見守るなか、翌日、荻原豊前守昌明は息を引き取った。このことは勝頼の元へも知らされた。勝頼は事務的に対処し、土屋惣蔵昌恒を派遣した。その不人情を気取られまいと務める土屋昌恒が不憫だと、信茂は思った。
「惣蔵殿、豊前殿の家督については?」
「安心されたし。源八郎殿が継ぐよう、当代様も仰せじゃ」
「そうか、よかったな」
 このことについては、信茂から強く進言があったのだろう。そういう空気が、会話から感じ取れた。源八郎は若くはない年齢だが、柔軟な思考の賢い人物だった。家督相続にあたり、彼は荻原甚之丞昌之と名を改めた。後年、彼は八王子千人同心之頭の創始に関わる。
「先ずは豊前殿を領地にお戻しせねば。岩殿のこと、一時、出羽殿にお任せしたい」
 出羽とは出羽守のことで、天正九年五月より、信茂はこれを官途としていた。早く葬儀を出してやるべきだと、信茂は促した。
 荻原家の所領は下釜口烽火台近くの高台、秩父往還を抑える河浦に屋敷を構えていた。昌明が名軍師と讃えられた荻原常陸介昌勝にも劣らぬ活躍を以て、信玄の時代を支えたことは、誰もが承知のことだった。
 惜しい人物だったと、信茂は思った。
 岩殿城番として、誰よりも信頼の置ける人物だった。弔問には一族を代表して四長老家より小山田有誠と、嫡男・信綱を差し向けた。弔問客は峡東の豪族や北都留郡内ばかりで、国中や河内からは来なかった。笛吹川上流にあたる秩父口の守備を任され、代々の交友関係が広かった荻原家なのに、この有様なのだ。
「何とも不人情なことだろう」
と、信綱は思った。そしてこれが、甲斐国内の現状だった。誰もが、人に関わる余裕を持てないのだ。
「当家も云えた義理でなし、責めることは出来ぬ」
 有誠は静かにこれを諭した。

 勝頼は織田信長との和睦を、多くの者に秘して試みていた。
 昨年も秘密裏に佐竹義重に仲介を依頼したし、独自の行動を取った。この〈甲江和与〉の機会は、上杉謙信の死によって無価値となり、信長はこれに応じる理由も必然性も覚えていなかった。
 往生際が悪いというか、世間に疎いというか、勝頼は信長五男・坊丸を人質にしていることで、主導権があると誤認していた。信長は人質に心を動かすことはしない。既に死んだものと考えているから、威しにも譲歩にも、眉一つ動かさなかった。
「坊丸の元服をしてやろう」
 勝頼の間抜けな発言に、逍遙軒信綱は血相を変えて駆けつけた。
「どこの世に、人質の元服をしてやる素惚けがおるか」
「お忘れか、叔父上。あれは典厩(武田信豊)の養子に迎えるつもりぞ」
「講和の話は、三年も前に結実せなんだ」
「儂はまだ諦めておらぬ。武田との御縁を、織田が喜ばぬ筈なし」
 勝頼は信長という人物を見誤っていた。武田という名家の響きを有り難がる感情は、信長に一切なかった。有為か無為か、敵か味方か、単純かつ合理的な区別のなかには、安い感情を挟むことはない。このことを見通せないところに、勝頼の浅さがあった。
 勝頼は坊丸を元服させ、講和の使者として安土に赴かせることとした。
 逍遙軒同様、反対する一族は多い。勝頼は居並ぶ者たちに、坊丸を武田信豊の養子にすることで武田家御親類衆に迎える考えを説いた。仁科五郎盛信はその言葉に、嘆息混じりの口調で
「その機は逸しました」
と断言した。
「ほらみろ、人質はどこまでも人質じゃ」
 逍遙軒は語尾を荒げた。
「しかし、梅雪入道は良策と褒めてくれましたぞ」
「気にはなっていたのだが、城普請の頃から、当代はどうも梅雪の云いなりに思えてならぬぞ。以前は嫌いだと息巻いておったのに、まるで嘘のようじゃな」
「梅雪入道は武田の棟梁として、儂を立ててくれるのじゃ。叔父上みたいに感情で騒ぐことなどありませぬ」
「感情なものか!」
 ああ、勝頼は耳障りのいいことを云う者を信用する人間だったなと、仁科盛信は思い出した。いくら正論を述べても、これでは応じる筈もない。かくなるうえは、自分が出来る最大限のことをするしかないのだ。新府の城が戦場にならぬよう、南信州が一致団結するべし。高遠城も然り、こののち何万の兵に囲まれようとも、持ち堪えることが適う蓄えと一層の調練が必要だろう。
 この馬鹿げた人質元服の儀式は、一一月初旬に行われた。『甲陽軍鑑』によれば

   御坊のめのとには五十君久助と申者きたる

とあり、五十君久助という者を傅役にした。元服名は〈源三郎信房〉とされたが、〈信〉は間違いなく武田家の諱である。
 この元服式は御親類衆内々のものであったが、一条右衛門大夫信龍は応じなかった。あれは元々変わり者だからと、誰もが気にもしなかった。元服ののち、身綺麗に仕立て
「よいか、講和の使いを果たされよ」
と、勝頼は坊丸を送り出した。
 坊丸が安土に着き、信長と対面したのは一一月二四日。『信長公記』は素っ気なく記述しているが、それは、当時の信長が武田との講和を考えていないゆえの反映だろう。
「坊丸よ、武田は手強いか?」
 信長は質した。
「親族の協調が見られませぬ」
 元服の儀を巡る勝頼と逍遙軒のやりとりを、坊丸は正直に答えた。
「大義じゃ」
 信長はにっこりと笑った。
 こののち坊丸は甲斐に戻ることもなく、犬山城主に据えられた。坊丸の吉報を期待した勝頼は、音沙汰もないこの現実に、落胆した。それみたことかと、逍遙軒信綱は詰った。勝頼は言葉もなかった。
 この無様は、各地先方衆はおろか甲斐国内のあらゆる階層の老若男女に衝撃を与え、いよいよ勝頼への信頼を失墜させた。その空気が漲るのを感じた跡部勝資は、強行とも云える新府中への屋敷移転と妻子の居住を勝頼に提言した。人質は御親類衆といえども同様である。多くの家臣が拒絶の態度を露わにした。
「拒むは叛意と見なす」
 この一言は大きかった。
 勝頼に信頼がなくとも、武田家を見限った訳ではない。渋々と応じる者もいれば、躑躅ヶ崎からの移転を渋る者もいた。穴山梅雪もその一人だ。
「御親類衆筆頭が率先すべきを、これは何事か」
と、勝頼は梅雪を詰った。
「最後まで留まり残る者を、古府中にて監視するため」
と、梅雪は答えた。そういわれると、何も云い返せない。
 一条信龍も移転を拒んだ。彼の答えは意外なもので
「謀叛者の動きを監視する」
というものだった。
「謀叛者とは誰だ」
 勝頼は真意が読めなかった。だれか、武田家に叛く者がいるというのか。由々しきことではないか。その答えを質す前に
「婆娑羅者の申すことです。方便のつもりでしょう」
と、長坂釣閑斎は口から出任せなりと断じた。
「それはどうだろう、調べるべきではないか」
 安倍加賀守勝宝が首を傾げた。
「いや、今はまずい。裏切り者がいるなどと噂が広まれば、家臣が離反しかねない。とにかく新府へ移転することを優先し、調べるのはその後でもよろしい」
 跡部勝資の言葉に、勝頼も頷いた。
 この坊丸の一件は、小山田信茂の耳にも入った。信茂が知るのだから、多くの諸将が知るし、領民も知ることである。外交下手なことで懸念されていたが、これは大きな失態だった。勝頼への信頼は、更に失われることとなった。
「谷村殿も、そろそろ我らのために考えて貰わねば」
 夜半、小山田有誠が参じ、領内の声を告げた。
 郡内は武田と同盟関係にある独立領に過ぎない。甲州法度のすべては及ばず、軽量枡さえ独自のものが許されているのだ。これは諸国支配地とは明らかに異なる。内政も経済も、郡内は武田家の介入こそあるものの、独自裁量を許されているのだ。
 ここで同盟関係を破棄したところで、領民は一致団結してこれを支持するだろう。
「もう、そこまでの気運が高まっているのです」
 有誠が単独でそれを告げに来たということは、四長老家筆頭として迫るのではなく、現実を理解して当主から決断して欲しいがためだった。四長老の協議決定は当主も従わざるを得ない。これが、代々小山田家の仕来りだ。
 大事なことだからこそ、当主決断という意味は重い。
 四長老家に詰め寄られたから決断したのでは、領民の受ける印象はいいものではないだろう。これは有誠なりに考えた、一つの独断だった。そして、誰もがその決断を待っているのだという意思表示でもあった。
「簡単ではないのだ」
 信茂は暗い目で呟いた。
 領民の想いは尊重したい。しかし、武田に叛き、単独で郡内が生き残れる道は今のところないのだ。北条に附くというのか。ならばその根回しが必要だ。先走れば、攻めてくるのは武田ではなく北条である。自治が奪われたら、叛く意味もない。
 領民は感情を優先とする、そこまで考えていない。
「実は」
 有誠は信頼の置ける少数を用いて、独自で北条氏照と交渉していたのだと打ち明けた。
「陸奥守(氏照)は谷村様を高く評価しておる。滝山奇襲のとき以来、ずっと気にしておられたそうじゃ。敵にするなら恐ろしいが、味方とするなら頼もしいと」
「簡単に受け容れられぬ」
「このことは小田原には内緒だと。谷村殿の真意があれば、すぐにでも小田原に掛け合うそうな」
「その小田原が、もっと信じられぬのだよ。先代は立派だったが、あの当代の人格が信じられぬ。越後のことで、ますます確信した。小田原は漁夫の利を重んじる匹夫じゃ。もしそのような働きかけをしてみろ、たちまち武田家当代の御級を持参すべしと、云い出すだろう」
 そうかもしれない。
 しかし、郡内が生き残る道は、どちらがいいだろうか。
「簡単ではないのだよ。しかし、皆の想いは受け止めよう」
 信茂は何度も頷いた。

 一二月五日、小山田信茂は越後交渉の返書を出した。この交渉で、武田家とは別に、信茂は一己の物品を上杉家より贈られている。
 面頬だ。
 大変に珍しい形状で、信茂はそれが気に入った。この謝辞も返書に盛り込まれた。信茂が後世に残す文面は、この返書が最後のものとなる。

 師走、小山田信茂は船津にいた。桃陽と小林尾張守家親、二人と密議を凝らしていた。
「小田原は頼りないが、陸奥守(北条氏照)は頼れる。郡内は北条に転んでも仕方がないだろうな」
 信茂の突然の言葉に、両者は言葉を失った。
「当代に従っていたら、いつか郡内も疲弊する。国中でも不服の声が高い。それに加えて新府移転だ。当代は足下が見えておらぬから、古府中がなぜ混乱しているか理解出来まい」
「混乱しているのか?」
 桃陽が質した。
「古府中の商人、掛け売りの支払いもせずに新府へ移転する者が続出して大騒ぎずら。こんなことされたら、武田は信頼を失うのにな。こういうところの采配は、実に甘い。あの当代は、戦さのことしか考えていないのだろうよ」
 聞いたことがあると、小林家親が相槌を打った。
 船津は国中から直接情報が入る。行商の者がそんな話をしていたと、家中で噂になったのが、つい二日三日も前のことだ。
「でな、四長老家は秘密裏に陸奥守との交渉を始めたのだ。あくまで独断だ、黙認はしているけどな」
 小山田有誠は口の固い者だけで、北条氏照との交渉を行っている。その成果を有誠は報せてくるが、現時点では、あくまで独断ということになっていた。
「郡内と武田の同盟関係も、これまでか」
「しかし、儂は先代に恩義がある」
 信茂は武田に殉じてもいいと、意図を口にした。信玄をはじめ、典厩信繁や山本勘助といった、心の師には背けない。これは信茂なりの〈義理〉だった。北条に附くのは次世代でいいのだとも呟いた。
「両名は倅の師範になって、これからの小山田家を導いてはくれまいか?」
 そういって、信茂は頭を下げた。
「死ぬるおつもりか?」
 桃陽はじっと信茂をみた。
 信茂は答えない。溜息を吐くと、桃陽はつるりと頭を撫でた。そして
「無理だな」
と、低く呟いた。
「弥三郎として死ぬべき儂をここまで生かしたのは、弥五郎殿ずら。我らは光と影を共有する兄弟である。弥五郎殿が死ぬるなら、儂にもよき死に場所が欲しい」
「弥三郎殿が死ぬるなら、儂もよき働き場所が欲しいな。せめていい死に場所を貰えぬものだろうか」
 小林家親も身を乗り出した。
 信茂は苦笑した。どうせこうなるだろうと思っていたのだ。傍らの包みより、上杉家から貰った面頬を取り出すと、信茂はそれを桃陽に差し出した。
「今日よりは還俗めされ。これなら顔を知られずに戦場へ赴ける」
「かたじけない」
 近いうちに大きな戦さが起きるだろうと、信茂は考えていた。織田か、徳川か、そのどちらを相手に、長篠の雪辱を晴らすときがきっと来る。そのための備えも始めていた。最強郡内兵という綺羅を飾る戦さぶりを、内外へ存分に示して、気が済むまで戦ったら死のうと、信茂は考えていた。
(長篠で討たれた三郎右兵衛殿の心境も、こんなものだったのかな。死に場所を見つけたときほど、妙に心が晴れる)
 信茂はじっと手を見た。妙な心地だった。

 小山田弾正有誠は秘かに心源院へ赴き、郡内の帰属交渉を始めていた。心源院は八王子城の北にあり、高僧で知られる卜山舜悦が住持していた。甲斐向嶽寺で学んだ卜山は、些かの贔屓目もあり、密会の場として心源院を提供した。氏照は卜山に入門しているから単独参詣も不自然ではない。両者はこうして話し合いの場を持ったのだ。
 北条氏照は諸事を心得ていた。
 精強な郡内の兵力を損なうことなく傘下に編成できるよう、相手の立場を重んじる姿勢を示した。有誠は小山田家の立場に理解を示す氏照に好意を抱いた。
 この交渉は武田にも内緒であり、かつ、小田原にも内緒である。当然、表に出ることではない。あくまでも歴史の暗部で動くことだった。
 このような北条との交渉は、小山田家に限ったことではない。勝頼を見限った多くの者が、生き残るための保険として、このような秘密交渉をこのとき行っていた。上州の真田昌幸も、このとき鉢形城の北条氏邦に接触していたのである。
 これが、武田家の現実だった。
 大樹は洞を広げて、もはや中身のない存在だった。


                  二


 天正一〇年(1582)正月。武田勝頼は木の香も新しい新府城で新年を迎えた。躑躅ヶ崎からの移転行列は華美だったが、沿道で見送る者はまばらだった。人の心が乖離していることに、勝頼は気付いていない。
 新府城下には些かの家臣も移転を終えていた。御親類衆として木材調達に功のあった木曾伊予守義昌は、正月の宴で勝頼の傍に席が置かれた。それが、新しい門出を祝う勝頼の気持ちだった。
 新府城に小山田信茂が入ったのは、このときが初めてだった。賀詞を終え、城内を歩いてみると、甲州流築城術が随所に盛り込まれていることに気付く。この指図は真田昌幸のものだろう。
「見事なものだ」
 八ヶ岳颪が厳しいが、近在の梅の枝には、気の早い春の兆しも見える。釜無川を隔てた鳳凰三山や甲斐駒ヶ岳の重々しく高い峰は、まるで天然の屏風のようだ。
(充分に戦える城だが、籠城には向くまい)
 軍略に長ける信茂は、この城の弱点を即座に見抜いた。
 援軍なき籠城は死を意味する。新府城は単独の城で連立する城砦を持たない。よって、後方支援は得られず、長い籠城には耐えられないのだ。
(当代はそのことを理解しておるだろうか)
 考えても詮なきことだ。ここが籠城の場とならなければよいと、今は祈るしかない。
 こののち小山田信茂は郡内に戻り、谷村にて領内の賀詞を行った。家臣は勿論、御師や神職僧侶に至るまで、生気に満ちた表情だった。
(彼らの笑顔だけは守りたいな)
 信茂は心からそう願った。
 
 一月六日、『甲陽軍鑑』『武田三代軍記』によれば、木曾謀叛の企てが露見したとある。木曾義昌は新府にて賀詞を終え、領内に戻った、その直後のことである。
 双方史書によれば、勝頼はこれを即座に信用しなかった。これまでの勝頼が重ねた諸事から鑑みて、この甘い認識は事実だろう。そして、この対処が遅れたことが、二ヶ月後の事態へと繋がっていく。
 木曾謀叛とは、云わずと知れた織田信長への内応であり、東美濃の遠山右衛門佐友忠により調略されたものだ。かつて遠山氏調略の要だった木曾義昌が、逆に調略されたのである。二五日、これに応じた義昌は、弟・上松蔵人義豊を人質として遠山友忠に差し出した。友忠は岐阜城の織田信忠に報せ、継いで安土へと伝えられた。
「洞も極まれり」
 信長は笑いもせずに呟き、やがて送られてきた上松義豊の身柄を側近・菅屋九右衛門長頼に預けた。
 一月二七日、木曾義昌の近習・茅村左京進は新府城へと駆け込み、事の次第を土屋惣蔵昌恒に訴えた。このとき土屋昌恒が取り次いだことで、迅速な処置を促すことになったのは幸運と云えよう。その報告に、勝頼は近臣たちへ
「明日にも木曾討伐の軍を発すべし」
と断じた。
 翌二八日、勝頼は先陣を新府より出陣させた。大手の木曽口へ武田信豊・山縣三郎見日兵衛尉昌満・今福筑前守昌和・横田十郎兵衛尹松等三〇〇〇騎、搦手となる伊那口には仁科五郎盛信・諏訪越中守頼豊・諏訪伊豆守頼忠等高遠衆二〇〇〇騎。
 このことは研究者の判断によるところだが、鳥井峠の戦いは二度説(『甲乱記』)と一度説(『甲陽軍鑑』)がある。創作追記や改竄がない限り、最も時系列に近いものは『甲乱記』である。『甲陽軍鑑』は後世のものであることは歴然としており、本編は『甲乱記』を下敷きとして、物語を綴りたい。
 二月二日、勝頼が諏訪へ出陣した。大手口は一気に鳥井峠の制圧に掛かった。今福筑前守昌和等は山道に不慣れであるため、苦戦を強いられ数百名が討たれた。そのため敗色が濃くなったが、伊那口の諏訪越中守勢が駆けつけて、木曾勢を撃退した。そして奈良井、贄川に布陣した。緒戦は武田勢の勝利だった。
 木曾義昌は弁明のため鳥井峠まで赴き、背信が偽りであることを訴えた。
「信じられぬ」
 武田信豊は聞く耳を持たなかった。茅村左京進の証言は真実であり、木曽義昌が織田へ臣従し人質を差し出したことは、明白だった。この期に及んで、何の弁明か。
「恐れながら、新府屋敷の母や子等は、如何過ごしておるか」
「謀叛が露見したからには、人質となり、生かしておけるものではない」
「お見逃しを。謀叛などと思いも寄らぬこと」
 義昌の弁明は、偏に母と二人の子の助命を求めるためだった。やがて、三名が新府城近くの〈おどり原〉で手打とされたことが報され、信豊の口から伝えられた。
「儂は御親類衆であるぞ。このような仕打ちが許されるものか。御当代に訴える、本陣に案内せい」
「謀叛者のくせに何をいう。ここで手打にする権限くらいは許されているのだぞ。神妙にせい」
「ちくしょう、馬鹿野郎」
 義昌はこのまま捕らえられたものの、夜陰に乗じ、縄を切って逃亡した。山中の夜道ゆえ、追跡は難しい。まんまと取り逃がしたことを、信豊は諏訪本陣の勝頼に報せた。かくなるうえは、一気に木曾福島城を攻め落とすと、信豊は息巻いた。これに対し勝頼は構うことないと断じた。木曾なぞいつでも倒せるとさえ嘯いた。そのため、鳥井峠から武田勢は大軍を退いた。駐留する少数は、関番程度の規模である。
 木曾義昌は城へ戻ると、ただちに岐阜へ援軍を要請した。岐阜の信忠は安土の信長に報せた。甲州討伐の内示を既に発していた。

   総大将 織田左近衛中将信忠
   先鋒 森武蔵守長可・団平八郎忠正・木曾伊予守義昌・遠山右衛門佐友忠
   本隊 河尻与兵衛秀隆・毛利河内守長秀・水野監物守隆・水野宗兵衛忠重
   付属 織田源五郎長益・織田一門衆・丹羽勘助氏次 等
   軍監 滝川左近将監一益

 この準備は既に出来ていた。
 信長からの触れを以て、この一軍は木曾と伊那口へ向かった。このとき織田信長は、徳川家康・北条氏政・金森長近に駿河・相模・飛騨の三方から甲斐へ攻め込むよう命じた。これに対処できる才は、勝頼にはない。それは長篠以降、徳川に翻弄された経緯から明らかだった。
 織田勢が木曾に合流し、再び鳥井峠で戦いがあったのは二月一六日。この戦いで武田勢は敗退した。木曾勢に織田勢が加勢している事実に、先手を打たなかった落ち度を噛み締めながらも、勝頼は更なる木曾攻めを口にした。
「申し上げます。吉岡城より使いが」
 血塗れの使い番が転がり込んだ。吉岡城主・下条伊豆守信氏の手の者だった。通せと、勝頼は叫んだ。
「我が主・伊豆守、神坂より侵攻する織田勢に備えたところ、家臣・下条九兵衛尉(氏長)の謀叛により城を奪われた由。御加勢賜りたし」
「なに?」
 更に使い番が転がり込んだ。松尾城の小笠原掃部大夫信嶺が織田勢に寝返ったというのだ。この期に及んで勝頼は楽観視していた。大島城には逍遙軒信綱がいる。寝返り者を直ちに粛正し、織田の侵攻に備えるに違いないと。このとき他方からも侵攻が為されていることを、勝頼は知らない。諜報活動の脆い勝頼は、この段階で運命を決していた。

 その頃、小山田信茂は僧に扮し心源院に赴いていた。卜山禅師を介して北条氏照と対座するためである。互いに手柄首であるにも関わらず、談笑するのは、偏に卜山舜悦という高僧を間に置いているからに過ぎない。
 信茂の願いはただひとつ。
「郡内の独自性を認めるなら、北条へ転ぶことも厭わない」
というものだった。これが認められるなら、信茂は隠居して領主の座を嫡子・信綱に譲るという。
「この陸奥守を信頼するからこそ、単身、敵地に赴き頭を下げるのだろう。この肝の据わりはどうか。ただ無辜の民のために恥を曝す領主は大器なり。これに応えねば男がすたる。陸奥に委細お任せあれ」
「かたじけない」
 そこへ、小田原からの報せが届いた。織田勢が南信州へ侵攻したというものである。北条勢は一丸となって、これに応じねばならない。
 間が悪すぎた。
 短慮な氏政のことだ。信長の顔色を窺い、降伏を認めるくらいなら小山田信茂の御級を取れと、きっと云い出すだろう。
「武田もこれまでですな」
 氏照が呟いた。
「いやいや。今にして思えば、あの当代のもと、存外持ち堪えたものだ」
「出羽守殿は人物である。当方も小田原から断じて守る腹積もりはある」
「まずは家臣領民だけでも、今は陸奥守殿にすがるより他なし」
 小山田信茂と北条氏照の密約が結ばれたことで、多くの人命を戦果から救う道筋が為された。郡内を武田から切り離すことは忍びないが、これも戦国の倣いである。
 ただし、信玄に薫陶された以上、信茂個人は武田に殉じる覚悟だ。領主代替わりの真意は、そこにある。
「こののちは当家長老の弾正(小山田有誠)に、陸奥守殿との交渉を委ねるものなり。遅きに過ぎたが、本日、陸奥守殿と会えてよかった」
「御命大事に」
 信茂は卜山禅師に深々と頭を下げた。
「出羽殿」
 唐突に卜山禅師が呟いた。
「塩山の向嶽寺とは今も連絡を取るところにて、もしも、武田の子女を甲斐より逃すことがござれば、この卜山を頼らせたしとお伝えあれ」
「有難きかな」
 この救済の糸が、のちに、武田家の希望となる。

 黒川金山の田辺太郎左衛門が、龍芳の使いである山下又左衛門尉から文を手渡されたのは、二月半ばのことである。その文に目を走らせた田辺太郎左衛門は、そうかと繰り言を呟きながら、大蔵藤十郎を呼び寄せた。
「藤十郎よ。よき匠として、儂に代わり託す大事がある」
「は」
「こちらの山下又左衛門尉殿とともに、御聖道様のもとへ行け」
「しかし、こちらの採掘は」
「構わぬ、それよりも大事なことである」
「はい」
 黒川金山は冬景色だったが、荻原口より国中盆地に至ると、すっかり温い心地だった。もう、山の麓は、春だった。藤十郎はちらと山下又左衛門尉を見た。龍芳を支える御聖道衆は、勝頼から独立した組織である。盲という点を除けば、物事の洞察力に長けた龍芳は聡明である。心の奥まで見通される畏怖すらあった。面前にある際は、神妙になることだ。藤十郎はそのことを弁えていた。
 入明寺は物々しい様相だった。武田家の大事を、藤十郎はここで、初めて知った。
「田辺太郎左衛門は人材を育ててくれた。そなたに、後事を託したい」
「後事とは?」
「我が子・顕了がこと」
 顕了道快、俗名を海野信道という。龍芳ともども半僧半俗であり、数えで八歳の子供である。法体にこだわるのは、本願寺門主・顕如光佐から一字を賜ったことの遠慮だ。子供ながらに、顕了は聡明だった。
「藤十郎、山に詳しいそなたに、顕了を匿うことを命じたい」
「お待ち下さい」
「いいか、これは命令だ」
 この時点で、誰も武田家の命運を実感する者などいない。しかし、龍芳は盲の闇の奥を透かすような表情だ。藤十郎は逆らえない。黙って従うしかなかった。このことを田辺太郎左衛門は、予てより知っていたのだろう。知って、藤十郎を選んだ。これは必然なのかも知れない。
「御聖道様にお尋ねします」
「なにか」
「顕了様を山中へ匿うのは、いつまででしょうか」
「そなたに一任する」
「そんな」
「静謐が戻ればよし、不運にも武田が滅びて次の為政者が頼るに足る者ならば、それに運を託すもよし。その場で考えるそなたの決断に勝るものはあるまい」
「武田が、滅びる?」
 このことに龍芳は答えなかった。
「お前に任せる」
 その言葉が繰り返された。
「自信を持て。いいな」
 藤十郎は頷くしかなかった。
 
 小山田信茂が案下峠から上野原に向かう途中、声が響いた。供の者には聞こえていないから、これは〈漂白民〉の伝達手段だろう。長いこと武家に染まった筈だが、血というものは恐ろしい。
「小便じゃ。先に行っておれ」
 そういって供を促してから、信茂は近くの笹をむしり、口に当ててピュッと吹いた。
「弥五郎、知己が来たぞ」
 現れた山窩たちの傍らに立つのは、〈イシ〉だった。
「すっかり侍臭くなったな、弥五郎」
「おまんも老けたずら、〈イシ〉」
 そういって、二人は笑った。
「あまり時間がない。よく聞け、弥五郎」
「ん」
「例の〈弥右衛門の子〉がおまんに興味があるそうだ。織田弾正も、おまんに興味があるらしい。武田を抜けるなら、弾正に口利きすると、〈弥右衛門の子〉が云うておる」
「そうかい」
「埒外に戻らないなら、せめて生かしてやりたいと願うのが、我が想いぞ。な、頼むから、命を無駄にすんな。生きてくんにょ」
「野垂れ死にの自由もない武士は、窮屈だものな」
「今のままでは哀れじゃ。埒外が無理なら、とにかく生きてくれ」
 必死の表情でじっと見る〈イシ〉の友情は、本物だった。
 信茂は、穏やかに微笑んだ。
「そうだな。戻ったら、その〈弥右衛門の子〉に云うてくれ。そこの山窩たちを許してくれるなら、考えぬでもない。どうだ、頼めるか」
 お前という奴はと、呆れたように〈イシ〉は溜息を吐いた。
 時間はないぞという〈イシ〉に、信茂は笑って応えた。これが、今の信茂が置かれた立場の、精一杯の歩み寄りだった。心の赴くままに、自由に生きていけないのが、今の信茂なのだ。
「伝えよう。伝えるから、待っていろし」
 そういって、〈イシ〉は全てを受け入れ、その意思を伝えることを約束した。
 その日のうちに谷村に着いた信茂は、留守中の状況を小山田有誠・茂誠父子から聞いた。八左衛門が勝頼からの使者として、二度ほど来たという。
「当代はご立腹で、はやく諏訪へ参じるべしとのことでした」
 茂誠は神妙な口調で報告した。
「北条に備えて広く対処すると、あれほど伝えておいたのにな」
 信茂は苦笑した。
「そろそろ、郡内のためにも」
 有誠が上目遣いに呟いた。
「案ずるに及ばず。陸奥守殿は、郡内のことを、すべて引き受けてくれる」
「それは、有難い」
「それでも当代に知らぬ顔は出来ぬでな。儂は兵五〇〇を率いて諏訪へ行こう」
「ならば、我らも」
「弾正殿は郡内の道留を沙汰して欲しい。平三は儂と参るがよい」
「はい」
「主要の街道は本栖口と御坂峠。ここに兵を配り道留するものなり。儂は御坂路から国中へ行くこととする」
 供は小林右京亮・奥秋加賀守房吉と、信茂は断じた。茂誠は応と叫びながら、出陣の触れを発した。小山田信茂率いる兵五〇〇は、吉田を経由し河口へと向かった。このあたりはまだ気候が温いが、やがて、御坂峠へ差し掛かると、日陰に残雪が映った。数日前に降ったものが、まだ融けていないのだろう。
 国中の盆地は、春の日和だ。赴くほどに、初夏のように汗ばんでくる。
 諏訪へ参じる途中、信茂は入明寺に立ち寄り龍芳に会った。藤十郎と顕了、そして七人の従者が古府中から去った翌日のことである。
「間の悪い男だ」
 龍芳は笑いながら信茂を迎えた。
「やはり、もう、いけませぬか?」
 信茂の問いに、龍芳は頷いた。
「顕了は野に伏せる。少なくとも、我が血が残れば、後々のことが気楽となる。当代は無理だな。敵よりも、領内に不満が多い」
「小山田家も、先を考えておりました」
「知っているよ。弥五郎殿は陸奥守にすべてを任せるお積りだろう」
 さすがは地獄耳だ。龍芳は海野家の長でもある。心源院でのことは、とっくに周知している様子だ。ならば、話は早い。
「武田家の子女がいたら迎えると、卜山和尚は申しておる」
「それも知っている」
 数日前、高遠城の松姫と仁科盛信の姫・督、勝頼の姫・貞とそれに従う信茂養女・香具が龍芳のもとにきていた。海島寺から向嶽寺へ行くよう、親書を渡している。たぶん、卜山和尚は向嶽寺にも子女迎え入れの沙汰を発していよう。姫たちは心源院へ向かうに違いない。
「香具とは行き違いか。顔くらいは見たかったな」
 ふと、信茂は呟いた。まるで今生の名残惜しさのようだと、すぐに苦笑した。
「うちの者を向嶽寺へ差し向ける。卜山和尚の好意に縋りたいとお伝えしよう。それで、いいかな?」
「ご厚情かたじけない」
 信茂は頬を緩ませた。
 龍芳が掴んでいる戦況は、芳しいものではない。二月半ば、南信州は戦わずして織田信忠に下ったという。このような無様は、信玄存命中には考えられなかった。逃げた者のなかには、逍遥軒信綱もいたという。武田家御親類衆の重鎮がこの様では、全く示しが着くものではない。
「駿河は?」
「徳川の侵攻で、田中城も風前らしい」
「やんぬるかな」
 さすがの龍芳も、穴山梅雪が徳川家康に通じていることまでは察知していない。一条信龍同様、退くか散るかの土壇場にいるのだろうと考えていた。
 こののち信茂は新府城へ向かった。
 小山田勢が新府城に入ったのは、二月一九日。城内は武田勢が鳥井峠で敗退した報せと、浅間山噴火の不吉で慌ただしかった。勝頼正室・妙は僅かな供連れで、武田八幡宮に願文を納めているという。
 長篠以降、武田は負けることに慣れ過ぎた。ふと、思ったよりも呆気ない結末が来るのではあるまいか。いよいよ雲行きがおかしくなってきたことを、信茂は感じていた。
 妙が戻ると、信茂はその状況を質した。
 妙は思ったよりも落ち着いた風である。勝頼の尻好きという性癖に屈することなく、閨の主導権さえ握る女丈夫なのだ。肝は据わっていた。
「聞いたところによると、一四日には松尾城が美濃勢に降伏したそうな」
 妙は力なく呟いた。
「兵はだいぶ損なわれましたでしょうに」
「損なうものか。戦わずして降伏したのじゃ」
「なんと」
 南信州勢は戦うこともなく、無傷で敵の軍門に下ったのだ。結果、鳥井峠でも織田方を援軍に頼んだ木曾勢に敗れた。本陣がある諏訪も、危ういだろう。
「出羽守殿なら分かるだろう。武田がこんなにも脆かったのか。脆くなった理由は、果たして何だというのじゃ」
 妙は声を震わせた。
 気丈に見えても、やはり女だ。覚悟の性根は、どこか定まっていないらしい。
「当代は人を育てませなんだ。それ以前に、自らを育てることすら怠り、先見の明を曇らせ、場当たりな後手に振り回された。これこそが、今日に至るすべての礎にござる」
 図星だ。返す言葉もない。
「ならば、諏訪で押し退けることは適うか?」
「すべては天運と思し召され」
 信茂はそう答えた。他に答えは見つからないし、この場ではそれが妥当な言葉だった。
「そういえば、真行大法尼様はどちらへ」
「朝早く、武州吉田村の庵に発たれた。勝手なものじゃ。新府が危ういと思うて、逃げ出したのよ、あの婆ぁ」
 妙は真行大法尼が嫌いなのだろう。悪態は感情的だが、いなくなって清々したという風にも取れる。
 そののち信茂は手の者を用い、吉田御師・数珠屋小澤彦左衛門へ密書を発した。秘かに真行大法尼へ扶養の財を手配させ、いざというときに備えるよう打診を命じた。いざというときとは、最悪の場合、落ち延びた者を吉田村の庵にて匿うべしという意味だ。数珠屋小澤彦左衛門は武州に檀家を抱え、これまでも吉田村の庵を支援してきた。真行大法尼の信頼も厚い。
(大事がないことを祈るほど、悠長なことは云えぬ)
 信茂はここが地獄の底のような、嫌な心境だった。
 信茂は諏訪で、勝頼と会った。


                  三


 運に見放された男とは、須くケチがつくものである。武田四郎神勝頼は、このとき最も天運に見放された男であった。
 二月二五日、穴山梅雪の屋敷から家族が河内へと逃げ去った。謀叛の噂があったが、勝頼はそれを否定し続けた。しかし、人質同然の穴山家の眷属が逃亡したということは、背信が公然と示されたことを意味した。
 武田家御親類衆筆頭の謀叛は、感傷に浸る暇を与えなかった。河内は富士川を経て駿州清水や江尻に至る。ここより徳川勢が攻め上ってくることが、いよいよ現実のものとなった。南信濃を奪った織田勢に全軍を向けたら、背後から徳川勢が攻めてくる。
 甲斐が二方向から侵攻される。
 勝頼はこのような戦局に立たされたことがない。後先考えず、力攻めをする以外の才はなかった。頼みとなる味方さえ疑った。いったい誰を信じたらいい。
「弥五郎殿、ちょっと」
 諏訪の陣所に遅参したのは小山田信茂だけではない。真田昌幸もその一人だった。昌幸はこの戦局を覆すためには、一旦甲斐より出て、少しずつ劣勢を覆すしかないと呟いた。
「同感である」
「当代さえよければ、儂は岩櫃にお迎えしてもいいと思うのだ」
「上州か。成る程、兵站が延びることこそ、敵の不利を誘うこととなる。さすがは小信玄殿、よき策じゃ」
「このようなときに、からかいますな」
「問題は、いつ、どうやって当代に具申するか」
 それが難しいと、昌幸は呟いた。
 とにかく諏訪に留まるべきか、新府へ退くべきか、二者択一を迫られている現実から対処しなければならない。勝頼の本陣に赴いた信茂は、目を見張った。そこにいるべき武田典厩信豊の姿はなかった。
「自領にて不穏の気配ありと、ここを去ったのだ」
 勝頼は背を丸めて呟いた。自信過剰な鼻持ちならぬ彼はそこにはいない。哀れなる小物然とした無様がそこにあった。
「御親類衆はいずこか」
「おらぬ」
「典厩殿のことは分かりました。逍遥軒とのは?」
「姿を隠して、それきりずら」
「仁科五郎殿は?」
「高遠で織田勢を迎え討つという」
「あとは?」
「知らぬ、知らぬ」
 何ということだ。
 信玄存命の頃には、このようなことはあり得なかった。
(武田は終わった)
 信茂はそう確信した。
 勝頼を支える御親類衆はいないのだ。このことは譜代重臣にも伝播する。最後まで従うのは、幼少から勝頼を支えた者たちだけだろう。
「諏訪で織田勢を迎え討ちますか」
「勝てるのか?勝てる術はあるのか?」
「〈孫子〉の兵法を並べたとて、天地人に見放された者を勝たせることは能いますまい。速やかに新府へ退かれることが得策かと」
「籠城か?」
「籠城だって、手薄なら無理でしょう」
 勝頼はさめざめと泣き崩れた。なぜ、どうして、こんなことになったのだろうか。たった数か月前には思いも寄らぬことだ。そう呟いて、泣いた。
(この人は、己から発した全ての起因を理解できなかった)
 信玄亡きあと一〇年、何とか先代の遺徳で持ち堪えたものの、その全ての担保を使い果たし、勝頼は名ばかりの当主に落ちぶれようとしていた。
「出羽殿」
 跡部勝資がきた。
「大炊介殿、上杉への援軍要請は?」
「した。が、間に合うまい」
「真田安房殿が申しておった。ここは一旦、新府に退くべきかと」
「儂もそう思う。御当代、さあ、立ちませい」
 勝頼は泣き崩れるままだ。次の瞬間、信茂は目を見張った。跡部勝資は、勝頼を引き起こし、頬を張った。
「そんなことでどうする!」
 跡部勝資の裂帛に、勝頼は目を丸くした。
「立て!」
 無意識のうちに、勝頼は立ち上がった。跡部勝資は大声で新府撤退を沙汰し、兵たちが退き陣の支度に取り掛かった。側近衆が集まり、勝頼を囲むように馬場へと向かった。
「出羽殿、当代を張り倒したこと。他言無用に願います」
「心得た」
 信茂は思わず笑みを浮かべた。見捨てる者もあれば、未だ支えようとする者もいる。いいものを見せて貰ったと、なぜか信茂は嬉しさを隠せなかった。
 二月二九日、武田本隊は新府城に帰還した。
 直ちに評定が開かれたが、そこにいるべき勝頼の姿がない。どういうことかと、土屋惣蔵昌恒が声を荒げた。皆が、跡部勝資をみた。
「当代は奥方と内密な話をされておる。評定はここにいる皆で進めておくべきかと存ず」
 とは申せ、御親類衆が一人もなく、重臣の席次でいけば両職の跡部勝資が取り纏めるしかない。こののちを如何に処すか、意見を口にする勇気を持つ者など、いなかった。
「当代はすみやかに上州へ退くべし」
 声を発したのは、真田昌幸だった。
「甲斐を捨てよと申すか?」
 長坂釣閑斎が甲高い声で難色を示した。捨てるのではない、立て直すのだという昌幸の主張は、生粋の甲州人には響かない。賛同する小山田信茂に対し
「郡内の者に、この気持は分からぬ」
 感情的になった長坂釣閑斎を窘めたのは、跡部勝資だった。
「織田勢もさすがに上州まで兵站を延ばすことはあるまい。駿河や南信濃を奪われようとも、甲斐は奪い返す機がある。安房殿の考えは左様であるか」
「いかにも」
「検討の余地がある。このこと、当代の決断を以て決したい。釣閑斎、それでいいか?」
「当代の沙汰には従おう」
 不服を隠せぬ釣閑斎は、大人げない陰気を発しながらも、渋々と頷いた。跡部勝資は裏方の入口より、勝頼を呼んだ。侍女が二度、三度と取次ぎ、ようやく勝頼は姿を現した。
「正室様は尻を叩かせてくれぬのだ。調子が出ない」
 ふざけた物云いだと苛立つ気持を堪えて、跡部勝資は評定にて決断すべしと、勝頼に訴えた。まだ行きたくないと渋る勝頼を一喝し、引き摺るように、跡部勝資は勝頼の手を引いた。
 岩櫃城への後退。
 気が滅入るようだと、勝頼は呟いた。とにもかくにも、岩櫃城へ向かうことが決定したのである。
「のう安房守、籠城は能わぬか?」
 勝頼は縋るような目で昌幸に訴えた。
「防備の兵が足りませぬ。それだけではござらん、縄張の未完成を補うことも……せめてもう半年あれば」
「たった半月で南信濃が瓦解するなど、思いも寄らぬことだった。このことがなければ、返す返すも、口惜しい」
「いまの現状をどう切り開くかが、一国一城の主たる器量にござる」
 真田昌幸の提案は決した。勝頼一行は新府より佐久往還で小諸を目指し、鳥居峠を経て岩櫃城に向かうこととなった。戸石城から沼田にかけては、真田勢が切り取った領地である。治安も安定していた。ここで持ち応えることは出来る。
「高遠城はどうするのだ。五郎(仁科盛信)は籠城しているぞ」
 急ぎ退却するよう使いを出すべきか、勝頼は質した。
「それはなりますまい」
 小山田信茂が即答した。
「五郎殿は当代を生かすために、お覚悟されたものと心得たし」
「しかし」
「かの川中島において古典厩様や道鬼様が犠牲になったのは、先代様の勝利を信じて刻を稼いだためなり。五郎殿も同じことを考えてござる。この犠牲を無駄にしてはならぬことですぞ」
 小山田信茂の言葉は、説得力があった。
 川中島の戦場を知る者の想いが籠っていた。ここには勝頼をはじめ、多くの川中島を知らぬ者がいる。その者たちでさえ、仁科盛信の犠牲を無に出来ないという感情が芽生えていた。
 そのときである。
 北条勢が深沢城を包囲したという伝令が届いた。もし深沢城が落ちれば、勢いに乗った北条勢が、籠坂峠より郡内を襲うだろう。
 小山田信茂はこれに応じた。
「八左衛門は当代の傍衆である。儂に代わりて当代を支えよ。儂は北条に備えるため、籠坂峠へ布陣する」
 信茂がいなくなることを勝頼は嫌がった。頼る者がいないとさえ愚図った。
「残る者は強き武田武士である」
 信茂はそう云い含め、座を立った。
 三月一日、再度評定が開かれた。岩櫃城行きに変更はない。その間にも、各方面から伝令が届いた。北条氏政は武田方の駿河戸倉城・三枚橋城を落とした。高遠城下には既に織田勢が溢れ返っているという。
 迷っている時間はない。
「されば、当代を迎え入れる支度がございますゆえ」
 岩櫃城で迎え入れる指図のため、真田昌幸は座を立った。新府城内にも退去の触れが発せられた。
「逃げるとは申せ、これは戦略でござる。敵の兵站を引き延ばして、本命を叩く。これこそ戦術の冥利ではあるまいか」
 去り際に吠えた真田昌幸の言葉は、まだ敗けていないという響きがあった。かすかな希望が、そこに生まれた。
 三月二日、ふたつの報せが入った。ひとつは高遠城全滅、もうひとつは駿河を逃れた一条信龍が本拠である上野城に戻ったというものだ。高遠城が落ちれば、織田勢は怒涛の勢いで甲斐に攻め込むだろう。真田昌幸の待つ岩櫃城へ急がねばならない。
 そこへ、長坂釣閑斎が進み寄り、勝頼の耳元で囁いた。
「右衛門大夫殿は婆娑羅者なれど合戦巧者。岩櫃などやめて、古府中の要害山に籠って上野城と連携するべきかと。さすれば、古府中の者たちも旧恩ある当代のために立ち上がりましょうぞ」
 耳触りのいい言葉だった。
 勝頼は気が変わった。武田はやはり躑躅ヶ崎にあってこそのものだ。要害城に籠るのは信玄誕生のとき縁起にも繋がる。ここで織田・徳川の軍勢を撃退すれば、民衆は再び勝頼を見直すことだろう。
「よし、古府中を目指そう。我らは岩櫃に逃げるよりも、甲斐で撃退するのじゃ。このこと、急ぎ触れよ」
 長坂釣閑斎は頷き、城内に触れを発した。
 驚いたのは跡部勝資だ。評定を覆すなど、考え難しと、大声でにじり寄った。
「儂は決めた。もう退かぬ。甲斐に向かうのだ。要害城で巻き返す」
 跡部勝資の諌言はもう届かなかった。これ以上騒げば、兵が逃散する。この期に及んでは要害山城に籠城するしかない。急いで蓄えを集める必要があった。蓄えなき籠城は自殺行為だ。短期決戦を挑むからには、堅固な環境を整えねばならない。
 跡部勝資は上野城に使者を差し向け、一条信龍に要害城に籠るための奉行を預託した。
 しかしこの決定には、大きな落とし穴があった。生き残るか、滅びるかの岐路である。勝頼は、最悪の道を選んだ。

 三月三日、払暁。勝頼は新府城を出た。それと同時に、城を焼き払うよう命じた。真田昌幸苦心の傑作は、城としての役割を果たすことなく、灰燼に帰するのである。七里ケ岩の上は梅の咲く陽気だが、北側の日陰はまだ肌寒い。塩川を渡り高台に登ると、兵の数はかなり減っていた。逃げた者を咎める気にもならず、勝頼たちは振り返り、炎に包まれる新府城を涙目で見つめていた。やがて高台を下り、竜王に向かう。そこから竜地を登っていくのだ。その間、誰もが俯いていた。人知れず、兵は次第に欠けていく。
 勝頼が落ち延びた行程は、諸説ある。どれが真実かは定かでない。よって、作者自ら「甲州夏草道中記」のルートを踏破したうえで、あくまでそれに準じた行程だという前提で、物語を進めていく。
 竜地の丘を登りきると、地平から見慣れた愛宕山や一条小山が目に映った。年明け前までは、そのひざ元である躑躅ヶ崎に居たことを、勝頼は思い出した。
 感情とは面白いものだ。
 意味もなく、気が逸り、昂ぶる己を自覚した。
「きっと古府中の者は出迎えよう。武田が躑躅ヶ崎に帰ってきたのだ!」
 そう叫んだところで、返す言葉は疎らだった。輿に乗れない女たちにとって、新府から古府中までの徒歩きは苦痛でしかない。
「誰かくる」
 安部勝宝が声を挙げた。甲冑姿の騎馬兵だ。旗差から、一条信龍の配下だと見て分かった。
「出迎え御苦労」
 ことさら陽気に振舞う勝頼は、騎馬武者からの言葉に愕然となった。
「古府中は不穏にて、当代を拒む輩が武装しております」
「馬鹿なことを申すな」
「我が殿は一条屋敷で御休息ののち、すみやかに立退くべきだとのこと」
「叔父上は上野城か?」
「はい」
「口惜しいことじゃ」
 女子供は休んだら動けぬと、不満を口にした。それでも一条信龍屋敷で大鍋のホウトウを振舞われ、少しは気力を回復した。この季節、国中の盆地内は、晴れていたら初夏のような陽気になる。熱々のホウトウが振舞われたと云うことは、花曇りで肌寒かったのだろうか。
 結局、勝頼一行は一条屋敷で一泊した。古府中の西端に位置するこの屋敷は、変わり者の信龍が砦のように屋敷を構築していた。そのため物騒なことにはならなかったが、朝になると、多くの兵が逃散していた。
 翌朝、一行は古府中を避けるようにして、善光寺へ向かった。勝頼の存在はたちまち近在の知るところとなり、途中、石を投げる者もいた。罵声を飛ばす者もいた。これが正直な領民の感情だった。新府移転により、古府中の民は武田に見捨てられたという印象を抱いた。当然、勝頼への感情は険しい。
 善光寺門前で一行を待つ者がいた。両手を付き、ひれ伏して見送ろうとするこの男こそ、小幡備中守昌盛である。小幡昌盛は風土病に冒され、動くことも難しい身だった。古府中のことを知り、きっと勝頼がここを通ると考え、じっと待っていたのである。彼も新府移転を拒んだ一人だが、そのおかげで見送りが出来たというのは、皮肉な話だ。
「父は川中島での奉公も適わず、儂も落ち延びに加勢能わず。二代の不忠を御許しあれ」
 小幡昌盛の言葉にも勝頼は無関心だった。これからどうしたらいいものか、行先に迷うばかりだった。
「どこへ、向かわれるか」
 跡部勝資は声を荒げた。勝頼は項垂れたままだ。
「当代、いっそ北条へ使いを出しましょう」
 長坂釣閑斎が進言した。何を云うのだと諌める跡部勝資を余所に、釣閑斎は嬉々と、かく訴えた。
「郡内を北条にくれてやればいいのです。我らは岩殿城に籠って、北条からの援軍を待てばいい。なに、岩殿城は武田の持ち物、出羽守(小山田信茂)がとやかく云うものではござらぬ」
「北条は織田弾正に下ったのだぞ」
「御正室様は北条御隠居の妹御。悪いようには致しますまい」
 勝頼はその言葉に心動かされた。衝動的な決断は天才肌の人間が得手とする。世が世なら勝頼もその部類であった。そして、その衝動は合理性を欠くがゆえに、博奕の要素を隠せない。
そう、これは博奕だった。
 郡内の誰にも知らせず、それを担保とした下策だ。
 長坂釣閑斎は小山田八左衛門を呼び寄せ、勝頼からの密書を二通差出した。ひとつは信茂に宛てたもの、もうひとつは北条氏政に宛てたものだった。
「北条への密書は誰にも知られてはならぬぞ」
「谷村様は勘のよい御方ゆえ、小田原へ行くことに疑念を持つでしょう」
「出羽守には当代様の使いとして、御正室様を小田原へ戻すための交渉だと云えばいい。いいな、この密書に武田の命運を賭していると心得よ」
 密書の中身も謀も知らぬ小山田八左衛門は、ちらと勝頼を見た。勝頼は暗い表情で
「たのむぞ」
と呟くのみだった。
 小山田八左衛門はここより御坂峠を経て、籠坂峠の信茂のもとへと馬を駆った。それを見送りながら、勝頼一行は先を急いだ。途中、春日居にて、勝頼と妙の間に出来た二歳の男子が高熱を発した。土地の者にこれを託し、急ぐより他はないものだと、長坂釣閑斎が息巻いた。
「馬鹿を申すでない!」
 妙が激昂した。この子を置いていくなら自分も残るとさえ云い出す始末に、勝頼は困惑の色を浮かべた。結局、勝沼で待つということで、妙と従者、それに小山田信茂の母が残ることで話は収まった。信茂の母は躑躅ヶ崎から新府城下の屋敷に移り、以来ずっと行動を共にしていた。漂白民である彼女は、老いたとはいえ、いざとなれば易々と逃げる敏捷性がある。
「なぜ勝沼なのだ。御坂ではないのか。郡内への道がないぞ」
 跡部勝資が不安を口にした。御坂路に勝る郡内への路はない。しかし、長坂釣閑斎は涼しい顔で呟いた。
「笹子峠を馬で越えればいいずら」
「馬なんぞ、どこにある」
「勝沼の先に、駒飼という集落があると聞いた。きっと馬には困るまい」
 断言するものの、長坂釣閑斎は現地を知らぬのだ。地名から、憶測で口にしているだけである。
 これでは話にもならぬ。しかし、決断は限られた者たちで定めるしかない。夕刻、勝沼大善寺に一行は辿り着いた。
「突然のことで何のもてなしも能わず、心苦しいことにて」
 出迎えたのは、桂樹庵理慶尼である。彼女は勝沼信元の妹・松葉だった過去を持つが、義信事件のことを勝頼が深く知る由もない。勝頼に代わり、気を配ったのは跡部勝資や土屋惣蔵昌恒だった。
「大炊介殿、駒飼とは名ばかりにて、馬などおらぬとのこと」
 安部勝宝がそっと報告した。
「釣閑斎め、浅慮にも程がある」
 考えもなしの決断ほど、恐ろしいものはない。
「武具荷駄の類が一番重くて難儀である。今夜のうちに兵を揃えて、御坂峠を越える手筈を執ろう。女どもも妙様付の侍女を除いて全て同行させるのじゃ。当代の近辺は、我ら重臣側近衆で固めればいい」
「このこと、当代様には?」
 安部勝宝は一応声にした。形式である。誰も勝頼に報せるつもりなどなかった。真田昌幸の言葉に従わなかったのは、長坂釣閑斎の甘言に乗せられた勝頼だ。結果として、全てが裏目となった。これ以上の泥沼は御免である。
 その夜、兵と武具が忽然と消えた。
 跡部勝資は岩殿城に留まらず真行大法尼のもとへ行くべしと云い含めた。吉田御師は真行大法尼と関係が深い。きっと一切の手筈を整えてくれるだろう。
 朝になって、長坂釣閑斎が大騒ぎした。
「みろ、兵が逃げたぞ」
と甲高い声で騒ぐのを諌める者はいない。面倒臭そうだから、皆は黙っていた。
 御坂峠を越えた兵や女たちは、月江寺にて籠坂峠から退いた小山田信茂の軍勢へ合流した。信茂は勝頼が上州へ向かわなかったことを知り
「愚かだ」
と吐き捨てた。郡内では幾万の敵を支えることが出来ない。岩殿城とて、一面的に見た目は堅牢だが、背後はどの山にも連立しない単独峰。籠城の支度もないまま兵が籠れば、たちまち干上がるだろう。
「して、我が母上は?」
「鎮目にて、当代様の倅と御一緒に」
「如何なことか」
 二歳の子供が発病したことを聞き、信茂は溜息を吐いた。勝頼という男は、やること為すこと、全てが裏目になる。なんとも運のない男だと、呆れたように呟いた。
 傍らの御師・数珠屋小澤彦左衛門を招き
「いつものことだが、女どもを真行大法尼様の元へ送りたい。手配を頼む」
「心得たり」
「ところで、すっぱ衆は、織田勢の動きを何処まで知っておるか」
「一日遅れではござるが、古府中に迫っているのは間違いなし」
「母上が危ないな」
 小山田信茂は桃陽を招くと、総大将の身代わりを申し出た。
「上杉家からの面頬で顔を隠せば、弥三郎殿と知る者はない」
「今更面頬をしたら、不自然である」
「儂が憤怒のときは表情を悟られぬために面頬を被ると、家中には触れている。不自然なことはない」
「しかし」
「儂がもし討たれても、弥三郎殿の裁量で全てを託せる」
「討たれたら困る。弥五郎殿がどれほど領民に慕われているか、今更ながら思い知らされておるわ」
「母上を救うたら、きっと戻るずら」
 そのときである。
「谷村殿、駿河から左衛門佐殿が逃れて来ました」
 伝令の声が響いた。駿河の様子を知る必要がある。信茂は面頬を借り、それを被って武田信堯を迎え入れた。
「すまぬ、谷村殿。生きて逃れるのが精一杯だった」
 泥まみれの武田信堯は、穴山梅雪の裏切りを切々と訴え、無念だと嘆いた。多くの者は徳川勢に捕えられたが、信堯は辛くも逃れたのだという。
「他に逃れた者はおられるか?」
「一条右衛門大夫殿が脱したと聞いた」
「右衛門大夫殿はどこへ」
「所領の上野城にて、徳川と最後の一戦をするのだと聞いたが、事実かどうかは知らぬ」
「上野城か」
 地の利に長けた縄張りで知られる上野城だが、恐らく数に勝る徳川勢には叶うまい。徳川勢は穴山領を無傷で通過し、梅雪の先導で国中へ攻め入るだろう。
「西から織田、南から徳川か」
 武田家が生き残る術は、一刻もはやく甲斐から遠ざかることだけだった。そのための岩櫃行きだったのに、なんということだろう。
「四郎殿は今どこに」
 信堯の問いに
「勝沼らしい」
 信茂はぼそりと呟いた。
「四郎殿がだらしないから、こんなことになったのだ」
 信堯は悔しそうに呻いた。
「左衛門佐殿は岩殿城へ行ってくれ。そこで様子をみる」
「弥五郎殿は?」
「ここで暫く采配するずら」
「ああ、弥五郎殿」
「はて」
「それが評判の、上杉から拝領した面頬か。怒ったときに被るという、評判の面頬だな。何に怒って御出でかわからぬが、弥五郎殿に怒りの体は似合わぬで」
「そうだな。そう思う」
 そういって、信茂は陣所の奥へ行き、桃陽に聞いたことを伝えた。一条信龍は戦さ上手だが、多勢に無勢では、先があるまい。それを助けることが出来ないことも、充分にわきまえていた。
「今は郡内へ攻め入られぬ備えをする必要がある。すぐに戻る、頼むぞ、弥三郎殿」
「いつまでも兵は騙せぬ。早う戻って来てくろし」
「では」
 信茂は甲冑を脱ぎ捨て、面頬を差出した。
 桃陽はそれを手にしながら、複雑そうな表情で信茂をみた。信茂はにこりと笑い、ほっかむりをすると、陣幕の外へ素早く消えていった。武将の貌ではなく、一介の漂白民になった心地で、信茂は山を駆けて行った。とはいうものの、育ちは埒外ではないのである。奔るといっても、漂白民のそれのような訳にはいかない。
「弥五郎」
 声が響いた。すぐ近くにも、遠くにも感じる。しかし、覚えのある声だ。
「〈イシ〉か」
「いま国中へ行くと、帰れないぞ」
「もう織田勢が?」
「四郎も助かるまい」
「今となったら、母者さえ助かればいいずら」
 ざっと落ち葉を掻き分けて、〈イシ〉が姿を現した。手には書状を持っている。
「おまんの母者からだ」
「なんで、〈イシ〉が?」
「読めばわかる」
 手に取って、目で追う信茂は、思わず声を挙げた。
「熱を出した子は母者が御坂路で連れてくるという。農婦に変装すりゃあ、母者なら誰の目も欺けような。問題は御正室様じゃ。よりによって、当代のところへ行きおった」
「何か問題でも?」
「笹子を女が越せる筈もない」
「お終いだな」
「ああ、終いになるだろうな。だいたい、何でこんなところへ来たのだ、素直に上州へ行けばよかったのにな。運もなければ決断も甘い、つくづく馬鹿な男ずら」
 小山田信茂は武田勝頼の命運が尽きたことを確信した。
 男だけならいざ知らず、女混じりの一行などでは、とても笹子を越えて郡内に辿り着くことなど出来はすまい。ましてや武将の一団など、目立ちすぎる。
 いまの勝頼は落ち武者だ。しかし、その自覚がなさすぎた。これでは追撃してくれというようなものだ。
「もう一枚あるだろ」
 信茂はまだ読んでいない書状に気がついた。無記名だ。
「織田弾正のものだ」
 小声で、〈イシ〉が呟いた。
「武田から転べとあるな」
「織田弾正はおまんを買っているだに。それに、〈弥右衛門の子〉も、おまんの希望を聞き入れた」
「山窩たちを許してくれたのだな」
「次はおまんだ。従えとの申し出だがや」
 選択の余地はない。
「母上さえ確保出来たら、郡内は北条陸奥守に明け渡すことにする。儂は、織田弾正に会ってもいい」
「そのこと、伝えよう」
と〈イシ〉は答え、木々の奥へと消えていった。
 信茂は御坂峠の近くで一昼夜待ち、ようやく母と合流した。従者も子供も、野良作業の風で武家の者とは誰も疑わない。
「お見事な扮装ですな、母上」
「弥五郎も小汚ねえし」
 一同は大声で笑った。
「さあ、もう少しだ。河口まで下れば安心ずら」
 勝頼の童はこののち、女たちと一緒に真行大法尼のもとへ落ち延び、長じたのちは出家して武州川越に一庵を設ける。これも運だった。

 三月七日、織田信忠が古府中に着陣した。一条信龍の旧屋敷を本陣とし、民衆に武田残党狩りの密告を奨励した。勝頼に対する思慕を持たぬ多くが、数日前、ここで休息したのちに東へ向かったと訴えた。信忠は思慮よりも感情が先走る人格だった。このあたりが信長の懸念材料といえる。
「武田降将の処分は、当方着陣まで沙汰を待つべし」
 これが信長の内命だった。
 特に小山田信茂とは話がしたいのだと、強く念押しをされた。それが信忠には不服だった。名ばかりの総大将は真っ平だと、逆らう気持ちしか込み上げてこなかった。
「総大将は儂だ。好きにさせてもらう」
 信忠は命令違反を意図した。
「おやめあれ」
 止めたのは明智光秀だけだった。そのため、光秀は遠ざけられ、信忠に従順な家臣だけが陣の中心に許された。
 武田に関する全ての破却と粛清の意思。それだけが、信忠の胸中に渦巻いていた。血祭りを好む性癖は、胸いっぱいに膨らんでいた。
 信忠は図面を見た。
「血祭りにふさわしい場所はあるか」
 躑躅ヶ崎旧館跡では面白みがない。ふと、善光寺の文字が目に留まった。これは何かと尋ねると、信州川中島より本尊を移したものだ、河尻鎮吉が答えた。
 信忠は変態的な笑みを零した。
「投降勧告に応じた武田の諸将を善光寺に引出し、それぞれが顔を合わさぬよう、陣幕に仕切りを設けて囲むべし」
 信忠の指示で、降将が連行された。そのなかには、武田逍遥軒・葛山信貞といった武田親族がおり、更には譜代家臣もいた。新府評定にも顔を出さなかった面々である。
「四郎殿を追討するのならば、先陣を賜りたし」
 逍遥軒は神妙に訴えた。信玄の後継者でありながら、国を危うくした罪を口々に訴え、織田家の下で新たな武田家を作りたいと訴えた。信忠の両脇には、河尻鎮吉と滝川一益がいる。滝川一益は勝頼探索の先陣を賜り、勝沼方面に向かっていると報告していた。
「逍遥軒入道、武田四郎の叔父だな?」
「いかにも」
 信忠は後ろ手に縛られた格好の逍遥軒を見下ろした。
「なぜ、当主から離れたか」
 その問いに、逍遥軒は多くの不満を並べ立てた。そこには、肉親という意識もない。哀れなものだ。こういう身内がいたから、勝頼は滅びていくのだ。悪びれもない逍遥軒の態度に、信忠は気分が悪くなった。
「打ち首」
 信忠は断じた。
 途端、逍遥軒は嘘のように威勢を失い、わなわなと震え出した。命乞いをするものの、信忠には通じなかった。逍遥軒はその場で斬首された。
「かつては信玄坊主の影を務めたというが、こぎゃあな小者とは思わぬでや。見よ、信玄を討った心地すら覚えるだがや」
 信忠はすっかり興奮して、次々と血祭りを指図した。
 戦国の世に儒教の教えはない。率いる者の器がなくば、親類縁者とて叛くし、場合によっては殺してしまう。人の上に立つということは、そういうことだ。降将たちは斜陽の武田家を見限ったのではなく、勝頼個人を見放したのである。
 その結果が、この有り様だ。
 勝頼が頼りないとするなら、信忠はどうだろうか。父親の威光がなくなれば、この器に命運を託す家臣がいるだろうか。
(上様がおらずば、いつ誰が背中より斬られるか知れぬ。そのような大将には、仕えるものではない)
 ちらと滝川一益は考えた。河尻鎮吉も同じだった。

 三月九日、笹子峠が封鎖されているという報せに、勝頼は動転した。
「小山田が裏切ったぞ、どういうことだ、裏切ったぞ」
 激しい狼狽を態度に出して、従う者たちは次々と不安を覚え、なかには逃亡する兵も少なくなかった。状況を確認するまでは軽挙妄動を謹むべしと、跡部勝資が勝頼の頬を張った。
 程なく、軽装で小山田八左衛門が郡内より駆けつけた。
「なぜ笹子を封鎖するか?」
 詰問に戸惑ったのは八左衛門だ。ここに備えの逆茂木を設けたのは、三月初頭のことである。それまでは、多くの者がここを通過して郡内に向かった。その時点で、まさか勝頼がここに来るなどと、誰が考えただろうか。逆茂木の設営は大がかりな作業だ。今更これを除くことは出来ない。
「かくなるうえは、間道を用いて郡内に向かわれたし」
 八左衛門の申し出に、跡部勝資が応じた。
「御館様の誤解でしょう。笹子峠には武田の狼煙台があり、管理をするのも当家にて、小山田にあらず。今は粛々と山を越えるべし。八左衛門、間道の案内を頼む」
「応」
 小山田八左衛門は駒飼から田野へと向かい、大鹿峠を経て郡内に行くことを提案した。勝頼は渋々応じた。ここに留まるだけで、無駄な時間を費やした。誰もが、織田勢の追撃が迫ることだけを懸念していた。この山を越えさえすれば、きっと安堵できると信じていた。
「こんなことなら、岩櫃へ行けばよかった」
 誰いうともなく呟いた。図星だ。しかし、口にしたのは、他でもない、長坂釣閑斎だったから、勝頼の怒りが爆発した。
「いまは、そのときでは無し」
 土屋惣蔵が宥めた。
 一行は、足取り重く山道を登った。気づけば、女や坊主ばかりで、兵の多くは逃散して消えていた。このとき、勝頼の勘気で蟄居謹慎させられていた小宮山内膳友晴が、一行に追いついた。
「譜代の臣でありながら御供に臨めぬのは末代までの恥辱にて、敵がくるならば御盾となり高思の万分の一にも報いたいため」
 小宮山友晴の口上は立派だった。
「内膳、よくきてくれた」
 勝頼は涙を流して、その手を握った。
 先発する者は、この先々で、住人が織田に寝返り勝頼の恩賞首を狙っていることを報じた。彼らにとって、勝頼はもはや主君ではない。内政を破綻させ民衆の生活を脅かす敵だった。信玄への崇拝が大きいほど、その恨みも深かった。
「八左衛門」
 勝頼は小山田八左衛門を呼んだ。
「その方、単騎で峠を越えて出羽守の救援を求めよ。それまで我らは、ここに踏み止まる」
「そんな、はやく進まれたし」
「女ばかりで早くも何もない。さあ、急げ、我を助けよ!」
 八左衛門は一礼し、供する小山田の臣に勝頼を守るよう云い含めると、甲冑を脱ぎ捨て大鹿峠へと走り出した。
 三月一〇日。勝頼は完全に包囲されていた。山の上からは土地の者が織田の兵を先導してくるという情報もあった。
「御館様から勘当された辻弥兵衛が、織田を先導して攻めてきた由」
 釣閑斎が報告した。しかし、これは誤りだ。勝頼の勘気を被り勘当された野呂の豪族・辻弥兵衛盛昌は、信州小諸城に赴き謹慎していた。この半月の状況で、ここから甲斐に戻れる筈がない。だれかを貶める物云いをするのが、長坂釣閑斎だ。それを鵜呑みにしてしまう勝頼は、十分に判断能力を欠落していた。事実、この兵は滝川一益の手勢である。
「この先は崖路で、人ひとりがやっと通れるところにて、防いで参る」
 土屋惣蔵昌恒が刀を抱えて、単身、先行した。
 後ろからも追撃が迫る。急いで拵える策など、畑の坊杭にも劣る粗末なものだ。ないよりはいいということだが、気休めにもならない。太郎信勝は、不貞腐れたように座り込んだ。親父が信玄だったら、こんなにも苦労はしなかったと、悪態をついた。
 勝頼には、それを叱る気力すらなかった。
「今にして思えば、口やかましかった年寄りのいうことは正しかったな」
 あとのまつりだった。
                            つづく
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登場人物紹介

小山田信茂    

甲斐国郡内領主。武田二十四将。武田家を裏切ったと定説される文武の才に秀でた武将。

父・信有に嫌われて育つが、それは出自にまつわる秘密があった。

小山田弥三郎信有

小山田信茂と腹違いの兄弟。嫡流として小山田家を相続するが、のちに病没。ということになり、信茂を支える影の参謀となる。

武田信玄

甲斐国主。智謀に長けた戦国最強の武将。小山田信茂を高く評価し、その出自も含めて期待している。

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