第23話「幻の甲江和与」

文字数 23,166文字



   幻の甲江和与


                  一


 天正六年(1578)一月七日、郡内は静かな雪景色である。
 この日、小山田信茂は河口の御師・玉屋を谷村に呼んだ。河口御師は吉田御師とは別の系統で、歴史はこちらの方が古い。小山田家とのつながりは吉田より薄い面も否めないが、それは立地条件ゆえのことだ。法華宗本門流蓮華山妙法寺は河口の大きな寺社で、『妙法寺記』でその名が知られる。この『妙法寺記』は小山田よりも武田の記述が多い。御坂官道で国中と密接だった故である。
 河口浅間神社を中心とした御師集落は、最盛期には一四〇戸と伝えられる。河口御師・玉屋もそのひとつだ。
「すまぬな、玉屋」
「いえ」
「そなたが国中との調整をしてくれて、大いに助かる。礼がしたい。その忠勤を賞し、河口宿の伝馬その他郡中の諸役を免詐する」
 これは、過分のことだ。
 小山田家から河口御師に慰撫されることは、珍しい。それは武田家からの慰撫が激変したことに起因する。勝頼は戦さのことばかりに気を配り、足下が疎かだった。河口御師の情報網を甘く見ているのだろう。
「武田家に代わって、小山田家が在地の情報をまとめよう。用立てるものがあれば、遠慮なく申すがよい」
「かたじけなく存ず」
 信茂は、宗教による情報網の重要性を理解していた。
 同じように、真田昌幸も小県の甲斐信濃二国巫女、通称〈ののう〉を保護していた。資金がなければ、如何に優れた情報網も機能しない。信茂と昌幸は、このことに関しては、共通の危機感を抱いていた。
 武田はよく聞こえる耳を粗末にしていた。それが命取りであることを、勝頼も側近衆も、顧みていない。よって、甲江和与を左右する信長の意図を把握していたのは、信茂と昌幸であった。武田家は彼らの情報により、後手の判断で対応していたのである。
 この時点にあって、勝頼は未だ信長との講和に応じていない。ただただ、長篠の敗戦を根に持ってのことだった。。
 織田・徳川・武田の盟約で上杉謙信を包囲することが、信長の希望だった。そのため徳川家康も、単独で穴山信君と交渉を開始していた。勝頼を説得できる御親類衆を味方にするという、信長の采配は見事といえよう。
 これでも顔を背ける勝頼の世間知らずぶりは、武田の命運を翻弄しかねない。
「大炊介殿にお許しの儀あり」
 信茂は跡部勝資を訪れ、安土への使いを発するよう躙り寄った。
「そんなこと、御館は許すまい」
「そこを大炊介殿に頼んでおる。直接織田弾正に会い、意図を掴むべきじゃ」
「危険である。誰が行くというのだ」
「儂が行く」
 信茂は大声で宣言した。
 承服しかねると、跡部勝資は難色を示した。そのときだ。
「待たれよ。その任は、ぜひとも儂が」
 真田昌幸である。
「さすがは弥五郎殿じゃ。考えていることは、同じですな」
「すると」
 跡部勝資に直訴するため甲府にきたら、先に信茂がきて、同じことをやっていたのだと、昌幸は微笑んだ。
「弾正忠の腹の底を見抜いてこそ。それを知らねば、戦さも、和睦も、まったく判断が出来ませぬゆえ」
「喜兵衛殿も、さすがは先代の眼と呼ばれし者よ」
「ならば二人で参りましょうか」
 待て待てと、跡部勝資は慌てた。
 この重大な時期に、要となる者を送り出すことは出来ない。
「さりとて、二人がこうも云うのだ。儂も長篠ののちはどうするべきか、ただ座していたわけではない。すべては御館様の気儘で決めていいものではない。それくらいは分かっているのだ」
 織田の使者に対して、勝頼は感情だけで話を遮断した。このことは、跡部勝資でも疑問視している。
「儂は一度だけ、弾正忠と面識がある」
 信茂は断言した。
 伊勢・高野への旅は、一部の者しか知らぬことだった。これは、武田家の正使として直接対面できる好機だった。
「しかし、そなたは頻繁に外交で出歩くが、家中は大丈夫なのか?」
「大炊介殿の心配に及ばぬこと。郡内は家臣がしっかりしてござる。内政に関しては、指南役もおれば、安心して外へ出られます」
「桃陽とか申されたか。あの僧、どこの者だ?」
「ごくごく親しき者にて、心配はご無用である」
 呆れたものだと、跡部勝資は苦笑した。
「真田家も同様である。当主不在で、大事ないのか?」
「儂は源太兄に代わり、俄かに据えられた当主にござる。家中のことは、累代の者がすべて支えてござれば、御懸念は無用」
 どいつもこいつもと、跡部勝資は呟いた。
 しかし、本音を云えば、二人ほど外交に長けた者もいないのだ。悩んだ末に、跡部勝資は両名に安土行きを内諾した。表向きは朝廷への官位交渉という建前で、勝頼に報じると云い添えた。
事実、この当時において、武田の棟梁は無位無官である。
 そういう建前ならば、勝頼も承知せざるを得ない。
「されば、明日にでも発つ」
 信茂は舟で大坂に向かい、淀川を溯り琵琶湖へ至る行程を提案した。昌幸も同意した。使いを江尻に発し、穴山信君に便宜を求めた。
 三日後、信茂と昌幸は洋上にあった。供は少数なれど、肩書きを問わず手練ればかりだった。さらに三日後、舟は大坂湾にあり、淀川を経て瀬田に立った。
「若い時分には、先代の仰せでお忍びの探索をした。瀬田に来たのは、二度目じゃ」
 昌幸は目を細めて、比叡の稜線を見上げた。
「そんなこん、全然知らなんだぞ、喜兵衛殿」
「お忍びじゃわ。知られなくて当然ぞ」
 違いないと、信茂は大声で笑った。
「殿、目立ちますぞ?」
 随行する近藤右馬丞が、小声で信茂に発した。
「もう我らは、とっくに織田の間者に囲まれておるずら」
「は?」
「大坂の舟付場で傀儡子が見ていただろう。淀川を溯る間、ずっと尾いてきたぞ。気付かなんだか?」
「些かも」
「巨椋池で傀儡子は消えた。代わりに間者が遠巻きに我らを見ている。じたばたしても仕方ねえだろう」
 信茂は周囲の状況を知りながら、平素の態度を崩さなかったのだ。なんと太い肝だろうか。思わず、近藤右馬丞は真田昌幸も知っていたのかと尋ねた。
「初めて知ったよ。でも、仕方ないよな」
 こちらも平然と笑った。
 この二人の度量に、近藤右馬丞は言葉を失った。
「向こうに講和の意思がある以上、こちらは客じゃ。なに、じきにお迎えが来る」
 信茂の考えは正しかった。
 石山寺あたりで琵琶湖を眺めていると、身分ありげな武士が騎乗で駆けつけた。織田掃部助忠寛だ。かつての武田取次を務めた男が来たということは、敵意がない証拠である。
「上様がお待ちにござる」
 織田忠寛は曳いてきた二頭の馬に、二人を勧めた。信茂と昌幸の身元も、もう知られているだろう。だから、この手際の良さなのだ。大したものだと、信茂は笑った。
 瀬田から安土まではおよそ一刻余。途中、馬を替えたのは、態と時間を取ったようにも感じられた。
「あれが、安土のお城にて」
 織田忠寛が指したのは、山上で西陽に輝く、金色の異様な建築物だった。天守閣というものを知らぬ二人は、表現に困って、顔を見合わせた。この仕草は誰でもそうなのだろうか、織田忠寛の含み笑いは、慣れた者ならではの嘲りさえ感じられた。
「久しいな、小山田弥五郎。熱田以来だがや」
 城内謁見の間で会う織田信長は、かつて漂白民とともに旅した頃と様相が違う。妙な貫禄は、戦さに明け暮れたゆえの凄味だろう。もっとも信茂とて、あの頃の立場とは異なり、武田の重責を担うのだ。気圧されることはない。
「銭で国を廻す手腕は、初めてお会いした頃とお変わりござらぬな」
 これは嫌味ではない。
 信仰は銭の流通に関わるものだ。信茂は経済の重要性を理解する一人である。富士信仰然り、熱田信仰また然り。熱田には商工業の湊もある。信茂ほどの者が、それを見逃すはずなどない。信長はそのことを、言葉尻から理解した。
「云うものよ。だが、今の世は、それを解らぬ者ばかりじゃ。おみゃあは銭の流れが大蛇の如きものだと、よう知っている。こういう者は、なかなか居らぬでな。これからも仲良くしてぇものじゃ」
「和睦のことは、武田にとっても有難いこんずら。儂が当主なら、手を結ぶだろう」
「四郎か」
 信長は、含み笑いを浮かべた。
「武田四郎という者は、信玄以上に戦さは強い。それは認めよう。ゆえに、長篠のことで根に持つならば、国を治める器ではねえな」
 信茂は答えない。
 信長の言葉には重大なことが含まれていた。武田の内情を、知っているぞという威嚇である。
信玄の頃は武田が諜報戦を制していた。
 が、今は躑躅ヶ崎の端々まで信長は知っている。
 もはや相手にするまでもない。ただし、武田という武闘組織は、その名だけで世間を威圧することが適う。同盟はまだ利があること、信長の本音はそんなところだ。
 信茂はちらと真田昌幸をみた。昌幸も血の気を失った表情だ。
「おみゃあが、真田喜兵衛か。知っているぞ、信玄坊主の眼と呼ばれた者だな?」
 信長は昌幸を覗き込んだ。無防備に見えて、油断なき眼光だ。昌幸は声もなく、頷くのが精一杯だった。
「甲斐のこと、今や情報を得ることは易い。しかし、弥五郎と喜兵衛だけは、真意が握れねえだがや。それは、この二人が、信玄から軍略知略情報力を修得している証じゃ。お前ぁらがいる限り、武田は油断ならねえ。だから、今は同盟なのじゃ。解るな?ただし、今をおいてのみ、だがや」
 罵倒しつつも和睦に拘るのは、武田こそ上杉謙信に抗しえるという理由からだった。甲越が睨みあってくれることだけが、信長にとっての利なのである。
「さっきの言葉に、嘘はねえな?」
「はて」
「儂が当主なら、手を結ぶだろう。おみゃあはそう云うたぞ、弥五郎」
「儂は当主じゃねえずら。意味のない戯れ言ぞ」
「そうだな、戯れ言だ」
 信長は二人を城下に案内し、好きなだけ逗留しろと告げた。それは、この城や城下の機密など、好きなだけくれてやるという意味だ。つまり、信長にとって、安土を知られたところで痛くも痒くもない。絶対の自信があるのだろう。
「ひとつ、教えてくんにょ」
 信茂は、上ナシである埒外の民を従える術を質した。弥右衛門の倅を支配することで、諸国の漂白民を操ることなど、不思議でならなかった。信長は何も答えなかった。
 その目は語る。
(云えないでや)
 それこそ私的な機密なのだろう。信茂にとって、もはや埒外は無縁である。こちら側の世に身を置く以上、漂白民とは一線を画くしかない。これが常識だ。
「云えぬなら、もう聞くまい」
 信茂は諦めた。
「で、いつまで逗留するか。なんなら、ずっとここにいてもいいぞ。二人とも厚遇で迎えてやらあ」
「逗留するつもりはない」
「ほう」
「早く戻って、当代を説得する」
「ほほう」
「対等な関係で和議を結ぶことは、互いの利である。今は、互いにな」
 信茂の言葉に、信長は頷いた。
 やはり信長の意図することを理解するのは、小山田信茂だと、信長は思った。この者を敵にするより、味方に置ければどんなに有為だろう。信長はあらためて思い知らされた心地だった。
 小山田信茂と真田昌幸は、その日のうちに安土を辞した。
 信長は、もはや勝頼が適う相手ではない。戦うことよりも結びつき、時を稼いで将来に託すことが最善だと、信茂も昌幸も認識した。舟を乗り継ぎ、大坂に辿り着いたのは真夜中だった。石山本願寺に一夜を求めた一行は、翌日早々、海路駿河へと向かった。
「織田弾正忠が猶予を与えてくれるのも、あと少しだろうな」
 小山田信茂は呟いた。
「本願寺のことで?」
 真田昌幸は慧眼である。宗門の勢いは死を越える狂気ではあるが、石山の門徒は疲れているように映った。何よりも法主である顕如に勢いがない。下手をしたら、年内にも瓦解するのではないか。
 そうなれば、武田の利用価値は薄れる。
 安土の城下も、ただごとではない。登城する間、信茂はさりげなく観察していた。市井に流通していたものは、地の物資ではない。これは諸国からの物流網が確立している証拠だ。経済が豊かであることは、外交も内政も軍事さえ潤わせる。
 甲斐は相手にもならない。局地戦ならまだしも、軍資が滞れば長期戦に耐えられない。それが、武田の現実だった。
「和睦は、急いだ方がいい」
 信茂は呻くように呟いた。
 清水湊に着くと、一行は江尻城に向かった。既に穴山信君は、徳川家康との間で講和の意思を詰めていた。信茂からの報告に、穴山信君も顔色を変えた。
「当代は未だ?」
「長篠の屈辱を忘れておらぬ由」
「もう、あれでは武田が立ち行かぬのかも知れぬなぁ」
「滅多なことを!」
 信茂に制され、信君はあっと声を挙げた。真田昌幸はじっと穴山信君をみた。その視線に、思わず信君は咳払いし、話題を変えた。
「そういえば、弾正忠殿の倅には会わなんだか?」
「奇妙丸といったかな。いや、会わぬ」
「徳川からの話では、この和与に反対しているという。荒い気性とも聞く。会わぬならいい、厭な思いをせずに済む」
 昌幸が言葉を挟んだ。
「穴山殿は、はや徳川とはかなり緊密の由」
「交渉相手じゃ。色々と話題もある」
 昌幸は、やや上目遣いで、左様でと呟いた。これが、信君の癇に障った。
「次郎三郎(徳川家康)殿とて、倅が和与に反対である。これと秋田城介(織田信忠)殿が結託しているのじゃ。妙な勘潜りは邪推であるぞ」
「これは、御無礼を」
 信君は相手の名前を呼んだ。
 徳川殿でなく、次郎三郎殿と。必要以上に親しくなっているのではと、疑われても無理はない。昌幸はこのとき、穴山信君を初めて疑った。確証はない、ただの勘である。
 ゆえに今は口を噤んだ。同盟成立は共通の課題だったし、少なくとも徳川を窓口に交渉することは利に適っている。
「当代がもう少し物分りよければ、我らもこんなに苦労はしねえ。こんなときに、三郎右兵衛殿がいてくれたら、もう少し優位に交渉できただろうな」
 信茂が呟いた。
 それは、三人の総意でもあった。


                  二


 二月、勝頼は北条から迎えた妻・妙の旺盛な肉欲に辟易していた。見た目は貞淑そうな幼な妻であるが、閨ともなれば、自ら勝頼に跨り、精の全てを貪り尽くした。一度では飽き足らず、二度三度と求める。
 産後というのに、この淫乱は何としたことだろう。
 男女のことでは変態的な勝頼が、一切の主導権を得られないのである。張りのある尻を愛でたいのに、今に至るまで、勝頼は叩いて啼かせることも出来ていない。
 裏方の噂話がある。
 近頃、勝頼は優しくなったという。妙に精気を搾り取られた勝頼は、その他の側室に対する狂暴の元気がない。これはこれで、女たちにとっても喜ばしいことで、自然と、妙は肩書きとは別に、頼もしい御方様という信頼を確立していた。
 ふらふらの勝頼を、現実が待っていた。
 跡部勝資は小山田信茂からの報告を受け、織田との講和に一刻の猶予もないと捲し立てた。勝頼はこれを避けるようになった。これではまともな国政にならない。
 長篠の敗戦から、三年が経つ。人材が失われ、損なわれた兵力を確保するため、僧籍の者まで還俗させられた。百姓に至っては強引な兵役が行われた。かつて信玄の時代、兵役に就いた者の年貢は減免された。しかし勝頼はそれを行わなかった。厳しい税収は軍費のために浪費され、内政は滞る一方である。逃散も増えた。
 この内政のお粗末さを、勝頼は顧みない。
 側近衆でこのことを講ずるのは、僅かな者しかいない。各地を治める各領主は、己の采配で何とか維持を試みたが、それにしくじった者は勝頼に借財を求めた。それが更に甲斐の財政を苦しくした。
 攻め込んだ土地で乱取りしても、それは一時的なものである。勝頼は国主として最も地味で大事な、この根の部分を学ばずに当主となった。
 内政に長けた者は長篠で失った。
 消費が蓄えを越えたら、どうなることか……これが、勝頼の弱点だった。

 徳川家康は穴山信君を通じて、武田の実情を薄々感じ取っていた。しかし、損して得を取ることも必要だ。激情家で負け博奕の好きな向こう見ずの男は、三方原で死の臭いを知ってからは、とにかく慎重になった。漂白民の血よりも、武士であろうとする意志が勝った。これも信長に振り回された故の、覚醒だろうか。
「武田なぞ、放っておけば自滅する。利のない盟約は無用である」
 岡崎三郎信康は、まだ父の意に従うつもりがない。
「父上、殿様は織田よりも先に、甲斐を盗れと申しております」
 殿様と呼ばれる男を、家康は嫌っていた。
「あの男の話は聞くな」
「殿様です。あの男ではござらん」
 信康の居する岡崎城には、生母・築山殿がいる。その築山殿を頼り、今川氏真が居候していた。この者は、手を汚さずに人を籠絡する口才に長けていた。この氏真のことを、信康は自ら旧臣と称し、〈殿様〉と敬った。
「徳川の利だけを考えている。今川家はもう大名ではない」
「そういう当家は、いつから弾正忠殿の家来になったものか」
 途端、家康の張り手が響いた。
「二度とそのことを口にしてみろ」
 家康の内に秘めた兇暴が、瞳に過った。
 信康は気圧されたものの、武田と組む利を信康は見出せない。武田を討って今川家を再興し、織田信長を下に置く。これこそ、正しき理想なのだと、青い感情は信じて疑わなかった。
 同じことが織田家でも生じていた。
 後世が評する信長の残虐性には、合理性の追求による結論がある。感情と衝動に駆られたものは、自らを〈第六天魔王〉と称す割には稀なことだ。それは高い理性を保つがゆえのことである。むしろ理性より感情的なのは、信忠の側である。父に似て聡明ではあるが、それを上回る残虐を好んだ。
「武田など風前の燈火にて、とろくしゃぁことは嫌うでや」
 信忠は、臆することなく信長へと悪態を吐いた。
「殺してばかりいるとな、いつかはお前ぁも殺されるぞ。そのことを忘れるな」
 信長も容赦はない。逆らえば殺すぞという威圧は、真実だ。その威圧は、いまは信長が勝っていた。
 信忠と岡崎信康が結託しようと試みたのは、どこか思想の似た者同士の結びつきにも似ていた。感情的な信忠と、理屈を考える信康。その才の優劣は、やがて明確になるとともに、それが信康の不幸に繋がることとなる。

 官位交渉という建前の畿内入り。その不首尾は勝頼の不興を被った。
 たった一日で状況が変化する微妙な時期である。
「面会を賜りたし」
 訴えは、跡部勝資が再三の取成しで、ようやく適った。
「官位は貰えなかったのだろう?なぜ大げさに面会したがるのだ?」
 不愉快そうに勝頼は顔を背けた。
 同席するのは、跡部勝資と長坂釣閑斎である。
「織田弾正忠と和することで、内政が建て直せます。そのこと、安土を見て得心しました」
「どういうことだ?」
 勝頼は不機嫌な口調だ。
「敵をよく見なければ勝てぬこと、孫子にも記してござりましょう。過ぎた負け戦さよりも、明日の勝ちを拾うためなら、恥も外聞も捨てねばなりますまい」
「どういうことだと聞いている」
「織田上総介に会いました。安土も見て参った」
「なに!」
「まずは話を聞かれたし」
 安土城下が示す経済力について、信茂は説いた。兵農分離に成功した信長は、豊富な軍資で年中戦うことが出来る。信長の底力だ。経済力が戦さを左右する、これが先進的な畿内の国作りだ。
 片や武田はどうか。
 考えるまでもない。これが、現実なのだ。
「降伏するにあらず。今なら対等の立場で、上総介と和することが適うずら」
 勝頼は顔を真っ赤にしていた。
勝手なことをしたものだという、憤りが胸中に渦巻いた。
「左衛門大夫殿は、御館様を蔑ろにされる。このようなことは、許されるものではない」
 長坂釣閑斎が呟いた。
「黙らっしゃい!」
 信茂が一喝した。
「和与のことは側近も知ること。事の重大を考えるなら、早くに質すことが求められていたはずじゃ。こういう怠慢が、当代を駄目にする」
「御館様は武田の御当主なり。その意思が和与にあらざれば、従うことが大事」
「当代ばかりに任せねえで、重役どもも、よう考えなされ。当家は徒に版図を拡げたが、それまでじゃ。先代とは決定的に違うことがある。分かるか、釣閑斎?」
 信茂の問いに、長坂釣閑斎は言葉に詰まった。
「先代は戦わずして版図を盗った。民政も潤い人心を握った。然るに、当代はどうか。猛々しいだけで、民意を掴まず。暮らしが厳しければ、人は心を離すこととなる。戦わずして勝つことを知らぬがゆえ、無駄な軍資が嵩んでおる」
「そんな、こと」
「知っていて、諌言ができぬのならば、無能である」
「う……く」
 これでは長坂釣閑斎の立場がない。
「御館様の御前である。事実を簡潔に報告されよ」
 跡部勝資が信茂を制した。
 安土城下の物流の現実、南蛮貿易の確立、商工業地域の掌握。その全てが、大坂から安土までの道筋から感じ取れた。戦さとて、一度の負けを覆せる経済力がある。その経済があるからこそ、兵農分離が成るのだ。
「直ちに和睦を。一刻の猶予もありませぬ」
 信茂は語尾を強めた。勝頼は頑なだ。長篠の敗戦に拘り続けた。
 そのときだ。
「穴山玄蕃頭殿が参りました」
 使い番の声が響いた。勝頼は返事もしない。程なく、穴山信君が参上した。
「煩っておいでか?」
 信君は信茂に声をかけた。
「些か」
 無表情で、信茂は答えた。
 溜息混じりに、信君は言葉を発した。
「徳川との和睦にあたり、御裁可を賜りたし」
 勝頼の眉が動いた。織田信長との和睦があるなら、徳川家康とのそれがあっても不思議ではない。その交渉を、信君は無断で詰めていたというのか。けしからぬと、勝頼は呟いた。
「左衛門大夫殿は真田ともども安土を見てきた。当方とて、徳川の勢いを曽根内匠頭ともども見ておる。先代の両目を称された二人が、いまは和睦の利を説いております。このことを、よくよく理解頂きたい」
 穴山信君は厳しい口調で迫った。
 勝頼はいよいよ意固地になる。これでは、もはや話し合いにもならなかった。
「もはや先は見えたな」
 信君が吐き捨てた。
「まるで、叛くような口ぶりじゃ」
 勝頼は低い声で呟いた。
「かくなる上は、当代様には退いて貰うべきだろう」
 信君の明言に、一同は言葉を失った。
 勝頼を廃し、ただちに嫡男・信勝を立てるべきだと、信君は断じた。これは効果的でもある。信勝は遠山氏の血を引くとともに織田縁者にもつながる。和睦にあたり代替わりしたことで、領民も意識を変えることが出来るだろう。
「小山田左衛門大夫殿は如何に思うか?」
 信茂に異論はない。むしろ一層の利がある。今は刻を稼ぐため、有効な試みは何でも行うべきである。
「そのようなこと、このような場で決せることは出来ぬぞ」
 長坂釣閑斎が制止した。勝頼が廃されたら、せっかくの栄耀栄華は霧散してしまう。同意など出来るものではない。
「わかった、もういい」
 勝頼は頭を振った。
「玄蕃頭の諌言を聞こう。織田と和睦する。ついては急ぎ重臣を集め、このことを決し然るべき者を立て安土へ向かわせる。それでいいな、左衛門大夫」
「仰せのままに」
 勝頼は屈辱を隠せない。
 その浅い将器が哀れなものだと、信茂は思った。召集日は三月一三日とされた。甲信駿から御親類衆と譜代が召集された。一刻の猶予もないのに、暢気なものだと、穴山信君は小山田信茂に呟いた。しかし、それ以上の悪態は吐けない。
 ここまで尻を叩いたのだ。是が非でも、話をまとめなければならなかった。
 一一日、甲斐府中の穴山屋敷に急使が飛び込んだ。
「さる九日、徳川勢が田中城に攻撃」
「ばかな、休戦の反故など、ありえぬことじゃ」
 事実確認のため、穴山勢と駿河預かりの諸将を率いて、信君は駿府へと引き上げた。このことを知った勝頼は、和睦など疑わしいものだと息巻いた。
 田中城を攻めたのは、岡崎信康配下だった。もとより和睦に興味がない。休戦など知ったことではなかった。一三日、穴山信君は駿府城に入った。そこへ、小山城が攻撃されている報せが届いた。ただちに援軍を発したが、徳川勢は兵を退いたあとだった。
 家康への詰問を信君は行った。兵が勝手にやったことだと、一度だけ弁明が届いた。
 一五日、信君は講和条件の再度確認を促したが、こののち、徳川家康からの返事はなかった。不信感が渦巻く中、夕刻に信濃からの密書が届いた。
「不職庵殿、急逝」
 信君は呆然となった。
 上杉謙信が死んだ。これが事実なら、もはや徳川家康が武田と結ぶ理由はない。
こののちは信長の意に従い、武田との戦さを開始することだろう。返事の途絶は、そういうことだ。
(大変なことになる)
 穴山信君は考えた。
 このままでは、武田は先細る。決断力のない勝頼の下にいたら、武田家そのものの存亡すら危うい。信長の軍事力と経済力に抗う術がない以上、これ以上の抵抗は、滅亡を意味するのだ。
(あのとき、長篠で誤らねば)
 考えても詮なきことである。生き残るためには、交渉の糸口を僅かでも繋いでおく必要があった。信君は繰り返し、家康に宛てた書状を発した。
 返事は、ついに来なかった。


                  三


 上杉謙信の急死は、呆気のないものだった。厠で倒れて、そのまま還らぬ人となったという。生涯を神の使いの如く装うことで、すっかり独り身を過ごした結果が、これだ。当然、子はない。生前、姉の子や北条からの人質に厚遇したことで、世間ではこれらを養子と見なしていた。この養子たちが跡目を巡り、水面下から内乱を起こしたのは、恐らくは謙信没より間もなくのことだろう。
 北条氏政の弟・三郎氏秀、現在は上杉三郎景虎を名乗った。かつては人質として迎えた者に、自らの初名を与えるのだから、上杉謙信がいかに彼を寵愛したかが窺い知れる。考えようによっては、後継者に目したという声も嘘ではあるまい。この景虎を支援したのは、前関東管領・上杉憲政や多数の御一門衆である。家臣団の中核となる古志長尾家もこれを支持した。それだけではない、国外からは北条・武田をはじめ、伊達輝宗・蘆名盛氏・武藤義氏が支持を表明した。北条の血ゆえに敬遠されていたという声は、後世の感情論に過ぎない。これだけの支持者に景虎は支えられていた。
 対するのは上杉喜平次景勝。謙信の姉と上田長尾家の当主・長尾政景の子で、謙信にとっては甥にあたる。こちらは一門の上田衆が支持した。更には直江信綱・斎藤朝信・河田長親といった謙信側近の過半数が支持している。彼らは養子の中で最も血の繋がりが濃い景勝を選んだ。それは謙信を崇拝し神格化するがゆえ、その甥を立てたに過ぎぬ。
 両者はそれぞれの支持に推されて、対立した。
 先手を取ったのは景勝だ。
 春日山城を抑えて籠城し、土蔵の軍資金をはじめ謙信が使用していた印判を入手した。それだけではない。側近や右筆などの文書発給機構を掌握したのである。これは一国の組織を横領したことになる。出遅れた景虎は、その権利を奪われた。
 景虎は春日山城三ノ丸で徹底抗戦したが、状況の不利を打開するために御館へと退去した。御館とは、前関東管領・上杉憲政の屋敷である。

 信長との交渉が成立しなかった武田側にとって、越後の後継者争いは好都合だった。現在盟約が結ばれている武田・北条の関係に、上杉を加えることが出来る可能性が浮上したからだ。上杉三郎景虎は北条氏政の弟だから、この希望的観測は誤りではない。性格的にも好人物であり、人望もある。このまま上杉謙信の後継者となれば、甲相に加えた三国同盟が適うことは確実といえよう。
「小田原からの使いが」
 跡部大炊介勝資の報せに、勝頼は頷いた。使者は氏政からの書状を持つだけで、別段の言伝もない。書状には、弟への支援を要請する旨が記されていた。
「相模守殿によろしくお伝えあれ」
 勝頼は使者を送り出すと、書状を勝資に放り投げた。
 佐竹への備えですぐには動けぬゆえ、信濃路より先に春日山へ出陣して欲しいと、言葉を選びながら依頼する内容だ。事実、この当時、佐竹義重を中心とした北関東の抵抗勢力が北条を逼迫していた。しかし、そのことは全体の問題ではない。北条氏照が対処すれば済むことである。
「漁夫の利を掠うつもりだ。武田を動かして、自分では手を汚さないつもりだろう」
 厭そうな表情で、勝頼は呟いた。
 跡部勝資は軍議を要すると断じたが、勝頼は暫し考え、独断で越後出兵を決した。そのうえで、出陣の沙汰を上信方面の各将へ伝達し、海津城へ招集させた。
 海津城には春日弾正忠虎綱がいる。長い間、病を帯びたと聞いているが、もし奇抜な策があるならば是非にも耳にしたい。勝頼は自らの出陣を説いたが
「総大将は後陣あるべし」
と、跡部勝資に諌められた。
 武田勢が海津城に参集したのは、五月末のことである。この軍勢には駿河遠江の軍勢はなく、御親類衆を代表するのは武田典厩信豊である。海津城は越後国境に近く、春日山城からの距離も近い。躑躅ヶ崎では分からない情報も多く入手されていた。
「素波は戻らぬ。軒猿が暗躍しておるようじゃ」
 春日虎綱の報告に
「越後の者も阿呆ではないということか」
 信豊は腕組みした。
 情報が不足している以上、迂闊に攻め込んでよいものか。その懸念は無用だと、春日虎綱は断言した。軒猿を采配する者は、恐らく武田を警戒している側だろう。軍を展開できず軒猿に頼る以上は、正攻法の軍事行動に勝る侵攻の術はない。
「ただな、面白くないことがござる」
 春日虎綱は西上野の状況を窺った。
「内外の動き、これなく」
 内藤昌月は答えた。その補足を、真田昌幸に求めると
「北条方が越後支援に動く様子は一切ござらぬ。恐らくは武田が地慣らししてから、悠々と越山するつもりでしょう」
 やはりなと、春日虎綱は呟いた。
「北条の駆引きに用いられることなかれ」
 春日虎綱はそう断じると、咳込んだため床に戻った。北条の家臣でもないのに春日山へ攻め入り、城を落としても武田領にはならぬ。まるで助っ人戦さだ。そんな徒労は、馬鹿馬鹿しい。如何すべきか、信豊は決断に迷っていた。
 六月一日、海津城を上杉景勝の使者が訪れた。その申し出は、意外なものだった。
「なに、和睦?」
 武田信豊は面食らった。
 景虎を支援する敵の軍勢との和睦など、奇抜な策である。信豊は勝頼同様、場当たりな戦さは得手だが、決断力に疎かった。さっそく、是非について協議が持たれた。
「申し上げます」
 真田昌幸が口にした策は、奇抜だった。
「越後の内乱を仲介し、その見返りに相応の謝礼を得るのです。内乱になれば、人材も経済も大きな痛手となるでしょう。それを回避することが出来るのなら、越後にとっても利は大きなものです。このことで、上杉の衆は武田を恩に思うでしょう」
「仲介などとは、如何なものかな」
 馬鹿馬鹿しいと、信豊は苦笑した。
「しかし、我らは三郎殿支援の出兵であるが?」
 内藤昌月が真っ当な言葉を吐いた。
「我らは北条の家臣にあらず」
 昌幸の言葉も真っ当だ。
「武田の内政を顧みるべし。財政を潤わせるためには、強引なことも必要である。謝礼を要求することで、一時でも内政の窮乏を凌ぐことは、当然なことでござる」
 屁理屈でもあるが、そうだと思わせる勢いが昌幸の言葉にはあった。
「しかし、北条との縁がどうなるか」
「仲介して何が悪うござるか。本来このことは、越後国内の問題である。北条が出兵を頼まれたのなら、赤の他人である武田よりも真っ先に越後へ攻め入っている所存。北条の縁をとやかく考えずとも宜しいかと」
「仲介が災いの種になることは困る」
「なんの、仲介のうえ、双方話合いにより三郎殿を後継者に据えれば申し分なきこと」
「ならば、あくまで三郎殿を立てる姿勢でよいと?」
「結構でござる」
「しかし、仲介が成り三郎殿を当主に掲げたら、越後は北条よりも武田に信を置くのではあるまいか?」
「それも結構」
「なに?」
「こののち越後が、北条との縁よりも武田との縁を重んじれば申し分なし。関東で兄弟喧嘩をしようとも、我らは中立を守るまで。後顧の憂いなく、戦力を駿河遠江に廻すことが適うでしょう。その仲介を成すため、当方は喜平次殿と和睦するのです。」
 一同はその考えに感嘆し、同意した。
 信豊はこのことを躑躅ヶ崎に報せた。意外ななりゆきだが、勝頼はこの方針に興味を抱いた。七日、跡部勝資はこのことにつき勝頼が承知した旨の文書を発した。と同時に、勝頼自身の出陣が急がれた。
 外交取次は武田信豊に決まったが、もう一人、文武に長ける交渉者が欲しかった。春日虎綱が任じられたが、病床の者を充てるとは惨い話である。しかし、上杉謙信を相手に善光寺平を長年守り抜いた実績は大きい。上杉に対する威厳を示すことが出来るのは、彼の右に出る者がいなかった。
 勝頼は交渉の前提として、起請文の提出を要請した。景勝側に異存はなかった。このとき和睦の条件に、真田昌幸のいう謝礼金に加えた領土割譲も盛り込まれた。強気だが、断れないと見做してのことだった。
 果たして、景勝はこのすべてに応じる姿勢を示した。

 武田勢が春日山城下に現れて、喜んだのは景虎であった。援軍を得た以上は一気に春日山城を攻めて欲しいと息巻いたが、仲介の話を切り出されると、途端に機嫌を損ねた。
「武田は腰抜けだ。早く兄の援軍が欲しい」
 景虎は小田原に向けて再三の使者を差し向けたが、漁夫の利を掠めたい氏政は動く素振りも見せなかった。そのことを知り、景虎は再び武田勢に縋ることとなった。しかし、仲介に徹した武田方の意思は強い。
「双方が和解し、後継者は協議を以て決するがよい」
 景勝と和しながらも、武田の利は景虎が当主となることである。そのための支援は惜しまぬという意思が、どうにも景虎は理解しようとはしなかった。
 聡明と噂には聞いていたが、物分りが余りにも悪いものだと、春日虎綱は呟いた。進展がないことを案じた春日虎綱は、体調芳しくないことを理由に海津城へと撤収した。
 武田勢が退くと、景虎陣営は急に弱気になった。
 ただちに協議に応じると使者を差し向けたが、武田側はすぐに動こうとはしなかった。春日虎綱が本当に床入りしてしまったためである。
 六月一二日、武田勝頼が海津城へ入城した。しかし交渉役の春日虎綱が戻っていると知り
「どういうことか」
と、声を荒げた。虎綱の病状は思わしくない。
 ここで、とんでもないことが起きた。春日虎綱が息を引き取ったのである。
「なんということだ」
 勝頼は思い通りにならぬ事態に、地団駄踏んだ。急いでこの代役を選出する必要があった。一度は真田昌幸に任じる声があったが、御親類衆や譜代以外からの人選を指摘する声も続出した。やれやれと、勝頼は溜息を吐いた。
「小山田左衛門大夫を任じるものなり」
 勝頼は呟いた。北条との調整役のため郡内に留めた信茂の抜擢は、人材不足を象徴するがゆえだった。このとき小山田信茂は、北条氏政に越後出兵を促す外交を任されていた。現在の越後出兵が仲介の方針であることを信茂は承知している。そのことは小田原にも伝わっていたし、そのため氏政の不興を被っていた。氏政自身が出陣を渋るのは、偏にこのことが要因であった。
 そこへ、海津城への出頭命令である。
「このこと、断れぬのだろうな」
 信茂は溜息混じりで、四長老家を谷村に招集した。越後行きは止むなしという四長老家の結論は仕方のないことだった。
「北条の意を汲まぬ方針というが、どういうことでしょうや?」
 小山田掃部の問いは大事なものだ。国境の地である以上、知り得ることだけは把握したいのである。
「武田は双方の仲介をする。その見返りは、もう貰っているようだ」
「難しいことをするものだ」
「そうだな。北条の顔を立ててやれば、奴らに貸しが出来るのにな。その方が、郡内にとっても具合がいいずら」
 仲介すれば、後継者は話合いで決するし、場合によれば景虎が跡を継がぬこともある。そのとき北条氏政がどう出るか。その懸念は今から備えるべしと、信茂は断じた。
「備えは大事だ。平素からもそれは変わるものではない」
 信茂の言葉に、小山田掃部は頷いた。
「谷村殿の仰せはごもっともである」
 大老名・小山田弾正有誠は大きく頷き、北条の動きに警戒すべしと声を大にした。北都留郡と連携し街道や関所の警戒をするのは、まさに当然の備えといえよう。
「今度のことは、一門を郡内に留めようと思う。儂は船津衆を中心に海津城へ行く。兵の数は多くは要らぬ。北条へ備えることを第一としたい」
 信茂の言葉に、一同は承知した。
 ふと、小山田弾正有誠が顔を上げた。
「谷村殿、倅を同行させ給え」
「は?」
「色々とな、世の中を教えてやってくれ。儂も歳だしな、境弾正家もそろそろ世代交代の時期ずら。教えることは沢山ある」
「まだまだ、隠居には早すぎますぞ」
「承知しておるが、若い奴を鍛えたい」
 小山田弾正有誠の倅・平三茂誠はこのとき一八歳。一門の将来に有望な若者として期待されていた。信茂は茂誠を近侍扱いで身の回りに置くこととした。

 小山田信茂が海津城に入ったのは六月二四日のことである。
「すぐにでも春日山へ行くべし」
 労いの言葉もそこそこに、勝頼はすぐに命じた。景勝重臣・斎藤朝信に充てた文書が、既に用意されていた。
「その方も副状を用意し、きちんと交渉して参れ」
「は」
「春日弾正は死んだ。宿老はこれで皆いなくなった。誰も小言を云うてくれぬ。これはこれで、寂しいことだ」
「左様ですな」
「弾正の遺志を汲まねばならぬ。左衛門大夫に期待する」
 信茂の責任は重大だった。
 勝頼の先発として海津城を発った信茂は、武器を携帯せずに春日山城本丸へと赴いた。供は小山田平三茂誠と小林尾張守家親のみである。この誠意と度胸に、景勝自らが出迎えた。勝頼が春日山城下に布陣したのは、数日遅れた六月二九日のことである。
 仲介交渉は長引いた。
 これは当然である。この合間に行われた武田への見返り交渉は、仲介交渉で謀殺される信茂に代わり跡部勝資や長坂釣閑斎が請け負ったが、手際が悪かった。
 この仲介を何とか形にしたのは、八月二〇日だった。
「双方、講和せぬ場合は武田からは一切加勢は致さぬ」
という脅しに、景虎側が折れたのである。
 小田原はこれを良しとせず、軍事介入を以て邪魔しようと試みたが、結局、越山することはなかった。この仲介は、完成を得ることはなかった。八月二二日、徳川家康が田中城に進出し刈田狼藉を行ったのだ。報せはすぐに海津城へ届き、急使が春日山城下へ走った。勝頼は二八日に帰国を余儀なくされ、一部の交渉役を海津城に残し全軍もこれに従った。その結果、和解はすぐに破綻した。


                  四


 武田家と北条家の関係は、天正七年正月までは表面上穏やかだった。しかし、北条氏政は景虎支援を拒絶した勝頼との関係を切り、織田信長と結ぶ交渉を開始していた。この動きは武田側に察知されず、水面下で徳川家康を介した形で、粛々と進められていた。駿河・遠江の武田領が、徳川・北条に挟まれることになるのは、当然の結果だ。
 これは、明らかな外交の失敗である。
 甲江和与が成立しなかったことが大打撃だったし、上杉景勝と結んで北条の不興を被ったことが致命的だった。
 少なくとも武田勝頼の失敗は、この越後対応において決定的になったことは間違いない。後世、鉄砲対馬を盲信する余人は、長篠で武田の衰退を断じる。が、その頃はまだ人材の質や数の欠落であり、再生の可能性がいくらでもあった。四面楚歌になったのは、すべてこの時期のことである。
 穴山信君は最前線の苦境に喘いだ。
 この時点において、武田が駿河・遠江を維持することの限界を信君は自覚していた。駿河遠江は信玄が欲した外界への門だ。しかし、これの維持に限界がきていた。持久戦ならいい、失うものは少ないからだ。しかし、この地の合戦は消耗戦だった。東に西に、常に戦い続けることは無理だった。
 信君は苦悩していた。このまま徒に消耗するのか。
(いっそのこと)
 信君の胸中には、ある覚悟が芽生えていた。
 援軍の乏しき最前線で消耗戦を繰り返す総大将として、このことは、無理のない選択肢だった。嘘偽りのない戦場から見えるのは、近い将来、武田家が無残に追い詰められていく姿だ。
 勝頼は一武将としては優れているが、一国の主の器ではなかった。
 それを理解するのが、あまりにも遅すぎた。御親類衆筆頭として、こののち武田家をどう存続させるべきか。信君は小便に血の混じる想いで、自問自答を繰り返した。このようなこと、言葉にするべきではないし、家臣をはじめ武田家中の誰にも相談できることではない。
 その中で、信君は徳川家康との単独講和を秘かに開始した。
 すべては、武田家存続のためだった。
 武田勝頼も阿呆ではない。現実の厳しさを知れば、自ずと理解をする。残念なことに、勝頼は駿河・遠江の窮乏を理解していなかった。勝頼自身が出陣すると、徳川家康は決戦を避けた。だから長篠の頃と状況は変わっていない錯覚を覚える。現実は、高天神城の兵站維持に内陸を用いることが困難な程、徳川勢に追い込まれていたのである。更に、上州の戦果が好調であることが、勝頼の楽観を生んだ。真田昌幸は沼田を抑え、佐竹義重と連携して北条勢力を北関東から駆逐する勢いを示した。いい戦況は悪い報告を上書きするものである。
 武田領は上信越で飛躍した反面、東海方面が極めて悪化したことになる。そして、その余波は、当然ながら郡内を直撃した。
 勝頼はどこかで北条氏政を過小評価していた。真田昌幸は破竹の勢いで北条領を脅かしている。その報せは、北条など恐るに足らずという気配を漂わせた。この反動が郡内を脅かしていたことを、勝頼は知らない。戦場の整理が下手な大将だという誹りは、免れないことだった。

 三月三〇日、勝頼は上杉景勝重臣・竹俣慶綱のもとへ無音を謝す使者を差し向けた。使者は小山田八左衛門である。小山田家老であり、信茂の従兄弟である八左衛門は、勝頼の使番として可愛がられた。世間の声もあったが、信茂はこのことに寛容だった。視野の広い人材育成は、小山田家にとっても都合がいい。
 この年、信茂は四〇になろうとしていた。やんちゃな子供が、かくなる立場でいる。自分で自分がおかしいものだと、信茂は笑った。
 投石の隊は、かなりの練度を積んでいた。弓よりも低空で飛来する礫は、避けることが難しい。その意味でいえば、鉄砲よりも経済的な武器を小山田勢は鍛えていることになる。
 小田原から小山田修理亮が戻ったのは、その日の夕刻だった。渋い顔から、氏政の気持が頑ななことが察せられた。
「御苦労じゃったな。嫌な仕事をさせた、すまん」
 信茂の労いに、小山田修理亮は頷くだけだった。彼は信茂の弟だが、叔父・弥七郎に乞われて養子に入った。弥七郎の子は、長篠で討たれた。後方にいた小山田勢とて、無事では済まなかったのである。
「気になることが」
 ふと、小山田修理亮が呟いた。遠目で断言できないが、小田原城の外堀に徳川家の者を見たというのだ。姿恰好は、三方原で徳川陣にいた者に似ている。しかし、遠目すぎて、気のせいかも知れない。自信はないという。
「いいや、考えておくべきことだ。北条が二枚舌であっても不思議はない。時流に乗ることを考えて、何の不思議があろうか。むしろ、武田の方が無警戒すぎるずら」
 信茂は急いで深沢城代・駒井昌直に書状を送った。
 杞憂であって欲しい、その願いは潰えた。深沢城では足柄方面の動きを察知し、北条との決裂に如何様対応すべきかを、勝頼に仰ぐところだった。その使いが谷村に戻った三月二四日、上杉景虎が自害した。越後の覇者は上杉景勝に決した。自然と武田との盟約が結ばれ、景勝は盟約の証として正室を迎えたいという申し入れがきた。その引出物として黄金一万枚が甲斐に届けられた。
 この瞬間、北条との関係は切れ、武田側はそれに備えることとなった。
 それは、信茂の負担がどっと増したことを意味した。郡内都留を守るため、その采配を握る一方で、あれやこれやと、勝頼は越後交渉に信茂を用いようとした。
「本当に、これでいいのか?」
 桃陽がそっと耳打ちした。
 勿論、言葉に出来ないことは分かっている。それほどの危機感が、郡内に満ち溢れていた。武田への不信感もあったが、それはまだ声に出すことではない。しかし、国中ほどの楽観視が出来ないのは、郡内の現実だった。

 真田昌幸から信茂に書状が届いたのは、五月のことだ。沼田を攻略し、いよいよ上州切り取りに取り掛かるという、何とも威勢の強いものだった。
「羨ましいことだ」
 今や父譲りの貪欲な真田当主である。かつて戸石崩れでみた智謀の真田家は、昌幸がしっかりと受け継いでいる。それに引替え己はどうだ、笑えるほどに無様ではないか。
 文末にある一言が、信茂の毒気を抜いた。
 倅、源次郎の名に、弥五郎殿を肖りたし。ただし〈信繁〉と称すものなり。思わず苦笑した。近年昌幸が、倅の名は亡き典厩公に肖りたいと、勝頼に申し出たという。かなりの評判だ。それを断られたという話も聞いた。それで、信茂なのだろう。思えば信茂とて、典厩肖りで一字違いなのである。この図々しさが真田の家風なら、もう昌幸は立派な当主といって過言ではない。
 
 五月末、吉田素波衆がもたらす情報に、信茂はむむっと呻いた。それによると、徳川家康と嫡子・信康が仲違いしているというのだ。
「徳川家の流れを変えるなら、好都合ずら」
何か変化が欲しい。徳川家中の乱れを誘えないものかと、信茂は思案を重ねた。そして、信康を調略する案を、跡部勝資に申し出た。
「そうはいうが、簡単にはいかねえし」
「じっとしていても、状況はよくならねえずら」
「しかしな」
「徳川家を割れば、奴らも戦さどころではなくなる」
 これには一理あった。
 しかし、勝頼はこれを却下した。調略は下策だと、吐き捨てたのである。
「これぞ武田の棟梁の心意気、仰せの通りにございます!」
 長坂釣閑斎が声高に賞賛した。太鼓持ちのような道化だと、信茂は顔を背けた。こんな薄っぺらい了見で、何が打開できるのだろうか。
「東に北条、西に徳川。どちらか一方に専念してえもんだ」
信茂は冷ややかな上目で睨んだが、勝頼は目を逸らして無視をした。
 世に奇遇というものがあるならば、このときの状況を云うのだろうか。その頃、織田信長は酒井忠次を安土に呼び、ひとつの詰問をした。
「穴山と通じておるのかや?」
 信長の問いに、忠次は仰天した。情報通の信長に嘘は通じまい、ありのままに忠次は報告した。
「一方的な講和の要求にて、主・三河守も困っております」
「そんなことは、知っているだがや」
 信長がこのことを知ったのは、倅・信忠からの報せだ。信忠は武田の腰抜けぶりを嘲り、今にでも伊那へ侵攻するべしと息巻いた。その短慮ぶりに、信長は辟易した。信長からみると、信忠は勝頼によく似た気質だ。攻めることを主体とし、気短で浅慮、信長の名のもとにあるうちはいいが、その後ろ盾を失えばどうなるか。
「岡崎三郎は娘婿だ。評判はどうじゃ?」
 酒井忠次は隠さずに答えた。敵味方にこだわり怒りっぽいが、それは家康の若い頃と同じ様子。むしろ今川家の血か、どことなく品がある。
「激情ぶりはどうか?」
「怒りに身を震わせることあれど、理性を違えぬものなり。当家の将来を託す人品にござります」
「そうか」
 信長は信康の評判を胸中で整理したうえで、信忠との差を、冷静に比べた。いや、比べるまでもない、激情家にして攻めに執着し損耗を顧みぬ信忠の器は、信康に劣ることは明白である。これまでの織田・徳川の盟約は、偏に信長・家康の盟約である。次世代の保証はない。信忠が勝頼のような道を歩めば、家中は乱れる。盟約は崩壊するだろう。そのとき信康が尾張・美濃を糾合することになれば、織田の土台が崩れ去る。
 勝頼は悪しき手本だ。遅かれ早かれ家臣からも見捨てられるだろう。
 信忠と勝頼を重ねるなら、このことに留意すべきである。家臣に絶対の服従を誓わせ、同時に家臣を生かす棟梁となるよう信忠を教育する必要があった。と同時に、邪魔な者は未然に取り除く必要がある。
 これは、親馬鹿ではない。
 織田の組織を維持するため、合理的な手段であった。異端を排斥するのが、これまでの信長の政策だった。
 岡崎信康は出来過ぎている。出来過ぎた者は、将の理不尽な命令には従わぬものだ。
 ふと、信長は質した。
「穴山とは、どういう者か?」
「武田家御親類衆筆頭にござります」
「武田四郎は身内に背かれたか。哀れなものだな」
 信長は無表情で呟いた。
 酒井忠次が帰国して間もなく、妙な噂が漂い始めた。信長は岡崎信康が武田に通じていると疑っている。そのことで、近々討伐にくる。そんな噂が、岡崎城下に広まっているというのだ。
 家康は酒井忠次を直ちに呼んだ。
「最近、弾正忠様に会うたのは、そなたである。何か妙なことを尋ねられなんだか?」
「特段のことは」
「三郎のことは何か?」
「人品を尋ねられたので、申し分なしと」
 家康は熟慮した。何かしら、信長の猜疑を招いたのではあるまいか。だとしたら、早々に誤解を除かねば、取り返しがつかなくなる。家康は僅かな供連れで安土へ赴き、信長との面会を求めた。
「三河守殿自ら、御苦労なことだ」
 信長は機嫌よく迎えた。
「近頃、岡崎城下に倅めを貶める風評がござる。いやはや、まことに困っております」
「風評?」
「武田に通じた倅めを、弾正忠様が攻めに参ると……」
「そうか、それは面白いな」
「生きた心地がしません」
 家康はじっと信長を睨んだ。
 冗談だと、信長は信長は愉快そうに笑った。その屈託のない様に、家康は拍子抜けした。よもや、この風評は、武田の素波が流布でもしたものか。
「この風評、原因を調べてみせまする」
「頼むぞ。儂はお前ぁが頼りだがや。のう、三河守殿?」
 信長は顔色一つ変えていない。それもまた、不気味だった。疑われたことを怒られた方が、どれほど分かり易いことか。信長の態度は、そのことを楽しんでいた。こういう反応が、一番困る。
 浜松への帰途、家康は岡崎へ寄った。そのとき、信康が妻・五徳を打擲したという報せを聞いた。夫婦喧嘩はよくあることだが、打擲となるとただ事ではない。
 話によれば、信康が囲う妾に悋気した五徳の言葉に激昂したのだという。男女のこととなると、聖人賢者とて一己の〈けだもの〉である。どの男にも覚えのあることだし、どの女にも覚えがある。人として当たり前の生理であり、我欲と性だ。
 諌める資格はないものの、父親として仲介するのは家康の義務であった。ただ、そのことを一層炎上させたのは、家康の正室・築山殿だ。
「あなたの厭らしい血が、三郎殿を淫奔に変えた、あなたが全て悪い」
そう捲くし立てられたら、仲介なんぞ出来るものではない。
 このことが、信康の運命を決した。
 五徳は父・信長に幾箇条の糾弾を記した。娘の夫婦喧嘩など、迷惑なことだった。億劫そうに目で追う条文に、気になるものがあった。妾は武田に通じる者であり、房中に長ける輩というのだ。
 家康が口にした風聞は、あながち嘘ではないかもしれぬ。
 信康を排斥する機を得たと、信長は思った。
 
 世に云う〈築山殿事件〉は、今川の血筋を自負する築山殿・岡崎信康母子が武田に内通したことを知られ、信長の命令で処断された事件である。後世において尾ひれ背ひれがつき、家康を被害者とする筋書きの文献が濫発した。とにもかくにも家康は御家のために、泣いて嫡男を斬ったことになっている。無論、自ら手を下すようなことはないが、身を切られる想いをしたことに違いはない。
 この事件の公な発覚は、記録の上では七月一六日である。
 勿論、その以前に兆候もあっただろうし、噂にもなっていただろう。
 しかし、理由如何を差引けば、家康と信康の反目がすべての発端ということになる。〈甲江和与〉のことが火種だとしたら、武田を巡って父子が考え違いに至ったという後世の文献は、あながち誤りではなさそうだ。

 小山田信茂は表向き、跡部勝資に従った。
 しかし、独断で素波衆を用いて、風聞を岡崎にて流布させた。
「若は武田に通じて織田上総介を討つらしい」
 それ程の諜報活動を仕掛けることは、かつての武田なら容易いことだった。しかし今の武田は、諸国御使番の機能さえ停滞している。この時点で、虚報を流す機能を保有していたのは、信仰を掌握している小山田・穴山・真田くらいなものだ。真田は上州に掛かりきりで、穴山は講和工作で手一杯だ。
 となれば、武田方でこれを仕掛けたのは小山田信茂ということになる。
 しかも、このことは勝頼には内緒で、しらっとしてのけたのだ。したがって表向きには何もしていないことになる。とまれ、徳川勢の対武田政策に僅かな乱れが生じたのは事実だし、その間に立ち直る策を練る時間を武田家は稼ぐことが出来た。
 その頃、小山田信茂は相模武蔵国境に目を光らせていた。国中と違い、郡内は北条領に隣する。常に情報が重んじられ、備える兵も臨戦の構えだ。それでも富士の山開きを迎えると、富士講は変わりなく行われ、信仰のもと、人が往還し経済が流れていた。他国の間諜もいるだろうが、敢えて受け容れる代わりに、疑わしい人別も厳しく行っていた。
 駿府の武田左衛門佐信堯が谷村へ来たのは、まさにその頃だった。
「ここに来るより、徳川の動きに目を見張らせねば、駄目ずら」
 危機感のない相婿を、信茂は詰った。
「そのことよ、なぜか徳川勢の動きが鈍いのでな。是非とも弥五郎殿に出張って欲しい」
「こちらも、北条を抑える必要があるでな」
「誰かに任せられぬのか?是非とも出陣して欲しい」
 武田信堯は駿河生まれの駿河育ち、これまで親族というだけで、大きな軍功もない。信茂の力を借りて、名を挙げたい。功名心からの誘いだった。
 信茂は苦笑した。
「駿府は動かず、どっしりとしていればよろしい」
「動かねば功は為らず」
「とにかく駿府は動かず、兵站を太くすることを重視するべし。補給路の要であることこそ、功第一にござるぞ」
 信茂の言葉は重要なものだった。
 しかし、若い信堯には響かない。こういう地味な仕事を、堅実に遂行できる人材こそ、駿府に据えるべきだった。勝頼には人材登用の才もなく、人の言に流されて決定する傾向があった。信堯を駿府に据えたのは、単に駿河で生まれ育ったという理由と別に、御親類衆の鬼子だという〈忌み〉もあった。鬼子であるがゆえ、勝頼は同じ臭いの者を遠ざけたのである。
 信堯は小山田信茂の理解が得られなかったことが不服だった。翌日、府中に赴き、勝頼に訴えた。信茂を駿府に出陣させたいという、信堯の想いは通じなかった。北条との備えの他に、上杉との取次も任せている小山田信茂を、これ以上動かすわけにはいかなかった。これは真っ当な理由である。
 たまたまその場にいた武田逍遥軒信綱は、ならばと、一条右衛門大夫信龍を推挙した。信龍は信堯と同じ駿府城代だから、適任だと告げた。
「あれは婆娑羅者です。苦手なのです」
 思わず信堯は声を荒げた。
 変わり者で有名な一条信龍だが、それでも浪人の扱いが巧みで、上から煙たがられる反面、部下の受けがよい。ようは優れた現場監督なのである。これを用いぬなら、やはり駿府はどっしりと構えて貰うしかない。
「三河のこと、遠江の者に任せるべし」
 勝頼にそう云われると、もはやどうすることも出来ない。信堯はおとなしく引き下がった。

 八月二九日。徳川家康正室・築山殿は、家臣・野中三五郎重政等によって成敗された。その報せを聞き
「お主は図体ばかり大きいくせに、まこと頭の回らぬ奴よなぁ。安土に体裁が保てばいいのだから、あれを逃がして尼にでもしてしまえばよいものを」
 家康はぼそりと呟いた。
 独り言だが、恨み節だ。野中重政はぞっとなった。家康の言葉には、重苦しい感情が込められていた。今度はこちらが成敗されそうで、野中重政は退くと職を辞し、故郷の堀口村に隠棲した。
 九月一五日、二俣城に幽閉されていた岡崎三郎信康が切腹した。
「大叔父の申すとおり、父は弾正忠の顔色しか窺えぬ小者である。あの父を殺してでも、早く家督を奪いたかったが、まことに残念であった」
 信康の恨み言に、介錯人の服部半蔵正成は気圧された。萎縮して介錯も出来ぬ無様に、検死役の天方道綱が慌てて手を汚した。
 服部正成の報告した最期の言葉に、家康は小さく頷いた。
 父子の確執は遂に埋まらなかった。武田信玄がかつて嫡子を死に追いやったことを思い出し、同じ心境なのだと、他人事のように呟いた。衝撃が大きいほど、人は奇妙に冷静となる。不思議だった。
「武田は今川彦五郎(氏真)の謀で父子対立となり、信玄入道は嫡子を失った。儂もな、どこかで彦五郎が徳川を操った気がする」
「まさか」
 そういいながらも、今際の言葉を服部正成は思い出した。大叔父とは、日頃慕っていた今川氏真を指す信康の言葉だ。しかし、証拠はない。この悲しみを癒すように、家康は武田攻めに没頭した。それは流言を流布した小山田信茂の誤算であった。徳川家は内紛が纏まることで、むしろ一枚岩になった。
 武田家の対応は全てにおいて、後手だった。
                                つづく
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登場人物紹介

小山田信茂    

甲斐国郡内領主。武田二十四将。武田家を裏切ったと定説される文武の才に秀でた武将。

父・信有に嫌われて育つが、それは出自にまつわる秘密があった。

小山田弥三郎信有

小山田信茂と腹違いの兄弟。嫡流として小山田家を相続するが、のちに病没。ということになり、信茂を支える影の参謀となる。

武田信玄

甲斐国主。智謀に長けた戦国最強の武将。小山田信茂を高く評価し、その出自も含めて期待している。

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