第9話「義信事件(後)」

文字数 18,193文字

  義信事件(後)


                  一


 永禄七年五月、織田信長は美濃に近い犬山城を落とした。城主・織田十郎左衛門信清は信長の従弟にあたり、かつ妹婿で義兄弟の関係でもある。犬山で独自勢力を築いたこの一族は、美濃侵攻を急ぐ信長に敗退した。
 その後の織田信清は、武田信玄のもとに身を寄せている。信玄はこれを快く迎え、御伽衆として接した。織田信長をよく知る彼から得た情報は、有益このうえない。信清は甲斐にきてからは犬山鉄斎と名を変えた。犬山への望郷から名を改めたのだろう。
「上総介は犬山を得て、東美濃の経略を近いうちに為すと考えてよろしかろうて」
 信玄はそう断定した。
 事実、今年に入ってからの織田信長は、飛躍的な活動を展開していた。三月には近江北三郡を領する小谷城主・浅井長政に妹・市を嫁がせ、盟約を結んだ。世の者は、織田信長の評価がまだ厳しい。尾張平定間もない若輩……美濃攻略に手を出す身の程知らず……少なくとも天下を口にすることも憚られる若造めと、世間は笑った。犬山を奪ったのも、浅井長政と結んだのも、すべては美濃平定のためだ。
 信玄は、そのことを洞察した。
 今川氏真が信長と結ぼうと考えたのも、侮りあってのことだ。父の仇討ちよりも、甲斐を攻める駒のひとつにする。信玄さえ追放出来れば容易だという侮りだった。信玄はそのことも呑み込んで、じっと信長を注目していた。
 きっかけは、あった。
 松平元康。
 昨年、今川氏真に不審を覚えて、公式に断交を声明した。諱もこれより〈家康〉に改めた。元康の一字は今川義元のものである。義元に恩義あった家康は、こののちは氏真の駒であることを拒絶した。信長との同盟を固めたのは、単に長年の交渉により信頼を覚えたからだった。少なくとも、このときの信長と家康は、対等だった。
 信玄は義信の前途のため、二択を迫られた。
「芽は出る前に詰むべきか、育てて外交で用いるか」
 芽とは、織田信長のことだ。資質がなければ、摘めばいい。今の信玄には造作もないことだった。信長を潰されて困るのは、今川氏真だ。駒がなければ自力に頼むよりないが、信玄と正面から立ち向かう勇気はない。今川氏真は信玄追放を実現させるため、もうひとりの手駒に期待するしかなかった。
 穴山彦八郎信嘉。
 この者と接触するために用いた手段は、信仰だった。〈進大夫阿闍梨〉と呼ばれ、安房里見家の帰依も厚い高僧・日我のいる小泉久遠寺は駿河にある。この者の使いが身延に上れば、いかに信玄とて万沢を閉ざすことは出来ない。無論、使いは建前である。これが奏し、氏真の密書が穴山信嘉のもとへ届いたのは、この年の暮れ。
「若殿様は飼い殺しにされて廃嫡となる。早く御館様を追放させねばならない。武力に訴えることもやむなし、猶予これなく」
 穴山信嘉は予てよりの同志に密書を発した。この数年間、信玄に先手を越された穴山信嘉とて、無為な刻を過ごしていた訳ではない。目をつけられている穴山信嘉は、代弁の徒として、勝沼五郎信元に全てを託した。勝沼信元は武田の縁者、さすがに信玄は疑わない。
 当事者である義信の知らぬところで、謀が進んでいた。

 永禄八年(1565)正月。信玄は富士山中宮の社壇造営のため、黒駒関銭から一〇貫文を寄進した。このことは小山田弥三郎信有に相談がない。報告をもたらした信茂からこのことを聞き、弥三郎信有は不興を口にした。
「社殿造営は信心の表れである。御館様は悪いことなどしておらぬ」
 信茂は宥めた。黒駒関はそもそも八代郡黒駒にある。銭をどう用いるか、とやかく云える話ではない。
「富士の社殿は御師の管理であり報せは谷村に達する。このこと、守られておらぬ。御館様は郡内を奪う所存か」
「だっちもねえ」
「弥五郎は、信用できねえら」
「なんで?」
「わかんね。おまんは、郡内のもんじゃねえし」
「郡内のもんでなけりゃ、なんだよ」
「御館様の家来ずら」
「おれは近習だ、当たり前じゃんか」
 弥三郎信有は苛立たしかった。信茂は自然に振る舞っている。誰も好き嫌いなどという感情はないのだろう。一方的に、いまの弥三郎信有が、信茂を嫌っているのだ。こういう不一致な嫌悪は、焦れったくもあり腹立たしい。
「若殿様は如何か?」
「御館様が可愛がってるずら」
「可愛がっているって……」
「次の棟梁ともなれば、学ぶこんは多いずら」
「まあ、そうだな」
 義信が信玄からあらゆる手法を学び取ることに、些かの不思議はない。巨大な父の後継者として、内政外交合戦において完璧を目指すことは必須だった。その全てにおいて、信玄ほど完璧な人間はいない。義信の人間味にこれが加わったら、それこそ完全無欠と呼べる。そのような義信の下で務めることが出来さえすれば、弥三郎信有にとって、無上の喜びといえようか。
「とにかく御館様は郡内のことを蔑ろにする気はない。こんだけは誤解しねえでくんにょ」
「……ああ」
 弥三郎信有は暗い瞳を伏せた。

 三月、秋山伯耆守信友率いる伊那勢は、信玄の命令で木曽谷に布陣した。木曽伊予守義昌は信玄の娘婿であり、美濃の国境を固める重要な役目を負っていた。秋山信友が軍勢を率いてきたことは、何かしらの軍事行動を意味している。
 既に飛騨へ軍勢を送り込む信玄である。
 加えて木曽に布陣する目的は、ひとつしかない。追って援軍が木曽谷に到着した。諏訪の軍勢である。先頭に立つのは、諏訪勝頼だった。勝頼は信玄の伝言を託されている。その驚愕の指示に、秋山信友は緊張した。
「ただちに東美濃へ攻め入るべし。総大将は秋山伯耆守、寄騎は木曽伊予守、儂はその手並みを学ぶものなり」
「承って候」
 旧暦三月を新暦に正せば五月初旬。既に山岳から雪は消えて往還に支障はない。木曽から東美濃への路は、木曽川沿いに下るのが最短であり確実だ。そして東美濃は織田信長が抑えて日も浅い。信玄の指示は、ただひとつ、急襲だった。
 秋山信友を総大将とする武田勢は福島城を発ち、一気に苗木城へ向かった。苗木城主・遠山左近直廉は城門を開いて、これを迎え入れた。
 武田が早くから美濃へ勢力を伸ばしていたことは、余り知られていない。この遠山直廉と、兄で岩村城主・遠山左衛門尉景任は、武田斎藤両属の関係だった。武田信玄と斎藤道三の狭間で生き存えた一族だ。そして現在は、東美濃へ侵攻する織田信長にも属し、悪くいえば二枚も三枚も舌を持って、狡猾な延命策を執っている。しかし、大国に挟まれた国境の豪族にとって、これ以外の生き方はない。
「ごゆるりと」
 遠山直廉は主立った将へ井戸水を差し出した。山地とはいえ、晴れたら暑い。
「かたじけない、勘太郎殿」
 秋山信友は南信濃を任されているだけあって、国境の豪族たちの立場をよく理解している。勝頼は無愛想に水を干しながら、甲斐甲斐しく椀を配る姫を目で追った。遠山直廉の娘だと、秋山信友は耳打ちした。
「ほう」
 痩せた臀部を目で追いながら、勝頼は鼻を鳴らした。
 武田勢が苗木城に入ったという報せは、ただちに小牧山城に達した。
「武田だと?」
 織田信長は蒼白になり、思わず立ち上がった。いまの信長は武田勢と直接戦う力もないし、そのつもりもない。突然の出来事が青天の霹靂となって、信長を震え上がらせた。
「戦って勝てる相手ではねえだがや。早急に講和に持ち込む糸口を見つけるべし」
 そう叫びつつ、自ら前線の状況を見定めるため、僅かな手勢を率いて小牧山を発った。多くの重臣や軍勢は稲葉山攻略のために割いており、このとき信長の周囲にある従来兵力は極めて乏しい状況にあった。身の回りは新規に抱えた東美濃の豪族が大半を占めた。対応を誤れば信長は彼らに討たれかねなかったが、他に頼る者がない。松平家康へ救援を求めたが、遠方からの迅速な支援などあてには出来ない。
 武田勢は進軍を続けた。
 苗木城を発ったのちは木曽川を離れて、東山道に従い進んだ。道々では一切の抵抗がない。唯一、布陣の陣幕がある山城があると報せがあり、秋山信友はその場所を質した。
「神箆城にござる」
「神箆城か……」
 秋山信友は斥候が戻るのを確認してから、布陣を命じた。軍勢を留めた場所は、後に釜戸陣屋と呼ばれる丘陵部だ。そこよりおよそ半里先に見える神箆城は、旗差を並べて徹底抗戦の意思を示していた。その戦力が如何ほどのものか、秋山信友は情報の入手を急いだ。直ちに周辺の百姓や商人に金をばらまき、些細なことでも知ろうと試みた。
「力押しで潰せるだろう?」
 勝頼が首を傾げた。
「あの城は山の上にござる。高所の敵を攻めて無駄な損耗することは愚かなこと。戦わずして勝つことこそ大義なり。これは御館様が常に心掛けていることずら」
「迅速に、と云われている」
「ゆえに敵のことを知る必要がござる。内通を謀れれば、なおよし」
 神箆城。
 高野城とも鶴ヶ城とも呼ばれ、土岐川西岸の山地にあって南東に張り出した尾根の頂部に主郭を持つ。まさに見た目が鶴翼の如し。ここを登る無益より、調略で切り崩す術があれば損耗を防ぐことが出来る。この教えは信玄のものというより、山本勘助によるところが大きい。秋山信友もまた、勘助に薫陶された一人だった。
 このときの対陣を記す史料は『信長公記』による。これを〈高野口合戦〉というが、実態は明瞭ではない。『甲陽軍鑑』にさえ記されぬこの小事、作者が二〇一五年に瑞浪市に照会したところ、やはり明確を知るに至らなかった。
 ただし、これは小さな局地戦でありながら、東美濃の支配を巡り武田・織田が直接の武力衝突に及んだ唯一の合戦であることは注目に値する。その合戦を短期収束させることが、美濃平定も儘ならぬ当時の織田信長を量る物差といえた。
 信長到着までの間、神箆城で指揮を執っていたのは、森三左衛門可成だった。森可成は美濃新参で、ここで功を挙げることが立身につながると、発奮していた。同じく飛騨から仕官した肥田玄蕃允忠政も城内にあって士気を高めていた。
「おっつけ御館様がくるずら」
 間道から信長が向かっていると知った両名は、自ら進んで城門を開き、精強で名を馳せた武田勢へ挑んだ。これはあくまでも陽動のためである。守りを捨てる無謀に走るほど、森可成は間抜けではない。
 信長入城の合図である鉄砲が響くと、森可成は撤退を叫んだ。この戦いで可成被官である道家清十郎・助十郎兄弟は武田方の頸三つを討った。士卒ではないが、名高き武田勢ともなれば、何物であっても手柄頸であった。城内で待つ信長は、森可成から兄弟の奮戦を聞いて喜んだ。
「お前ぁら、大手柄でや」
 信長は無地の旗を拡げると、〈天下一之勇士也〉とその場で書き恩賞として兄弟に与えた。
「だがな、戦うのはここまでじゃ。武田を本気にさせたら、滅ぼされる」
 信長の言葉に、一同は消沈した。短期収束の条件は和議だ。この一点にのみ、信長は全力を賭けた。存亡の分かれ道だけに、必死であった。
 信長は一族の織田掃部助忠寛を呼ぶと、これを和議の使者に立てた。武田勢が神箆城の内情を探り当てるより早く、信長の行動が一歩先んじた。思いもかけない和議の交渉に、秋山信友は迷った。攻める沙汰があっても、講和に関する権限は与えられていない。
「無視すりゃあ、いい」
 勝頼は和議に否定的だった。判断に迷った末、秋山信友は甲府へ使い番を差し向けることにした。信玄の采配を仰ぐ必要があった。そこへ、武田の使い番が駆け込んできた。なんと、信玄自ら木曽谷を越えて、こちらに向かっているというのだ。
「ありがたい」
 秋山信友は息を吐くように呟いた。その使い番に和議申入れのことを奏上あるべしと伝えて、信友は従来通りの攻撃姿勢を保持しながら神箆城を見上げた。
 信玄が向かっている。このことは信長の情報網にも引っかかった。その真意が殲滅の総仕上げか否かによって、信長の天運は左右された。生殺与奪の是非は、信玄の掌にあった。
(信玄入道がくる……!)
 信長もこの情報に戦慄した。
 戦力差は、これで圧倒的になった。信玄が乗り込んできた以上、東美濃を根こそぎ奪い取ることは容易な状況だ。講和の余地は断たれたと、信長は思った。
 ならば戦うべきか、意地でも講和に縋るべきか。
 信長は、窮地に立たされた。
 信玄は馬籠の先、苗木城を見通せる山腹に布陣して、秋山信友と勝頼を呼んだ。この期に及んで軽挙な行動を執る信長ではないだろう。
 信玄の肚は定まっていた。多くの間者を放って、神箆城の動きを冷徹に見定めていた。間者の報告を武藤喜兵衛が取り次いだ。信長は動く気配を見せていない。しかし、視認できる範囲で、城の防備は万全のようだ。特に、多数の鉄砲の存在を間者は察知していた。恭順するでもなし、この油断なき態度に、信玄は好感を抱いた。
 秋山信友は信長の使いである織田掃部助忠寛という人物と、直接対峙している。使い番の所作が、その主君を量ることを信玄は知っていた。
「どのような男だ」
「腰が低く、言葉を選ぶような者にて」
 主が主なら、家来も家来だ。弱小と侮ることは危険な臭いがした。反面、経験の浅い勝頼が抱いた印象は、相手を軽んじるものだった。この未熟な倅の意見こそ、世間が見ている織田信長評そのものだ。この侮りがあればこそ、今川義元ほどの者でさえ討たれる起因といえよう。
「和睦の申し出は受けよう」
 信玄は呻くように呟いた。
「御館様!」
 納得できないと、勝頼は叫んだ。しかし、秋山信友は素直に得心した。信長を斃すことは容易である。しかし、ただ勝つことだけが信玄の理念ではない。その後始末が滞りなく執行できなければ、国というものは成立しない。
 義信を立てて何事かを企てる一派がある。背後に今川氏真がいる。このことを解決しない限り、いまは信長を生かして同盟者となす。これこそ、利につながる現状だと信玄は考えた。
 そして、これまでは敢えて明確に決断をしなかった敵を認識した。
 織田信長と結べば松平家康も付属する。この者等が西の壁となり、北の壁は武田が務める。そう、今川氏真が描いた策を、今度は信玄がそっくりと模倣するのだ。氏真が義信勢力を唆したように、将軍に近い立場の父・信虎が駿府で同調者を誘うこととなる。氏真は優れた謀略家ではあったが、信玄の方が一枚も二枚も経験が上であった。
 当面、公式な講和を控えて、休戦のみ同意して武田勢は軍を退いた。秋山信友は暫く苗木城に留まった。木曾義昌の父・中務大輔義康が妻籠城に入り、隙を見せぬ守りを固めた。利がなくば武田はいつでも攻めてくる。この休戦が安心の担保でないことを、信長は痛いほど自覚した。
 信玄に抜かりはなかった。
 そして、このことを、わざと今川氏真の耳に届くよう、情報を流した。このことで氏真は動揺し、織田信長の無策を詰った。むしろ信長にとっても、このことは今川氏真との手切れの好機になる。かえって都合が良かった。信長と共に、松平家康もこれに従った。
 明晰な氏真は、こののちの展開が見通せた。
 信玄が、仕掛けてくる。
 かつて上杉・織田・松平・今川で形成した包囲網が、今度は今川に向かってくる。内部を瓦解させる火薬庫は、紛れもなく武田信虎だろう。京からこれの駿府入りを拒めば、幕府に対しての聞こえも悪くなる。
(いっそ幕府に騒ぎが起きれば……)
 氏真の考えはそこに行き着いた。将軍・足利義輝の後ろ盾なくば、信虎などただの隠居に過ぎない。
(そうだ、その手があった)
 氏真は松永弾正久秀に宛て、密書をしたためた。

 五月一九日。三好三人衆が清水寺参詣の名目で軍勢一万を集結し、幕府に攻め入り足利義輝を討った。この将軍暗殺の場に、松永久秀は帰国して存在していない。が、三好長慶の死後、幕府を操ってきた松永久秀は、傀儡として不都合な将軍の存在を憂いていただろうことは想像に易い。三好三人衆を唆すことくらい、造作もなかっただろう。
 その場にいなかったというだけで、事件に無関係を装った久秀だったが、誰も無実を信用していなかった。元々は三好一族も長慶死後、一族の急死が足利義輝の意図と疑っていたし、積もり積もった疑心暗鬼があった。ちょっとした後押しで行動に転ずる土壌はあったのだ。
(我が背を押したのは、今川刑部大輔殿の密書ではあったがな)
 松永久秀はほくそ笑んだ。この政変劇を〈永禄の変〉という。
 この将軍暗殺劇の日、武田信虎は駿河に下向していた。強運といってよい。
 信虎はこのときも、今川家中の武田背信工作に勤しんでいた。氏真の意図は余り多くを実らせなかったことになる。
 武田信虎の蒔いた武田家への内応工作は、現実的にどうだったのだろう。思いの外、実りはあったようだ。その一方で、今川との縁切りを表明した松平家康も、旧知の縁で今川家臣団へ同心の誘いを行っていた。この当時の今川家は、武田・松平両家から、お互い関知せぬところで切り崩しを行っていたことになる。
 犬居城主・天野安芸守景貞をはじめ、遠江今川家の堀越左京大夫氏延が武田に内応を決した。さらに堀越氏延を仲介して引馬城城主・飯尾豊前守連龍が離反する。この引馬城は松平家康の東進を阻む西遠江の要だった。こののち氏真は〈義信事件〉露呈後の一二月二〇日、飯尾連龍を謀殺する。
 今川氏真は武田を食らう夢想を行動にした。
 それがための、大きな代償を被ることになった。そのため、国はおろか地位や人心さえも失うこととなる。


                  二


 六月。
 信玄は義信とともに美和神社にて太刀奉納の儀を執り行った。厳密には義信を主催としたものであり、太刀奉納は義信家臣団のもとで執り行われたというのが正しい。この主催を通じて、世評は、いよいよ義信に家督が譲られ信玄が後見役として天下への遠望を示すのではと囁かれた。事実、それは自然な姿であり、才覚ある者は若いうちから当主としての実績を学ばせる経験が、その国の行く末を左右した。信玄が優秀な若い人材を育て上げたように、このとき義信の周りにも優秀な次世代家臣団が集っている。不幸にも今川氏真の毒気に当てられた者も少なくないが、義信自身にその気はなく、今となっては杞憂に過ぎない。
 美和神社の太刀奉納は、意図的に接触を分断してきた義信家臣団が、久方ぶりに一堂に介した場ともいえた。
 そう、信玄は油断をしていた。
 穴山彦八郎信嘉の描いた策謀は、勝沼五郎信元を介して義信家臣衆へと徹底されていた。一堂に介さずとも、志を同じくして、ただ機を待っていた。待っていても義信が家督継承されることは定まっているのに、ただただその刻を早めることと、信玄を甲斐から追うことだけが彼らの心中に定まっていた。義信大事の盲目のなかで、仮に信玄不在となれば周辺国がどう動くか、若い彼らには分かっていない。今川氏真が描く真の目的など、純粋な若者たちには思いも寄らぬことだった。
 太刀奉納ののちは勝沼五郎信元の屋敷で酒宴となった。このときは信玄近習も相伴となり、大いに賑わった。勝沼屋敷からは高台となる大善寺を見上げることが出来た。あそこで勧進能が催されたことが、夢のようだった。
「織部正殿、勝手賄いの助力、忝なし」
 勝沼信元は宴の助成のため駆けつけた雨宮織部正良晴に頭を下げた。雨宮良晴は信元の妹・松葉の夫である。義弟の誼で、この大仕事を夫婦で助けに来たのだ。確かにこれほどの宴は、かの勧進能以来のことだった。
「よき折にて、太郎に頼みがある」
 信玄は盃を置いた。
「四郎を、よく面倒みてやってくれ」
「四郎を?」
 義信は首を傾げた。
「あれに諏訪を任せるが、癖馬に等しい。手綱が巧みなら、癖馬も名馬になる。亡き板垣駿河守のところにいた曲淵庄左衛門も、三郎兵衛の扱い次第で今ではたいそうな戦さ上手になった。わかるな」
「平素では厄介な暴れもんと聞きます」
「三郎兵衛は上手に扱っている。四郎も似たようなもんずら。おまんに全てを託す」
「は」
 なぜ諏訪四郎勝頼の話をするのだろうかと、義信家臣団は首を傾げた。信玄は、その関心を知ったうえで、声を大きくした。
「東美濃で対峙した織田上総介と和睦することになった。恐らく先方からは人質条件で輿入が申入れされるだろう。儂は、四郎にこれを娶せるつもりじゃ」
 めでたいと、義信は笑った。
「お待ち下さい」
 曾根九郎左衛門虎盛が進み出た。義信家臣団のなかでは齢を経た者で、感情的な物云いを律していた。彼は、今川家の仇敵と結ぶことの不義を訴えた。若者たちもそれに頷いた。
「皆の者、聞け」
 制したのは、義信だった。今川氏真に仇討ちの協力を再三申し入れたにも関わらず、相手にもされなかった交渉のことを義信は告げた。口惜しいのは、義信とて同じだ。
 思いも寄らぬ言葉に、義信家臣団は静まり返った。
「四郎のことはお任せください」
「頼りにしているぞ」
 この父子のやりとりは、ひとつの方針の決定にも似ていた。
 頼りにならぬ盟約は守るに値しない。これこそ戦国の倣いだ。当然のことだった。義信もやはり、武田の血を引く一己の獣であった。
 その夜のうちに、穴山彦八郎信嘉は義信信奉者に
「猶予此なく」
と発した。信玄を駿河に追い、義信を立てて今川家との綿密な共存をするのだという共通意思のもと、彼らは躊躇なく動き出した。
 そこに義信の意思はない。すべて彼らの一存だった。ただ義信さえ旗頭でいてくれればいいという、勝手な妄信のもとの謀叛だ。。
 七月になり、その総大将として飯富兵部少輔虎昌が奉り挙げられた。

 五月に陥落した上野国の倉賀野城へ、信玄は大熊備前守朝秀の弟・伊賀守の支配を命じ飯富・真田・相木・望月勢から援軍を差し向けた。すべては箕輪攻略の最終包囲網である。これが達成すれば、西上野は武田の支配下に収まる。倉賀野左衛門五郎尚行が越後に奔り旧領回復を訴えたところで、もはや武田の手に落ちた地は、領民の懐柔も的確に行われ人心が復すことはなかった。
 信玄にとって、前途は明るい筈だった。

 小山田弥三郎信有のもとに勝沼信元の使いが来たのは、山開きで賑わうある日のことである。船津では筒口明神の社殿改築も急がれ、神事に活気のある状況だった。弥三郎信有は使いの者から密書を託され、読まずにそれを懐にいれた。
 既に穴山彦八郎信嘉から、七月二〇日に躑躅ヶ崎を急襲するという回状がある。恐らく密書には、その手順が記されているのだろう。すぐに動かせる郡内の兵力は、山開きの動員で少ない。せいぜい小林尾張守を中心とした二〇〇程度が自由に動かせる兵力だった。しかし、義信家臣団が結集すれば、それ相応の数になる。問題は、反対した者がいたときの処置だ。
(弥五郎を呼び寄せよう)
 弥三郎信有は蹶起に反対する信茂を見せしめにして、郡内家老衆を従わせる算段を企てていた。信茂さえ討たれれば、彼に心寄せる者たちも弥三郎信有に従わざるを得なくなる。
(御館様を守って雑兵に討たれるよりは、我が手に掛かるなら。その方が、余程ましじゃ)
 弥三郎信有はそうほくそ笑んだ。
 この企ては秘密裏に遂行される筈だった。失敗など誰も信じていなかった。完璧と自負する策こそ、実は些細な綻びで取り返しがつかぬ失敗に繋がる。その立役者こそ、総大将たる飯富兵部少輔虎昌だった。七月一五日、飯富虎昌は飛騨より戻って間もない弟・三郎兵衛昌景を訪ねた。四方山話のあと、虎昌は信玄を襲撃する賛同者八〇名と首謀者四名の名を記した名簿を差し出した。
「若殿様をこのようなことに巻き込んで、申し訳ない」
 諫めることが適わぬ以上、飯富虎昌は一人でも多くの赦免を請うとともに、一身を犠牲にすることで鉾を収めることを望んだ。
「兄上」
「こういうことになって残念だ」
「まだ、間に合いませなんだか」
「収まらぬ」
 三郎兵衛昌景は項垂れた。兄弟の情よりも優先すべきは、信玄の身柄安泰であった。
「頼みがある」
「なんなりと」
「首謀者は儂である以上、即座に切腹を御命じあるべし。御館様にお願いして欲しい」
「兄上」
「口を噤めば全ては儂の一存で済まされる。若殿は何も知らず、勝手に事を構えた我が非だけですべて収まる。そうあって欲しい、そうでなければいかん」
「……」
「頼んだぞ」
 そう伝えて、飯富虎昌は屋敷に引き上げた。こうなった以上は、迅速に対処するしかない。三郎兵衛昌景は急いで躑躅ヶ崎に登ると、信玄との面会を望んだ。幸い義信は母・三条華子と寺社詣でに出て留守だった。
 一切の企てと兄の願いを伝えて、三郎兵衛昌景は突っ伏した。
 信玄は腕組みをしたまま目を剥いた。今川氏真の蒔いた芽が、こんな形で災いとなったことを無念に思った。しかし、こうなったからには、芽は早急に摘み取るしかない。
「弥五郎!」
 信玄は小山田信茂を大声で呼んだ。
「至急、府中の軍勢を集めるべし。ただし穴山・勝沼を除く御親類衆の兵に留める」
「一体、これは」
「飯富兵部が謀叛である」
 信茂は絶句した。突っ伏している三郎兵衛昌景を凝視した。
「何をしておる。急げ!」
「は……は!」
 信茂の伝令で、出陣していない御親類衆の兵が飯富虎昌屋敷へ殺到した。飯富虎昌は甲冑姿で、いまにも出陣する素振りであった。門を破られた虎昌は、勇ましい姿とは裏腹に、抵抗もなく捕縛された。そして躑躅ヶ崎に連行されたのである。
 報せを聞いて駆けつけた義信は、飯富虎昌を激しく叱るとともに、信玄に助命を縋った。信玄とて許したいのだ。虎昌の必死の覚悟を思えば、情けは決して救いにはならなかった。
「飯富兵部、残念だ」
 その言葉に、虎昌は黙って頷いた。
 信玄も鉾を収めるため、痛みを共有してくれる。その意思が、この言葉には籠められていた。それが分かりさえ出来れば、もう思い残すことはない。無益な内乱は早く鎮めなければいけないのだ。それが武田家を、義信を救う、唯一の手だてだ。そのためなら、いくらでも汚名を着よう。信玄さえ理解してくれるなら、汚名なぞ何ということはなかった。
 飯富兵部少輔虎昌。
 身柄を一切秘されたまま、その罪状だけが公言された。慌てたのは、義信家臣団たちだ。旗頭が捕まれば、彼らの一切も露呈する。挙兵して駿河へ逃れるか、恭順して許しを求めるか、彼らの選択肢は多くなかった。
「兄上、我らと挙兵あるべし」
 下部の屋敷で、穴山彦八郎信嘉は兄・穴山左衛門大夫信君に必死で縋った。南部河内はもともと駿河との共存あってこそのものだとも訴えた。義信を強奪し、今川に降ろうとも叫んだ。この声は、武田御親類衆として、聞き捨てならぬものだった。
「咎者を捕らえるべし」
 信君は冷徹に処断した。
「後悔するぞ。若殿を盛り立てて今川と手を取り……」
「今川?今川が何をしてくれるというのだ」
「同盟は義である」
「忠告したこと、お前は最後まで理解してくれなかったようだな」
 今川氏真がどのような本質か、聡明な信君は見抜いていた。この辺りは信玄に薫陶された慧眼である。外交のなかで相手の嘘を見抜く力を、信君は身につけていた。その目に映る今川氏真の言葉には嘘があった。万沢関を信玄が規制したときから、信君はそれを知っていた。だからこそ、弟・信嘉の盲目を長い間、叱責してきたのだ。
 もはや、庇い立てることは出来なかった。
 恨み言を叫ぶその声を背にしながら、弟がここまで増長してしまったという後悔だけが信君の心に蟠った。穴山信嘉は身延山塔頭のひとつに身柄を封じ、まずは捕らえたということだけを信玄に報告した。
 信玄からは見舞の一言があった。
 恐らく、事件の奥底まで見通しているのだろうと、信君は思った。
 その日のうちに名簿の大半が捕らえられ、或いは投降した。逃れた者もいたが、諜報に長ける信玄の目から逃れることなど不可能に等しかった。名簿に載っていなかったが、勝沼信元も捕らえられた。共謀は明白で、弁明の余地もなかった。今度のことで武田御親類衆から勝沼・穴山両家に首謀や加担の輩が出たことが、一番の問題だった。国人の思想は交易や交流如何で、誰に情が傾くか流動的である。義理もあるし、しがらみすらあろう。仕方のないことだってある。
 が、武田御親類衆だけは、甘えは許されない。国政の中核にある家臣も同様だ。それを知っているからこそ、飯富兵部少輔虎昌は全ての罪を一身に背負う覚悟を示した。
 この問題が、実はそんなに簡単ではないところに、信玄は苦慮した。


                  三


 郡内谷村館へ小山田信茂が差し向けられたのは、飯富虎昌が捕らえられた翌早朝のことだった。信茂は敢えて小山田勢を用いず、飯富三郎兵衛昌景から軽輩五〇ほどを借りた。
 まさか、あの弥三郎信有が。しかし思い当たる節は、多々あった。
 信茂は辛かった。
 もう少し、歩み寄る機はなかったのだろうか。もう少し、心を共有出来なかったものだろうか。過ちを正すことも諫めることも、何一つ出来なかった。それが信茂には辛かった。
 御坂峠を越えると、小林尾張守家親が兵馬を整えて出迎えた。先代・貞親は永禄四年一一月四日に没したが、そのとき信茂は伊勢路の途上にあり、そのことを知らなかった。後継者の家親は、若い者の特徴か、弥三郎信有よりも華のある信茂に惹かれていた。
 小林尾張守家親は、弥三郎信有の思想を全く知らない。
「昨日、谷村様から府中攻めを聞かされた。そのあとで、飯富兵部様の報せが飛び込んで、郡内では谷村様が一味したことを、誰も知らなんだ」
「だろうな」
「谷村様を助けて上げられないもんずらか」
「これは甲斐全体の問題、郡内だけではどうにもなんね。すまん」
 辛いのは信茂も同じなのだ。小林家親は悲しそうに目を伏せた。
「で、弥三郎殿は?」
「見た目は平素のとおりで。誰も知らぬことゆえ、屋敷も囲まれておらなんだ」
「そうか、平素か」
 信茂は馬から下りた。御坂峠は律令の頃に設けられた官道が河口と国中を結んでいる。その峠には御坂城があって、官道は城のなかを通過するのだ。馬を下りた信茂は、御坂城の物見に上がり、小林家親に何事かを囁いた。
「そんなこと……!」
「そうでもしなければ」
 信茂は強く説得した。この想いは賛同に値するが、露呈したら信茂もただでは済まされないだろう。それでもやるのだという信茂の威勢に、小林家親は頷いた。お互い秘密を分け合うことを約したと云ってもよい。
 小林尾張守家親は一足先に山を下った。翌日、信茂は河口へと向かい、吉田を経て谷村に進軍した。七月一七日、信茂は谷村領に入った。軍勢は屋敷向かいの別棟に留められ、信茂が単身赴いた。小林家親がすぐに出迎えた。屋敷内の広間では、四長老家をはじめとする郡内の重職が揃っていた。
「尾張殿が見つけてくれて、よかった」
 小山田弾正有誠が指し示したのは、小室浅間明神の願文だった。印判からみて、弥三郎信有のものだ。
「永禄五年のものだ。病の平癒祈願をされている」
 信茂はちらと小林家親をみて
「弥三郎殿は病だったのか?」
 大声で質した。
「重きものにて、我らは面会能わず」
「さようか」
「弥五郎殿なら面会も適うものと。是非にもお会いして欲しい。それで、我らにも御様子を教えてくだされ」
 小山田弾正有誠は四長老家の大老名である。信茂は頷いた。離れに赴き、戸を開いた。そこには白装束で寸鉄帯びぬ弥三郎信有がいた。手足はしっかりと縛られて、身動きを封じられている。口を縛っているのは、騒がれることよりも、舌を噛み切らせぬためだ。すべては小林家親の采配だった。
 信茂は腰を下ろした。
「若殿様は何も知らなかった。咎めはない、安堵されよ」
 睨む弥三郎信有の目から、力が失せた。
「今わかる限りのことを話す。その恰好で、辛抱されたし」
 飯富虎昌のこと、府中で捕らえられた者のこと。この時点で、穴山彦八郎信嘉のことは信茂の知るところではない。しかし、勝沼信元が捕らえられたという話に、弥三郎信有は大きく項垂れた。
「弥三郎殿のことを御館様も知っておられる。庇うことは難い。しかし、困ったことがあるのじゃ。郡内の誰もが、弥三郎殿に今度の一味があったことを知られていない」
 信茂の言葉に、弥三郎信有は顔を上げた。
 領民は立派な殿様としての弥三郎信有像しか信じていない。信玄に謀叛したのだと知ったら、どんなに落胆するものか。その言葉を聞き、弥三郎信有は当惑した。当主の咎が郡内に波及したら、彼らは小山田家を恨むだろう。
「ひとつだけ、方法がある」
 信茂が顔を近付けた。
「弥三郎殿は長患いであった。邪な誘いを判断することが難かった。病平癒の願文を随所の寺社に捧げておったという筋書きを、勝手に作っておいた。しかし、それだけでは許されまい。やはり、弥三郎信殿には、うっ死んで貰う」
「……」
「しかし、病で死ぬのだ。善政を尽くした当主が、領民に惜しまれながら死んでいく。父上のときも、皆が悲しんでくれたなあ。ああいう死に方を、望んでいるのだ」
 さもありなん、弥三郎信有に未練はなかった。
「ところでなぁ、儂は飛騨出兵の折に、都で治世を学んだという高僧と入魂になった。甲斐に連れてきておるのだ。この者から郡内仕置の助成を賜りたいと思うておるずら。背格好も歳も、そうそう、弥三郎殿に瓜二つ。ほんに、そっくりなのじゃ」
 弥三郎信有は目を丸くした。
 何をいいたいのか、理解したようだ。
「そうだ、おまんが僧になる」
 丸い目が、いよいよ丸くなった。
「弥三郎殿は我が片割れずら、絶対に死なすことはなし」
 大きく首を振り、轡を外せと弥三郎信有は訴えた。手拭いを外すと、水を飲ませるよう要望した。その口へ、椀の水を流し込んだ。ひと心地吐くと、弥三郎信有は呆れたように
「馬鹿なことはよせ」
 そう呟いた。
「儂は弥五郎を疎んでいた。今度のことが成功したら、うっ殺すつもりじゃった。なのに、おまんは、何故、儂を助けようとするんだ」
「郡内の人間にとって、おまんが必要なもんだからじゃ」
「かといって」
「おまんはこれだけの謀を、誰にも気取られることなく黙っていた。おかげで郡内は非を問われまい。弥三郎という名前さえこの世から消えれば、御館様も騒ぎを大きくすることはねえずら」
「しかし」
「当主としての弥三郎は死ぬ。新しい郡内領主のために、培った治世を揮うことこそ、領民に応える術ではないんか」
「おまんが咎められないか?」
「御館様のもとを追い出されても、郡内の隅っこで生きていくことは出来んべ」
 信茂は本気だ。本気で、危険な賭けをしようとしている。殺そうと思った相手が、今度は必死になって今の身を案じてくれるのだ。こんな馬鹿な話があるものか。ここで拒んでも、晩節を汚した惨めな当主として、未来永劫、領民から軽蔑されるだろう。ならば、生き直すことこそ、信茂に応える道だ。これからも領民を支えること、弥三郎信有が死んだところで、それは名だけのことに過ぎない。
「わかった」
 弥三郎信有は覚悟を決めた。
 この謀を知るのは、小林尾張守家親ただ一人。
「儂が国中に戻った後は、何事も尾張守と相談するべし」
と、信茂は強く云い含めた。弥三郎信有は手足を解放され、床に就かされると
「誰かある。重役の皆を呼ぶがいい」
 信茂が大声で呼んだ。
 ほどなくして、郡内重役が悲壮な表情で入室してきた。
「弥三郎殿はお疲れじゃ。もう話す気力もねえし、儂から伝言する。病は殊の外重く、平癒の希望もなし。弥三郎殿が死した後は、四長老家で談合し、然るべき者を立てて小山田宗家を興すべし」
 その言葉に、一同は啜り泣いた。
「病の世話も心許なし。こののちの取次ぎは小林尾張守にとの仰せじゃ。御一同、得心願えるかな?」
「弥五郎殿の仰せの儘に」
 信茂と家親は、目を合わせて小さく頷いた。
「当面の内政は四長老家の采配に任せる。弾正殿、これでよろしいか」
「承った」
 こうして、信茂は信玄襲撃を画策した兄弟を救う策を実施した。もはや引き返すことは出来ない。信玄のお叱りを被り、もしも仕置されるのならば、一緒に受けるつもりだった。
(それも、いいじゃないか)
 どこかで清々していた信茂だった。

 帰国後、信茂は信玄に
「小山田弥三郎、病重く、余命幾何もなし。お目零しを」
と奏上した。信玄は眉を怒らせた。その表情から、さっそく何もかも知られているのだと悟った。さすがは武田の諜報だと、妙な納得すらしていた。
「なぜか?」
 信玄は質した。
「今度のこと、一切の芽を摘むことが肝要」
「されど、兵部様のお言葉もあり」
「なに?」
「三郎兵衛殿より承りしは、一切の非を一身に負うとの由」
「しかし目溢しは出来ぬ」
「弥三郎は近々病死します。よく似た出家者だけが、あとの世を彷徨うのみ」
「小賢しい真似を」
「郡内すべてが他人事であるなら、徒にこれを焚き付けて争乱を拡大させるよりは上策にて。谷村様と慕われる当主のために郡内が蜂起したら、それこそ今川の思う壺にござる」
「ぐぬぬぬ」
「得心あれ。郡内が平らかなら、国中で何事があっても憂いなしにござる」
 今度の一件で、義信を信奉する者が一族を説得し内乱を起こす可能性は、どこにでもあった。ひとつ暴発すれば、それは連鎖していくだろう。信茂はその可能性を鎮める代わりに、弥三郎信有を見逃せというのだ。
「云うようになったな、弥五郎」
「多くの先達から学んだことですだ」
 信玄は根負けした。
 これだけに拘るよりも、この一件に関しては、広く早く物事を沈静化させなければならない。内乱の火種をすべて消し、再び甲斐を一枚岩にしなければいけなかった。
「この貸しは、生涯賭けて返してもらう」
「よろこんで」
 愉快だと、信玄は大声で笑った。

 小山田弥三郎信有が病没したのは、永禄八年八月二〇日である。領民に慕われながらも質素な葬儀。それでも高野山へ永代供養を頼むという豪奢な仕儀を信茂は行った。
 小山田家臣団は仰天した。采配は信茂であり、信玄の了承もある。この日付は『高野山引導院日牌帳』によるものだが、供養帳に記載された日付は、一説には命日でなく追善供養の依頼日ともされる。とまれ弥三郎信有という人物の足跡は、この日を境に途絶した。
 郡内の領主は信玄ではなく、小山田家の家老が決する。これは武田の同盟者ゆえの、独立性を意味していた。
 小山田弾正有誠は四長老家の大老名である。その発した後継者の名に、当人を除く万人が納得した。
「弥五郎殿こそ適任なり」
 弥五郎は言葉を失った。
「暫く」
「大老名の言葉である。受けてくれ」
 信茂は、父の遺言を持ち出して固辞した。信茂が継げば、小山田家は滅びる。呪われた血の子供だと云われたことを訴えたが、誰も取り合わなかった。
「儂は日陰にあってこその者である。勘弁してくんにょ」
 家中は誰も引かなかった。
 一族も、従属豪族たちも、信茂こそ適任と訴えた。
 それは、川中島のときの的確な采配に根差した信頼感から来るものだった。信茂が応じぬと一点張りなので、小山田弾正有誠は信玄へこのことを訴えた。ただちに使い番として武藤喜兵衛が駆けつけた。
「僭越ではあるが、郡内領主を務むべし」
 信玄の言葉を、武藤喜兵衛が明言した。
 こうなっては仕方がない。この年より、信茂は小山田家の当主となった。家中の構成はこれまでだが、相談役として、指南僧を傍らに置くことを信茂は宣言した。
「儂が飛騨にて親しく学んだ高僧である。至らぬ政については御指導を仰ぐとともに、名代として采配を頼むこともあるだろう。心得て欲しい」
「して、その者は何処へ?」
「今はいない。じきに参ることだろう」
 信茂は顔色を変えることなく応じた。
 が、父親の言葉が、頭のなかに刻まれていた。

  いいか、おまんはいつか、小山田の家督を奪うだろう。おまんに望みなくとも、
  きっと担がれて、弥三郎は家督を奪われる。
  分かるまい。おまんは人を惹きつける。それは公界の血が導く魔性ずら。
  いいか、おまんが小山田を継げば、きっと御家は絶える。儂には見えるのだ。
  おまんは当主になってはならぬ魔性の者ずら

 信茂は頭を振った。いつまで経っても、あのときの言葉だけは忘れられなかった。戯れと思うても、呪いのような重い言霊に縛られて、今日まで信茂は生きてきたのだ。そして、これからも、この言葉に縛られていくのである。
 弥三郎信有に子さえいてくれたなら、このような苦労もなかっただろう。考えても仕方がなかった。信茂は現実を受け止めるしかなかった。

 後世、一連の信玄追放を画策したクーデターを総じて〈義信事件〉という。通説では義信が中心となった謀叛であり、未遂事件として終わっている。その首謀者たちが処断された日はまちまちだ。飯富虎昌の切腹は諸説あるものの、高野山成慶院『甲斐国供養帳』の記載から永禄八年一〇月一五日とされている。捕縛後すぐに討たれなかったことは、事件関与の焙り出しが想像以上に大きなものだったと想像に易い。一方で、虎昌に対する温情で、知己との面会猶予を与えられたのかも知れない。義信自身、親にも勝る傳役のもとを幾度となく通ったことだろう。
 飯富虎昌の処遇と異なり、その他の者に課せられたのは、過酷なものだった。
 加津野孫四郎昌世・長坂清四郎勝繁・曾根九郎左衛門尉虎盛といった義信近臣は早急に頚を落とされた。長坂・曾根両家は、信玄の〈奥近習六人衆〉に連なる家系だから、不忠者は一族を挙げて誅殺することも厭わなかったし、加津野家はこれで断絶することとなる。この処分は信玄が沙汰したというより、捕らえた身内による縁者粛正もあっただろうし、一族出奔も重なったことだろう。
 とにもかくにも、鉄の結束が砂のように崩れた喪失感に信玄は悲嘆した。
 いちばんの落胆は、勝沼信元のことだった。信玄はすぐに処断し、勝沼家はこれで断絶した。しかし従弟の謀叛劇は体裁が悪い。どうしたものかと案じた信玄は、この謀叛は永禄三年の越後勢小田原遠征で調略されたためという理由付けをした。関東の多くが靡いたあの一件で、不覚にも魔がさした。そういうことにしておけば、幾分は聞こえが良かった。
 迷惑なのは、その縁者である。
 信元の妹・松葉はこの一件を機に、雨宮織部正良晴から離縁を被った。雨宮家としては当然といえよう。松葉には反論の余地すらなかった。こののち松葉は生家近くの大善寺の門を叩き、慶紹阿闍梨に帰依して仏門に帰依した。松葉は得度し、尼僧〈理慶尼〉となって、こののちの武田の歴史を直視する運命を負うのである。
 穴山彦八郎信嘉は少し長生きした。高野山成慶院に所蔵される『武田家過去帳』に拠れば、永禄九年一二月五日に死したとある。穴山家は今川と密接だったこともあり、家中が割れていた可能性が否定できない。その内訌に対し、信玄が威圧的な態度をとったことは間違いない。国境の河内は甲斐の重要な要衝だ。今川に属すため穴山一族が挙って離反したら、今後の領国経営に影響が出る。時間を要してでもこの決着をつけることが必要だった。穴山信嘉は身延山久遠寺の塔頭で切腹したと、通説では伝えられる。信玄もこれを信用したことだろう。

 永禄八年九月九日。
 織田信長家臣・織田掃部助忠寛が躑躅ヶ崎を訪れ、信玄にあらためて婚姻による講和を求めた。このことに異存はない。すべては想定済のことだった。
「諏訪四郎様に、御館御養女君をとの仰せです」
「養女か?」
「御館様にとっては姪御にあたる由」
「それは、誰か」
「苗木城主・遠山左近殿の娘・お雪の方にて」
「姪とは」
「左近殿の御正室は御館様の妹君にございます」
 信玄は頷いた。遠山直廉は東美濃において武田方に身を置いている。
 いつ嫁がせるかという問いに
「年明け前にでも」
 織田掃部助忠寛は明言した。婚礼の儀は是非とも躑躅ヶ崎でという要望に
「差し出がましい。四郎は諏訪の跡取りずら、婚儀は諏訪で執り行うべし」
 信玄は一喝した。
 義信事件の燻りが目立つ府中にて、他国の者を交えた婚儀など催せるものではなかった。諏訪で催すのは、勝頼は諏訪の者であるということを周知させる意図があった。勿論、知られたくない国情を隠すためであるが、そのことは口に出来るものではない。
 織田信長はそのことに全て同意した。
 今は甲斐との盟約さえあれば、安心して美濃攻めに集中出来るのだ。絶対に信玄を敵にする愚を犯してはならない。信長は細心な人間だった。
 一一月一三日。輿入行列が高遠城に入った。
 勝頼は妻となる女の顔を知っていた。正確には、痩せた臀部という記憶だ。苗木城での忘れぬ記憶だった。その女が妻となる奇縁を笑いそうになりながら、勝頼は婚礼一切を取り仕切る阿部五郎左衛門勝宝に全てを任せた。雪の方は華奢な体格で、まるで小枝のような痛々しい若さを感じさせた。付けられた侍女たちはむしろ肉置もよく、その対比が益々際立った。
 政略結婚とはこういうものだ。
 母の生涯を思えば、不思議なことなど何もない。勝頼は平然と、高砂を謡う奏者の調べに身を委ねていた。
                                つづく
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登場人物紹介

小山田信茂    

甲斐国郡内領主。武田二十四将。武田家を裏切ったと定説される文武の才に秀でた武将。

父・信有に嫌われて育つが、それは出自にまつわる秘密があった。

小山田弥三郎信有

小山田信茂と腹違いの兄弟。嫡流として小山田家を相続するが、のちに病没。ということになり、信茂を支える影の参謀となる。

武田信玄

甲斐国主。智謀に長けた戦国最強の武将。小山田信茂を高く評価し、その出自も含めて期待している。

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