第8話「義信事件(前)」

文字数 16,488文字



義信事件(前)


                  一


 永禄五年(1562)六月、和田右兵衛大輔業繁が武田の軍門に下った。信玄はこれを優遇するとともに、西上野攻略の拠点として、補給の一翼を担わせた。西上野攻略の最大の障壁は、箕輪城である。これを攻略することが、信玄にとって大きな課題だった。
 箕輪城主・長野信濃守業政が昨年暮れに没した。
 生涯一度たりとも武田の侵攻を許さぬ名将として知られる業政であるが、反面、その死は信玄にとっての好機とも云えた。箕輪城の孤立を急ぐ信玄は、この時期、積極的に代わる代わる兵を差し向け、在地豪族を調略していった。穴山彦八郎信嘉が上州へ送り込まれた頃、安中城・松井田城を領していた安中越前守重繁に対し、武田勢は攻撃を加えていた。安中重繁は上杉輝虎に同心しており、信玄の調略に応じようとはしなかった。信玄はこのとき重繁の子・七郎三郎景繁へ調略を仕掛け、一族の分断を企てた。武力による物資や人材の損耗を回避しようという信玄の試みは、血気盛んな穴山信嘉には理解できない。
「早く河内領に戻りたい」
 そんな愚痴を書状にして送る先は、信玄嫡男・義信だった。戦地から引き揚げたいという本音は、限られた者にしか明かせない。勿論、この書状は義信に届くことはなかった。途中、小県で必ず使者の懐から抜き取られた。やっていたのは、渡り巫女たちだ。渡り巫女は望月千代の統率のもと、武田の新しい諜報機関として誕生した。千代の夫・望月信頼は武田典厩信繁の長男だが、川中島の負傷がもとで他界した。未亡人となった千代は忍びに通じていたこともあり、信玄の命令で〈甲斐信濃二国巫女頭領〉に任じられていた。巫女たちは信仰を用いて諸国情報収集に務めたが、〈女〉を大いに武器にした。書状が抜き取られるのも、道理と云ってよい。
 武田太郎義信はこのとき躑躅ヶ崎から動いていない。南信州へ動いた軍勢は、秋山伯耆守信友が率いている。その秋山勢に今川氏真からの使者が迷い込んだのも、信玄の卓越した情報操作の賜といえよう。今川の使者は、駿河への隠居場を整える旨を書面で所持していた。秋山信友は誰にも漏らすことなく、同行する小山田信茂にこれを託し、信玄へ直接報告した。信茂はこれだけのために、単身付けられたようなものだ。信茂のもたらした密書に、信玄は破顔した。
「太郎にこのようなことを。今川の子倅め、親父よりもしたたかなものずら」
 信玄はこの密書に、朱書で
「当面、隠居不及」
と大きく書くと、信茂に
「飯富兵部とともに、駿府への使いを頼む」
と投げ渡した。その同行に、信玄は近習・武藤喜兵衛を付けた。信茂は覚えていないが、彼とは戸石崩れのときに面識がある。武藤喜兵衛は真田一徳斎の三男で、岩尾城で兄とやりとりする信茂を、じっと屋内から見ていたのだという。
「そうか、おまんは源太殿の弟か」
「御一緒出来て嬉しいです」
 この武藤喜兵衛、今は信玄の新たな〈眼〉となるべく薫陶を受ける身だった。のちに〈小信玄〉と天下に恐れられた真田昌幸の若き日の姿である。
 釜無川沿いに下ると河内領。万沢関の番兵は一条信龍の手の者だから、信茂のことは承知していた。万沢を越えると山間を進み、やがて富士川と名を変えた釜無川とも別れて、二人は興津へと至った。飯富兵部少輔虎昌は義信の傅役だ。その名を聞いて、興津の今川兵は慇懃に駿府まで案内した。
 駿府城の客間で待つ間、信茂は思いがけぬ人物に出会った。
「龍大夫殿」
「おお、弥五郎殿か」
 なんと、伊勢龍大夫だ。東国よりの帰途、駿府に立ち寄り遷宮資金の無心を行ったのだという。信玄からの援助金は既に届いており、勧進聖・清順もたいそう喜んでいたと語った。
「にしても、更なる勧請を?」
「遷宮は式年の伝統があってこそ。ここで成れば、次の遷宮の支度も遅くないことにて」
 伊勢神宮を維持することは、まことに大変なのだな。次のことを考えて、今の成功に励むことの尽力。果てしない神事の営みの、これは一瞬のことかも知れない。信茂はそう思わずにはいられなかった。
 今川氏真はすぐに謁見してくれた。
 飯富虎昌は義信傅役だから、氏真とは幾度か面識がある。武田の重臣を疎かにしては今川の名折れだ。暫し談笑して、氏真はちらと二人をみた。
「はじめて見る顔だな」
「御館様の近習どもにて」
「ほう」
 飯富虎昌は書状を出すよう、信茂に促した。信茂は黙って書状を差出し、それを一瞥した氏真の表情は蒼褪めた。
「飯富兵部殿は、この中身をご存知か?」
「存じ奉らず。ただこの者等を、今川様に引合せるよう仰せ遣ってござる。さてさて、何か不都合なことでも?」
「いや、ならばよい。飯富兵部殿は太郎殿の傅役じゃて。些か合点がいかぬ事があったのじゃ。しかし、知らぬなら、よい」
 氏真は信茂をみた。
「武田殿は、他には何か」
 上擦った声だ。信茂は涼しい表情で
「織田攻めの折には、与力にあたり依存ござらぬとの仰せにて」
「織田攻め……」
「当方は、采配ひとつで、いつでも」
 氏真は言葉に窮した。
 信玄は、一切の企みを承知なのだ。そのうえで、敢えてこのような振舞いをしている。武田が織田へ攻めることは、三国同盟に加担する上で自然なことだ。何より織田信長は今川家にとって仇敵に相当する。しかし、織田を攻めるということは、氏真の謀を白紙にすることも意味している。踏み絵のようなものだ。氏真の悪巧みが、手詰まりとなった。
「仇を討つほどの器量は、儂にはござらぬ」
 白々しく装ったところで、信茂は表情ひとつ変えようとはしない。若いくせに侮れぬ、小癪な奴だ。早々に追い返すべきと、氏真は思った。
「お待ちください」
 突如、悲鳴のような声が奔り、あっという間に老体が乱入してきた。
「これは、先代様」
 飯富虎昌は慇懃に頭を下げた。信茂と武藤喜兵衛も、慌てて従った。先代様とは、まぎれもない武田信虎その人である。
「飯富兵部、そちは倅に加勢して、儂を駿府に追い出した無礼者じゃ。おかげで日々が不自由極まる。手打にしてやろう、そこへ直れ!」
 信虎は飯富虎昌の襟元を締め上げ、掴み掛った。
「何をしてござるか。早う、何とかして下され!」
 信茂の一喝に、氏真はハッとなり大声で人を呼んだ。
「離せ、下郎。離せ、離せ」
 信虎は取り押さえられ、今川の兵に引き摺られていった。
「不自由とは、いかなることか。甲斐からは、隠居には充分すぎる扶持を送り届けているつもりですが?」
 飯富虎昌の一言が、ちくりと氏真に刺さる。不自由極まるとは、何事かと、やんわりと質した。またも氏真は返事に窮した。まさか手当を着服し、その資金が織田への交渉に用いられているなど、気取られてはいけないことだ。
「それでは甲斐へ戻ります」
 飯富虎昌の一言が出るまで、氏真は無言だった。
 帰途も同じ行程だ。万沢関を越えるまで、飯富虎昌は無駄な言葉を口にしなかった。信茂も同様だ。若い武藤喜兵衛は、休息のたびに土地の者へ無駄話をするのだが、これも仕事のうちだった。誰かがじっと聞き耳を立てている。ならば迂闊な失言を装う偽の噂をばらまくことも大事なのだ。
 万沢関より河内領に入ると、もはや甲斐国。今川の間者の耳はない。
「二人とも、先代様を御覧になるのは初めてだろう」
 ようやく、飯富虎昌が呟いた。
「このこと、誰にも語るでない。先代様の話題はな、皆が後ろめたいのだ。御館様の御前で、あらためて話すとしよう。それより、弥五郎」
「はい。書状のことですね」
「隠居不及とは、若殿を唆す企てを挫くもの。知らぬふりをするのは、面倒であったぞ」
「しかし、はっきりと見えました。今川殿は若殿の近侍へ知恵をつけて、先代様のときのように御館様を隠居させる所存。甲斐が弱体化した隙に、越後・尾張・三河と一斉蜂起するつもりでしょう。さしずめ北信濃を越後に与え、南信濃は尾張・美濃。自分はぬくぬくと、甲斐を盗る腹積もりかと」
 一行は翌昼過ぎに躑躅ヶ崎に到着した。信玄は諸事に追われており、夜になって、ようやく報告の場を得た。
「御苦労でござった」
 傍らには飯富源四郎が控え、信玄は疲れた表情で腰を下ろした。
 会見の報告は飯富虎昌が淡々と行った。そのうえで、信虎乱入のことも告げた。
「揉み合う際に託された、先代様の結び文です」
 信茂は目を見開いた。
 そうか、あのとき掴み掛かったのは、これを渡すための芝居だったのだ。若い世代に伝わる暴君の印象が、揺らぐのを感じた。信虎とは、いったい。
「弥五郎、お前の表情はすぐに読めるぞ。感情を殺すのは、喜兵衛の方が得手だな」
 信玄は笑った。
「そのことですが、それがしには手の動きが見えておりましたので、さほど驚くことは」
 武藤喜兵衛が呟いた。
「えっ、おまん、見えてたの?」
「見事な早業でした」
 知らぬは己ばかりだと、信茂は落胆した。
 結び文を一瞥し、信玄はそれを懐に収めた。こういうやり取りを、実は信虎追放後も続けていたのだろうか。実に慣れた所作だ。
「弥五郎は知っていた方がよろしいかと」
 飯富虎昌の問いに、信玄は頷いた。
 信虎追放は、暴君の放逐という理由ではない。建前に過ぎないのだと、信玄は告げた。
「父上は大永二年に御鉢巡りをされた。富士の頂より駿河を見下ろし、いつかはこれを攻め取ろうと思われたらしい。その頃の駿河は増善寺殿(今川氏親)の世で盤石、片や甲斐は国内統一の最中じゃった。増善寺殿の死後、巧みに今川と講和し、甲斐を統一した父上は、ここで一計を案じたのだな」
 信玄は、飯富虎昌に続きを促した。
「甲斐の統一は無理を通すことも多く、人心は先代様を必ずしも受け入れるものではなかったのじゃ。先代様は聡明な御方ゆえ、代替わりの禊ぎで、その人心を相殺しようと思われた。暴君ゆえに追放されたとすれば、御館様にも汚名はなし。自らは駿府に赴き、今川家中を崩そうと試みた。しかし、娘婿が傑物すぎて、このことは容易に運ばなかった」
 娘婿とは、今川義元のことだ。確かにこの人物の英邁を知らぬ者はない。ゆえに桶狭間の横死を内心喜んだのは、信玄だけではない。しかし、ここで問題が生じた。義元の相続人が癖者で、こちらは甲斐を奪い取る策をじっと練っていたという点だ。
「彦五郎(今川氏真)は道化を装っているがな。本当の道化に落とせば、世の者は誰一人として相手にするまい。父の仇も討てぬ腰抜けという道化、本物にしてやるで。策略とは年の功であること、とくと知らしめてやるずら」
 信玄は、この瞬間にもきっと、二手三手と、今川氏真を縛る布石を打っているのだろう。
「父上は暴君という忌み名を自ら課した。そのこと他言に及ばず、いいな?」
 信玄は信茂を、そして、武藤喜兵衛をみた。

 この年、信玄四男・伊那四郎は正式に諏訪家の名跡を相続し、名を〈諏訪四郎神勝頼〉と改めた。武田家の人間として与えられる諱〈信〉の一字ではなく、諏訪家の諱〈頼〉が与えられたことの意味は大きい。諏訪大明神大祝の総帥として君臨する勝頼は、武将の側面と信仰による裏の情報網という二者を得たのである。
 現代人はとかく勝頼を、武田家の格下に置かれたと考えがちだ。しかし神職兼任は、諏訪の血を引く勝頼だけにしか出来ない特権とも考えられる。
 少なくともこのときの武田家は、次代が義信であることは間違いない。
 それを補佐する二人の弟が信仰を握り、諸国へと目を光らせる存在だったことは、存外気付かれていないことだった。次弟・龍宝は海野氏を相続し望月千代と接していたこと、四弟・勝頼が全国諏訪社の総帥と云うこと。義信が武田家を継ぐとき、この二本柱は揺るぎのないものとなる筈だった。
 そう、筈だったのである。


                  二


 永禄六年の正月を迎えた。
 小山田弥三郎信有は、近頃違和感を覚えていた。
 御師は相変わらず小山田家を頼り、個人的にも谷村様と敬われ、富士信仰を軸に内政を充実させている。にも関わらず、彼らはどこかぎこちなかった。渡辺囚獄佑(ひとやのすけ)守は西之海衆の者、中道往還の玄関口にあたる本栖関で甲駿国境警護を務めている。この西之海衆は武田直属の武装在地衆と呼ばれるひとつだ。他にも九一色衆がおり、富士山麓の地縁から、小山田家とは協調関係にある。とかく御師たちは、諸事のため渡辺守のもとに通っていた。
 それだけなら気にもならないが、問題は別にあった。
 近頃の西之海衆は駿河からの入国を閉ざしている。このことは弥三郎信有にとって、懸念のひとつといえた。富士信仰の門戸は、籠坂峠や道志路だけではない。信玄は何を考えているのか。
これが、弥三郎信有の不満だった。その不満の源は、信玄そのものだった。早く義信の代になればいいという願望は、日に日に膨らんでいた。それほどまでに、義信に浸透している己が不思議だった。
 穴山彦八郎信嘉は上州出兵より帰国後は、頻繁に谷村を訪れた。下部から中之倉峠を経て本栖に至れば、郡内と河内の往来は近い。しかし積雪時のいまを、こうも頻繁に往還するのは人目にも目立つ。
「こちらから赴くときは下部の猟師を先導にする。還るときは〈本栖之定番〉を頼るから問題はねえ」
 穴山信嘉はそう嘯くが、本栖一帯は信玄の監視が強い。頻繁な往還は如何なものかと、弥三郎信有は質した。国中を経由せず、わざわざ雪道を踏破する穴山信嘉の目的はひとつしかない。小山田弥三郎信有が義信信奉の〈同志〉だからだ。
 不思議なものである。
 穴山家も小山田家も、武田家の同盟者であって従属関係ではない。穴山信嘉は義信の下で甲斐一統を夢想していた。そのことに弥三郎信有は異存ない。
「〈本栖之定番〉は河口と吉田の御師ゆえ、当方が云い含めることも易いがのう。問題は西之海衆や九一色衆、あれは御館様直属にて、目立つ振舞いは危険ずら」
「この往還に、とやかく云われることなどない」
 穴山信嘉は鼻息が荒い。この勝ち気は、新当流という剣術に支えられていた。新当流を通じて、今川氏真という支援者あってのものだった。義信と今川を結びつける自負が、勝ち気となって滲み出ていた。
「傅役(飯富虎昌)殿も御歳である。代替わりすれば、我らが武田の中核じゃ」
「穴山家にはそなたの兄ぃがおる」
「兄ぃは御館様に近い。代替わりしたら、儂とくみっこ(交換)ずら」
「廃嫡か」
「死なすつもりはねえし。おまんは?」
「弥五郎は……うっち(死)んでもらう」
「て?」
 弥三郎信有にとって、いつしか経験豊富な信茂は疎ましい存在になっていた。川中島で家中の人気を掠われたと感じたとき、いつかこの男に家督を奪われる疑念さえ抱いていた。兄弟とは他人の始まりとよくいうが、まことにその通りだと、近ごろの弥三郎信有はしみじみと思っていた。
「今川殿は近頃甲斐への使いを差し控える。なぜだかわかるか?」
「さあ」
「小山田弥五郎が駿府に赴いたそうだが、どうも、それ以来ずら」
 おかげで今川氏真の考えがよく見えないのだと、穴山信嘉は呟いた。万沢関は信玄直属の一条衆が固められ、国境でのやりとりも儘ならない。本栖も同様だと、弥三郎信有は呟いた。
「早いところ、御館様には駿府へ御隠居してもらおう」
 穴山信嘉の呟きに、弥三郎信有は頷いた。

 一月半ば、僅かな供連れで、信玄が河内領に赴いた。下部湯の評判を聞いてきたというが、それは方便だろう。穴山信嘉が郡内と往還していることを、信玄は知っている。何かの牽制のために、きっと来たのだ。後ろめたいことばかりの穴山信嘉は、人の背に隠れるように、じっと眉を顰めた。
 一丁の駕籠が信玄に同行していた。乗っていたのは、原入道清岩であった。
「いつぞや疵に効くと、彦六郎(穴山信君)が云うていたではないか。まだまだ鬼美濃は必要である」
 信玄の言葉に、出迎えた穴山信君は恐縮した。その母・南松院は信玄の姉で、これも出迎えに参じた。病がちと聞いていた南松院の痩せた手を、信玄はそっと包んで労いの言葉を掛けた。一行は穴山信君が用意した湯処へと案内された。
(兄ぃは知っていたのだ)
 信玄到来を知らされていなかったことを、穴山信嘉は恨めしく思った。
 湯処へ着くと、信玄自ら原入道清岩の湯着を整え、ともに湯治に赴いた。この下部の湯は湯着がなければ冷たく感じる。ましてや高齢な原入道清岩なれば、尚のことである。
「そのうちな、じわりと汗が出る。馴染むまでの辛抱じゃ。馬場民部がそう云っておった」
「御館様にご厄介をかけ申す」
「遠慮はいらぬ。勘助も山城(小幡虎盛)も死んでしもうた。三八(多田満頼)も病で幾何もなし。鬼美濃には長生きしてもらう。合戦巧者からは、まだまだ学ばねばなんね」
「はんふざけたこんを……」
「本気ずら」
 信玄は笑った。
 控えている飯富源四郎・小山田信茂・武藤喜兵衛その他一〇名程の近習は、湯殿を囲む陣幕のすぐ外で、このやり取りをじっと見守っていた。鬼の如く恐れられた無双の武将は、疵のせいか、それとも老いか、筋骨は萎えたように緩んでいた。せめて今生の名残に戦場へ連れて行きたいものだが、もはや甲冑の重さに耐えられそうにない。信玄は、それを口に出すことなく、ただただ往年の武勇伝を振り返っては語りかけた。
 原入道清岩は信茂にとって、数多な師の一人だ。武の多くを、信茂は彼から学んだ。
「長えこんここで湯治をすんなら、余興のひとつも欲しいもんずら。湯から出たら、穴山の調練でも見てぇら」
 原入道清岩はぼそりと呟いた。
 信玄は愉快そうに笑った。原入道清岩が逗留してくれるなら、いつか湯の効験で奇蹟も起きるかもと、嬉しそうに頷いた。信玄の想いに応えるため、敢えて原入道清岩は口にしたのかも知れない。
 長く逗留するのなら、退屈するのは事実だった。余興のひとつも欲しいだろう。信玄は、穴山信君を近くに招いた。
「彦六郎、おまんの弟は棒振りの腕を自慢してたな?」
「御館様。だっち(埒)もねえこんにて」
 穴山信君が慌てて否定した。
 今川かぶれの穴山信嘉が新当流にはまり、その腕前を自慢していたことは事実である。義信の前で演武を披露したことを吹聴していたし、これ見よがしに、人前で白刃を振り回すこともあった。信君の叱責で、近頃は収まりつつあったが、上州出兵時にも、陣中で何事かをやらかしたという噂は、公然だ。
「腕前、見てえら」
 原入道清岩は厳しい眼光と裏腹に、柔らかい口調で呟いた。
 困ったなと、信君は陣幕を出て、そのことを穴山信嘉に告げた。
「ならば」
 穴山信嘉はちらと信茂をみた。以前、行方知らずの旅から戻ったなら、評判の信茂と太刀合いたいと考えていた。随分と経ったが、これは好機だった。
「何卒、そこの小山田弥五郎殿と」
 穴山信嘉が声を挙げた。
「彦八郎、控えよ!」
 信君が制したが、信嘉はきき訳がなかった。
「弥五郎殿は高名な鬼美濃殿に鍛えられたと聞いてござる」
「申し訳ござらぬ。弥五郎殿、本気にしねえでくんにょ」
 信君はかつて信茂に槍術を習ったことがある。一応の師である以上、恥ずかしいことになっては顔向けできない。これを許せば、きっと取り返しがつかなくなると、必死に制止した。
「いいべ」
 答えたのは、陣幕の内側からだった。信玄の声か、それとも原入道清岩か。やがて両名は湯を上がり、ただちに支度をするよう信玄が沙汰した。
「あいつ、じっとお前んのことを睨んでいるぞ」
 飯富源四郎が小声で呟いた。穴山信嘉は殺気立っているように、じっと上目で信茂を見ていたが、信茂は涼しい顔だ。
「棒振りなど、戦場で役に立ちませぬ。そのこと、かつて道鬼様が仰せじゃった」
「大丈夫か?」
「さあ、どうでしょう」
 信茂はニコリと笑った。食えない男だなと、源四郎は苦笑した。
 熊野神社は律令の頃、甲斐守藤原正信の湯治縁起で建立された湯権現だ。それを見上げるこぢんまりとした場が、急いで設けられた。信玄と原入道清岩、穴山信君が床几に腰を下ろし、信玄の御供が囲むように片膝をついた。
「棒振りは実戦の役に立たぬで、両名とも鎧を着ろし」
 原入道清岩の言葉に、穴山信嘉は失笑した。
「怪我するけんど、死ぐこんはねえし。鎧はどうかと」
「小僧、ふざけろ(ふざけるな)」
 怒気の籠もる原入道清岩の声に、一瞬、空気が張りつめた。これが病人の気か。まさに百戦錬磨、鬼と呼ばれた武将ならではだ。老いても覇気は衰えない。その気に圧されて、穴山信嘉は思わず身体が硬直した。
「鎧は実戦として要するもの。裸で戦場を駈ける素惚けなど御館様の軍勢には無用である!」
 全身から汗が噴き出し、思わず穴山信嘉は信茂をみた。信茂はこの覇気のなか、涼しげに鎧櫃から甲冑を出して、穴山の兵に着装を手伝ってくれと呟いていた。舌打ちしながら、穴山信嘉は鎧を用意させた。
「兵法者は一対一。戦場はさにあらず」
 誰にいう風でなく、原入道清岩が呟いた。
 やがて鎧を着装し、両名は対峙した。甲冑は約八貫(三〇㎏)、それでも当時の武将は機敏に動くことは適う。獲物は勝手ということもあり、信茂は槍を、穴山信嘉は太刀を手にした。
「よし、はじめ」
 掛け声と同時に、信茂の槍が真横に一閃した。その柄を切り落とそうと、穴山信嘉が逆袈裟に切り上げた。その手前で、槍は大きくしなり、その太刀の更に下へ沈んで、瞬間、跳ね上がった。甲を叩かれて、太刀はぽろりと落ちた。あっという間の出来事である。
「余興にもなんね」
 原入道清岩が呟いた。
「いま一度」
 穴山信嘉は焦った。甲冑の重さは、瞬時のことに反応できない。その先を見越して、意識した行動を必要とすることを、穴山信嘉は自覚した。戦場の陣幕から出ず、切り結ぶことのない経験のなさが、穴山信嘉の焦りにつながった。しかし、焦っても仕方がない。ようは、勝てばいいのだ。
 槍を相手にするならば、懐に飛び込みさえすればよい。
 穴山信嘉は、自分にそう云い聞かせた。
「はじめ」
 穴山信嘉は小刻みに動いて、槍の左へと動いた。信茂も身体を動かす。右へ動き、左へ動く。槍は大きくしなり、接近戦を許さない。と、左へ廻った穴山信嘉は更に左へ走り、とっさに右手より信茂の懐へ飛び込んだ。
 瞬間、信茂は楯を半回転させ、その石突きで斬りつける穴山信嘉の太刀を払い大きく巻き上げた。
「出来た!」
 つい、信茂は声を挙げた。川中島合戦の前、山本入道道鬼斎に切り替えされた技の模倣であった。見様見真似であったが、こうも決まるとは考えてもなく、ついつい歓喜を発してしまったのである。
「弥五郎、何をしてるのだ」
 原入道清岩が呆れたように笑った。
 すべては決した。
 新当流は戦場では役に立たぬということを、穴山信嘉は思い知らされたのだ。戦場では複数に囲まれ正々堂々など役にも立たず、槍に手も足も出なかった。これを己の未熟と戒めないところに、穴山信嘉という人間性がある。
(満座で恥を掻かされた)
 甲冑さえなければ、絶対に負けぬ。その自尊心が、事もあろうか
(今宵、弥五郎を後ろから殺してやるし)
という殺意に飛躍したのは、皮肉なことだった。
 その夜、一行は原入道清岩ともども下部に逗留した。
「せめて身延の館にお越し下さりませぬか」
 穴山信君は誘った。ここでは大したもてなしも出来ない。しかし、信玄は下部にこだわった。原入道清岩と積もる話もあった。湯治に来た原入道清岩を連れて湯処から離れるのも変なことだ。
 信君は納得し、出来る限りの饗応をするべく、食や人材を身延から動員した。日頃閑散としている下部は、途端に賑やかになった。信玄の近習たちも湯を楽しみ、交互に信玄の警護を行った。寒い山中だから、交替も小刻みだ。長時間外を歩くのは、風邪のもとである。
 小山田信茂は武藤喜兵衛と組み、丑刻から半刻当番を請け負った。信玄の寝所は熊野神社のすぐ真下で、湯殿に近い。同じ屋根の下には、原入道清岩もいる。ここは河内領とはいえ、甲斐国だ。滅多なことはあり得ないが、これも仕事である。
「熊野神社から見下ろせるし。登ってみるさよ」
 武藤喜兵衛が呟いた。月灯りでかなり明るいから、見回りとしては効率的である。
「半刻でばんてんこ(順番)くるずら。よいっぱね(夜更け)はしゃらっさぶい(すごい寒い)から、湯に入りてえにゃあ」
 そう声に出す信茂の息は白い。足下は氷が張り始めているものか、踏むたびにジャッと音がする。信茂は川沿いへ足を向けた。せせらぎが足音を掻き消してくれる。風流だ。
 咄嗟に、殺気が奔った。
 本能的に信茂は鯉口を切り、振り向きざまに太刀を唐竹に斬り下げた。そのまま身を沈め、切っ先を突き上げる。そこにいた覆面の男は、左手から血を流し、その目は驚愕で丸くなっていた。信茂の太刀筋は、戦場の荒っぽい手ではなく、練られた〈流派の技〉だった。そのことが驚きだという目だ。
「おまん、儂を知ってるな?」
「……」
「誰だ?」
 覆面男は踵を返し、山中へ逃げていった。程なく、武藤喜兵衛が駆けつけた。熊野神社から見えたので、慌てて駆けつけたのである。
「あいつ、こんな寒いのに山の中へ。ここいらの奴だ。穴山の者に伝えんべ」
「いい、だっちもねえ(くだらない)」
「しかし」
 信茂には、正体が分かっていた。騒ぎを大事にするべきかは、信玄に決めて貰えばいい。相手はこちらが槍一辺倒で、山本勘助仕込みの京流の使い手とは知らなかったようだ。相手を侮れば遅れを取ることは、孫子の教えにもある。
 翌朝、信玄は報せを受け
「捨て置け」
と呟いた。それでいいと、信茂は思った。
 穴山信嘉は病と称し、暫く世に出ることはなかった。


                  三


 永禄六年の間、武田義信は関東出兵の総大将に据えられた。これは、今川の干渉から遠ざける措置にも映った。今川氏真は迷い、結果的に数多の工作を鈍らせた。
 これは武田にとって都合のよい結果をもたらす。
 上杉輝虎は、今川氏真の鈍い対応に不信感を抱いた。松平元康も梯子を外されたような心地だった。よもや秘かに今川は武田と通じて
「ここぞ」
の場で裏切られるのでは、という懸念を覚えたのである。道理といってよい。駆引きは間の取り方が勝負処だ。頭の良すぎる氏真は、自分の思い描くものと周囲の温度差に気付いていない。ここが老獪な信玄との差だった。
 これに駿府の信虎が呼応した。今川家中は世間の見立て通り、腰の引けている氏真への失望感が隠せない。その迷いある家中へ、武田への内応を唆したのが信虎だ。これは、危険な兆候だ。氏真は怒ったが、処断することを躊躇った。武田に対して、先に手を出したという既成事実は避けたかった。
「祖父殿には頼み事が」
 言葉巧みに、氏真は信虎を駿府から追い払う算段を画策した。将軍・足利義輝に宛て〈在京前守護〉という立場で京都にて面倒を見て貰うよう要請を出した。信玄には一切の相談もなしである。このため、信虎が今川家混乱を画策したため、苦渋の思いで追放に及んだという、氏真の擁護説が口伝手に広まった。
 面白くないのは信玄だ。
 が、まだ機は熟していないと、これを黙認した。『言継卿記』曰く、信虎は将軍の近くで〈外様〉とされたが、儀礼的には重い扱いだった。それに、事実は追放でないから、将軍の使いと称し、年に数度の駿河下向も行われた。老獪な信虎は、この状況を最大限に活用した。
 松山城攻めにあたり、信玄不在でありながら、武田勢はその強さを関東諸将に見せつけた。結果として、西上野の豪族たちは誰に付くべきかを明確に判断した。関東の勢力図は武田勢により、大きく変わろうとしていた。上杉や北条より、頼みとなるは武田。そういう風潮が少しずつ定着していった。
 信玄が飯縄山麓に軍用道路を普請させたのもこの年だ。これは、八ヶ岳山麓の棒道のようなもので、その普請が為されたということは、北信濃の国人が上杉よりも武田に心服したことを意味した。事実、この頃になると、信濃国人は、上杉輝虎の肩書よりも武田の実利を信じた。信濃先方衆に対する信玄の疑いも和らいだし、その努力に務めた真田一徳斎の功績も大きい。吾妻郡の要衝たる岩櫃城を真田勢が攻略したのも、この年の出来事である。
 反面、小山田弥三郎信有にとっては、面白くないことがあった。富士二合目役行者小屋帰属問題について、沙汰の是非を決したのは武田家だ。御室浅間社別当・小佐野能秀をはじめ多くの御師たちが、弥三郎信有よりも武田の言を重んじた。その武田の側にあって、通達や伝達に動いているのが、他ならぬ信茂だったことも不興の要因だった。
「弥五郎殿の物云いは分かり易いだ」
 御師たちはそう褒めそやす。その信茂に郡内より独立し一家を設けるべきか、信玄から打診が届いたのは、この年の秋のことである。
 郡内から厄介者を追い出す好機だ。弥三郎信有は最初にそう思った。
 が。
(待てよ)
 一家を興すのは、新興の侍大将という意味を持つ。そうなれば家臣の引抜きもあるだろう。信茂の人気は郡内で高い、我も我もと、そちらへ名乗り出ることは必定だ。そうなれば、人気のなさを露呈して恥をかく。そのことを、弥三郎信有は恥じた。
 何事においても、自信がなかった。
 結局、一家を興すことよりも、将来の郡内へ信茂が尽くすことを、弥三郎信有は強く希望した。弥三郎信有の意思に対し、信玄もこれに同意した。代わりという訳ではないが、この年、飯富源四郎は〈飯富三郎兵衛尉昌景〉を名乗り、侍大将として独立した。

 永禄七年(1564)、五月。
 伊勢龍大夫が駿河より経て河内を経て、躑躅ヶ崎館を訪れた。信玄は小山田信茂を傍らに置き、これと謁見した。伊勢神宮より遷宮の儀が無事に行われた感謝を、伊勢龍大夫は幾度も述べた。と同時に、畿内の情報も、小声で報じた。遷宮の見返りとして、情報提供は大きな成果だった。
 松永久秀は主君・三好長慶の病弱をいいことに、主家筋にあたる三好衆に取って代わるような発言を繰り返し、微々と幕府における地位を確立しようとしていた。何を考えているか、得体が知れぬと、伊勢龍大夫は眉をひそめた。
「弥五郎は、それと会うたのだろう?」
「はい」
「どんな奴だ」
「まさしく得体が知れませぬ」
「そうか」
 一度会ってみたいものだなと、信玄は笑った。
 そのときである。飯富三郎兵衛尉昌景が進み寄り、小声で信玄に耳打ちした。
「なに、松永弾正?」
 松永久秀が訪問してきたというのだ。信玄はややおいて
「門前に待たせておくべし」
「よろしいので?」
「接客中である。ただし勝手に歩かれては困るゆえ、兵で囲むべし」
 信玄は毅然と答えた。飯富昌景はその言葉に従い、曲淵庄左衛門・広瀬郷右衛門といった屈強の配下を含む一〇人を監視に据えた。そして飯富昌景自らは馬場脇の小屋より、じっと松永久秀を傍観した。傍らには弓手を置き、場合によっては射殺す準備も怠らない。
 伊勢龍大夫は遠慮がちに退席を仄めかすが、信玄はそれを制した。
 松永久秀という人物を試すつもりだった。半刻も放置して、どういう態度で臨むものか、見物だと考えた。
 信玄が訪問に応じるとき、信茂にも同席を命じられた。
「おまんの命を狙った奴らの親玉だで。睨んでやりゃあ、いいずら」
 信玄は涼しげに笑った。
 面前に現れた松永久秀は、平静を保っていた。多少炎天下で汗を掻いたのだろう、額はびっしょりである。
「幕府の者より大事な先客でな、長いこと、すまぬことをした」
「幕府以上とは、恐れ入ります」
「田舎のことゆえ、済まぬことであった」
「こちらこそ、突然の推参ゆえ、非礼をお詫び申し上げます」
 松永久秀は油紙に巻いた書簡を取り出すと
「まずは公方様より」
「弥五郎、取り次ぐべし」
 信茂が進み出、それを受け取ると信玄に差し出した。信玄は一瞥した。相も変わらず、上杉と仲良くせよという繰り言である。変わったことは、特に記されていない。
「公方様には御心安んじ奉るようお伝えあれ」
「承知仕りました。それと、これは当家よりの土産にて」
 松永久秀は別の書簡を差し出した。信茂はこれを手に取り、立ち上がろうとした瞬間
「楠木の兵は山では強いものを、ようも生きておりましたな」
 久秀はぼそりと呟いた。
 信茂は言葉も発することなく、信玄に取り次いだ。
「ようも調べたものじゃな」
 その書簡には、松平元康がいつどこで織田信長と接したかが細かく記されていた。
「三河の豪族が今川に愛想を尽かし、かつての敵と結ぶ。戦国なら不思議のないお話です。しかし、それが手の込んだ芝居であること、誰も気づきますまい」
「ほう」
「今川家は、このことを将軍家にも伝えております。上杉贔屓の公方様は心なしかお喜びの由」
「さもありなん」
「当方は武田様とは入魂にありたいと願う所存。上杉よりは武田こそと考えてござる」
 抜け目のない口上だ。
「霜台様が公方様第一の臣になるのだと、成慶院では大層の囃し様だそうな。高野山の坊主を手懐けることは、大事なことじゃの」
 信玄の一言は何の布石か。
 松永久秀は返事に迷った。つい、話題を逸らすため
「その公方様の、関心事がござります」
「ほお?」
「上杉弾正様曰く、川中島においては車懸の陣を用いたとの御雄弁。その受け手の心地、信濃守様に質すよう公方様に」
「ふふふ、御伽噺じゃわ。車懸など、唐の古典のみの御伽噺。そのようなこと、真っ赤な偽りである」
「これは、面妖な」
「弥五郎、聞かせてやれ」
 信茂は越後勢が渡河してのちは、横田城を襲い兵糧を奪い、次いで広田砦、大堀砦を襲って兵糧を奪った。それは餓鬼道の有様であった。戦場には美化するものなど微塵もないのだと、明瞭に呟いた。
「よかったな。弥五郎はその合戦場にいたのら。これを殺してたら、おまん、真実を知らなんだな」
 信玄はギラギラした眼光で、笑った。
 松永久秀は観念した。三好の次に取り入ろうと考えていた武田信玄は、その隙もなく器量も勝る。とても適う相手ではない。下手に手を出してよい相手ではなかった。即座に死をも覚悟した。
「せっかくである。織田上総介のこと、知る限り教えてもらえぬか」
 信玄はそう云って、更ににやりと笑った。
 信玄が織田信長を意識している。そのことに、松永久秀は首を傾げた。信玄から見れば、取るに足らぬ存在である。今は美濃攻めも芳しくない状況で、何を考えているものか。一体、信長のどこに魅力があるものか。
 興味のない分、簡素な言葉で久秀は答えた。
「そうか」
 信玄は満足したようだ。
「鯉とはな、瀧を登りて龍となる。その鯉を生かすか殺すか、どちらが益かのう」
 それきり、信玄は表情から笑みを消した。
 その威圧に、松永久秀の背を汗が流れた。
「大義であった。公方様によろしくお伝え下され」
 声が出なかった。
 心の臓を鷲摑みにされたような恐怖を抱いて、松永久秀は去った。万沢関まで曲淵庄左衛門・広瀬郷右衛門等が随行した。追い出されるような格好である。武田の軽輩とはいえ、曲淵庄左衛門・広瀬郷右衛門の両名は近隣に聞こえた剛の者。しかも教養が完全ではないから、闘犬のような輩だ。これに囲まれて、松永久秀は生きた心地がしなかった。
 松永久秀は己の矮小さを思い知らされた。
 武田は、とても適う相手ではない。

 三日後、信玄のもとに乱波が忍んできた。
 松永久秀は甲斐からの足で今川氏真のもとを訪ねたという。会話は軒下で全て筒抜けだった。
「穴山彦八郎が剣技で敗れて落ち込んでいるそうじゃが、もう少し煽ててやらにゃあな。あれが太郎殿を焚き付けることで、事が動く。信玄入道を隠居追放に導かねばいかん。そうなれば、易々甲斐を奪えるのだ。そうは思わぬか」
 今川氏真は何度も久秀にそう語ったという。
 片や久秀は、上杉を牽制するため信玄の力を欲していた。その夢が破れた以上、もはや些かの興味もない話だった。相槌を繰り返しつつも、心は別のことを考えていた。
 信玄は信長の何を知りたかったのだろうか。
 答えは、全く分からなかった。
「松永弾正は駿府より舟で帰国の由」
 乱波はそこまで見届けて、帰国したという。碁石金を二粒放り、御苦労と、信玄は微笑んだ。乱波を下がらせると、信玄は飯富昌景を呼んだ。
「おまん、これより飛騨を攻める支度をすべし」
と命じた。上州攻めを続けている武田勢だからこそ、当面はこちらに集中するものだと誰もが思っていた。それだけに、まず飯富昌景が目を丸くした。
「おまんが驚くなら、誰もが驚くだろうて」
 信玄は愉快そうに笑った。
 当時の飛騨国は、上杉輝虎と斎藤龍興の係争地だった。片方が攻めたらそれに寄る勢力が盛り返し、もう一方が攻めてきたら反対勢力が台頭する。その繰り返しだった。関東の縮図のような状態と例えればよい。その楔として、信玄は江馬左馬介時盛を調略していた。いつか攻め入るための布石である。
「飛騨に武田勢が現れたら、一番驚くのは、誰だろな」
 信玄は意地悪そうに、目を細めた。
「御館様。弥五郎を軍監として連れて行きたいのですが」
「構わぬが。それにしても、弥五郎は皆に好かれるのう」
「あやつめ、何やら、色々と知りたそうな顔をしているのです。得な奴だ。ついつい、放っておけなくなる」
「そうじゃな、得な男であるな。かまわぬ、連れていけ」
 七月、飯富昌景率いる武田勢二万は安房峠を越えて、電撃的に飛騨へ侵攻した。驚いたのは、上杉輝虎だった。飛騨から越中へと、武田の版図が広がれば越後は孤立する。厳しい境遇になるのは必定だった。
 飯富昌景の陣中は活気に溢れていた。先陣争いは命懸けの競い事であり、軍監として信茂は大わらわであった。曲淵庄左衛門・広瀬郷右衛門・孕石源右衛門といった癖者揃いで、さぞや飯富昌景も大変なことだろう。
「そうでもねえずら」
 飯富昌景は涼しい表情だ。
 曲淵庄左衛門は訴訟ばかり起こす面倒な男だが、戦さだけは強かった。広瀬郷右衛門も腕っ節は強い。こんな輩の放つ言葉は、感情ばかり先走り、些かも品性がなかった。
「三郎兵衛尉殿。奴らは下品な物云いずらな」
「奴らに云わせれば、儂等こそ気取っているらしいぞ」
 そう云って、飯富昌景は笑った。
「そういうものですか」
 信茂には、そのあたりの感覚がよく分からない。出自の怪しさからいけば、信茂とて血の半分は埒外で、とても武士らしいものではない。だが、彼らのような荒っぽい連中を可愛がる器は持ち合わせていない。それに引き替え、飯富昌景は大したものだ。出世する男は懐が広いものだなと、信茂は感心するのであった。
 翌月三日、五度目の川中島対陣が行われた。
 信玄は雌雄を急がなかった。川中島を含む一帯は、既に武田の領有そのものである。奪い合う必要がない以上、侵略者をあしらい追い出すまでだった。この対陣に義信も供していた。信玄は戦場の駆引きを義信に教えようとしていた。義信も謙虚にそれを身にすることに徹していた。少なくとも両者の間に、翳りある気配はない。常に身辺で薫陶することにより、信玄は邪な一切から義信を守ろうとしていたのだろう。
 世に信玄と義信の関係は冷え切っていたと囁かれる。
 主に『甲陽軍鑑』の記述によるところだ。しかし、資料として多少は尊重できても、史料として信頼が置けないのが『甲陽軍鑑』である。恐らく、現時点で信玄は義信を庇護する意思を固めていたのだ。勿論、諏訪勝頼を溺愛し廃嫡させようという、小説めいた狭量な思惟はなかっただろう。信玄は欲得で駿河を奪う意思を示し、そのことで早くから父子関係が冷え切っていたとは考え難い。
 通説では無能な氏真に取って代わり駿河を欲したためとされるが、信玄が関東はおろか飛騨にまで遠征できるのは〈三国同盟〉の恩恵である。その重要性は、感情で左右できるほど軽くはない。
 山国である甲斐国を統べる信玄が、海を欲していたのは事実だろう。それと駿河侵攻が結果的に結びついたことも事実である。しかし、あらゆるものを犠牲にしてまで、駿河に固執したとは思えない。
 少なくとも、いまの信玄にとって、後継者は義信しかいなかった。永禄七年八月時点では、紛れもなくそれが事実だった。
 今川氏真が甲斐を奪うために上杉を誘い織田と密約を図った。そのうえで信玄という合戦巧者を内紛で追放し武田を弱体化しようと企てた。北条を誘わなかったのは、信用していなかったからだ。ここから武田へ謀が洩れたら、何もかも水の泡である。仕掛けたのは今川である。信玄は情報戦で先手を取り、切っ先をかわしていった。そのうえで義信を掌中に置き徹底した庇護を行った。
 これは状況から窺い知れる一面である。定説ではない。その定説に従えば、このような空想めいた仮説など、一笑に伏されてしまうだろう。
 偏に小説という媒体ゆえの娯楽ということで、どうかご理解を頂きたい。
                               つづく
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登場人物紹介

小山田信茂    

甲斐国郡内領主。武田二十四将。武田家を裏切ったと定説される文武の才に秀でた武将。

父・信有に嫌われて育つが、それは出自にまつわる秘密があった。

小山田弥三郎信有

小山田信茂と腹違いの兄弟。嫡流として小山田家を相続するが、のちに病没。ということになり、信茂を支える影の参謀となる。

武田信玄

甲斐国主。智謀に長けた戦国最強の武将。小山田信茂を高く評価し、その出自も含めて期待している。

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