第33話

文字数 884文字

 そして翌年の春、大樹は見事に東京の大学へ進学を決めた。合格発表の日、両親は大喜びだったが、もちろん、大樹が一番最初に知らせたのはサチだった。
「サチ姉、俺やったよ、合格した」
「おめでとう、大樹。本当におめでとう」
「じゃ、両親に伝えてくる」
「うん、一番にありがとう」
「うん、また連絡するよ」

 サチは地下鉄の出口から外に出ると大都会の空を仰いだ。柔らかな春の日差しに気持ちがちょっぴり暖かくなった。そして次の仕事の待ち合わせに向かため、たくさんの人が行き交う交差点をゆっくりと踏みだした。なんだかいつもよりヒールの音が響いているような気がした。

 三月の卒業式を終えたあと、大樹は神社に立ち寄った。冬の間もリハビリを欠かさなかったことで足に筋力がつき石段もすんなり上れるようになっていた。
(この調子なら、みんなとまたサッカーができるかもしれない)
そんなことを考えながら上りきると、目の前に正装をした一人の女性の後ろ姿が見えた。年は五十歳くらいかーー
 女性は手を合わせ何か熱心にお祈りしていた。村では見かけない人だーーと思い、女性が振り返ったとき、目があってしまうことを考えると怖くなり、思わず杉の木の陰に身を隠した。
 女性は振り返ると周囲を気にしながら、足早に石段を下りていった。
 
 大樹は誰もいなくなったことを確認してから、お賽銭を投げ入れ、祠に手を合わせた。
 東京へ進学することを報告し、両親の健康を祈った。ゆっくりと目を開けて帰ろうとすると境内のわきに白いハンカチが置かれているのが目に留まった。そばに行き拾ってみると、[アタル]とカタカナで刺繍をしたガーゼのハンカチが置かれていた。
 大樹はそれを見て(もしかしてーー)と思い、急いで石段を下りたが、そこにはもう誰もいなかった。
 こんな田舎の村に何のためにやってきたのかーー
(あの人がもしかしたら母親かもしれない……)
 大樹は自分が捨て子だということを忘れかけていたし、石井大樹として生きていこうと決めた自分だったはずなのに心が動揺していることを恥じていた。
(俺のお母さんは、今のお母さんだ。俺には母親は一人だ)
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