1.廃棄物

文字数 1,917文字

 たった1DKの狭い部屋では、タバコの煙が峠の靄のように漂っていた。日に何本。いや、ひと箱、ふた箱は吸う室内は、壁も棚も黄ばみ黒ずんでいる。
「なぁ。俺と居て楽しいか?」
 少し伸び始めた前髪をかき上げ、隣で微睡む女の耳元に問いかけた。臭いが染み付いたベッドの中。女は俺の腕の中で、クスクスと笑いを洩らしている。
「どうしたの? 急に」
 ガラにもなく似合わない事を言うな、とばかりに又クスクスと声を上げる。面倒ごとは御免だとでもいうように、笑うことで誤魔化しているのだろう。後腐れのない関係がよくて互いにこうしているというのに、愚問だった。
成人(しげと)の体は、好きよ」
 女が首筋の当りに唇を押し付ける。
 どうして急にそんな事を口走ったのか。この現状を、心の底では納得していないからだろうか。当り障りなく、後腐れなく。面倒ごとが起きる予感がすれば、逃げ出し。何もなかった顔をして過ごしてきた。
 期待をしているわけでも、希望を見出したいわけでもない。そんなものは諦め、とっくに捨てた。そう頭では理解していても、心ってやつは自由気ままで、頭で考えることを拒否しやがる。それが人間だし、仕方ないとも思うが、女々しい自分は殴り倒したくなるものだ。
 マイナス思考に引きずられそうになり、別のどうでもいいことに思考を飛ばした。
 薄く煙の漂う室内で、この女を抱くのは、今日で何度目だろう……。
 自分が燻らす紫煙に目を瞬かせ、枕元にある灰皿へともみ消した。柔らかく張りがある肌。自分にはない感触に溺れれば、それほど重要でもないその考えもすぐにやめてしまう。
 くだらなすぎて、そんなことに頭を使うのはダルイ。一度目だろうが二度目だろうが関係ない。快楽に溺れてしまえば、みんな一緒だ。
 女の体が、心をからめとるように吸い付いてくる。体の隅々まで貪り、それでも足りないと絡みついてくる。体を求めながら心を引き離し、もがくように女を抱いた。吐き出した欲求のあとには、心に侵食してきた感情を払い除けたくて、空しさと共に僅かな憤りが湧き上がる。
 気のせいだ。心なんて、無視した関係だろう。体が繋がったからといって、心までは繋がらない。ただ、溺れていく。それだけだ。
 抱いた後に言い聞かせるのはなぜだ。溺れてしまえばいいなど、背を向ける格好の理由だとわかっているからか。
 黄ばみ汚れた壁。閉め切り、光の差し込まない窓。いつだったか、誰だったか。記憶の隅で薄れかけている、名前も思い出せない女が着けていった藍のカーテン。今はくすみ、俺の心と同化している。
 生活感の少しも無いこの部屋にあるのは、昔々に無い金はたいて買った大切なギターが一本と。通り過ぎて行った女たちが、笑顔とともにあてがっていったギターが数本。
 それと、誰にも触れさせることのない、大切なギターが一本……。
 大切な。口の形だけでそう呟いて、鼻白む。大切なんて、口だけならどうだって言える。本当に大切なら、こんな所でこんな風に生きているのはおかしいだろう。自分の不甲斐なさが可笑しすぎて、クツクツと笑いを漏らすと女が不思議そうな顔をした。
 タバコの吸殻と、ビールの空き缶がテーブルや床に転がっている。あまり効き目の無い黄ばんだ換気扇がカタカタと回り、外へとほんの少しここの煙を放出している。ほんの少しの現実を残して。
「次のライヴって、いつ?」
 女は、ベッドの中で蠢きながら訊ねた。その手が飽きることなく、再び下半身へと伸び添えられた。
 まるで欲望だけの塊だ。悪くないが、過去に惑わされている今は望んでいない。
 ライヴの予定は、とうに決まっていた。けれど、教えるつもりはないし、女もそれほどそのことを重要視していない。ただ、訊ねてみた。そんな感じだ。
 応えずに下半身へと伸びた手を引き放して床に足を下ろすと、不満そうな顔を向けてくるから一瞥だけすると、諦めたようにポスッと空気の抜けたような音を立ててベッドの中で寝がえりを打っている。女に背を向け、薄明かりの中、タバコの箱に手をのばしたが中身は空だった。さっき揉み消した一本で最後だったと舌打ちをする。
 空の箱をクシャリと握りつぶし、ゴミ箱付近に放り投げれば、散乱するほかの廃棄物に紛れてしまった。
「掃除しないの?」
 女は気だるそうに上半身を起こし、裸体のまま大きく両手を天井へと突き上げた。声を出して、伸びたあとふうっ。と息を吐きドサリとまたベッドへ倒れこむ。
 どうでもいい。きっと、他の女が片付ける。
 だから、どうでもいい。
 廃棄物の山に埋もれたって、俺の存在自体がゴミのようなものだ……。
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