4.受け入れてくれたメンバー
文字数 5,745文字
歪むアイツの顔から逃げるように、路上でしばらく歌い続けていたある日のことだった。客は素通りしていくか。時折、開きっぱなしにしているギターのハードケースへと小銭を投げ入れていく。アイツと出会った頃の、生き生きとした歌声も、魂を込めたようなギターの音色もない今は、希薄な街の姿は丁度よく。闇に飲まれるほどでもない、ほんのちょっとの生命感を与えられているようで、息をしていてもいいんだと思わせてくれた。
張り上げるほどでも、聴かせるほど心を込めるでもなく、シンプルでいてスローな曲をギターに合わせて歌っていた。歌詞に込めた願いなど、きっとこの街では届くこともないと高をくくるように、座り込んだ地面を見たり、時折目を閉じ歌い続けていた。客の反応など、端から期待などしていなかったんだ。
「いい声してるな」
突如、頭上から降ってきた声に息が止まった。そもそも、声をかけられるなど微塵も思っていなかったところにこの言葉だ。驚きにギターを弾く手が止まり、閉じていた目を見開いた。
以前も似たようなシチュエーションがあったことが鮮明に蘇り、目の前に立つ人物を見上げる。
ジーンズにジャラジャラとレトロなアクセサリーをつけた男が、タバコをふかしながら目の前に立っていた。座り込みギターを弾いていた俺は、そいつの顔を見ようと目を凝らした。けど、後ろにある街灯が、そいつの顔に影を落として邪魔をする。
まさか、アイツが……。
ありえない現実に心臓が苦しくなっていく。必死に目を細め、目の前に立つ男の顔に目を凝らしてみても、夜の闇で強く存在を主張する街頭の灯りは視界を邪魔する。
「ギターは、へたくそだな」
あいつの声じゃないという当然の違いに気づくこともなく、同じ台詞に心臓が大きな衝撃に破裂しそうになった。冗談のようにして笑う目の前のやつに、言葉がひとつも出てこない。確認できるのは、浮き上がる白い歯だけ。
本当にアイツが――――。
アイツが、俺の前に姿を現した――――!?
そんなはずないと心の奥底では理解していても、抱えていたギターをコンクリートに投げ出し、勢いよく立ち上がった。
立ち上がったことではっきり見えた顔は、案の定、まったくの別人だった。途端に、体中から気力を奪われていくように力が抜けていった。破裂しそうに肥大した心臓は一気に萎み、アップダウンの激しさに眩暈さえ起こりそうだった。
俺の感情になど気づきもしない男は、誘いのセリフを投げかけてきた。
「少し前にバンドが解散して、一緒にやる奴探してたんだ。俺、ドラムなんだけど。あんた、俺と組まないか?」
これが、瞭との出会いだった。
いいとも悪いとも、何一つ返事などしていないのに、瞭は当然のように右手を差し出してきた。躊躇いなく伸ばされたごつい手を、どうしてだか戸惑うことなく握り返していた。
アイツの姿が重なったせいかもしれない。同じ言葉を吐いたやつに、何の根拠もない信頼が芽生えたのかもしれない。理由などすべて後付けで、単にここから引き上げてくれる手を求めていたのかもしれない。
握り返してきた瞭の握手は、力強く。ずっとフラフラしてきた心と体に、添え木をされたようだった。歩くにはまだ覚束ないけれど、差し伸べられた手を握ることで、前に進む勇気をもらったような気がした。瞭という支えに体を預け、暗闇の汚い地べたから俺はようやく立ち上がることができたんだ。
それから数日後。瞭から連絡が入り、行った事のない練習スタジオで落ち合う事になった使い慣れたギターを一本抱え、練習スタジオに向かった。建物の出入り口に備え付けられた灰皿の傍には、紫煙を吐き出した瞭が眼を細めて立っていた。瞭がタバコを吸い終わるのを待ち、促されてスタジオ内に踏み込んだ。中に入ると、椅子に腰かけベースを抱えている、やたらと笑顔を浮かべたガリガリの男がいた。
「こいつ、省吾。ギターとドラムだけじゃ、さまにならないだろ? 頭は緩いが腕はいいから」
皮肉に片方の口角を上げつつも、腕は保証すると紹介された省吾が、子供のように不満げな顔をする。
「ちょっとーっ。緩いってなんだよぉ、瞭っ」
瞭へ不満をぶつけた省吾は、椅子から立ち上がりスタンドにベースを立てかけると、ドアの傍に立ったままの俺に近づいてきた。
「俺、省吾。よろしくっ」
人懐っこい笑顔を浮かべて、瞭と同じようにして手を差し出してくる。瞭同様、何の躊躇いもなく伸ばされた省吾の手を握った。瞭という添え木を手にし、まだ覚束ない足取りだった体に光がさす。眩しすぎる二人に囲まれると、ついこの前まで暗闇の中にいたことが幻だったようにさえ思えてきた。 前に進める。同じサークルの中を俯きグルグルと徘徊してきた自分を解放し、どこまでも光に向かって走っていける。そんな気さえしたした。
瞭は、俺より二つ上で頼りがいのある男だ。まともな職にもつかず、二十九歳になってもこうやって音楽を続けているが、実はいい大学出のボンボンらしい。プチブルジョワだ。
レトロな玩具が大好きで、省吾の話じゃ、実家にはマニアックな玩具だけが収まっている瞭専用の部屋があるとか。
俺より二つ下の省吾は、瞭とはライヴの対バンで知り合いになったらしい。どちらも、自分たちのバンドがうまくいってなかったらしく、同時期に解散。その後、二人で組みギターとヴォーカルを探していたらしい。そうして、瞭が俺を見つけてくれた。
頭の緩い、能天気な省吾だが、奴のリズム感はかなりのもので、瞭もその辺は一目置いている。
省吾の挨拶が終わると、瞭に俺の作った曲を聴かせて欲しいと促された。
知り合いなど誰もいない路上で思うままにギターを弾き歌っていたのとは違い、音楽を生業にしている二人に聴かせるということが、僅かな緊張感をうませた。
抱えてきたギターを取り出し、念入りにチューニングをする。声を出し、調子を整え、ここのところ路上で弾き語っていた二、三曲を二人に聴かせた。
目を閉じ、腕を組み。瞭が、耳と体で音を聴く。同じように省吾も目を閉じ、体でリズムを刻み、奏でられる音楽に聴き入っていた。
歌い初めに感じていた僅かな緊張感は、ギターを抱えて声を出した瞬間、どこかへ消えていた。ただ、心地よく。自分の音を二人に届けたいと、それだけを思っていた。
歌い終わった後、数秒の間が空く。消えたはずのわずかな緊張感が、この間の中で再び徐々に顔を出し始めた。言葉がないということが、こんなにも不安になるんだと初めて知った。
「青葉君の曲って、いいねぇ~」
緊張感を一瞬で破り、省吾が明るい声を出した。反応があったことにほっとしたというよりも、瞭も省吾もすぐさま楽器を手にして動き出そうとしたことに驚き目が点になる。
ギターを抱えたまま固まっていると、瞭がふっと力を抜いた笑みを漏らす。
「合わせるぞ」
さっきまでケツのポケットに差し込まれていたスティックがクルクルと軽快に回し、瞭はドラムの調整を始めた。ベースを抱えた省吾は、今きかせた曲のリズムに乗るようにチューニングをする。
特に打ち合わせもないまま、三人で曲をあわせていった。初めて聴いた曲だというのに、二人の対応能力やリズム感やセンスは申し分なく。いきなりジャムったわりに息が合い、鳥肌が立った。
こんな奇跡のような演奏が起こるなんて、驚きを通り越し感嘆したくらいだ。
二人の耳がいいだけじゃない、音に関する感性が鋭いんだ。一度聴いた曲をすぐに覚え、完璧に歌ってしまうという歌手が昔いたことを思い出した。あれこれ音の指図をしなくても、二人の耳は完ぺきに俺の曲をそれぞれの楽器で表現してくれる。
「最高~」
弾き終わった後、少しの緊張感もない間延びした省吾の言い方にどっと力が抜けて、思わず笑いがこぼれた。瞭は、省吾の態度はいつものことだとでもいうように、ニヒルな笑みを浮かべている。自分の曲を認めてくれる目の前の二人に心は踊り、久しぶりに声を出して笑うことができた。
その夜。バンド結成を祝して、俺たちは安い居酒屋へと足を運んでいた。やたらと泡の多いビールを次々と空け、アルコールの波に酔う。
瞭は、今までやってきた自分たちの音楽について力説し、省吾はバカみたいな冗談を言い続け、俺は二人の会話に笑い声を上げていた。抜け出すことができずにいた闇など、どこにも見当たらないとでもいうように声を上げて笑っていたんだ。
ただひとつ。二人には、断っておかなくてはいけないことがあった。それ次第では、この結成祝賀会もないものになるだろう。
しばらくし、省吾が便所と言って席をはずしたのを機に、まずは瞭へと話すことにした。
これを言ったら、瞭はバンドの話はやはりなかったことにしたいと断るかもしれない。せっかく出会った気の合いそうな二人だが、そうなったらそれも仕方ない。俺のわがままで、二人の未来を潰すことはできない。
覚悟を決めて、口を開く。
「瞭。俺……、メジャーになる気は、ないんだ」
さっきまで酔って更に細くしていた瞭の目が、大きく見開いた。
当然の反応だろう。瞭にしてみれば、お遊びだけでバンドだけを続けていける年齢じゃない。定職にも就かずに、ずっとアマチュアのままでいいなんて、誰も思っているはずがない。
酔っていた表情は、あっという間に冷静になり、俺が話す次の言葉をじっと待っている。
「インディーズで売れていくのは、構わない。けど、メディアには露出したくない」
俯き加減に話す言葉を聞いてから、瞭はタバコを取り出し黙って火をつけた。煙をゆっくりと吐き出し、目の前が僅か数秒の間靄に包まれる。
沈黙が降りる。店内は、ざわついているのに、ここだけが防音の利いた透明な四角いケースにでも入れられたように、静まり返っていた。
「路上であんな風に弾き語っている時点で、勘の良さそうな瞭だから気づいているかもしれないが、メジャーになって表舞台に立つのは、避けたい」
何を思っているのか。言葉のない瞭からは、何も伝わってこない。意気揚々とこんなところへ飲みに来る前に、何故話さなかったんだと怒りに心を震わせているのだろうか。
散々飲んでいい気分にさせておいて、今更落とすなんてやり方をしたんだ、ここで殴られたとしても文句は言えないな。
沈黙の時間は、五分だったのかもしれないし。ほんの数十秒のことだったのかもしれないが、気まずい時間はやたらと長く思えた。
瞭にしてみれば、やっと見つけた一緒に夢を目指す仲間が、メジャーにはなりたくない、なんて言い出していい迷惑だろう。
省吾にしたってそうだ。こんな年齢にもなって、じゃあ何を目標に音楽をしていくつもりなんだ、と言われるかもしれない。
音楽をやっているやつが、メジャーを夢見ないなんてことはない。寧ろ、それを目標に活動していくのが普通だ。なのに、今更こんな告白されるなんて、裏切りだよな。
今すぐにでも見切りをつけて、新たなメンバー探しに時間を費やした方が能率的だろう。
沈黙か続き、瞭の煙草は灰を長くしていった。バンドは無理かもしれないな、そう諦めかけたころ、瞭がたった一口吸っただけのタバコを、目の前にある灰皿へとゆっくりもみ消した。
「……わかった。その条件のむよ」
「え……」
正直驚いた。まさか、承諾してもらえるとは思っていなかった。
一緒にやる事をほぼ諦めかけていたというのに、瞭は迷いのない目で俺を見てくる。
「いいのか」
僅かに声を上ずらせて訊ねる俺を見据える瞭の目は、迷いなど見えない。理由もなくメジャーになりたくないなんて、突拍子もない我儘な言い分に一言も言い返してこないなんてどうかしているとさえ思った。メジャーを嫌がる理由さえ、瞭は訊ねてこなかった。
そうは思っても、内心ではほっとしていた。断られなかったことももちろんだが、できればその理由を今はまだ話したくない。アイツとの事を人に話せるほど、俺はまだ立ち直っていないから……。
何も訊ねてこない、余計な事は一切言わない瞭に、俺は都合よくも安堵し強張った表情から力を抜くことができた。
「メジャーにならなくても、売れてる奴らはいる」
もみ消したタバコを見つめたまま、瞭が淡々と話す。
「別に構わないさ。それに、俺たちが勝手にお前の声と作る曲に惹かれてやってきただけだ。成人がメジャーになることを望まないのなら、それでいい。ただ、だからと言って手加減したら許さねぇ。アマチュアだろうが何だろうが、俺はお前の声をそこら中にいる奴ら全部に聴かせたい。それだけ」
理由を話さない無茶な俺の言い分を、瞭はそう言って了承してくれた。まるで俺が抱えてきた暗い闇の部分をすべて理解でもしているような瞳は、大きな心で迎えてくれている気がして感謝してもしきれない。こんな俺の声をそこまで買ってくれていることにも、言葉にならない感謝の念でいっぱいになっていた。
「ごめん」
頭を下げると、ふっと笑われた。
「メンバーに、頭なんか下げんなよ。言うなら、ありがとうだな」
細い目を僅かにたらし、空になった俺のグラスにビールを注ぐと、自分のグラスにもビールを注ぎ足し一気に飲み干した。
「インディーズで飛ばすぞ」
「ああ。ありがとう、瞭」
瞭はクゥーッと炭酸に口元を歪め、袖口で泡を拭き取っている。便所の方からは、省吾が鼻歌を歌っている声が近づいてきていた。
「バンドー、バンドー。最強ばんどぉ~」
陽気に節をつけた、でたらめな歌に二人で笑みを浮かべた。
「省吾には、俺から話しておく。頭は緩いが……まぁ、なんとかうまく話してみるさ」
トンと肩に置かれた瞭の手は、心強く。
「さんきゅ」
礼の言葉を小さくつぶやき、注がれたビールを一気に飲み干すと、胸の奥が熱くなっていった。
この日から、音楽のセンスには文句のつけようのないこの二人と、バンド「Valletta(ヴァレッタ)」を組む事になった。
張り上げるほどでも、聴かせるほど心を込めるでもなく、シンプルでいてスローな曲をギターに合わせて歌っていた。歌詞に込めた願いなど、きっとこの街では届くこともないと高をくくるように、座り込んだ地面を見たり、時折目を閉じ歌い続けていた。客の反応など、端から期待などしていなかったんだ。
「いい声してるな」
突如、頭上から降ってきた声に息が止まった。そもそも、声をかけられるなど微塵も思っていなかったところにこの言葉だ。驚きにギターを弾く手が止まり、閉じていた目を見開いた。
以前も似たようなシチュエーションがあったことが鮮明に蘇り、目の前に立つ人物を見上げる。
ジーンズにジャラジャラとレトロなアクセサリーをつけた男が、タバコをふかしながら目の前に立っていた。座り込みギターを弾いていた俺は、そいつの顔を見ようと目を凝らした。けど、後ろにある街灯が、そいつの顔に影を落として邪魔をする。
まさか、アイツが……。
ありえない現実に心臓が苦しくなっていく。必死に目を細め、目の前に立つ男の顔に目を凝らしてみても、夜の闇で強く存在を主張する街頭の灯りは視界を邪魔する。
「ギターは、へたくそだな」
あいつの声じゃないという当然の違いに気づくこともなく、同じ台詞に心臓が大きな衝撃に破裂しそうになった。冗談のようにして笑う目の前のやつに、言葉がひとつも出てこない。確認できるのは、浮き上がる白い歯だけ。
本当にアイツが――――。
アイツが、俺の前に姿を現した――――!?
そんなはずないと心の奥底では理解していても、抱えていたギターをコンクリートに投げ出し、勢いよく立ち上がった。
立ち上がったことではっきり見えた顔は、案の定、まったくの別人だった。途端に、体中から気力を奪われていくように力が抜けていった。破裂しそうに肥大した心臓は一気に萎み、アップダウンの激しさに眩暈さえ起こりそうだった。
俺の感情になど気づきもしない男は、誘いのセリフを投げかけてきた。
「少し前にバンドが解散して、一緒にやる奴探してたんだ。俺、ドラムなんだけど。あんた、俺と組まないか?」
これが、瞭との出会いだった。
いいとも悪いとも、何一つ返事などしていないのに、瞭は当然のように右手を差し出してきた。躊躇いなく伸ばされたごつい手を、どうしてだか戸惑うことなく握り返していた。
アイツの姿が重なったせいかもしれない。同じ言葉を吐いたやつに、何の根拠もない信頼が芽生えたのかもしれない。理由などすべて後付けで、単にここから引き上げてくれる手を求めていたのかもしれない。
握り返してきた瞭の握手は、力強く。ずっとフラフラしてきた心と体に、添え木をされたようだった。歩くにはまだ覚束ないけれど、差し伸べられた手を握ることで、前に進む勇気をもらったような気がした。瞭という支えに体を預け、暗闇の汚い地べたから俺はようやく立ち上がることができたんだ。
それから数日後。瞭から連絡が入り、行った事のない練習スタジオで落ち合う事になった使い慣れたギターを一本抱え、練習スタジオに向かった。建物の出入り口に備え付けられた灰皿の傍には、紫煙を吐き出した瞭が眼を細めて立っていた。瞭がタバコを吸い終わるのを待ち、促されてスタジオ内に踏み込んだ。中に入ると、椅子に腰かけベースを抱えている、やたらと笑顔を浮かべたガリガリの男がいた。
「こいつ、省吾。ギターとドラムだけじゃ、さまにならないだろ? 頭は緩いが腕はいいから」
皮肉に片方の口角を上げつつも、腕は保証すると紹介された省吾が、子供のように不満げな顔をする。
「ちょっとーっ。緩いってなんだよぉ、瞭っ」
瞭へ不満をぶつけた省吾は、椅子から立ち上がりスタンドにベースを立てかけると、ドアの傍に立ったままの俺に近づいてきた。
「俺、省吾。よろしくっ」
人懐っこい笑顔を浮かべて、瞭と同じようにして手を差し出してくる。瞭同様、何の躊躇いもなく伸ばされた省吾の手を握った。瞭という添え木を手にし、まだ覚束ない足取りだった体に光がさす。眩しすぎる二人に囲まれると、ついこの前まで暗闇の中にいたことが幻だったようにさえ思えてきた。 前に進める。同じサークルの中を俯きグルグルと徘徊してきた自分を解放し、どこまでも光に向かって走っていける。そんな気さえしたした。
瞭は、俺より二つ上で頼りがいのある男だ。まともな職にもつかず、二十九歳になってもこうやって音楽を続けているが、実はいい大学出のボンボンらしい。プチブルジョワだ。
レトロな玩具が大好きで、省吾の話じゃ、実家にはマニアックな玩具だけが収まっている瞭専用の部屋があるとか。
俺より二つ下の省吾は、瞭とはライヴの対バンで知り合いになったらしい。どちらも、自分たちのバンドがうまくいってなかったらしく、同時期に解散。その後、二人で組みギターとヴォーカルを探していたらしい。そうして、瞭が俺を見つけてくれた。
頭の緩い、能天気な省吾だが、奴のリズム感はかなりのもので、瞭もその辺は一目置いている。
省吾の挨拶が終わると、瞭に俺の作った曲を聴かせて欲しいと促された。
知り合いなど誰もいない路上で思うままにギターを弾き歌っていたのとは違い、音楽を生業にしている二人に聴かせるということが、僅かな緊張感をうませた。
抱えてきたギターを取り出し、念入りにチューニングをする。声を出し、調子を整え、ここのところ路上で弾き語っていた二、三曲を二人に聴かせた。
目を閉じ、腕を組み。瞭が、耳と体で音を聴く。同じように省吾も目を閉じ、体でリズムを刻み、奏でられる音楽に聴き入っていた。
歌い初めに感じていた僅かな緊張感は、ギターを抱えて声を出した瞬間、どこかへ消えていた。ただ、心地よく。自分の音を二人に届けたいと、それだけを思っていた。
歌い終わった後、数秒の間が空く。消えたはずのわずかな緊張感が、この間の中で再び徐々に顔を出し始めた。言葉がないということが、こんなにも不安になるんだと初めて知った。
「青葉君の曲って、いいねぇ~」
緊張感を一瞬で破り、省吾が明るい声を出した。反応があったことにほっとしたというよりも、瞭も省吾もすぐさま楽器を手にして動き出そうとしたことに驚き目が点になる。
ギターを抱えたまま固まっていると、瞭がふっと力を抜いた笑みを漏らす。
「合わせるぞ」
さっきまでケツのポケットに差し込まれていたスティックがクルクルと軽快に回し、瞭はドラムの調整を始めた。ベースを抱えた省吾は、今きかせた曲のリズムに乗るようにチューニングをする。
特に打ち合わせもないまま、三人で曲をあわせていった。初めて聴いた曲だというのに、二人の対応能力やリズム感やセンスは申し分なく。いきなりジャムったわりに息が合い、鳥肌が立った。
こんな奇跡のような演奏が起こるなんて、驚きを通り越し感嘆したくらいだ。
二人の耳がいいだけじゃない、音に関する感性が鋭いんだ。一度聴いた曲をすぐに覚え、完璧に歌ってしまうという歌手が昔いたことを思い出した。あれこれ音の指図をしなくても、二人の耳は完ぺきに俺の曲をそれぞれの楽器で表現してくれる。
「最高~」
弾き終わった後、少しの緊張感もない間延びした省吾の言い方にどっと力が抜けて、思わず笑いがこぼれた。瞭は、省吾の態度はいつものことだとでもいうように、ニヒルな笑みを浮かべている。自分の曲を認めてくれる目の前の二人に心は踊り、久しぶりに声を出して笑うことができた。
その夜。バンド結成を祝して、俺たちは安い居酒屋へと足を運んでいた。やたらと泡の多いビールを次々と空け、アルコールの波に酔う。
瞭は、今までやってきた自分たちの音楽について力説し、省吾はバカみたいな冗談を言い続け、俺は二人の会話に笑い声を上げていた。抜け出すことができずにいた闇など、どこにも見当たらないとでもいうように声を上げて笑っていたんだ。
ただひとつ。二人には、断っておかなくてはいけないことがあった。それ次第では、この結成祝賀会もないものになるだろう。
しばらくし、省吾が便所と言って席をはずしたのを機に、まずは瞭へと話すことにした。
これを言ったら、瞭はバンドの話はやはりなかったことにしたいと断るかもしれない。せっかく出会った気の合いそうな二人だが、そうなったらそれも仕方ない。俺のわがままで、二人の未来を潰すことはできない。
覚悟を決めて、口を開く。
「瞭。俺……、メジャーになる気は、ないんだ」
さっきまで酔って更に細くしていた瞭の目が、大きく見開いた。
当然の反応だろう。瞭にしてみれば、お遊びだけでバンドだけを続けていける年齢じゃない。定職にも就かずに、ずっとアマチュアのままでいいなんて、誰も思っているはずがない。
酔っていた表情は、あっという間に冷静になり、俺が話す次の言葉をじっと待っている。
「インディーズで売れていくのは、構わない。けど、メディアには露出したくない」
俯き加減に話す言葉を聞いてから、瞭はタバコを取り出し黙って火をつけた。煙をゆっくりと吐き出し、目の前が僅か数秒の間靄に包まれる。
沈黙が降りる。店内は、ざわついているのに、ここだけが防音の利いた透明な四角いケースにでも入れられたように、静まり返っていた。
「路上であんな風に弾き語っている時点で、勘の良さそうな瞭だから気づいているかもしれないが、メジャーになって表舞台に立つのは、避けたい」
何を思っているのか。言葉のない瞭からは、何も伝わってこない。意気揚々とこんなところへ飲みに来る前に、何故話さなかったんだと怒りに心を震わせているのだろうか。
散々飲んでいい気分にさせておいて、今更落とすなんてやり方をしたんだ、ここで殴られたとしても文句は言えないな。
沈黙の時間は、五分だったのかもしれないし。ほんの数十秒のことだったのかもしれないが、気まずい時間はやたらと長く思えた。
瞭にしてみれば、やっと見つけた一緒に夢を目指す仲間が、メジャーにはなりたくない、なんて言い出していい迷惑だろう。
省吾にしたってそうだ。こんな年齢にもなって、じゃあ何を目標に音楽をしていくつもりなんだ、と言われるかもしれない。
音楽をやっているやつが、メジャーを夢見ないなんてことはない。寧ろ、それを目標に活動していくのが普通だ。なのに、今更こんな告白されるなんて、裏切りだよな。
今すぐにでも見切りをつけて、新たなメンバー探しに時間を費やした方が能率的だろう。
沈黙か続き、瞭の煙草は灰を長くしていった。バンドは無理かもしれないな、そう諦めかけたころ、瞭がたった一口吸っただけのタバコを、目の前にある灰皿へとゆっくりもみ消した。
「……わかった。その条件のむよ」
「え……」
正直驚いた。まさか、承諾してもらえるとは思っていなかった。
一緒にやる事をほぼ諦めかけていたというのに、瞭は迷いのない目で俺を見てくる。
「いいのか」
僅かに声を上ずらせて訊ねる俺を見据える瞭の目は、迷いなど見えない。理由もなくメジャーになりたくないなんて、突拍子もない我儘な言い分に一言も言い返してこないなんてどうかしているとさえ思った。メジャーを嫌がる理由さえ、瞭は訊ねてこなかった。
そうは思っても、内心ではほっとしていた。断られなかったことももちろんだが、できればその理由を今はまだ話したくない。アイツとの事を人に話せるほど、俺はまだ立ち直っていないから……。
何も訊ねてこない、余計な事は一切言わない瞭に、俺は都合よくも安堵し強張った表情から力を抜くことができた。
「メジャーにならなくても、売れてる奴らはいる」
もみ消したタバコを見つめたまま、瞭が淡々と話す。
「別に構わないさ。それに、俺たちが勝手にお前の声と作る曲に惹かれてやってきただけだ。成人がメジャーになることを望まないのなら、それでいい。ただ、だからと言って手加減したら許さねぇ。アマチュアだろうが何だろうが、俺はお前の声をそこら中にいる奴ら全部に聴かせたい。それだけ」
理由を話さない無茶な俺の言い分を、瞭はそう言って了承してくれた。まるで俺が抱えてきた暗い闇の部分をすべて理解でもしているような瞳は、大きな心で迎えてくれている気がして感謝してもしきれない。こんな俺の声をそこまで買ってくれていることにも、言葉にならない感謝の念でいっぱいになっていた。
「ごめん」
頭を下げると、ふっと笑われた。
「メンバーに、頭なんか下げんなよ。言うなら、ありがとうだな」
細い目を僅かにたらし、空になった俺のグラスにビールを注ぐと、自分のグラスにもビールを注ぎ足し一気に飲み干した。
「インディーズで飛ばすぞ」
「ああ。ありがとう、瞭」
瞭はクゥーッと炭酸に口元を歪め、袖口で泡を拭き取っている。便所の方からは、省吾が鼻歌を歌っている声が近づいてきていた。
「バンドー、バンドー。最強ばんどぉ~」
陽気に節をつけた、でたらめな歌に二人で笑みを浮かべた。
「省吾には、俺から話しておく。頭は緩いが……まぁ、なんとかうまく話してみるさ」
トンと肩に置かれた瞭の手は、心強く。
「さんきゅ」
礼の言葉を小さくつぶやき、注がれたビールを一気に飲み干すと、胸の奥が熱くなっていった。
この日から、音楽のセンスには文句のつけようのないこの二人と、バンド「Valletta(ヴァレッタ)」を組む事になった。