7.悪夢

エピソード文字数 2,332文字

 何もない暗闇。
 ほんの少しの光さえ差し込まない、無音の空間。
 誰かいないのか?
 誰もいないのか?
 問う自分の声さえ、闇に呑まれて消えていく。
 両手を前に出し、何か触れるものはないかと手探りで進んだ。けれど、触れるものなど全くなく。
 ただ、自分の存在だけ。
 いや、俺自身さえこの場所では不確かな存在……。呼吸する音さえ、闇に吸い込まれて消えてしまう。
 息苦しさに伸ばした手を、首元へ持っていった。けれど、あるはずの首がない。触れるはずの体がない。
 じゃあ、今触れようとしたこの手はなんだっ?!
 いったい、俺は……
 ないはずの体が苦痛を感じる。息苦しさに脂汗が浮く。
 それを拭いたい衝動に駆られた……。
 瞬間――――
 物凄い閃光とともに、何かが俺の前に飛び散った。突然の光に目は開けられるはずもなく。急激に実体を伴い始めた己の体に戸惑った。
 飛び散った何かが、ねっとりと体中を濡らしこびりつく。
 それは、体だけじゃなく顔にも飛散していた。滑る(ぬめる)その液体が気持ち悪く、脂汗とともに手で拭う。
 少しずつ目が光に慣れた頃、拭ったその手に見えたのは紅(あか)。鮮明な紅(あか)。
 真っ赤な鮮血――――。
 うあぁーーーーーっ!

「はぁっ! はぁっ。はぁっ……」
 額に張り付く髪の毛と荒い呼吸。心臓はドクドクと激しく鳴っている。気持ちの悪い汗が、上半身の裸に浮いていて、左側頭部がズキズキと痛んだ。
 荒い呼吸を吐きながら、痛みを持つ頭に手を持っていき、目を瞑った。
 嗅ぎ慣れた臭いに、見慣れた風景。カタカタと役立たずの換気扇だけが、この狭い空間に音を立ててる。
 スプリングが傷み始めたベッドの上で上半身を起こし、頭を抱えながら今見た夢に眩暈がした。
 ……夢。
 そう、今のは……夢だ。
 平穏な日常に不満を抱くように、やつは突然俺の中に現れる。何を生ぬるい生活を送っているんだ。そう嘲笑し、不意を突くように仕掛けてくる。
 安穏とした生活を送れるとでも思っているのか。仲間ができて、気が大きくなっているのか。そんなもの、いくらでも壊してやる。お前のその目の前で、あの時のように一瞬で握りつぶしてやる。
 悪夢のやつはそう言ってでもいるように、いつも突然やってくる。忘れちゃいないだろうな。そう問うように、俺を試すように、抗うこともできないほどの鮮明な映像で脳内を埋め尽くす。
 現実に一度起こった出来事を見せつける。
 けっして、忘れるなと。お前の記憶から、消すなと。
 わかってる。
 わかっている。
 忘れるわけなどない。
 忘れられるわけもない。
 わかっている……。
 痛む頭に顔を顰め、深く息を吐き出した。カタカタと鳴る換気扇の音が耳障りで頭に響く。
 スプリングを軋ませベッドから出たあと、換気扇を乱暴に止めた。強く引いた紐が手から離れると勢いよく跳ね返り、何をするんだとでもいうように何度か抗議的に揺れて静止した。止まった羽の隙間から、僅かな光が差し込んでいる。
 何時だ?
 深夜にギターを抱え、コードを書きなぐったところでベッドに潜り込んだ。
 この部屋に壁掛け時計などという、気の利いたものなどあるはずもなく。腕時計は手錠をはめられているようでしない。時刻を確認するには、ベッドわきに転がるスマホを確認するよりない。
 ベッドを振り返るも、何時かなんて些末なことはどうでもよくなり一瞥してやめた。陽の光が差し込んでいるのだから、朝を迎えたことは確かだろう。
 大して中身の入っていない古びた冷蔵庫の中からペットボトルの水を取り出し、一気に半分ほどまで飲み干した。シンクに背を向けて寄りかかり目を閉じれば、あの時の光景が瞼の裏に映し出される。
 右手に持つペットボトルをきつく握り締め、あの時アイツが感じたはずの苦しみに項垂れた。どんなに想像しようとも、その苦しみは到底わかるものではない。
 どれほどの恐怖だったか。どれほどの痛みだったか。考えても考えても、感じることなどできやしない。歪むアイツの表情だけが、脳裏に焼き付き離れない。
 大きく息を吐き出し、背後のシンクに大袈裟な音を立ててペットボトルを置いた。残った水が、ポチャンッと中で跳ねて揺れる。空いた手でクシャクシャと髪の毛をかき乱し、又項垂れた。
 錆びれた汚いシンクに寄りかかったまま、首を持ち上げ目に触れた室内は、廃棄所以外の何物でもないありさまだ。
 きったねぇ。
 無秩序に散乱したゴミの山。弁当の空き箱に、酒の缶。タバコの吸い殻は、点在する缶の中で溢れ返っていた。ヤニで汚れてしまったテレビ画面や窓ガラス。布団にも臭いや黄ばみが染みつき、元の色がどんなだったか思い出せもしない。
 どんなに汚しても、汚いボロアパートの家主は文句を言ってきたりしない。今にも倒壊しそうなくらい築年数の進んだアパートに住んでくれる住人など、そうそういないからか。はたまた、家主自身の年齢が進み過ぎて、そんなことを気にする頭もないのかもしれない。
 それともこんなひょろりとデカイ、職にもつかないミュージシャンと絡んでしまえば、ろくなことにはならないと理解しているのかもしれない。なんにしろ、俺にとってはありがたい住み心地だ。ギターをかき鳴らそうが、部屋を汚そうが、苦情の一つも来ないのだから。
 だが、流石にこのありさまはねぇな。女でも、呼ぶか。
 廃棄所と化したこの部屋を、快く掃除してくれる女たちの顔をいくつか思い浮かべ、再びゴロリとベッドに倒れ込みスマホを手にした。
 壁際に目をやり、並ぶ楽器や機材だけは丁寧に扱っている自分に嘆息する。
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