21.すり替えていた記憶
文字数 5,626文字
瞭が訪ねてきた翌日。圭のおかげで染みついた規則正しい生活のおかげで、早々に目を覚ましシャワーを浴びた。夏の蒸し暑さを振り切るように、少し冷たいくらいのお湯を浴び、朝から暑いベランダでビールを飲んでいた。半分ほどまで飲んでから、タバコを吸うかどうか迷った末に、圭の顔が浮かんでやめた。
「圭の奴。ちゃんと家に帰って、宿題やってっかな」
錆びた手摺に持たれ、電線に止まるカラスにでも話しかけるようにつぶやいた。親になどなっことはないが、まるで自分の息子を心配するように圭の日常が気になっていた。
たった二日圭がいないだけで、この家の中は物足りなさに溢れていた。二日前から使われることのない、片づけられた食器。部屋の隅に畳まれたままの真新しい布団。タバコの代わりと置いてある三角イチゴ飴は、もうあと少しでなくなってしまう。毎日整えられていたベッドは、布団がグシャリとやる気をなくした形で仕方ないというように毎夜俺の体を受け止める。つい二日前まであった圭の痕跡が徐々に失われていくことに、寂しさを感じずにはいられなかった。
残りのビールを一気に飲み干す。苦みは、心の中にこびりつくように、寂しさを蓄積させていく。飲み切った缶を潰したところで、インターホンが鳴った。
瞭から話を聞いた省吾が訪ねてきたのだろうかと、上半身裸で首にタオルを巻いたままドアスコープを覗く。
「……けい」
ドアの前には、圭が一人佇んでいた。
蓄積していた寂しさが、一瞬で分散していく。焦る気持ちに急かされ、ガチャガチャとやたら音を立てて鍵を外してドアを開けた。
「お前、どうしたの?!」
たった二日で戻ってきた圭に、驚きながらも、明らかに嬉しい表情を浮かべてしまう。
「上がれよ」
浮かれた俺の言葉とは裏腹に、圭は小さな声で、「お邪魔します」と部屋に上がる。顔つきは、出ていった時とはまた違う、険しい顔つきをしていた。
わかり易い圭の硬い表情に気づいても尚、、嬉しさを隠しきれず相好が崩れるのを止められずにいた。
寝床代わりに使わせていたソファへ圭を促し、俺は目の前のベッドに腰かけた。
「どうした?」
いつにもない雰囲気を察知しながらも、声はついつい明るくなり、圭が再びここへ来てくれたことに心は正直すぎる反応を示す。しかし、訊ねられた圭の表情は、益々険しくなっていった。
ここで漸く、緩んでいた俺の顔から笑みが消えた。
事故のことで、まだ責任を感じてるのか? たった二日しか経っていないのだから、ショックを受けたままだとしてもそれは当然の話だろう。
ただ、俺は何度でも言う。圭が気にすることでも、責任を感じることでもない。あれは、記憶に侵されたフラッシュバックによるただの眩暈だ。あの時の事故が忘れられなくて、罪の意識に苛まれ続けている、俺の勝手な被害妄想だ。
あの事故で圭がショックを受け続けたままなら、何度でもお前のせいじゃないと言いたい。
考えていたことを口にしようとすると、圭の方が僅かに早く話し出した。
「成人さん。話があるんです」
改まったように切り出された口調や顔つきに、脳みその隅にある頭の螺子が疼き出す。グラグラと緩んでいくたくさんの螺子を締めなおそうとしても、馬鹿になり緩んだままで、元の土台を変えなければ役に立たず、衝撃で零れ落ちるのを待つだけだ。
ベッドに座ったまま、圭が何を言い出すのかと、恐怖にも似た感情が胸の中へと広がっていった。
圭の表情から、何かを予感していたのかもしれない。落ち着かなくなっていく感情を抑えられず、自分が今どんな顔をしているのかもわからなくなっていく。
「成人さんは、デビューするべきです」
何をどう考えて、急にそんな事を言い出したのか、圭のその表情からだけでは読み取れない。胸の中に広がったものは、秘かに出番を待つようにして、暗闇の中に引きずり込もうと待ち構えている。
圭から視線を逸らし、僅かに天井を仰いだ。ヤニで汚れ黄ばんだ天井が、重く圧し掛かってくるようだ。
瞭に言われたように、圭にも過去の事を聞かせることにした。
「圭、あのな。俺がデビューしないのは、自業自得なんだよ」
「どういうことですか……」
いつになく真剣な顔をして、圭は心を覘きこむように見てくる。表情を崩すことなく、話の続きを黙って待っている。
「この前の事故……」
その言葉に、圭の眉がピクリと上がる。
「あれと同じ事故を、俺は前に一度経験しているんだ。その時、俺は、圭の立場だった。ただ、違ったのは。俺の場合、取り返しのつかない大事になってしまったけどな」
依然圭は、黙って聞いている。
「俺は、アイツが呼び止めるのもきかずに先を行った。アイツって言うのは、俺の兄貴みたいな奴で、同じように音楽の世界で生きていた奴なんだ。誰よりも歌うことが好きで、誰よりも楽しそうにギターを弾くやつだった。俺は、そんなアイツに怪我をさせてしまった。だから、デビューなんて出来ない。しちゃいけないんだ……」
本当なら、音楽さえ続けていていい立場じゃない。なのに、女々しくも縋りつき、未だにこうして生きている。
「だから。圭がデビューしろって言ってくれるのは、嬉しいけど。無理な事なんだ。悪いな……」
少しばかり嘲笑を含んだ笑みが浮いてしまった。自らのどうしようもない感情に縛られ、音を捨てきれないことに表情が自然と反応してしまった。
圭が小さく息を吸った。
「謝る必要なんかないですよ」
圭は俺の目を真っ直ぐ見つめ、きっぱりと言い切った。確信でもしているような、力のこもった言葉と瞳にグッと詰まる。
「やっぱり成人さんは、デビューするべきです」
何をもってしてそんなことを言いだしたのか。まるきり見当もつかないというのに、どうしてか圭の言葉に動揺している自分がいた。
「……圭。今の話、聞いてたろ? 無理なんだよ」
あまりに真っ直ぐなその目と迷うことなく告げられた言葉に、さっきグラグラと緩んだ頭の螺子たちが、今度はギシギシと音を立て始める。その音は錆びついているというより、無理に違う場所にはめ込み、無理やりドライバーで捩じ込まれてでもいるようだった。
「成人さんは、勘違いしてる」
勘違い……。何を勘違いしているって言うんだ。
疑問に思うも、問い返す声が出てこない。
「僕、全部知ってるんです。本当は、初めから全部知ってたんです」
圭の顔が歪んだ。不安そうに、悲しそうに歪んだ。唇を噛みしめ、膝の上で握っていた拳がぎゅっと硬くなっている。
「何……言ってんだよ……。一体、何を知ってるっていうんだよ」
問いただす声が震え、苦笑いが浮かぶ。さっきから疼いている頭の中の螺子が、今にもボロボロと外れて落ちてしまいそうだ。
圭は苦しそうに一度息を吐き、悲し気に口を開いた。
「成人さんが、昔経験した事故のこと。そして、その相手……。アイツが誰かってことも」
っ――――!?
あまりの衝撃に、圭が今言ったことを消化できず、ただただ驚愕していた。頭の中かうまく整理できない。
圭は一体何のことを言っているんだ。どうして圭が事故のことを知ってるんだ。どうして、アイツのことを知ってるなんて言うだ。
初めからこちらの反応を予期していたように、どんなに動揺しようとも圭の表情は何一つ変わらない。そうして、冷静なまま話の続きをする。
「成人さんは、自分で自分を追い込んでるんです。真実から目を逸らして、記憶をすり替えているんです」
「しん……じつ……」
グラグラする脳の中で、既に螺子ははずれ始めていた。一本また一本とはずれ、零れ落ち、中に埋め込まれているものを曝け出そうとしている。
「成人さんがアイツと呼んでる人が音楽をやめたのは、寧ろ成人さんに申し訳なくてなんですよ」
「……何言ってんだよ。圭、なんでアイツが俺に申し訳ないなんて思うんだよ」
圭は、悲しそうに表情を曇らせた。けれど、悲しい顔をしているのは、俺の方なのかもしれない。
圭によって語られる真実というやつに、記憶や心が反応していた。
「左側に人がいると、どうして居心地が悪いのか。その理由、僕わかりますよ」
圭が俺の左耳の当りを見る。その視線に恐怖を感じるのはどうしてだ。
「……理由なんて。これは別に、ただなんとなく……」
しどろもどろで、何の説明もできない言い訳が、ポロリポロリと口から零れる。左耳に向けられていた圭の視線は、グッと瞳を見据えてくる。
やめてくれ。そんな目で俺を見ないでくれ。頼む、圭。頼む……。
「なんとなくなんかじゃないです。理由がちゃんとあるんです。理由が――――」
珍しく声を荒げた圭に引き摺られるように、反論する声が荒んでいく。
「理由って。んなもん、ねぇよ……」
子供のように拗ねることしかできない。まともな反論もできない。なのに、それ以上は何も言ってくれるなと心が拒絶している。
「成人さん、お願いです。逃げないでください。ちゃんと、思い出してください。お願いです」
圭は、今にも泣きだしそうになりながら、必死に訴えかけてくる。涙を堪え、唇をキュッと結ぶ表情は、心を抉っていくようだ。
逃げるってなんだよ。一体、何を言いたいんだよ。さっぱりわからねぇよ。
身に憶えのないことのはずなのに、顔はどんどん引き攣り、圭の口から漏れた言葉一つ一つに恐怖を感じていた。それ以上、もう何も言わないでくれと、逃げ出したくてたまらなかった。
「怪我をしたのは、アイツじゃない。成人さんの方です」
「……は? 圭、何言ってんだよ。俺は、怪我なんて」
突拍子もない発言に戸惑っていようが圭は端から無視で、断定した物言いを曲げる気はない。
「庇ったのは、成人さんの方ですよ」
尚も続ける言葉に、眩暈を覚える。
「なに……、言って――――」
けれど、その言葉にまたあの映像が甦る。
倒れている俺とアイツが入れ替わる。血まみれになった俺を、アイツが泣きそうな顔をして見ている。
俺じゃなく、アイツが――――……。
「うそ……だ……」
「成人さん……」
「そんなの、嘘だ……。アイツに怪我をさせたのは、俺だよ……。アイツから音を奪ったのは、俺なんだよ……」
声が震えていた。口から搾り出した言葉に、体は否応なく反応を示す。
「じゃあ、その左耳」
「耳……」
「聴こえていないのは、どうしてですか?」
「聴こえてるよ。ちゃんと、聴こえてる……」
圭の言葉に、頭を抱えてうつむいた。突きつけられた真実を、必死で否定しようとした。
「気付かないフリしないでください。成人さんは、ちゃんとわかっているはずです。その耳が聴こえていない事、わかっているはずです――――」
グラついていた螺子は、当に総てはずれてしまい、曝け出された記憶に吐き気がした。
頭が混乱していく。アイツが倒れている姿と、自分が倒れている姿が、何度も何度も入れ替わる。
「全部、成人さんの幻想です」
圭は、溜息と共にそう言った。
「成人さんが慕っていた、アイツ。そのアイツが、事故の後成人さんの前から突然消えちゃった事がショックだったんでしょ? 絶対に自分一人を置いていなくなる筈なんかないって。あんなに大事にしてくれて、憧れていたアイツがいなくなったことが、ショックだったんでしょ? 成人さんの耳が聴こえなくなった事で、アイツを追い込んで苦しめてしまったって、思ってるんでしょ?」
「嘘だ」
なに言ってんだよ……。
そんなの、違う……。違う。
体がガクガクと震えだす。過呼吸気味の息遣いと、クラクラする視界。足元も目の前にいる圭も、歪んで、ぶれて、霞んでいく。
「成人さんっ。しっかりしてください。逃げないでください。ちゃんと、真実を受け入れてください。お願いしますよ、成人さん……」
最後の方は、半泣きで縋るようにしてくる。
堪えるような圭の泣き声がグワングワンと音を立て、脳を容赦なく揺さぶった。
こんな状態になっても、その真実とかいうやつをすぐには受け入れられないのに、頭の中では確実に記憶は反応していて、曖昧だった映像も鮮明になっていた。
それでもその映像を否定しようと、心がもがいている。受け入れたくないと、記憶をまた捻じ曲げようとしている。
「少し……。一人に……してくれないか」
震える声が口から零れた。
あれほど戻ってくる事を待ち望んでいた圭を、遠ざけたくて堪らなかった。このまま、圭の言葉を聞き続けている自信がなかった。
未だ受け入れられず、過去や真実に向き合うことができない俺のそばを離れ、圭は何も言わずに立ち上がり、玄関へと向かう。
圭の気配が遠のくのを感じながら、項垂れたままドアノブが捻られる音を聞いていた。
「成人さん……。アイツは、きっと。成人さんにデビューして欲しいって、思ってるはずです。成人さんを可愛がっていたアイツ。アウトサイダーの頼は、そう思っています」
その言葉を残し、ドアはゆっくり音を立てて閉まった。
圭が訪ねてきたときの高揚感が嘘のように、震えは止まらず、思考が混乱している。
鮮明になった記憶の映像。驚くほどにあの時の事がはっきりと甦り、真実の記憶を固定した。
怪我をしたのは、俺。
アイツを庇ったのは、俺。
アイツは、―――――頼。
靄のかかっていた過去が鮮明になり、アイツとアウトサイダーの頼を同期させた。
アイツというだけで、名前の一つも呼ばなかったのは、重ねることに恐怖を覚え、飲み込んでいたからだった。
呼吸の苦しさと襲う眩暈に耐えていると、耳の奥ではあの日工事現場で降って来た瓦礫の崩れる音がガラガラと鳴り続けていた。
「圭の奴。ちゃんと家に帰って、宿題やってっかな」
錆びた手摺に持たれ、電線に止まるカラスにでも話しかけるようにつぶやいた。親になどなっことはないが、まるで自分の息子を心配するように圭の日常が気になっていた。
たった二日圭がいないだけで、この家の中は物足りなさに溢れていた。二日前から使われることのない、片づけられた食器。部屋の隅に畳まれたままの真新しい布団。タバコの代わりと置いてある三角イチゴ飴は、もうあと少しでなくなってしまう。毎日整えられていたベッドは、布団がグシャリとやる気をなくした形で仕方ないというように毎夜俺の体を受け止める。つい二日前まであった圭の痕跡が徐々に失われていくことに、寂しさを感じずにはいられなかった。
残りのビールを一気に飲み干す。苦みは、心の中にこびりつくように、寂しさを蓄積させていく。飲み切った缶を潰したところで、インターホンが鳴った。
瞭から話を聞いた省吾が訪ねてきたのだろうかと、上半身裸で首にタオルを巻いたままドアスコープを覗く。
「……けい」
ドアの前には、圭が一人佇んでいた。
蓄積していた寂しさが、一瞬で分散していく。焦る気持ちに急かされ、ガチャガチャとやたら音を立てて鍵を外してドアを開けた。
「お前、どうしたの?!」
たった二日で戻ってきた圭に、驚きながらも、明らかに嬉しい表情を浮かべてしまう。
「上がれよ」
浮かれた俺の言葉とは裏腹に、圭は小さな声で、「お邪魔します」と部屋に上がる。顔つきは、出ていった時とはまた違う、険しい顔つきをしていた。
わかり易い圭の硬い表情に気づいても尚、、嬉しさを隠しきれず相好が崩れるのを止められずにいた。
寝床代わりに使わせていたソファへ圭を促し、俺は目の前のベッドに腰かけた。
「どうした?」
いつにもない雰囲気を察知しながらも、声はついつい明るくなり、圭が再びここへ来てくれたことに心は正直すぎる反応を示す。しかし、訊ねられた圭の表情は、益々険しくなっていった。
ここで漸く、緩んでいた俺の顔から笑みが消えた。
事故のことで、まだ責任を感じてるのか? たった二日しか経っていないのだから、ショックを受けたままだとしてもそれは当然の話だろう。
ただ、俺は何度でも言う。圭が気にすることでも、責任を感じることでもない。あれは、記憶に侵されたフラッシュバックによるただの眩暈だ。あの時の事故が忘れられなくて、罪の意識に苛まれ続けている、俺の勝手な被害妄想だ。
あの事故で圭がショックを受け続けたままなら、何度でもお前のせいじゃないと言いたい。
考えていたことを口にしようとすると、圭の方が僅かに早く話し出した。
「成人さん。話があるんです」
改まったように切り出された口調や顔つきに、脳みその隅にある頭の螺子が疼き出す。グラグラと緩んでいくたくさんの螺子を締めなおそうとしても、馬鹿になり緩んだままで、元の土台を変えなければ役に立たず、衝撃で零れ落ちるのを待つだけだ。
ベッドに座ったまま、圭が何を言い出すのかと、恐怖にも似た感情が胸の中へと広がっていった。
圭の表情から、何かを予感していたのかもしれない。落ち着かなくなっていく感情を抑えられず、自分が今どんな顔をしているのかもわからなくなっていく。
「成人さんは、デビューするべきです」
何をどう考えて、急にそんな事を言い出したのか、圭のその表情からだけでは読み取れない。胸の中に広がったものは、秘かに出番を待つようにして、暗闇の中に引きずり込もうと待ち構えている。
圭から視線を逸らし、僅かに天井を仰いだ。ヤニで汚れ黄ばんだ天井が、重く圧し掛かってくるようだ。
瞭に言われたように、圭にも過去の事を聞かせることにした。
「圭、あのな。俺がデビューしないのは、自業自得なんだよ」
「どういうことですか……」
いつになく真剣な顔をして、圭は心を覘きこむように見てくる。表情を崩すことなく、話の続きを黙って待っている。
「この前の事故……」
その言葉に、圭の眉がピクリと上がる。
「あれと同じ事故を、俺は前に一度経験しているんだ。その時、俺は、圭の立場だった。ただ、違ったのは。俺の場合、取り返しのつかない大事になってしまったけどな」
依然圭は、黙って聞いている。
「俺は、アイツが呼び止めるのもきかずに先を行った。アイツって言うのは、俺の兄貴みたいな奴で、同じように音楽の世界で生きていた奴なんだ。誰よりも歌うことが好きで、誰よりも楽しそうにギターを弾くやつだった。俺は、そんなアイツに怪我をさせてしまった。だから、デビューなんて出来ない。しちゃいけないんだ……」
本当なら、音楽さえ続けていていい立場じゃない。なのに、女々しくも縋りつき、未だにこうして生きている。
「だから。圭がデビューしろって言ってくれるのは、嬉しいけど。無理な事なんだ。悪いな……」
少しばかり嘲笑を含んだ笑みが浮いてしまった。自らのどうしようもない感情に縛られ、音を捨てきれないことに表情が自然と反応してしまった。
圭が小さく息を吸った。
「謝る必要なんかないですよ」
圭は俺の目を真っ直ぐ見つめ、きっぱりと言い切った。確信でもしているような、力のこもった言葉と瞳にグッと詰まる。
「やっぱり成人さんは、デビューするべきです」
何をもってしてそんなことを言いだしたのか。まるきり見当もつかないというのに、どうしてか圭の言葉に動揺している自分がいた。
「……圭。今の話、聞いてたろ? 無理なんだよ」
あまりに真っ直ぐなその目と迷うことなく告げられた言葉に、さっきグラグラと緩んだ頭の螺子たちが、今度はギシギシと音を立て始める。その音は錆びついているというより、無理に違う場所にはめ込み、無理やりドライバーで捩じ込まれてでもいるようだった。
「成人さんは、勘違いしてる」
勘違い……。何を勘違いしているって言うんだ。
疑問に思うも、問い返す声が出てこない。
「僕、全部知ってるんです。本当は、初めから全部知ってたんです」
圭の顔が歪んだ。不安そうに、悲しそうに歪んだ。唇を噛みしめ、膝の上で握っていた拳がぎゅっと硬くなっている。
「何……言ってんだよ……。一体、何を知ってるっていうんだよ」
問いただす声が震え、苦笑いが浮かぶ。さっきから疼いている頭の中の螺子が、今にもボロボロと外れて落ちてしまいそうだ。
圭は苦しそうに一度息を吐き、悲し気に口を開いた。
「成人さんが、昔経験した事故のこと。そして、その相手……。アイツが誰かってことも」
っ――――!?
あまりの衝撃に、圭が今言ったことを消化できず、ただただ驚愕していた。頭の中かうまく整理できない。
圭は一体何のことを言っているんだ。どうして圭が事故のことを知ってるんだ。どうして、アイツのことを知ってるなんて言うだ。
初めからこちらの反応を予期していたように、どんなに動揺しようとも圭の表情は何一つ変わらない。そうして、冷静なまま話の続きをする。
「成人さんは、自分で自分を追い込んでるんです。真実から目を逸らして、記憶をすり替えているんです」
「しん……じつ……」
グラグラする脳の中で、既に螺子ははずれ始めていた。一本また一本とはずれ、零れ落ち、中に埋め込まれているものを曝け出そうとしている。
「成人さんがアイツと呼んでる人が音楽をやめたのは、寧ろ成人さんに申し訳なくてなんですよ」
「……何言ってんだよ。圭、なんでアイツが俺に申し訳ないなんて思うんだよ」
圭は、悲しそうに表情を曇らせた。けれど、悲しい顔をしているのは、俺の方なのかもしれない。
圭によって語られる真実というやつに、記憶や心が反応していた。
「左側に人がいると、どうして居心地が悪いのか。その理由、僕わかりますよ」
圭が俺の左耳の当りを見る。その視線に恐怖を感じるのはどうしてだ。
「……理由なんて。これは別に、ただなんとなく……」
しどろもどろで、何の説明もできない言い訳が、ポロリポロリと口から零れる。左耳に向けられていた圭の視線は、グッと瞳を見据えてくる。
やめてくれ。そんな目で俺を見ないでくれ。頼む、圭。頼む……。
「なんとなくなんかじゃないです。理由がちゃんとあるんです。理由が――――」
珍しく声を荒げた圭に引き摺られるように、反論する声が荒んでいく。
「理由って。んなもん、ねぇよ……」
子供のように拗ねることしかできない。まともな反論もできない。なのに、それ以上は何も言ってくれるなと心が拒絶している。
「成人さん、お願いです。逃げないでください。ちゃんと、思い出してください。お願いです」
圭は、今にも泣きだしそうになりながら、必死に訴えかけてくる。涙を堪え、唇をキュッと結ぶ表情は、心を抉っていくようだ。
逃げるってなんだよ。一体、何を言いたいんだよ。さっぱりわからねぇよ。
身に憶えのないことのはずなのに、顔はどんどん引き攣り、圭の口から漏れた言葉一つ一つに恐怖を感じていた。それ以上、もう何も言わないでくれと、逃げ出したくてたまらなかった。
「怪我をしたのは、アイツじゃない。成人さんの方です」
「……は? 圭、何言ってんだよ。俺は、怪我なんて」
突拍子もない発言に戸惑っていようが圭は端から無視で、断定した物言いを曲げる気はない。
「庇ったのは、成人さんの方ですよ」
尚も続ける言葉に、眩暈を覚える。
「なに……、言って――――」
けれど、その言葉にまたあの映像が甦る。
倒れている俺とアイツが入れ替わる。血まみれになった俺を、アイツが泣きそうな顔をして見ている。
俺じゃなく、アイツが――――……。
「うそ……だ……」
「成人さん……」
「そんなの、嘘だ……。アイツに怪我をさせたのは、俺だよ……。アイツから音を奪ったのは、俺なんだよ……」
声が震えていた。口から搾り出した言葉に、体は否応なく反応を示す。
「じゃあ、その左耳」
「耳……」
「聴こえていないのは、どうしてですか?」
「聴こえてるよ。ちゃんと、聴こえてる……」
圭の言葉に、頭を抱えてうつむいた。突きつけられた真実を、必死で否定しようとした。
「気付かないフリしないでください。成人さんは、ちゃんとわかっているはずです。その耳が聴こえていない事、わかっているはずです――――」
グラついていた螺子は、当に総てはずれてしまい、曝け出された記憶に吐き気がした。
頭が混乱していく。アイツが倒れている姿と、自分が倒れている姿が、何度も何度も入れ替わる。
「全部、成人さんの幻想です」
圭は、溜息と共にそう言った。
「成人さんが慕っていた、アイツ。そのアイツが、事故の後成人さんの前から突然消えちゃった事がショックだったんでしょ? 絶対に自分一人を置いていなくなる筈なんかないって。あんなに大事にしてくれて、憧れていたアイツがいなくなったことが、ショックだったんでしょ? 成人さんの耳が聴こえなくなった事で、アイツを追い込んで苦しめてしまったって、思ってるんでしょ?」
「嘘だ」
なに言ってんだよ……。
そんなの、違う……。違う。
体がガクガクと震えだす。過呼吸気味の息遣いと、クラクラする視界。足元も目の前にいる圭も、歪んで、ぶれて、霞んでいく。
「成人さんっ。しっかりしてください。逃げないでください。ちゃんと、真実を受け入れてください。お願いしますよ、成人さん……」
最後の方は、半泣きで縋るようにしてくる。
堪えるような圭の泣き声がグワングワンと音を立て、脳を容赦なく揺さぶった。
こんな状態になっても、その真実とかいうやつをすぐには受け入れられないのに、頭の中では確実に記憶は反応していて、曖昧だった映像も鮮明になっていた。
それでもその映像を否定しようと、心がもがいている。受け入れたくないと、記憶をまた捻じ曲げようとしている。
「少し……。一人に……してくれないか」
震える声が口から零れた。
あれほど戻ってくる事を待ち望んでいた圭を、遠ざけたくて堪らなかった。このまま、圭の言葉を聞き続けている自信がなかった。
未だ受け入れられず、過去や真実に向き合うことができない俺のそばを離れ、圭は何も言わずに立ち上がり、玄関へと向かう。
圭の気配が遠のくのを感じながら、項垂れたままドアノブが捻られる音を聞いていた。
「成人さん……。アイツは、きっと。成人さんにデビューして欲しいって、思ってるはずです。成人さんを可愛がっていたアイツ。アウトサイダーの頼は、そう思っています」
その言葉を残し、ドアはゆっくり音を立てて閉まった。
圭が訪ねてきたときの高揚感が嘘のように、震えは止まらず、思考が混乱している。
鮮明になった記憶の映像。驚くほどにあの時の事がはっきりと甦り、真実の記憶を固定した。
怪我をしたのは、俺。
アイツを庇ったのは、俺。
アイツは、―――――頼。
靄のかかっていた過去が鮮明になり、アイツとアウトサイダーの頼を同期させた。
アイツというだけで、名前の一つも呼ばなかったのは、重ねることに恐怖を覚え、飲み込んでいたからだった。
呼吸の苦しさと襲う眩暈に耐えていると、耳の奥ではあの日工事現場で降って来た瓦礫の崩れる音がガラガラと鳴り続けていた。