19.寂しさ

文字数 3,636文字

 あの事故から、四日が過ぎていた。その間、俺は夜ごと悪夢に魘され続けていた。
 夢の中で暗闇を彷徨い、閃光を浴び、血が飛び散る。
 けれど、その夢の中で血まみれになり倒れているのはアイツじゃない。事故以来見る夢は、俺自身が倒れ、血まみれになっているものだった。
 どうして悪夢の内容がすり替わってしまったのか、考えてもわかるはずなどない。ただ、夜ごと魘され、脂汗をかき飛び起きる。その繰り返しだった。
 事故にあったことで、俺の中にある何かが変わってしまったのだろうか。
 毎夜のように悪夢にうなされるその度に、圭も焦って飛び起きる。恐怖に引き攣った顔で飛び起きるたびに、圭の罪悪感が増していくのが解った。自分のせいだと責めている圭の、しょんぼりとした背中や、元気のなくなっていく姿に、このままじゃいけないと意を決する。
 あいつが、苦しむ理由はひとつもないのだから。

 病院から戻り、五日目の朝だった。この状況が落ち着くかどうか全く分からないが、圭にはしばらくの間家に戻るよう話をするつもりだった。
「圭――――」
 静かに食器を洗っている背中に声をかけるのとほぼ同時に、圭が水道の蛇口をキュッと閉めて振り返った。
「成人さん。僕、少しの間留守にしてもいいですか?」
 圭は、酷く申し訳ない表情で訊ねた。タオルでぬれた手を拭き、こちらへやってくるとベッドに腰かける俺の前に、切なげに顔を歪ませ正座する。
「そんな顔するな」
 落ち込む顔に向けて、めいいっぱいイタズラに口角を上げた。こんな、おちおち眠れやしないところに居るよりも、家に戻った方がずっといい。
「中坊は、家で宿題でもやってろ」
 出来るだけ、なんでもないことのように憎まれ口を叩き、圭の頭に手を置いた。それでも圭の表情は、曇ったままだった。
 昼を前にして、圭がこのアパートを出て行った。来た時と同じように大きなバッグを手に持って、玄関口で殊勝にも頭を下げる。長い間お世話になりました。そんな言葉が聞こえてでもきそうなほど、暗い雰囲気を纏い背中を向けた。
 突然押しかけて来た時は驚いたが、いざ居なくなるっていうと、寂しさがここの空気を硬く冷やしてでもいくようだ。夏だっていうのに、なんて物悲しいんだ。
 このまま圭が戻らなかったとしても、悪夢のことを思えば仕方のないことだと言い聞かせる。アパートの廊下をゆっくり歩いて行く圭の後姿を見送ると、セミの鳴き声が嫌というほど心の奥の弱い部分を刺激した。

 昼きっかり。圭によって、規則正しい生活を送っていたせいか、計ったように腹は情けない音を立てる。ベッド脇に置き去りにされたイチゴミルク飴をひとつ口に放り込み、ヤニで染み付いた天井を仰いだ。
「マスターのところにでも行くか」
 飴を口の中で転がしながら、今頃圭はどうしているだろう。ちゃんと眠れているだろうかと、特に連絡のないまま過ぎたここ数日のことを思いながら喫茶店へと向かった。
 口の中で小さくなり始めた飴を、音を立ててかみ砕く。中心にあるミルクの甘さは、サクサクとした歯触りだ。この飴。初めて圭から貰って舐めた時、やたらと懐かしい思いに駆られたんだよな。あれは、なんだったんだろう。
 小さい頃、口にしていた記憶だろうか。けれど、そういった類の懐かしさとは違う気がしていた。
 喫茶店に向かって歩きながら、記憶の糸を手繰り寄せていく。
 それほど遠くないはずの、懐かしさ。脳に甦るぼんやりとした映像。圭がするのと同じように、誰かが掌に飴を乗せて差し出す姿。
 あれは、誰だっただろう。
 ぼんやりとする相手を確かめたくて、記憶の中で差し出された手を辿り、少しずつ視線を上げていく。細い体つき。履きこなれたジーンズ。猫背と目立つ喉仏。視線の先が口元まで辿り着いた時、相手が何かを言った。
 タバコやめることにしたからよ。その代わり――――……。
 恥ずかしそうに口元を歪ませ笑っている。
 ――――誰だ?
 更に記憶を手繰り寄せようと、思考に深く入り込もうとした時、気がつけば喫茶店がもう目の前にあった。
 現実の映像を目にした瞬間、手繰り寄せた記憶は、スルスルとまた遠いどこかへと流され消えていく。儚く遠のく糸をもう一度手繰り寄せることができず、小さく息を吐き諦めてドアに手を掛けた。
「マスター。カレー」
 中に入るなりカウンターに居るマスターへ注文をすると、俺の背後に首を伸ばすようにしてのぞき込んできた。
「なんだよ」
 マスターの行動に、眉間にシワを寄せた。
「いつもの学生君は、どうした?」
 あぁ。圭の姿を探したわけか。
 カウンターに腰掛け、水が出されるのを待ってから応えた。
「家にでも、帰ったんじゃないかな」
「なんだ。喧嘩でもしたか?」
 躊躇いがちに応えた言葉を、マスターが勘違いする。
「喧嘩か。喧嘩なら、よかったんだけどな」
 圭のこと、傷つけちまったからな。
 言葉を濁していると、マスターは茶々を入れるでもなく注文したカレーの準備を始めた。
 グラスの水をひと口飲み、ほんのり感じたレモンの風味に顔を歪めた。今まで、一度だってレモン水なんて、出したことねぇだろ。
 グラスを眺めながら眉根を寄せていると、気づいたマスターがなかなかいいだろ、なんて顔を向けるから適当に笑みを返しておいた。
 圭の奴、事故のことなんて、早く忘れてくれるといいんだが。
 出てきたカレーに気付かずいると視線を感じた。
「なんだよ」
「カレー」
「あぁ」
 言われて初めて、目の前に出されたカレーに気付いた。
「少し、痩せたか?」
 気遣いをみせる言葉に、胃の辺りがくすぐったくなる。
「別に」
「そっか。カレー、今日はサービスで大盛りにしてやってもいいぞ」
 マスターが、出した皿にまた手を伸ばそうとする。
「柄にもないこと言うなよ。夏なのに雪が降る」
 マスターの好意に悪態をつき、大盛りを遠慮してカレーをかき込んだ。
 いつものカレーがやたらと心を熱くするのは、周りの優しさが心に沁みるせいかもしれない。

 カレーをたいらげ、一服しているとBGMが耳に止まった。初めて圭とここに来た時にも流れていた、アウトサイダーの曲だ。最近、車のCMに使われているからだろう。有線やFMでも、耳にすることが多くなっている。
「このバンド。急に解散したよな」
 マスターが、誰に言うともなしに呟いた。
「何で解散したんだっけ?」
 今度は、俺に向かって訊いて来る。
 解散理由?
 マスターに問われ、解散した理由はなんだったのかを思い出そうとした。けど、突然解散して衝撃を受けたことは記憶しているのに、その理由をまったく思い出せない。
 すると――――。
「あ、思い出した」
 マスターがぽんと手を打つ。
「ヴォーカルが、事故に巻き込まれたとかじゃなかったっけ?」
 事故?
「当時、少しだけその事が話題になったけど。その噂も、すぐになくなったなぁ」
 あぁいうのって、事務所の力とかでもみ消すのか? とマスターが俺に訊ねる。
 そんな、業界裏の事情なんて俺が知るはずもない。それよりも、事故ってなんだよ。
 食後の珈琲を飲み終わっても、アウトサイダーに起きた事故の噂話なんかは、少しも思い出すことが出来なかった。
 アウトサイダーの解散理由って一体。解散後の頼は、今何をしているのだろう。どこかで活動しているような噂も聞いたことがない。
 キッパリと音楽から離れられたのだろうか。あんな凄い音を作る頼が、音楽から離れられるはずがないと思うも。ただ、高根の花の相手が、今何をしているかなど知りようもない。頼の現実(いま)を考えていると、アイツのことが頭をもたげ始めた。
 アイツは、アイツは今何をしているのだろう――――。
 頼のように、音楽には一切触れることのない生活を送っているのだろうか。俺のことを恨みながら暮らしているのだろうか。考えたところで、それもわからずじまいだ。
 解っているのは、アイツから大事な音楽を奪ったのは俺だという事実だけだ。

 心を悪夢で悩まされている間、別のことでも脳みそを使っていた。
 前回のライヴ後、岩元は強硬手段ともいう形でレコード会社の奴らを打ち上げの席に連れてきた。あの場は、酒も入っているからといつものように遠ざけたが、正直戸惑っていた。魅力的なほどの誘いの話に、少しも心が動かなかったわけじゃないからだ。
 けど、アイツから音を奪った俺がデビュー?
 メディアに映し出される自分を想像し、どこかでそんな俺を見ているアイツを想像すれば、体の奥から恐怖が湧き上がる。
 動かされそうになった思いを胸の奥底に閉じ込めるが、嬉しそうにしていた省吾の様子と、瞭の複雑な表情が心を惑わせた。
 あの二人の未来のためにも、そろそろはっきりする時なのかもしれない。
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