2.冷めたスーツの男

文字数 3,953文字

 部屋の空気とほとんど変わらない安いスタジオは、下手をすると自分の家よりも居心地がいいぐらい、至る所にヤニが染み付いている。古ぼけた壁に貼られているポスターには、上半身裸のアイドルが夏の飲料水を爽やかに飲んでいた。
 そのポスターを一瞥し、どこかの女が昔言ったことを思い出していた。華奢な体つきが嫌で、それなりに鍛えた体は以外にも筋肉質で、女は「細マッチョ」だと笑った。「なんだ、それ」とくだらなさに鼻を鳴らしたが、ここに写っているアイドルよりは、いい体をしているんじゃないかと自画自賛してみる。。百八十ジャストの身長は、着る服をそれなれにカッコよく見せられるし、なかなか気に入っている。
 喫煙オッケーと勝手にルールを変えて利用している、古く狭い練習スタジオに一人で入り、ギターのチューニングを始めていた。煙草を銜え、繊細な音のずれを直していく。どんな女にだってしないくらい、丁寧な愛撫のようにギターを扱った。
 しばらくして、背中越しのドアを勢いよく開けて、メンバーの省吾(しょうご)が入ってきた。
 カラーリングで痛んだ茶色の髪をワックスで散らし、前髪の隙間からは整った眉と女みたいにクリっとした目が覗いている。食うのに困っているわけでもないのに、必要以上に細い体は、何を着ていてもだぶついている。ワイヤレスのヘッドホンを耳から外し首に掛けると、音楽を止めながらも体をリズムに乗せたまま傍へとやって来た。
「ねぇ、成人(しげと)。そろそろさ、もう少しいいところのスタジオでやってもいいんじゃないの?」
 来たそうそう、省吾は訴えかけるように不満を口にする。まるで拗ねてしまった小さなガキみたいな口の利き方は、俺の二つ下の二十五才だとは到底思えない幼稚さだ。
 そろそろ、ねぇ……。
 確かにこのスタジオは、年季が入っている。受付にいるアルバイトは、何年経っても同じ顔で、年を取っているように見えないのは、異次元世界の住人なんじゃないかと思わせる。壁の至る所は汚れ傷み、床も傷だらけだ。廊下にある長椅子は、端のところが破れ、中のスポンジが見え隠れしている。
 スタジオも、ちゃんと防音になっているのかどうか怪しいくらいおんぼろだが、そのおかげでタバコを吸おうが飲食しようが文句を付けられることもない。金さえ払い、時間だけ厳守すれば、それ以外はすべて自由というところだ。
 唯一新しいと言えるのは、スポンジの見え隠れする長椅子の傍に設置されている自販機くらいのものだろう。あれだけは、飲料メーカーが定期的に管理に来ているおかげで、売られている飲み物も自販機自体もそれなりに保たれていた。
 ギターを抱えながら燻らす煙を、省吾がパタパタと掌で仰ぐ。自分も吸うくせに、他人のタバコの煙は嫌なんだ、と顔を顰めた。
「ここが好きなんだ」
 肺いっぱいに吸い込んだ煙とともに言葉を吐き出すと、省吾は更に顔を顰めた。
「こんなおんぼろスタジオの、何がいいのかねぇ」
 煙から逃れるように呆れた顔と声で、肩に背負っていたベースを下ろし、省吾もチューニングを始める。常にリズムを刻むように体を動かしながら、置かれていた椅子に足を組んで座ると、破れたジーンズの穴からは骨ばった膝が見えた。
「てかさ。成人、そろそろ髪切ったら? ボッサのままじゃなくて。あ、折角伸びてきたからミディアムパーマかけてさ、お洒落髭なんてどう? 成人は男前だから、ますますモテんじゃない? じゃなかったら、そのカラーリングもしない真っ黒な髪もやめてさ、金髪とかどう? 逆立てたら、めっちゃ強そうじゃん?」
「ごちゃごちゃと、小うるさい彼女みたいなこと言ってんなよ。つーか、スーパーサイヤ人かよ」
 くだらないやり取りをして笑いあっていると、そこへもう一人、なんの前置きもなく勢いよくドアが開いた。
「うぃーっす」
 遠くからでもその存在がわかるほど、腰につけたチェーンやレトロなアクセサリーがジャラジャラと音を響かせている。スッキリとツーブロックに刈り上げた頭に被っているハンチングは、買ったばかりか。ブリティッシュ・タータンチェックは、好みの柄だ。そこから細い目を覗かせているのは、同じくメンバーの(あきら)だ。
「また来てるぞ」
 瞭は低く落ち着いた声でケツのポケットに刺さっていたスティックを使い、ドアの外にその先を向ける。一応防音になってるらしいドアの向こうへ、片方の口角を上げながらゆっくりと視線を向けた。
 上部に硝子のはまったドアの向こうには、スーツを着た四十代半ばのオヤジが、こちらを見るようにして一人佇んでいた。俺が視線を向けたとわかると、丁寧に頭を下げてくる。
 この場にスーツなど、どう見てもそぐわない。しかも、背筋は伸びていて、視線はこちらをまっすぐ見据えているから、寧ろ古びたヤニだらけのこの場所の方がおかしいのかとさえ思わせる佇まいだ。
「しつけぇなぁ」
 咥えタバコのまま呟き、一瞥しただけで又ギターのチューニングに勤しむ。外に佇むオヤジを無視し、ハードケースを引き寄せ、中からチラシを一枚取り出した。【便利屋。電話一本で何でも賜ります!!】と、怪しいキャッチコピーの書かれたA4の紙を裏返せば、俺にしか読めない文字の羅列とコードが殴り書きされている。
「相変わらず、きったないねぇ」
 チューニングを終えた省吾が、横から文字を覗き込んで笑っている。
「いいんだよ、俺にだけわかれば」
「出たよ、自己中!」
 不満そうに洩らしながらも、チラシの裏に書かれた新曲を覗き込んだ目は、何とか解読しようと試みている。
「俺が弾いたのを聴いて憶えろよ」
「はいはい」
 傲慢な言い草にも、省吾はいつものことだと気のない返事をするだけだ。瞭は、黙々とペダルの動きやスネアの調子をみながら、器用にクルクルとスティックを回している。
 一通り準備を整えてから、出来立ての曲をギターで弾きながら歌っていくと、二人は目を閉じ音にだけ集中する。
 聴き終えた後は、ああでもない、こうでもないと意見の出し合いだ。三人でアレンジを進め、徐々に新曲が出来上がっていく。
 そうやって、二時間ほどが一気に過ぎていった。
「一旦、休憩にしよう」
 俺の喉を気遣い、瞭が声を掛ける。それを合図に、省吾も一気に力を抜き、だれた顔になる。
「タバコ、タバコ」
 ベースを立てかけると、ポケットから取り出したマルボロに火をつけ煙を吐き出した。
 まるで中毒患者だな。
 他人事のように省吾の姿を横目で見て口角を上げた後、スタジオから出て陰気臭い廊下にある自販機の前に行った。
青葉(あおば)君」
 背中に、落ち着いた大人の声がかかった。
 まだ居たのかよ。
 聞こえていたが振り返りもせず、小銭を自販機に流し込み無糖のコーヒーを選んだ。ボタンを押すと、大袈裟な音を立て缶が落ちてくる。コーヒーを手にするためにかがみこむと、良く磨かれた黒の革靴が目にはいった。
 これくらいの年齢になれば、そこそこの稼ぎもあるだろう。身につけているものはいたってシンプルだが、けして安価な物じゃない。スーツには皺もないし、常に身なりには気をつけているようだ。
 そんなことに気を遣う時間があるって、サラリーマンもいい商売だよな。
 皮肉な考えは口にすることなく、それでも悪態はつく。
岩元(いわもと)さん。あんたもしつこいね」
 缶を手に取って体を起こし、目の前にある顔へと皮肉いっぱいの笑みを向けた。
「それが私の仕事ですから」
 向けられた悪態に少しも動じることなく無表情で応える岩元に、クッと口角を少し上げ更に笑みを浮かべた。
 こちらを窺ったまま立ち尽くす岩元に構わず、手近のぼろい長椅子に腰掛け、缶コーヒーを一口飲んだ。
「毎回言うけど、俺たちはメジャーになる気なんてないんだって」
「毎回言っていますが。私としては、どうしても君たちをデビューさせたい」
 毎度おなじみ、平行線上の言い合いだ。このやり取りを何度リプレーすればいいんだ、というくらいに飽き飽きとしている。

 岩元というこのオヤジは、半年ほど前から俺たちの周りをウロチョロし始めていた。多分、他のバンドを見に来たついでに、うちのバンドが引っかかったのだろう。差し出された名刺には、大手プロダクションの名前が書かれていた。ライヴのたびに満員御礼になるバンドなら、レコード会社や事務所への誘いなどよくある話だ。どれに乗っかるかは、その時の運にもよる。契約を結んだ後に、いい事務所が名刺を渡してくるなんて、運の悪い奴らもいるし。無名の事務所に声をかけられ蹴った数年後、大きく変貌して後悔なんてこともある。大手でも、使い捨てのようにするところも少なくない。
 岩元の事務所は名の知れた大手で、悪いうわさも聞いたことはない。他のバンドなら、きっと尻尾を振って食いつくだろう。けれど、そういう問題じゃないんだ。
 岩元は、俺たちのライヴを見ている時も、事務所への誘い文句を言っている時も、表情にはほとんど変化がない。本当に音楽に興味があるのか疑ってしまうほどだ。何を考えているのかさっぱりわからないこのオヤジに、心を許すこともできない。
 最初に岩元の存在に気付いたのは、省吾だった。ライヴのたびに現れるスーツのオヤジ。リズムに乗るわけでもなく、楽しそうな表情をするわけでもない。
 なのに、度々顔を見かける岩元に、ミーハーな省吾が騒ぎ出した。
 面倒なことになりそうだと、辟易している俺のことなど置き去りに、周囲は徐々に盛り上がりを見せていった。おかげで俺の過去まで引っ張り出される羽目になったんだ。
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