第23話

文字数 3,425文字

      その二十三

 菊池さんは同僚ナースの田口さんの弟がたまに山に籠もっていることを在職中きいていて、
「キャンプって、おもしろいのかなぁ」
「弟がいうには、お金がかからないから得した気分になるんだって。けっこう道具とか買ってるから意味ないってアタシはいってるんだけどね」
 という会話をおぼろげにおぼえていた無一文初日の菊池さんは、
「お金かからないって、いってたなぁ(かわいく首をかしげて)」
 とそのさい田口さんがぼそりといった〈やがみ農園〉めざして、とりあえずてくてく歩き出したようなのだけれど、キャンプ生活を送りはじめた当初は誰かが勝手に立てた掘っ立て小屋で雨風をしのいだり、おなじ敷地でソロキャンプをしていたいわば田口さんの弟みたいな人たちに、
「火はこうやっておこすんだよ」
 などとおしえてもらったりして、どうにか暮らしていたのだが、しかしだんだんもらえる食料の分量も減ってきたり水を汲んでくる気力も萎えてきたりで、徐々に菊池さんは疲弊していったのだった。
 そんなある日、菊池さんは粗大ごみとして出されているものをどうにか売れないだろうかとかんがえて、もよりのリサイクルショップにまずは問い合わせに行ったのだが、そのさい店の駐車場で「エウロパの天然水」の試飲サービスがおこなわれていたので一杯(あわよくば三杯くらい)もらうことにして、すると、
「お客様、カップの底にありますシールをめくってみてください」
「はい――これかな」
「あっ、お客様、おめでとうございます。三等賞です」
 とカランコローンと鐘を鳴らされて「バスツアー」のチケットを手渡された。
 バスツアーにはお食事も温泉もふくまれているらしく、菊池さんは久方ぶりにあたたかいご飯が食べられると思ってよろこんでいたのだが、初日に泊まった旅館の部屋に設置されてあった洗濯機はコインランドリーにあるような感じの有料式のもので、さすがにこちらはツアーのサービスにはふくまれていなかったので菊池さんは真似事で物乞いをしたさいに誰かがタッパーに入れてくれたおもちゃの硬貨を、
「どうか動きますように」
 とお祈りして投入してみた。
「キャオ」
 すると洗濯機は菊池さんの願いが通じたのか、おもむろに動き出して、飛び上がった菊池さんはリュックに入っている他の衣類も洗濯機に急いで放り込んだらしいが、
「キャオ、こっちも動いた」
 と乾燥機に移行すると、
「そのくるくる回る衣類を観ていたら、わたし、意識が朦朧としてきちゃったんです」
 という感じで菊池さんは昏睡してしまったようで――まあずいぶん疲れていただろうから、これは無理もないだろう。
 菊池さんはそのさい夢をみた。菊池さん自身は、
「あれは夢なんかじゃないんです」
 といっているけれども、まあつぎのような感じの夢(?)だったらしい。
 菊池さんはソファーに深く腰掛けていて、まわりをぼんやり眺めていると、そのうちある老女が杖をついてあらわれて、
「あなたは3Aの菊池さんですか?」
 ときいてきた。
「はい、そうです。わたしは3Aの菊池です」
「どうして3Aなのですか?」
「以前勤めていた病院でわたしは三階のA棟というところに配属されていました。病院には菊池という姓の職員が四人ほどいましたので、わたしは〝3Aの菊池さん〟と呼ばれるようになったんです。いちご牛乳にもいつもそう書いていました」
「パンティーにも書いてありますね?」
「はい。わたしの勤めていた病院は慢性的な人手不足で連続で夜勤をすることもしょっちゅうあったんです。そのさい洗濯の係の方がわたしたちの衣類を洗ってくれるのですが、病院から支給されるナース服にはそれぞれの名前が入っているのですけれども私物のパンティーにはとうぜんですが名前はプリントされてありませんよね。で、そのまま宿直室の脱衣かごに下着を放り込んじゃうと衣類が誰のものかわからなくなって、係の方たちが困ってしまうんです。ですから私物の衣類も洗濯してもらいたい場合は名前を書く決まりになっていたんです」
「だから乾燥機で乾かしていたパンティーにはすべて『3Aの菊池』と書いてあるのですね」
「そうなんです」
「合格です」
「ん(かわいく首をかしげて)」
「あなたに大奥総合病院の三階A棟の副主任をお任せします」
 菊池さんは副主任としての給料を提示され、この話を受けることをその場で快諾したのだが、はたらくところは老女いわく、
「すべてあちらの世界でやってもらいます」
 とのことらしくて、菊池さんは地元から通いたいのであればその都度遠征しなければならないといわれたらしい。
「遠征! 遠征っていったんですね、その老女は」
「はい。あちらの世界では〝遠星〟って書くみたいなんですけど、こちらの世界の方たちには馴染みがないだろうから〝遠征〟でも〝エンセイ〟でもかまわないって、その方はいってました」
「田上雪子さんも〝エンセイ〟に行くって、小春おばちゃんにいってたんだよな……」
「小春おばちゃん?」
「あっ、小春おばちゃんはね、こっちの話なんだ、ごめんごめん。でさ、そのエンセイって、どうやって行くの?」
「それが……その手順書が入った茶封筒をその方からわたされたんですけど、わたし、なくしてしまったんです」
「ええええええええええ! どこどこ、どこになくしたの?」
「なくしたというか、燃やされちゃったんです」
 バスツアーを終えていったんキャンプ場にもどった菊池さんはお世話になった方たちに最後のあいさつをしたらすぐエンセイ先に向かうつもりでいた。
 無一文初日に食べ物をわけてくれたりしたソロキャンパー氏はまたぞろ休日を利用してこちらに来ていて、だから菊池さんはその人にお別れをいいに、
「こんばんは」
 と近寄って行ったのだけれど、ちょうど煮焚きだかキャンプファイヤーだかをやっていたその人は菊池さんに気づくと、
「あっ、いいところに来てくれた。火種ありませんか。だんだん心もとなくなってきてるんです」
 と眼前の火を指さしていて、駅のベンチなどに置き捨てられてある新聞や雑誌を何か役に立つこともあるかもしれないと思って集めていた菊池さんは、
「あっ、いっぱいありますよ。ぜんぶ使ってください」
 ととうぜん気軽にこたえたのだった(エンセイに行くのだから新聞類はどっちみち処分するつもりでいた)。
 帰りのバスのなかでも菊池さんはずっと例の茶封筒を手にもっていて、それは、
「A4くらいの大きさだったし、リュックもパンパンでそこに押し込むと茶封筒もぐにゅぐにゅになっちゃうと思って」
 ということでそうしていたようだが、掘っ立て小屋にもどった菊池さんはまず重かったリュックを放り投げると、手にもっていた茶封筒を地道に拾い集めていた新聞や雑誌のいちばん上にポンと置いていて、
「ああ、それで、そのソロキャンパーさんが『いいよ、自分で取りに行きますよ』って、掘っ立て小屋に向かって、で、菊池さんがほかのキャンパーたちにもあいさつ回りしている最中にぜんぶ()されちゃったんだね」
「そうなんです……」
 その後〈やがみ農園〉サイドがスピーカーを設置して森中潤一郎独演会全集を流しつづけたことにより私有地で勝手にキャンプをされていた方たちは――あの能書きを延々きかされたらたまったものではないだろう――退散せざるをえなくなったわけなのだが、能書きから逃れ駅前で途方に暮れていた菊池さんはまだ秋のはじめだったのにトレンチコートを着ていたあさ美お姉さんに、
「気が向いたら電話して」
 と名刺と十円硬貨が十枚入ったポチ袋を手渡され、万策尽きていた菊池さんは翌日すぐ電話して――まあ現在こんな感じでぼくとお話ししているわけなのだ。
 あさ美お姉さんに電話してからきょうまで二ヶ月ちかく経つそうだが、そのあいだ菊池さんは養成所で研修を受けていたという。
「どんなことしてたんですか?」
「ふつうにお料理とかお裁縫の練習してたんです。アイロン掛けの一日講習とか。でも、じつをいうと、ここも辞めるつもりでいるんです。衣食住は確保してもらってるけど、お金はほとんどもらえないし、養成所にはわたしのいちご牛乳に『145』って落書きしてくる人もいるし」
「エンセイ先に行ければ、すべては好転するね」
「そうなんです――わたしツイてないな……」
「でも、もしかしたら行けるかもしれないよ。この手順書の赤いボールペンで書いてある暗号文を翻訳できればね」
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