第38話
文字数 3,095文字
その三十八
お昼過ぎまでぼくは先のような方法で二十曲ほどうたったのだが、まともな空気を吸うために何度か部屋を出てもとくに変った様子はなかったし、
「チャイム鳴ってますよ」
「おまえが出ろー」
といわれて玄関先で受け取った「要冷凍」と記された宅配便も北海道産のごく普通のいくらの醤油漬けだった。
いくらの醤油漬けを冷凍庫に入れるついでに冷蔵庫内を整理整頓したぼくは(かなりたいへんな作業だった)、午後の一時ちかくになっていったん起きたりん子さんに冷蔵庫内の注意事項を伝えて、お暇することにしたのだけれど、
「腐ってるものはぜんぶゴミ袋に入れましたからね。ウインナーは賞味期限過ぎてるけど、ぜんぜん食べられますよ」
「ありがとう」
と玄関先まで見送ってくれたりん子さんはその謝礼なのか、シャンプーハットを二つ無言で手渡してきて、
「いらないッスよ、シャンプーハットなんか」
「じゃあ何が欲しい?」
ときかれたので例の「ピーピーねえねの冒険島」を、
「くれとはいいません。売ってください! 売ってぇぇぇ」
と交渉してみると、
「うーん、あげてもいいけど、でも一万円で買ってくれるって言うんじゃ……」
ともじもじしつつもけっきょくりん子さんは五千円でカセットをゆずってくれたのだった。
ウインドブレーカーの上下セットにランニングシューズという身なりだったぼくは、りん子邸から船倉荘まで走ることにしたのだが、
「お昼抜きだとやっぱりきついな……」
とどうにか到着したのちに衣類をぜんぶ洗濯機に放り込んで風呂に入ると、部屋の合鍵をもっているつぐみさんが浴室のすりガラスの向こうから、
「またつくりすぎちゃったから、もってきたの。食べてね、たまきくん」
といってきて、つぐみさんにはピーチタルトに滞在していたあいだ、この部屋のちょっとした管理(空気の入れ替え等)をお願いしていたのだが、風呂からあがると、その義姉はもう部屋にはいなくて、
「今回はなにをつくりすぎたのかな」
キッチンテーブルの上には大きめのタッパーが二つと瓶の野菜漬けときっと親父か兄貴が仕事がらみでもらったのだろう、バターどらやき二個と普通のどらやき一個と栗どらやき一個が置いてあった。
タッパーに入っていたのは赤飯と天ぷらで、つぐみさんは、
「やってるうちに、どんどんいろんなものを揚げたくなっちゃうの」
というクセの関係で定期的に義弟に天ぷらを分けてくれることになっているのだが、その天ぷらと赤飯で晩酌をやったのちにすみやかに就寝し、翌朝も残りの赤飯や天ぷらや昨夜は手をつけなかったどらやきを開けて、
「けっこううまいな」
と食べていると、
「ん?」
部屋のインターホンが早朝からピンポーンと鳴って、
「はーい」
ととりあえずバタどらをもぐつきながら出てみると、りん子邸近くのセブンでもローソンでもファミマでもない謎の変なコンビニで早朝パートをしている例の華奢な子がちょこんとお辞儀をして名刺をさしだしてきた。
名刺には「ペーシュトラベル」だとか「ツアーコンダクター」だとか「中西千鶴」だとかと記してあって、どうやらこちらの中西さんは旅行会社の添乗員をされているようだったが、
「駅前のコンビニではたらいている方ですよね?」
とどう見てもあの撫で肩の子と同一人物だったので、おききしてみると、
「はい。昨日はありがとうございました」
とりん子さんをおぶったからだろう、かわいく小首をかしげてきてくれた。
それでご存知のようにぼくは昨日この中西さんをひと目見るために早朝から紅茶だけ飲んで一目散にコンビニに向かったのだからしかも夢をみてどうしても会いたくなって向かったのだから、
「まあまあ、立ち話も何なんで、どうぞどうぞどうぞどうぞ」
ととうぜんお部屋にあがってもらったのだが、そもそもコンビニのパートは、ペーシュトラベルのほうの仕事がほとんどないという事情で生活のためにしぶしぶやっているのだそうで、だからぼくが旅行の予約を取ったあとはさっさとそちらのしぶしぶやっているセブンでもローソンでもファミマでもない謎の変なコンビニのほうは辞めたみたいである。
「シフトの関係でもう一ヶ月くらいはつづけますけど」
ペーシュトラベルはピーピーねえねの冒険島経由で予約を取るとポイントが倍になるらしく、しかもそのポイントは旅行先でもすぐつかえるとのことだったが、
「ピピピ、ピピピピ、ピピピピねえね?」
「はい」
「ぼくは『ピーピーねえねの冒険島』経由で旅行の予約を取ったのですか?」
「はい。『憧憬のシュークリーム8日間』を、お一人様でご予約いただいております」
「シュークリーム! シュークリームって、シュークリーム帝国のあれですか?」
「はい」
「中西さんが案内してくれるんですか?」
「はい。わたくしが8日間ご案内いたします」
「こっちに無事帰ってこられますよね?」
「もちろんです。こちらのご自宅までお送りいたします」
「行きましょう行きましょう。いまからですか?」
「あははは、船倉さんて、おもしろい方なんですね。いまからというわけには行きません。コンビニのパートもまだ一ヶ月残ってますし、船倉さん自身もおからだの準備をしなくてはならないんです」
中西さんによると、こちらとシュークリーム帝国では磁場や酸素の〝あれ〟がちがうらしく、だからまずこちらで七日から十日ほどかけて心肺の機能を調えてから、あちらに旅立つ規則になっているようなのだが、
「以前はソーダ味やオレンジ味もあったのですが……」
と中西さんがバッグから出してきた真っ赤な色のいわゆるチューチューアイスは中西さんいわく、
「激辛のタバスコ味しか在庫が残っておりませんで……」
というものらしく、ちなみにこのタバスコのやつはバブル期には逆に人気があってシュークリームへの旅を予約した客はこぞってタバスコ味を選んだみたいなのだが、それでも近年はそのような無謀な選択は誰もしなくて無難にソーダ味とかレモン味とかを選んでいる方が大半のようで、中西さん自身もタバスコ味をチューチューやって体調を悪くした事例もあるので、あまりおすすめはできないということだった。
チューチューアイスほどの効果はないが、普段から有酸素運動をしている人であればシリコン製の特性の乳房でもじゅうぶんらしく――しかしその特性の乳房も他国より調達してきたものなので現在は在庫が残っていないようだった。メイド・イン・ティラミスの「ダイアンちゃん」も在庫がないし、メイド・イン・カステラの「ペギーちゃん」の在庫もない……。
「でもシリコン製のものでなければ、ご用意できますよ」
「ビニールとかですか?」
「生身です」
中西さんはご自身の乳房を提供するとおっしゃっていて、だからぼくは、
「でも、わたしのはとても小さいので……」
と申し訳なさそうにしていた中西さんにたいし全身全霊で自分は大きさなんてぜんぜん気にしないむしろ小さいほうが良いノートパソコンに保存してあるコンテンツ群もそれを証明しているとくり返し訴えたのだけれど、すると中西さんは、
「ホントだ。小柄系熟女に相当偏ってるけど、でも、とくべつ大きなおっぱいが好きでもないみたいですね」
とパソコン内のデータを見つつ納得してくれて、その後ぼちぼち大きめのコンテンツを一作見出して知らぬふりをしていたぼくの耳たぶを二三度ひっぱった中西さんは、
「でも、こういう系統の子が好きなら、わたしのこともかなり好きかもしれない」
などとぼくのパソコンに保存されてあるコンテンツをチェックしながら、ぶつぶつひとり言をつぶやいていた。
お昼過ぎまでぼくは先のような方法で二十曲ほどうたったのだが、まともな空気を吸うために何度か部屋を出てもとくに変った様子はなかったし、
「チャイム鳴ってますよ」
「おまえが出ろー」
といわれて玄関先で受け取った「要冷凍」と記された宅配便も北海道産のごく普通のいくらの醤油漬けだった。
いくらの醤油漬けを冷凍庫に入れるついでに冷蔵庫内を整理整頓したぼくは(かなりたいへんな作業だった)、午後の一時ちかくになっていったん起きたりん子さんに冷蔵庫内の注意事項を伝えて、お暇することにしたのだけれど、
「腐ってるものはぜんぶゴミ袋に入れましたからね。ウインナーは賞味期限過ぎてるけど、ぜんぜん食べられますよ」
「ありがとう」
と玄関先まで見送ってくれたりん子さんはその謝礼なのか、シャンプーハットを二つ無言で手渡してきて、
「いらないッスよ、シャンプーハットなんか」
「じゃあ何が欲しい?」
ときかれたので例の「ピーピーねえねの冒険島」を、
「くれとはいいません。売ってください! 売ってぇぇぇ」
と交渉してみると、
「うーん、あげてもいいけど、でも一万円で買ってくれるって言うんじゃ……」
ともじもじしつつもけっきょくりん子さんは五千円でカセットをゆずってくれたのだった。
ウインドブレーカーの上下セットにランニングシューズという身なりだったぼくは、りん子邸から船倉荘まで走ることにしたのだが、
「お昼抜きだとやっぱりきついな……」
とどうにか到着したのちに衣類をぜんぶ洗濯機に放り込んで風呂に入ると、部屋の合鍵をもっているつぐみさんが浴室のすりガラスの向こうから、
「またつくりすぎちゃったから、もってきたの。食べてね、たまきくん」
といってきて、つぐみさんにはピーチタルトに滞在していたあいだ、この部屋のちょっとした管理(空気の入れ替え等)をお願いしていたのだが、風呂からあがると、その義姉はもう部屋にはいなくて、
「今回はなにをつくりすぎたのかな」
キッチンテーブルの上には大きめのタッパーが二つと瓶の野菜漬けときっと親父か兄貴が仕事がらみでもらったのだろう、バターどらやき二個と普通のどらやき一個と栗どらやき一個が置いてあった。
タッパーに入っていたのは赤飯と天ぷらで、つぐみさんは、
「やってるうちに、どんどんいろんなものを揚げたくなっちゃうの」
というクセの関係で定期的に義弟に天ぷらを分けてくれることになっているのだが、その天ぷらと赤飯で晩酌をやったのちにすみやかに就寝し、翌朝も残りの赤飯や天ぷらや昨夜は手をつけなかったどらやきを開けて、
「けっこううまいな」
と食べていると、
「ん?」
部屋のインターホンが早朝からピンポーンと鳴って、
「はーい」
ととりあえずバタどらをもぐつきながら出てみると、りん子邸近くのセブンでもローソンでもファミマでもない謎の変なコンビニで早朝パートをしている例の華奢な子がちょこんとお辞儀をして名刺をさしだしてきた。
名刺には「ペーシュトラベル」だとか「ツアーコンダクター」だとか「中西千鶴」だとかと記してあって、どうやらこちらの中西さんは旅行会社の添乗員をされているようだったが、
「駅前のコンビニではたらいている方ですよね?」
とどう見てもあの撫で肩の子と同一人物だったので、おききしてみると、
「はい。昨日はありがとうございました」
とりん子さんをおぶったからだろう、かわいく小首をかしげてきてくれた。
それでご存知のようにぼくは昨日この中西さんをひと目見るために早朝から紅茶だけ飲んで一目散にコンビニに向かったのだからしかも夢をみてどうしても会いたくなって向かったのだから、
「まあまあ、立ち話も何なんで、どうぞどうぞどうぞどうぞ」
ととうぜんお部屋にあがってもらったのだが、そもそもコンビニのパートは、ペーシュトラベルのほうの仕事がほとんどないという事情で生活のためにしぶしぶやっているのだそうで、だからぼくが旅行の予約を取ったあとはさっさとそちらのしぶしぶやっているセブンでもローソンでもファミマでもない謎の変なコンビニのほうは辞めたみたいである。
「シフトの関係でもう一ヶ月くらいはつづけますけど」
ペーシュトラベルはピーピーねえねの冒険島経由で予約を取るとポイントが倍になるらしく、しかもそのポイントは旅行先でもすぐつかえるとのことだったが、
「ピピピ、ピピピピ、ピピピピねえね?」
「はい」
「ぼくは『ピーピーねえねの冒険島』経由で旅行の予約を取ったのですか?」
「はい。『憧憬のシュークリーム8日間』を、お一人様でご予約いただいております」
「シュークリーム! シュークリームって、シュークリーム帝国のあれですか?」
「はい」
「中西さんが案内してくれるんですか?」
「はい。わたくしが8日間ご案内いたします」
「こっちに無事帰ってこられますよね?」
「もちろんです。こちらのご自宅までお送りいたします」
「行きましょう行きましょう。いまからですか?」
「あははは、船倉さんて、おもしろい方なんですね。いまからというわけには行きません。コンビニのパートもまだ一ヶ月残ってますし、船倉さん自身もおからだの準備をしなくてはならないんです」
中西さんによると、こちらとシュークリーム帝国では磁場や酸素の〝あれ〟がちがうらしく、だからまずこちらで七日から十日ほどかけて心肺の機能を調えてから、あちらに旅立つ規則になっているようなのだが、
「以前はソーダ味やオレンジ味もあったのですが……」
と中西さんがバッグから出してきた真っ赤な色のいわゆるチューチューアイスは中西さんいわく、
「激辛のタバスコ味しか在庫が残っておりませんで……」
というものらしく、ちなみにこのタバスコのやつはバブル期には逆に人気があってシュークリームへの旅を予約した客はこぞってタバスコ味を選んだみたいなのだが、それでも近年はそのような無謀な選択は誰もしなくて無難にソーダ味とかレモン味とかを選んでいる方が大半のようで、中西さん自身もタバスコ味をチューチューやって体調を悪くした事例もあるので、あまりおすすめはできないということだった。
チューチューアイスほどの効果はないが、普段から有酸素運動をしている人であればシリコン製の特性の乳房でもじゅうぶんらしく――しかしその特性の乳房も他国より調達してきたものなので現在は在庫が残っていないようだった。メイド・イン・ティラミスの「ダイアンちゃん」も在庫がないし、メイド・イン・カステラの「ペギーちゃん」の在庫もない……。
「でもシリコン製のものでなければ、ご用意できますよ」
「ビニールとかですか?」
「生身です」
中西さんはご自身の乳房を提供するとおっしゃっていて、だからぼくは、
「でも、わたしのはとても小さいので……」
と申し訳なさそうにしていた中西さんにたいし全身全霊で自分は大きさなんてぜんぜん気にしないむしろ小さいほうが良いノートパソコンに保存してあるコンテンツ群もそれを証明しているとくり返し訴えたのだけれど、すると中西さんは、
「ホントだ。小柄系熟女に相当偏ってるけど、でも、とくべつ大きなおっぱいが好きでもないみたいですね」
とパソコン内のデータを見つつ納得してくれて、その後ぼちぼち大きめのコンテンツを一作見出して知らぬふりをしていたぼくの耳たぶを二三度ひっぱった中西さんは、
「でも、こういう系統の子が好きなら、わたしのこともかなり好きかもしれない」
などとぼくのパソコンに保存されてあるコンテンツをチェックしながら、ぶつぶつひとり言をつぶやいていた。