第33話

文字数 3,209文字

      その三十三

 重い腰を上げて断捨りん子さんの部屋のインターホンを押すと、りん子さんは、
「ワオワオ♪」
 と部屋をリズミカルに開けてくれたが、部屋のなかは以前うかがったときよりもさらに衣類等が増えているようにもみえて、ぼくが玄関先に脱ぎ捨ててあったひざのあたりがやぶれているジーンズと薄汚れたティーシャツを、
「これ、もう捨てちゃってもいいんじゃないんですか?」
 ととりあえずおききしてみると、りん子さんは、
「それはわざとボロボロにしてあるジーンズだから……」
 とぶつぶついって、定位置のコタツにもぐり込んでしまった。
 それでぼくは十分ほど靴も脱がずに玄関先でたたずんだのちに、
「断捨離の専門家に転身するなんて、なめ猫免許証でのレンタル入会以上に無理だ」
 と悟って、
「きょうはこれで失礼しまーす♪」
 と奥のりん子さんに一声かけたのちにお部屋からすみやかに退散したのだけれど、先ほどのイートインの席に――うなじが華奢で撫で肩で細身で小柄な三十前後の女子をもう一度みたかったので――もどって、野菜ジュースを飲みながら内府にその旨をメールで送ると、内府も、
「彼女の再デビューは他のアプローチで臨みましょう」
 と作戦の変更を許可してくれて、そして新しい復権方法にかんしてもG=Mにすべて任せると内府は送信してきていた。
 川上さんにもこの変更の件をメールでお知らせしたぼくは部屋にひきかえして、
「人間あんなふうになってはいけないのだ。掃除をしなくてはいけないのだ」
 と藤吉郎さんのように〝やり手〟になって部屋の掃除を猛烈におこなったのだけれど、三冊ほど残しておいた古いエロ関連雑誌を母屋にあったシュレッダーで粉砕したのちに(このときぼくは身を引き裂かれるような気持ちになった)、いらない家具なども処理センターに実家のクルマで持ち込んですべて処分したぼくは、ひさびさに使えることになったダンボールを保管していた六畳間の畳の張替えも業者に予約して、夕方にはぼちぼち部屋は菊池さんを招き入れる体勢が整っていた。
 処理センターで家具類を処分した帰りにドライブスルーで食べるものを買い込んでいたぼくは、風呂に入ったのちにそれをつまみに一杯やってたぶんそのままコタツで寝てしまっていたのだけれど、大蚤の市で狙っていたものを買い付けることができた藤吉郎さんはいったんまたちがう側室の家に寄ったのちに今度は長崎だか岡山だかに行くらしくて、メールでそのことを伝えてきた藤吉郎さんはだから今夜はもうアパートには来ないのだろうが、寝ているあいだにケータイにはメールがもう二通ほど入っていて、それは一通は川上さんからのもので、そしてもう一通は愛する菊池さんより送られてきたものだった。
 ふたりには後日連絡することにしたぼくは歯をみがいて布団で正式に寝直したのだけれど、翌朝まず川上さんに電話をかけてみると、
「はい」
 とすぐ出てくれた川上さんは今回の〈たうえ温泉旅館〉での調査は、
「やっぱり、すみれちゃんのお母さんに行ってもらったほうがいいと思うの」
 といっていて、当初は川上さんも「温泉に入れるんですね」とけっこうよろこんでいたのだが、すみれクンのお母さまにその旨を伝えると、すみれクンのお母さまは、
「わたし、なにかミスをしたのかしら……」
 とどうやら考え込んでしまったみたいで、すみれクンのお母さまは温泉に到着早々小春おばちゃんとのセッションもセッティングしてくれたりして大活躍しているわけだから――まあこれは完全にわたくし船倉たまきの配慮が足りなかったということができるのであった。
「川上さんにも悪いことしちゃったね。申し訳ない」
「ぜんぜん。そういうんじゃないんですけど」
「すみれクンのお母さまには、おれのほうから説明して、また○○村に行ってもらうよ」
「わたしからも電話しておきます」
 川上さんは断捨りん子計画が中止になってほっとしたというようなことをぼそぼそっといったのちに電話を切った。
 さて、お次はいよいよ菊池さんである。昨夜菊池さんはメールで、
「翻訳できたよ」
 と送ってきてくれていて、だからぼくはこれから互換機と二つのカセットをもってそちらにもどることを要所要所で自分がいかに菊池さんを強くもとめているかを吐露しつつ電話で伝えたのだが、菊池さんは新人ナースのころから愛飲している栄養機能食品「育ちざかりに栄養ごくごく」という牛乳に溶かして飲む粉末飲料のいちご味のやつを買ってきてほしいとのことで、
「ピーチタルトには売ってないんだもん」
 とあまえてきた菊池さんに、わかった「育ちざかりに栄養ごくごく」も買うし背中も洗ってあげるしパジャマも着せてあげるとこたえたぼくは、ショッピングモール〈がぶりえる、がぶりえる!〉の開店時間に合わせてリュックを背負ってアパートを出ることにした。
 バスの関係で開店時間ちょうどというわけにはいかなかったけれど、それでも十五分過ぎくらいにモールに入ったぼくは、
「ん? きょうは何か、特別な日なのかな」
 などとあたりを見回したりしながら、着ぐるみのパンダさんやサーカスのピエロの格好をした人などからチラシやポケットティシューを受け取りつつ食品コーナーのほうにおもむいたのだが、食品コーナーの手前のベンチでは女性の従業員さんに背中をさすってもらいながらあさ美お姉さんが胸のあたりを押さえて苦しそうにしていて、
「あさ美お姉さん」
 とぼくがさすがに心配になって声をかけると、従業員の方は、あっ、お知り合いの方ですか、という感じで立ち上がりかけて、それから困った表情でぼくを見たりあさ美お姉さんを見たりしていた。
「ああ、たまきくん」
 従業員さんに、
「もう大丈夫です。ありがとうございました」
 とお礼をいったあさ美お姉さんは、
「どうしたんですか? 体調わるいんですか?」
 というぼくに、
「うん、ちょっと……」
 と最初は口ごもっていたのだけれど、それでも、
「すこし、どこかで何か飲みましょう」
 とぼくが肩を貸してあげると、とつぜん動悸が激しくなってしまった原因をお姉さんはぽつぽつ話してくれて、なんでもあさ美お姉さんは、子どものころからサーカスのあのピエロが大の苦手で、
「いきなりピエロがちかよってきてチラシを渡してきたから、怖くてうずくまっちゃったの」
 ということで、従業員さんに背中をさすってもらっていたらしいのだ。
「そういえば、子どものころの友だちにもいたな、ピエロ恐怖症の子」
「大人になって、まえよりはすこし平気になったんだけど、でもやっぱりだめだった……」
 あさ美お姉さんはピエロほどではないけれどもマクドナルドの〝ドナルド〟も苦手らしく、だからあさ美お姉さんはすくなくとも単独ではマクドナルドに立ち寄りもしないとのことだったが、
「でも、たまきくんと会ったら、お姉さん、だんだん元気になってきたみたい」
 とじっさい顔色もよくなってきたお姉さんは、
「菊池さんと仲良くやってる?」
 などと一通りきいたのちに、
「最近たまきくんの好きそうな子めっけたんだけど、ちょっと会ってみる?」
 と浮気のリスクを説いたそばからぼくに写真を見せようとしていて、お姉さんは、
「その子、菊池さんほど小柄ではないんだけど、でもきれいだし、あっち系もすごいの」
 となにげにとてつもなく興味をそそられる情報も小出しにしていたのだけれど、それでもぼくは大きめのパーカーを着た菊池さんを目の奥に想いうかべながら、どうにか「あっち系もすごいの」というそのあっち系の誘惑を退けていて、話題を変えるためにあさ美お姉さんのひらひらお面の生写真は菊池さんに見られないようにカムフラージュしてたいせつに保管してありますと報告すると、お姉さんは、
「だったら、もっといい写真、今度もってきてあげるね」
 とぼくが薦めたホットココアをふーふーしながら確約してくれた。
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