第24話

文字数 6,174文字

      その二十四

 ジャケットの内ポケットから取り出した例のコピー用紙を菊池さんに手渡すと、
「赤いボールペン――ああ、ここですね」
 とさっそく菊池さんは翻訳作業に取りかかってくれたのだけれど、
「これ、のりピー語とパピパピ語のふたつで暗号化されてるんですね」
 となにげにパピパピ語にも精通していた菊池さんは、
「なにか書くものありますか?」
「ありますよ」
 とぼくからボールペンも受け取ると、おもむろに赤い暗号文の下に翻訳された言語を書き出しはじめた。
「うーん、のりピー語の〝マンモス〟とパピパピ語の〝ビービー〟がひとつの文のなかに入っているけど、これは〝にょろにょろ〟をより最上級にするためなんだろうな……」
 菊池さんがおっしゃるには、この「にょろにょろ」というのはパピパピ語で〝長い〟という意味らしく、そこにマンモスとビービー(ビービーはパピパピ語においてのいわばマンモスらしい)がからんでいるので「マンモスにょろにょろビービー」というのは「ものすごーく長い」ということになるようだが、あさ美お姉さんが最後まで訳せなかった〝どじッピー〟というのは菊池さんの解釈だとのりピー語ではなく、パピパピ語のなんていうかスラングみたいな感じの言葉なのだそうで、
「まあふつうは〝うなぎ〟ですよね。場合によっては、うな丼とか、うな重と訳す人もいるだろうけど」
「あとこの〝やっピ〟か……のりピー語だもんね」
「でも、これ長音符がないですよね」
「うん。原文が〝やっピ〟になってたから、いちおうこうやって写したんだけど……」
「わたしもうろ覚えですけど、やっピって、パピパピ語で〝レストラン〟とか〝お食事処〟という意味だったような気がするんです。のりピー語だったら〝こんにちは〟とかだけど……」
「すごく長い、うなぎ、お食事処……あ、おれ、わかっちゃった」
「キャオ」
「〈うなぎ食堂〉だ」
「ウナギショクドウ? どこにあるんですか? その〈うなぎ食堂〉」
「すぐそこだよ。この巨大なショッピングモールにぐるりを囲まれてしまって、いまではほとんど日もあたらないけど、ずっと昔からやってる食堂なんだ」
「わたし、知りませんでした」
「いまから、その食堂に行って、なにか食べよう。お腹もすいたし」
「わたし、そんなにお金もってないんです」
「おごるよ」
 菊池さんと並んで歩くと菊池さんはやはりおもいのほか小柄で、ぼくはエレベーターで下に降りるとき、抱きしめたいとかそういういろいろあれな衝動に激しく駆られたのだが、
「船倉さん、ハンカチめちゃくちゃ噛み噛みしてますね。そんなにお腹すいちゃったんですか」
 とこちらの衝動は空腹のためと菊池さんは捉えてくれていたので、先ほどしゃかりきになってアピールした誠実さのほうは、おかげさまで、どうにか損なわずに済んだのであった。
「わー、たしかにまわりを高い建物に囲まれていて、ぜんぜん景色も見えませんね」
「奥に細長いつくりだから、気づかない人は気づかないんじゃないかな」
 出入り口の靴脱場の下駄箱は上のほうにしか空きがなく、菊池さんだと、とどかない高さだったので、ぼくは菊池さんの靴を、
「やってあげるよ」
 と上の段に入れてあげたのだけれど、その菊池さんに気づいたのか、きょうの大将はぼくのそばに来て、このあいだ話した守衛うんぬんの話はもちださずにいて、だからぼくのほうからまず大将に、
「隊長、まだ帰ってきてないんですか?」
 と声をかけ、まだです、という大将に、
「しょうがないですねぇ」
 といいつつ目の動きだけで「例の話はまた今度」という表現をして三畳間が延々つづいている店の座敷をいつもの奥の部屋めざして菊池さんと向かうことにした。
「すいませーん。通りまーす」
 と手前の座敷にいたお客にシーシー揉み手をしつついってたぼくに最初きょとんとしていた菊池さんも三畳間を二つ三つ通り過ぎるころには意味がわかったのだろう、きちんとシーシー揉み手をしていることになっていたのだが、やがていつものかなり奥のほうの部屋に到着し、おしながきをざっと見て「おまかせフルコース」二人前をとりあえず頼んで菊池さんに、
「お酒飲めますか?」
 ときくと菊池さんは飲めますとこたえ、そのあとに、けっこうお酒は好きです、と付け足してきたので、ぼくは注文を取りに来ていたパートの子にビールも注文した。
〈うなぎ食堂〉は例の事情でどうやら瓶ビールの取り扱いを一時控えているようで、だからぼくは中ジョッキの生ビールをふたつ頼むことにしたのだが、その後こちらにビールをもってきた大将は野球場でみかけるような背負い式のビールサーバーを担いでこの間にやってきていて、大将は、
「ちょうど昨日から使いだしたんです。評判いいですよ」
 とお通しのチーズおかきを腰に付けた袋から出しつついうと、ぼくたちにビールを理想的な泡の分量で注いでくれた。
 それで二時間ばかり世間話をしながら飲んだり食べたりして酒のほうもビール、ハイボールのあと、ふたりでぬる燗をお銚子で二三本空けたのだが、手順書の①には、
「だまし絵が飾られてある部屋で機材を借りる」
 とあさ美お姉さんの筆跡で記されていたので、
「これは手前の部屋にエッシャーのやつがあるんだよ。レプリカだけど」
 とそのだまし絵をまえからうすうす知っていたぼくは、とりあえずそちらにおもむいて機材を借りてくることにした。
「あったあった」
 菊池さんが待っている部屋にもどったぼくはマメカラみたいなハンディ型のカラオケ機を菊池さんに見せ、先ほどまでの世間話だと菊池さんはあさ美お姉さんがいっていた通りぼくより三つか四つくらい年下のようだったので、
「ああ、まだあるんだ」
 とやはりこの機器を懐かしそうに手に取っていたのだけれど、しかしご存知の通り、この〝マメカラ〟はいわゆるパクリ品で、じっさいは「チビカラ」という商品名だったので、まずはさっきのパートの子に使い方をおそわりつつ手順②の「能瀬慶子の『アテンション・プリーズ』を七回歌う」をおこなうことにした。
 能瀬慶子の『アテンション・プリーズ』をぼくが五回、菊池さんが二回、軽く振り付けも交えて歌い終えると、つぎに部屋をこの場から三部屋もどって、ラ・ムーの『愛は心の仕事です』を③の指示に従って――その三畳間をお使いだった方の許可を得たのちに――八回歌った。
「ラ・ムーの登場は、そんなに衝撃的だったんですか?」
「ぼくたちは腰を抜かしました」
 手順の④はラ・ムー部屋から七部屋奥にすすんで森進一の『東京物語』を十一回歌うというもので、奥に七部屋すすんだその部屋は運良く誰も使っていなかったので、とくに手間取ることもなく、ぼくが十回、菊池さんが一回(菊池さんはこの曲を知らなかったが、ぼくが十回も歌っているのを聴いていて、おぼえたのだろう、最後の一回は自ら志願して歌ってくれた)、熱唱したのだが、手順⑤の田上雪子の『気分はピンク・シャワー』三回というのは、パートの子にまたぞろ手伝ってもらっても、どうしても曲を呼び出すことができなくて、だからぼくたちは仕方なく、パートの子が地下の倉庫から探し出してきてくれた歌詞集をみながら『気分はレッド・シャワー』という曲のほうを暫定的に三回歌ったのである。
 最後の⑥の指示は最初の部屋でまたしても『アテンション・プリーズ』を歌うというもので、といってもこちらは二回ほど歌えばよかったので、お食事していた部屋でお互い一回ずつ歌って、
「ああああああああああ、やっと終わったね」
 とレモンサワーとフライドポテトを追加して「お疲れさま」と乾杯をしたのだが、このあと、いくら待ってもあちらの世界に行くためのなにかしらはまったくやってこなくて、
「神様みたいなのも出て来ないね」
「かご屋さんみたいなのがいきなり来て、もっと奥の三畳間にすすんだら、あっちの世界って感じだったら、よかったのになぁ」
 などといいつつもう二三杯レモンサワーを飲んで、さらに耳をそばだてながらしばし待って……うーん……さらにもう一杯ウーロンハイをちびちび飲みながら辛抱強く待って……うーん、うーん……さらにチョコレートパフェを食べながらしばらく待って……うーん……うーん……うーん……、
「やっぱり駄目だったか……」
「なにも起こりませんね」
 と夜も明けるほどの時間になっていたので、ぼちぼち帰ることにした。
「期待させちゃって、ごめんね」
「ぜんぜん。お食事もおいしかったし、お酒もいっぱい飲んだし、たのしかったです。ごちそうさまでした」
 菊池さんは揉み手をすっかりマスターしていて、もどりの長い道のりでも、
「すいませーん。通りまーす」
 などとかわいくお手手をもみもみしつついっていたが、歌いすぎて疲れたのか、なにも起こらなくてがっかりしていたのか、ぼくのほうはただ会釈のみで通らせてもらっている各三畳間の人たちに通行の了承を得ていた。
 店の出入り口から二つ目の三畳間ではお父さんお母さん娘さんの三人家族がたのしそうにお食事していて、ぼくはお父さんのほうにまたぞろ軽く会釈をして部屋を通過させてもらったのだが、ミートボールみたいなやつを口のまわりをベタベタにして食べていた三歳くらいの女の子はキャスケットに興味をもったのか、ぼくのことをなかば硬直しながらジッと凝視してきて、ぼくはその子にニッコリほほえみかけてその子は笑わずにまた家族との団らんにもどっていたのだけれど、二三歩歩いているうちに、ふとあることを思いだした。
 それはぼくがまだ二十代前半だったころのことで、つぐみさんが勤めていた会社の後輩だか同僚の知り合いだか、とにかくそんな人とお食事会をしたことがあったのだが、交際してもらえる異性を猛烈に日々求めていた当時のぼくは、相手方が単独でお越しになることを強く願っていて、しかし初対面の異性と一対一で会うのはやはり抵抗があったのだろう、その女性は連れの女子といっしょに待ち合わせ場所にやってきたのだった。
 待ち合わせた場所は評判のよかった鰻屋で、といってもぼくもその二人の女性も特上鉄火重を食べたのだが、となりのテーブル席ではお父さんお母さん娘さんの三人家族が、
「先月ここで食べたときは、このお新香じゃなかったよね」
 というようなお話をしていて、こちらの家族はどうやら定期的にこの鰻屋でお食事をたのしんでいるみたいだった。
 ぼくは単独でお越しいただくことを切に願った女性ではなく、その連れの子のほうに徐々に惹かれていき、その子はおもしろい人が好きだというので、かんがえつくかぎりのおもしろ話をぼくは全力でしゃべりまくっていたのだけれど、かなりお二人とも喜んでくれ、やがてぼくという存在に慣れて行き、そしていよいよなにかぼくの発言に、どっと大笑いしてくれたとき、となりにいた小学三年生か四年生くらいの女の子がちょっとしょんぼりというか、心底悲しそうな表情に一瞬なって、ぼくはそれに気づいて、きっと月に一度くらいの家族のお楽しみの日に、となりでおれがこんな必死になってバカ話をしているから、この家族は嫌な気持ちになっていたのだろう、とりわけこの女の子は今夜のお食事を何日もまえから楽しみにしていただろうに……と胸が痛くなったのだが、けっきょくぼくは、その女の子にジュースだかデザートだかをおごってあげるという方法も思いついたのに、それを拒絶されて二人の女性のまえで恥をかくことを恐れて敢行せず、まだまだ話の続きを聞きたがっていた二人に向けて、また全力でしゃべりだしたのである。
 ぼくはその家族が帰るまで鈍感なふりをし、家族のことなどいっさい気づいていないという姿勢をこのあとはつらぬいたのだけれど、何日かして、なにかの揉め事に見て見ぬふりをしている中年と遭遇して、
「ずるいオッサンだなぁ」
 と友だちが中年を評していたとき、ぼくは先のご家族にたいしてつらぬいた自分の姿勢をまたぞろ思い出して、おれもずるい大人なんだ、と自身を直視してしまい、そのとき思いついた「女の子にジュースだかデザートだかをおごってあげる」という名誉挽回の方法を敢行できていたら……とひどく後悔したのだった。このことは、もうずいぶん長いことわすれていたけれど、あの当時とおなじようにやはり自責の念に駆られてしまった。
 ぼくはこのようにかなり辛い気持ちになり、会計のさいも大将に生返事でこたえていたのだが、菊池さんに、
「船倉さん、またやってください」
 と上のほうの段に入れてある靴の取り出しをもとめられ、また活力を一気に取り戻した。というか、小柄な、それこそ〝超〟がつくほど小柄な女の子に、このような名誉あることをお願いされて、ぼくは気が遠くなるほどの興奮をおぼえていたのだ。そうなのだ。あのときおれは攻めたのだ。下心のある女性が目の前にいたのだ。しかも二人もいたのだ。そして二人ともぼちぼち小柄だったのだ。菊池さんが勤めていた病院に所属していたら「153」とか「154」とかと私物に落書きされるくらい小柄だったのだ。二人とも年上でどちらかといえば垢抜けないタイプだったけれど、それでもぼちぼち小柄だったのだ。だれがぼくを責められようか。
 ぼくは「攻撃は最大の防御なり」という言葉を思いだし、誠実ぶるのはおしまいにして、こんなにも大好きな菊池さんにたいし、愛を告白することにした。
 ガラガラッと店の引き戸を開けたぼくは、目を閉じ、眉間にしわをよせながらまずは求愛のセリフをかんがえたのだが、最初こそハマグリがどうのこうのとか、そういうセリフしか思いつかなかったのだけれど、夏のおわりに観たゴットファーザーパート2でマイケルが一目惚れした田舎の娘にその日のうちに求婚していたのを思いだして、その方法で臨むことをすぐ決断した。
 マイケルは娘の親にちょっと脅し気味に自分の愛の強さを明示していたが、ぼくはぜんぜんこわもてではないし、結婚してからも菊池さんにいつもつねにやさしくしたいので、そういうニュアンスを出せるセリフをかんがえようと思った。
 それでしばし思案したすえに、ぼくは菊池さんとのお話をかんがみて、
「これからの人生、ずっと菊池さんのパンティーを洗って生きて行きたいんだ。3Aの菊池さんと書かれたパンティーをね」
 というセリフでプロポーズすることにしたのだけれど、
「パンティーだけでなく、お背中も末長く洗ってあげるよ。菊池さんの髪からその小さなおみ足の先まで毎日ぼくがていねいに洗い、風呂からあがったら全身をバスタオルでやさしく拭いてあげ、パジャマも着せてあげ、いちご牛乳も冷蔵庫からもってきてあげる。そしてそのあとは布団を敷いてあげて、さっき着せてあげたパジャマを今度は――」
「ふふふ、船倉さん」
 と呼ばれて目を開けると、菊池さんは呆然としながらぼくの腕にどうにかしがみついていて、
「こここ、ここは……」
 というその〝ここ〟にはひとつも建物がなく、小鳥がさえずり陽の光が降り注ぎ青い空がどこまでもつづいていて、そしてぐるりを田畑で囲まれた、気持ちの良い風がとおりすぎるその先には、馬車に乗った見知らぬ紳士が、ぼくたちにこちらに来るよう手招きしていた。


  (第二部 了)
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