第35話

文字数 3,016文字

      その三十五

 船倉荘の畳の張替えはあさっての午後にやってもらうことになっているので、ぼくはもう一日ピーチタルトのほうの住まいで菊池さんと過ごすことにしたのだが、晩酌のときに、
「そういえば昨日、レンタルビデオ屋さんから電話あったよ」
 と菊池さんにいわれて翌朝さっそく例の〈ポテロング〉に行ってみると、いつ見ても貸出中だった「びっくりピーチタルト新記録」の14巻がおかげさまで返ってきていて、顔なじみの店長は、
「昨夜までは21巻もあったんですけどね」
 とちょっと申し訳なさそうにしてはいたけれど、それでも一つでもビデオをお借りできるのであれば今回は満足で、そんなわけで住まいにまっすぐ帰ったぼくは、とりあえずこの14巻を鑑賞してみることにした。
 ぼくは「びっくりピーチタルト新記録」の1巻から12巻まですべて観ているのだが、5巻から12巻まではぜんぶマイケル・ジャクソンの選手権というか、スリラーのダンスを競い合う感じで構成されていて、そして久しぶりに観た14巻もやはりマイケルのスリラーを競う趣になっているのだった。
 ピーチタルトの国民は全体的にスリラーのダンスに磨きをかけることに熱心なようで、14巻で準優勝していたピーチタルト防衛学校関係者総勢八十人でのスリラーもだからなかなか迫力があったわけだが、お昼を菊池さんと食べたのちに、公園でランニングをするついでに徒歩で〈ポテロング〉まで行ってビデオを返して(今回は当日返却で借りていた)、今度は公園にやはり歩いておもむくと、范礼一さんがベンチにすわって芝生の広場を眺めながら菓子パンを頬張っていて、ミニスターはぼくに気がつくと、
「軍師!」
 と牛乳パックをベンチに置いてこちらに手をあげてきた。
「休憩ですか? ミニスター」
「ええまあ……いま途方に暮れてましてね」
 范礼一さんはここのところ各国のお偉方と極秘に会っていたらしく、
「モンブラン帝国にも援軍を頼んだんですけど、いまは中立でいたいとか、もぐもぐいってて……」
 となかなか交渉が思うようにいかないみたいだったが、
「シュークリーム帝国もいまはシューアイス帝国と揉めてるから、他所様の国を援護する余裕はないっていってるし……」
 となぜこれほど各国にはたらきかけているかというと、それはいよいよガトーショコラ帝国がこちらに〝いくさ〟を仕掛けてくるからで、
「まあ半年もしたら本格的に攻め入って来るでしょうね」
 と遠くをぼんやりみつめながらおっしゃっていたミニスターは、ピーチタルト帝国は滅亡する運命なのかもしれないと、いつになく弱気になっているのだった。
「和睦はできないんですか?」
「いくつかの国が味方になってくれれば、そこからこじ開けていって和睦という方向にもっていけるかもしれませんが、いまのところむずかしいですね」
「モンブランとピーチタルトの関係は、いままでどうだったんですか?」
「あまり仲良くはないですね」
 公園の芝生の広場ではご高齢の方々がスピーカーから流れるスリラーに合わせてダンスを踊っていて、ぼくが范礼一さんに、
「ピーチタルトはどうして〝スリラー〟がこんなに盛んなんですか?」
 とおききすると、ミニスターは、
「スリラーダンスは国技なんですよ。向こうは相撲でしたっけ?」
 とおしえてくれたが、それでも近年はジャクソン皇帝がピンク・レディーに凝っている関係でピンク・レディーの「ペッパー警部」の振り付けを国技にしようという案もあるらしくて、
「『ペッパー警部』は大好きなんで、ぜひ国技にしていただきたいのですけど……でも、ガトーショコラとのいざこざが収まるまでは『スリラー』のほうに予算をかけてもらえませんか?」
「といいますと?」
「さっき『びっくりピーチタルト新記録』の14巻を借りて観たんですけど、防衛学校のスリラーとか、かなり迫力があって素晴らしかったのです」
「ふむふむ」
「あれを十万人規模でできれば、ガトーショコラにたいして有利に立てるかもしれないんですよ。ぼくの個人的な……まあ一種の秘策なんですけど」
「いやぁ、天下のピーチパイドンさんがかんがえてくれた秘策であれば、きっとうまく行きますよ! もっと国民にスリラーを稽古させれば良いのですね?」
「ええ、まあ」
 范礼一さんはぼくがこのように励ましてあげると一気に活力をとりもどしてくれて、
「ガトーショコラの件が収まれば西施子さんと結婚できるんです」
「ほお!」
「さっそく皇帝にスリラーのことを告げてきますよ」
 と自転車を立ちこぎして宮廷に向かわれたが、ちなみにぼくの秘策というのは、いま現在船倉家の母屋でとくにぼくにたいしてやたら家長面しているゲーム好きの兄貴より想起されていて、というのは、兄貴はいまはどうか知らないけれどもすくなくともぼくが母屋に住んでいたころは、いわゆる「マイケル・ジャクソン恐怖症」だったのだ。
 兄貴はスリラーのミュージックビデオをもっていた姉の京子を当時かなり警戒していて、茶の間で京子がそのミュージックビデオを観ている場合は、
「たまき、京子があれ見終わったら、おれの部屋ノックしてくれ」
 と食事時でもぜったい茶の間に来ようとはしなかったのだけれど、それでも京子がビデオを観ているときに茶の間にうっかり入ってきちゃったりしたら、兄貴はたいてい、
「うぎゃー」
 と目を隠したのちに薄目を駆使してどうにか自室に逃げ込んでいて、しかし昔つぐみさんに紹介してもらってお食事した女の子のイトコだかハトコだかも兄貴とおなじように「マイケル・ジャクソン恐怖症」だったので、そのお話をきいたときだけは、
「過呼吸になっちゃうのか……」
 とちょっと気の毒にも実弟は思ったのだった。
 ガトーショコラ皇帝の跡取り息子は胸の谷間をちら見せしてもらったりなどして気に入っていただろうひとみさんの翌日の親切にたいし、そのハッピーセットの紙袋をどこかに放り投げたのちに自室にひきこもるという対応を取っていて、ピエロ恐怖症のあさ美お姉さんはマクドナルドのドナルドもちょっと苦手でマイケル・ジャクソン恐怖症の兄貴はピエロもたしょう苦手だったのだから、おそらくドナルド恐怖症の跡取り息子はマイケル・ジャクソンもぼちぼち怖いのではないかと推測されるのだけれど、もし跡取り息子のスリラーにたいする恐怖心がわずかなものであっても十万人とかそういう規模でスリラーを見せつけてやれば、そのちっちゃな恐怖心も何倍にもなってドナルドに抱く恐怖と同等のものになるはずで、ガトーショコラの国民もそんなふうに次期皇帝がスリラーとかにビビリまくっていたら国の行末を案じてピーチタルトのほうに鞍替えする奴も出てくるだろうから、よってわたくし桃パイドンは、ミニスターの范礼一氏に先のような協力を要請したのである。
 ピーチタルトの丘総合公園のランニングコースで五キロほど走ったぼくは、スマホで音楽を聴きながら徒歩で住まいにもどったのだが、帰り道の途中にある市場で買い物をしていた菊池さんは、
「外出するときは身を守るためにも、なるべく着るようにしてください」
 と范礼一さんより支給されている幼稚園スモックをこのたびもちゃんと着てくれていて、黄色い丸帽子もかぶっていた妻はおなじく黄色いポーチからお財布を取り出すと、トマトとキャベツとニンジンの代金を、
「はい」
 とそのおばさんに背伸びするように手渡していた。
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