第28話:ポルトガルの思い出と義理の父が重体

文字数 1,786文字

 無事にポルトガル旅行を終えて帰って1週間後に写真は動画を整理するために山田家の両親が江成家に来て静香さんのパソコンにビデオカメラとデジタルカメラからデーターをパソコンに入れて大きな画面で動画を再生し、お互いに取った写真で欲しい写真だけを分け合った。その晩は旅行の話で盛り上がり両家の6人で夕食を共にした。


 そしてポルトガル、リスボンとポルトの景色が魔女の宅急便のようで風情があり独特の白や黄色の壁と赤い屋根で丘に沿って段々畑の様に並んで建っている様は絵になると言い、生きているうちに見ることができて、とても幸せだと山田一郎さんが、いつになく雄弁に語った。また海辺の町、コスタノバの町の縦縞の家の話をした。

 アズレージョと呼ばれるポルトガルの装飾タイルの素晴らしいデザインで、何か小粋なな雰囲気がしたと話した。私達の年代の人には日本の終戦後のひどい時期を食べて生き抜くため、がむしゃらに生きた。そして、結婚して家族のために一心不乱に働き、年を取って、振り返ってみると、苦労した思い出ばかりで楽しい思い出なんて、ほとんどなかった。

 しかし、死ぬ前、こんな素敵な旅行ができて命の洗濯ができたよと、ほろ酔い加減で饒舌に多くの話をしてくれた。この話を聞いて勇三の実の母の江成静子さんが、まだ死ぬまで長い時間があるので、また一緒に残りの人生を楽しみましょうと言うと一郎さんは涙ぐんで世の中には、こんな優しい人達がいるのかと泣いた。

 すると一郎さんの奥さんが飲み過ぎですよと肩をたたいた。そして、じゃー帰りましょうと言われて長男の賢一さんの運転で帰って行った。しかし、この話を聞いていた静香さんが嫌な予感がするとポツリと言い、まー気のせいねと言って床についた。その後、勇三も通常の仕事に取りかかり梨園の管理、訳あり野菜、果物の道の家での利用など忙しく動き回った。

 梅雨が明けて多くの梨の木に今年もいっぱいの梨が実り7月下旬、8月になり梨の出荷に追われ、取れた梨を店頭で販売して夜21時まで汗びっしょりになりながら仕事をした。今年も例年通り早めの出荷を心がけて作業していた。今年も例年以上に梨が取れ、十分に利益が出た。10月20、21日と江成家では熱海温泉に泊まりに行った。

そして、ゆっくりと休み11月を迎えた。しかし後で解った事だったが山田一郎さんが8月6日の暑い夜、エアコン嫌いで、夜は窓を開けて寝ていたが、この日は風もなく蒸し暑いで朝起きてきたときに軽いめまいで階段を降りる途中で立ちくらみを起こし座り込んだ。しかし少しして回復したから気にせずにいた。

 その翌々日8月8日の夜0時過ぎに、ひどい頭痛で吐き気を催してトイレで吐いた。さすがに体調が悪いので、近くの国立相模原病院に行くと熱中症と診断された。一応、念のために入院した方が良いと言われ3日間入院して回復。その後は、気をつけ、水を飲むようにして寝る時にエアコンをつけて寝るようになったそうだ。

 やがて11月になり涼しくなり水も気にして飲まなくなり、やがて12月になり12月22日の寒い早朝、山田さんが激しい頭痛と胸の痛みを訴えて同居している長男の賢一さんの運転する車で救急病院に運んだ。すると脳梗塞と心筋梗塞とわかり、この病院では手に負えないと言われ近くの国立相模原病院に転院した。

 その間、約30分だったが運び込まれた時には手遅れで手術しても回復の見込みがないと冷たく言われ病院到着20分後に死亡。その後、全く納得できない賢一さんが最初の救急病院に行き、なんで処置してくれなかったのか理由を聞いた。すると通常、救急病院は持ち回りになっており2次救急病院は一応総、合病院である。

 しかし、今回の様に、脳梗塞と心筋梗塞の多発症例は、脳神経外科の専門医と心臓内科の専門医が必要。その時間帯にはいなかったという説明。その後、山田賢一さんの友人の大学病院の心臓の専門科の山崎秀一さんに直接聞くと、まず、気の毒だったと言った。

 続いて山崎先生がいたとして、自分の父を助けられたかと聞くと可能性は2割と言った。理由は、もし脳梗塞、心筋梗塞の疑いがあるとして昼間ならいざ知らず早朝で病院が開いてない時間、脳血管外科の専門医と心臓内科の専門医を一度に集めて同時に手術するのは極めて難しいし
脳と心臓、同時の梗塞は、致死率が極めて高いと教えた。
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