第1話:勇三の誕生と船頭になる

文字数 1,698文字

 江成勇三は1952年6月7日、神奈川県高座郡相模原町の田名、地元では水郷田名と呼ばれる穀倉地帯の養蚕農家の5人兄弟の3男として生まれた。昔、この地区では、しばしば洪水が起こり江成勇三の先祖が私財をなげうって立派な堤防を建てたので地元では名家として知られているがその江成さんの遠い親戚だった。

 戦後、どこでもそうであったが貧しい生活を強いらたが、それでも食うに困らず、相模川ではアユ、ヤマメ、奥の山に行けば春にはタケノコ、秋には山菜、天然の自然薯、食用キノコがとれ、食いつなぎ、贅沢は出来ないが,ひもじい思いは、しないで、済んだ。勇三の家でも鶏を飼い卵と鶏肉も販売していた。

 江成勇三は歩き始めてから野山をかけめぐり木の実、山菜、タケノコ、食用キノコを袋にいっぱい取って来たり、兄ちゃんに魚の釣り方も教えてもらい男兄弟3人でシーズンには多くのアユ、ヤマメを釣ってきた。いわゆる野生児として元気に育っていった。そして、他の農家と同様に中学を出ると家の手伝いをしながら素朴な生活を続けていた。

 家には3台の自転車と農機具とオート三輪と軽トラックがあり、遠くに出かけるときは両親に許可を得て自転車で、近くは相模原、遠くは、八王子、橋本、津久井湖、相模湖、厚木まで足を伸ばした。そして相模川の川下り「小倉橋から下溝」の船頭の手伝いをして見習いをしていた。

 勇三、17歳で、忙しい夏のシーズン、船頭の見習いをしていた。そんなある日、上品そうな洋服を着た若い娘達が、10人程でやってきて、船に乗せて欲しいというので、いつも船漕ぎを教えてもらってる島田拓蔵さんが、お前の船に5人、俺の船に5人乗せて一緒に行くから後をついてこいと言われた。

 言われた通り、娘達を船にのせて、乗船上の注意事項を読み上げた。それが終わると、これから、川下りをお楽しみ下さいと言って、川を下流の厚木方面に向けてこぎ出した。そして慎重に船を漕いでいると15分たった頃に船の真ん中位に座っていた娘が急に、倒れた。驚いた勇三は前の船の島田拓蔵に大声で娘が倒れたと怒鳴った。

 すると少しして相模原の方の岸に、船を着けて、勇三が、その娘に肩を貸し、大きな草の影の場所に、座らせて、彼女の水筒の水を飲ませて、気がつくと、深呼吸させた。暑気にやられた様だった。島田拓蔵が、お前ら動かずに待ってろと言い後で車を呼んでやるからと言った。その後、島田拓蔵が自分の船を漕いで行った。

 若い娘5人と勇三の6人が、船に残され、日陰の場所で、待っている時間は、長く感じた。勇三は何も言えずにいると意識が戻った娘があんたの名前は電話番号はと聞くのでなんで聞くんだと行くと、そんなの当たり前だろと大きな声で言うので勢いに負けた。彼女は、手帳を見せ名前と住所と電話番号を勇三が書いた。

 時間くらい過ぎて車が2台、川の堤防の道を走ってきて5人の女性を乗せて学校へ帰っていったようだ。その後、島田拓蔵が運転するトラックが来て、船頭が1に降りて、後は,俺がやると言って船の乗っていき、その車で勇三の家まで送り届けてくれた。翌週、日曜日、1968年8月2日の17時頃に勇三の家に格好いい大きな車が止まった。

その車から良い身なりの大人2人と子供2人が降りてきた。よく見ると前日、船で倒れた女の子だった。そして、彼女が,あの人が、その時の船頭さんよと言った。すると、お父さんと思われる人が先日は,ありがとうと勇三の前に来て頭を下げた。家の中から,お客さんかいと母の静子の声がして、出てくるなり、どなた様ですかと聞いた。

 すると先日、学校の旅行であなたの息子さんに助けられた娘の父ですと言った。汚いところですが、どうぞと母が、その4人を家に招き入れた。土間から居間には入ると、今、お茶を入れますといって、お湯を沸かし、お茶をお盆に4つ持って来た。

 そして、お父様は、ご在宅ですかと聞くの野良仕事に、出てますと答えた。すると、私は、相模原の駅前で洋品店、山田屋と言う店をやってる山田一郎と申しますと言い、こっちが女房の絹子、こちらが長男の賢一、こっちが長女の静香と申しますと紹介した。
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