第16話:和子の高度臨床検査長と沖縄旅行

文字数 1,681文字

 つまり、現代的に言えば、農協と食堂がウイン・ウインの関係になるようにして欲しいと農協組合長に言われ了解した。2006年5月の連休、久しぶり長女の和子が江成家に帰って来て、両親に相談したいことがあると言った。それは橫浜の港北ニュータウンの駅前に最先端のCTやMRIを備えた高度医療検査センターをビルの1室に作ろうという話だった。

 4人の放射線科の先生と6人の臨床放射線技師、医療事務の仲間6人で交代で運用していきたいという話が持ち上がり初期費用が4億円かかり、それに1億円投資して欲しいというのだ。もちろん契約書を交わし配当金を長期間出して30年以内に借りたお金を返済する様に考えていると言われ、その提案書をもらい考えておきますと母の静香さんが答えた。

 その後、医師会、開業医、医療関係の会社などの協力で費用の4億円のめどがついたと電話連絡が入り静香も出資を了解して2006年9月から港北ニュータウン駅近くのビルで高度医療検査センターを作り始めて2007年3月からの運用開始をめざすことになったと言われた。あとは、医者と放射線技師、事務受付の人のローテーション表を作る事が大事。

 そして一番、効率的に検査していく事が重要。事務受付には、経験者が3人で、3人が医療事務の学校を出た新人。放射線科の先生は、和子と同期の4人の若手2人、臨床放射線技師は全員がMRI経験者でベテラン。和子と高校時代から親しい久田良男が昭和大学循環器内科からセンター南の昭和大学横浜北部病院に勤務していた。

 そして解らないことがあれば応援すると言ってくれ、新横浜の横浜労災病院にも内科で親しい先生が2人ほどいたので連絡が取りやすかった。地元の医師会長のMS先生も協力は惜しまないから言ってくれと協力的で、都筑区、青葉区、港北区の医師会長の応援も取りつけた。やがて2006年が終わり、2007年を迎えた。

 そして和子が初詣に行き、都筑高度臨床医療検査センターの成功を祈願して来て、あっという間に開所式の3月1日となり実際に検査依頼の方の予約が入って間違えの内容に事務対応をしてもらい検査の前の注意事項を詳しく説明した。この日は大きな問題はなく、ただ、お釣り銭が足らなくなり、銀行に両替に行った位だった。

 そして1週間がたち、トラブルは、3件あり、1件が、MRIの騒音に絶えられなくなり、途中で検査を中止した人が1人でいたが、検査費用は、もらえた。他の2人の内訳は、1人は待合室で貧血を起こして検査のキャンセル。もう1人は、閉所に閉じ込められるのは怖くて、嫌だと、キャンセルとなった。

 MRIデーターをCDに焼き込んで運送業者に行って指示された所定の医療機関へ運んでもらう手続きも滞りなくできた。4月になると、患者さんが増えて、当初17時終了予定が18時になり7月には19時となり患者さんから土日にやって欲しいという要望もあったが、月から金曜の朝8時から19時まででさばききれなくなった。

そのため、土曜の午前中、その次、土曜1日と段階的に検査の日を増やすように考えて対応した。12月には土曜が19時までになり、試しに月曜休みにして日曜にした。すると、そちらの方が希望者が多く月曜を定休日にした。月曜以外、検査日と改定。内科、整形外科、脳外科、耳鼻科、外科、小型病院からの依頼が増えて順調な滑り出しとなった。

 そのために借金の返済も順調に、こなして行き大きな問題は起きなかった。むしろMRIで当初、解らなかった腫瘍、ガン、神経障害、循環障害がわかったと言う症例も増えた。そのため近隣の開業医、小型病院、もちろん患者さんにとって高度臨床医療検査センターの存在意義が再認識された。

 検査の依頼件数が増えて次に考えた対応法は、昼休みの時間差休息で、検査は休みなしで続け、15%の患者さん増加まで対応できた。その後も静香さんは日本株投資を続けて2007年4月迄に旦那さんの投資口座も利用し5年で、人口座を利用して1億円を稼ぎ出した。また、本業の食堂でも1億円の純利益を稼ぎ出し、勇三も5千万円を稼いだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み