第14話:規格外を食堂で調理と子供の進学

文字数 1,665文字

 その提案書を静香さんに書いてもらい、1月20日、農協に提出すると具体的な話がしたいと農協で職員との会議が開かれ農協の開いている所に特設販売所と簡単な食堂を作るので、そこで試験的にやってみることになった。そして、それが成功した時には交通の多い幹線道路沿いに販売所とレストランを併設した

 施設、道の駅を作ろうと考えた様だ。農協で、そのための担当者を男女2人ずつ4名を選んで実行に移すので農閑期に、是非、手伝って欲しいと言われ、勇三と静香さんも了解した。その後、3月になり、梨の栽培の研究の若手が今年も10人来た。

 まず、大きくなった梨の苗木を購入先の農家にトラックで持っていく作業を12人で6チームに分かれて100本の梨の木を持っていき所定の場所に植える作業をした。次に、梨の剪定作業などを指導し花粉つけ作業、摘果、袋かけ、ネット張りを教えて夏を迎え全員で梨の出荷作業で夜遅くまでかかった。

 最近の台風は9月中旬過ぎに来る場合が多いので早めに集荷することを心がけた。また、農協で依頼された高級品種の梨の新高、彩玉については効率が悪いので現在の幸水、豊水で生産数量を増やすことを先に実施したいと考えていた。

 今年から電話注文を受け付けて10kg以上なら相模原から10k圏内は無料でトラックで日にち限定で無料配送するサービスをはじめると、多くの注文が入り、販売終了が4-5日早まった。このサービスはいけると考えて生産量が増えたら八王子、下溝、町田でももっと売れると踏んだ。

 そして収穫後、商品にならない梨を回収してジュースにして、アイスクリームとして再利用し始めると、破棄する梨の量が激減した。そして、桃、スイカなどにも応用できるので農協に具体的なやり方を書類にして提出した。

 農協の廃棄野菜、解決チームでは、きゃべつ、白菜、ナス、ピーマンなど多くの野菜を料理して道の駅レストランで昼食時のランチとして提供すると昨年に比べて、廃棄野菜の量が半減以下にまで減らせたとの報告が入り料理スタッフが増えるともっと減らせると意気込んでいた。

 実際に勇三と静香さんがレストランや規格外の野菜の保存の場所を見て回り改善点を書いて農協に提出した。その後、秋になり今年は紅葉を見ようと、得ない家の6人で11月中旬に清里高原に出かけて紅葉の名所の八ヶ岳麓で素晴らしい、真っ赤な紅葉をみて、多くの写真を撮って帰ってきた。

 やがて1983年が空け今年も熱海温泉に行き疲れを取って、ゆっくりした。そして子供達が地元の小学校に入学して集団登校に加わって小学校に通い出した。その後1984、85、86年と順調に進み、田名農協の農家に千本を越える数の梨の木を植えることができて、勇三の梨の仕事は一段落した。

 その後、勇三は田名地区に梨の木を広めた功績と破棄野菜、果物の再利用の功績が認められて、田名農協の副会長に抜擢された。そして、その後は梨農家を回って問題点を聞いて対処を考えたり道の駅の新規出店を相模原市と共同で計画したりする仕事が増えた。梨の仕事は両親に手伝ってもらい農協からの給料も多く勇三の預金も増えた。月日は流れ1989年には子供達は中学に入り和男と和子は競争しながら勉強して中学でも優秀な成績だった。

 一方株投資の方では1990年4月に静香さんが伊藤忠株を1300円で2万株売りし税引き後利益2150万円で残金が2450万円となり口座に550万円入金し投資口座残金を3000万円に増やした。勇三さんは税引き利益1075万円で残金が1110万円となり口座に790万円入金し投資口座残金を1900万円に増やした。

 1992年8月19日にソニー株を3400円で静香さんが800株を2720万円で買い残金が280万円、勇三さんが500株を1700万円で買い残金が200万円となった。1992年、地元の県立相模原高校に合格。大学受験のため高校2年から予備校に通い始めた。1995年に長男の江成和男は橫浜国立大学理工学部へ、長女の江成和子は橫浜市立大学医学部に合格。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み