第20話 ユーモアと美しさと(トーベ・ヤンソン『少女ソフィアの夏』篇2)

文字数 3,342文字

『少女ソフィアの夏』は、全22篇の連作短編集――いや、一篇がかなり短いので連作掌編集と言った方が適切かもしれません。

 主人公ソフィアの母親は既に亡くなっており、家族は父親と祖母の三人です。物語はほとんどソフィアと祖母がでずっぱり、時々父親が顔を出す、といった構成になっています。

 訳者である渡部翠氏の「あとがき」によれば、ソフィア一家にはモデルがあります。
 ソフィアの父親は作者トーベ・ヤンソンの弟・ラルスで、祖母はトーベ・ヤンソンの実の母親、つまり、ソフィアは作者の姪に当たるわけです。 

 渡部氏に拠れば、ラルスの妻・ニータは健在だったようなので、「母親が死んだ」というのはフィクションだということになります。おそらく、祖母と孫娘・ソフィアの関係性を際立たせるための設定だったのでしょう。

 母親がいないことで、確かにソフィアと祖母の間の距離は非常に近く、且つ特別なものとなり、物語としての純度を高めています。

 ラルス一家も、また作者のトーベ・ヤンソンも、それぞれ自分の島(フィンランド湾には全部で約三万も島があるそうです!)を所有しており、夏の間(なんと四ヶ月も!)ずっとそこで過ごしていたそうです。

 こう聞くと、すごく優雅なようですが、この二つの島の緯度は樺太よりも北に位置していて、自然環境は非常に厳しく、日本人が思い浮かべる「島のリゾート」などとは全然違います。

「あとがき」に付いている写真を見ても、「島」というより「ちょっと大きめの岩」(!)と言った方が適当な感じで、よくこんな何もないところで一年の三分の一も過ごせたものだと思ってしまいます。
 実際、描かれている日々の生活も、現代の日本人の目から見ればかなり質素で不自由な感じがしてしまうのですが、ソフィア一家はこの島での生活をかけがえのないものとして愛し、心から楽しんでいるのです。

 ソフィアの祖母も、かつては(当然ながら)少女でした。しかも、元ガールスカウトのリーダーで、「あの時代に幼い女の子たちがスカウト活動に参加できるようになったのは、おばあさんのおかげだった」と言われる偉大な少女だったのです。
 でも、それから長い年月が過ぎました。元少女は今、孫の少女に、かつて自分が嵐の海を「スプリット帆船(小型ヨットの一種)」で航海した時の冒険譚(もう何度目)を語り聞かせています。

「(前略)そりゃあもう、必死だったもんだよ。北ブイ! とか、西ブイ! とか、言うが早いか、もう通りすぎていて、見えやしないんだから。そうそう、舵がゆるんできたことがあってねえ……」
「そうそう。それをおばあちゃんが、ヘヤーピンでなおしたんでしょ」
 ソフィアが言った。
 おばあさんは、足で水たまりをかきまぜているばかりで、なにもいわなかった。
「あ……安全ピンだったっけ?」ソフィアがつづけた。「いちいちなにもかも、おぼえていられないわ。舳先で舵とりをしてたって、だれだっけ?」
「おまえのおじいさんに決まっているだろ。つまり、わたしが結婚していた人だよ」

⁉」

 ソフィアのおどろきようといったらなかった。(傍点部南ノ)

 このように、ソフィアと祖母の掛け合いは漫才みたいなところがあり、思わず声を上げて笑ってしまうユーモラスな場面も少なくありません。

 わたしはこのふたりがトランプをする場面がすごく好きなのですが、それは次のように描かれています。

 それでもときどきは、おばあさんとトランプをした。おたがいに、

使

、ゲームの夜は、きまってけんかで終わるのだった。
(傍点部南ノ)

 ――『麻雀放浪記』かい!

 最後は「きまってけんかで終わる」という、ふたりの「けんか」とはこんな感じです。

「おお、イエスさま! いいかげんにしてよ、おばあちゃん!」
と、ソフィアが言った。
「キングを持ってるくせに、だんまりを決めこんで、すましてるなんて!」
「神さまのお名前を、そんなふうに使うものではありません!」
と、おばあさんが言った。
「神様だなんて、言ってない。イエスさまって、言っただけだもん」
「イエスさまも神さまも、おなじく尊いおかたです」
「ちがいます!」
「ちがいません!」
 ソフィアは、持っていたカードをぜんぶ床にばらまいて、さけんだ。
「神さまの家族がなによ! 家族なんてみんな、知るもんか!」

 ここだけ読むと、ソフィアがとんでもない生意気な子供みたいですが、実は祖母の方もたいがいです。トランプで「いかさま」をしているのは前述した通りですが、他にも――

 牧場に遊びに行った時、おばあさんは自作のヘンな歌をうたうのですが、その歌詞がなんと「モウモウさんの フン ララフン」、「モウモウさんの ウン ラランコ」というとんでもない内容なのです(しかもおばあさんはオンチ!)。
 歌詞の意味に気づいたソフィアは、カンカンに怒ります。

「なによ、それ⁉」
 ソフィアが、おしころした声で言った。彼女は、自分の耳が信じられない気がしていた。そこでおばあさんは、この、じつにバッチイ歌を、もういちど、はじめから終わりまでうたったのだった。

 こういう祖母と孫娘の物語を読んでいると、わたしたちの家族関係とはずいぶん違うなあと思わずにはいられません。

 日本――に限らずアジア全体なのかもしれませんが――の子供だったら、無意識に祖母の前でもっと「いい子」であろうとするし、祖母の方も年長者としての威厳を示す、と言うか、少なくともそういったものを多少なりとも意識するのではないでしょうか。

 どちらがいいか悪いか一概に断ずることはできないとしても、ソフィアとおばあさんの関係がわたしたちの社会におけるそれよりずっと自由で対等であることは確かなようです。 

 ソフィアとおばあさん。
 こんなふたりだからこそ、互いに思いやる場面には深い感動を覚えずにはいられません。わたしが特に好きなのは、ヴェネチアからの絵葉書を受け取ったソフィアが、おばあさんと「ヴェネチアごっこ」をするエピソードです。

 ソフィアとおばあさんは島の沼地に、木や石などを使って、ふたりだけの「ヴェネチア」を作るのですが、ある日「風力6の低気圧」が島を襲い、「ヴェネチア」は水の底に沈んでしまいます。

 暴風雨の夜中に、「沈んでる! 宮殿がない!」と「口をあけたまま泣」き出したソフィア。おばあさんは「おばあちゃんが見つけておくから」と言って彼女をベッドに寝かしつけ、自分は部屋に籠もって、ソフィアの一番のお気に入りだった「総督宮(ドウカーレ)」を徹夜で新しく作り上げるのです。

 七時に総督宮(ドウカーレ)ができあがった。とたんに、ソフィアがドアをドンドン鳴らした。
「ちょっとお待ち!」おばあさんが言った。「かぎがかかっているんだよ」
「見つけたあ?」
 ソフィアがさけんだ。
「あそこに、まだあったあ?」
「あったとも、あったとも」おばあさんが答えた。「そっくり、ちゃんと残っていたよ」
(中略)おばあさんが、ドアをあけて言った。
「運がよかったよ!」
 ソフィアは宮殿を、ためつすがめつ、たしかめていた。それから、ナイトテーブルにのせたかと思うと、ひとこともしゃべらず、だまりこくってしまった。
「ちゃんとしているだろ? どこも、なんともなってないだろう?」
 おばあさんが、内心ひやひやしながらきいた。
「しずかに!」ソフィアが声をひそめて言った。「……無事かどうか、たしかめているところなんだから!」
 ふたりは長いあいだ、耳をかたむけていた。やっとソフィアが言った。
「だいじょうぶ。安心して、おばあちゃん。(後略)」

 ソフィアは想像力が豊かで、とっても勘がいい女の子なのです。そんな彼女が「だまりこくっ」た後に言う「だいじょうぶ」……。
 人間関係において、思いやりというのは決して一方通行ではありませんよね。

 ――「あとがき」に拠れば、トーベ・ヤンソンは渡部氏に、「この作品は、わたしの書いたもののなかで、もっとも美しい作品なのよ」と語ったそうですが、その「美しい作品」の中でもこれは指折りの、極めて美しい場面だとわたしは思います。

                   (トーベ・ヤンソン『少女ソフィアの夏』篇・了)
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