第8話 保坂和志が教えてくれたこと(保坂和志『この人の閾』、『ハレルヤ』篇1)
文字数 2,729文字
わたしたちの日常は、ある日突然、壊れ、失われてしまう。少なくとも、そういう可能性が常に自分の隣にある。
――という感覚、あるいは意識は、2021年も終わろうとする現在、わたしたちにとって、それほど特異なものではないような気がします。
でもそれは、コロナ禍によって初めてもたらされたものではありません。もっとずっと前から存在していました。
では、いつからなのでしょうか。こういうふうに言うと、3.11を思い起こす方が多いかと思いますが、わたしにとって、こうした感覚、意識の源を探ると、「1995年」という時間点に辿り着きます。
1995年1月17日に阪神淡路大震災が起こり、3月20日には地下鉄サリン事件が起きました。特に地下鉄サリン事件の時には、日常的に東京にいた時期だったので身近に感じざるを得ない状況でした。わたしは今でも、事件直後、自分の乗った地下鉄の車窓の闇の中に「霞ヶ関駅」が浮かび上がり、そのまま通過していった情景を覚えています。※1
――そんな年の7月、第113回芥川賞を受賞したのが、保坂和志の『この人の閾 』でした。
この作品を強く推した選考委員は日野啓三と河野多恵子でした。
候補作は全部で6篇あったのですが、日野は他の作品にはまったく触れず、『この人の閾』についてだけ述べるという異例の選評を書きました。その一部を引用します。
バブルの崩壊、阪神大震災とオウム・サリン事件のあとに、われわれが気がついたのはとくに意味もないこの一日の静かな光ではないだろうか。
河野多恵子は、次のように述べました。
本当に新しい男女を活々と表現していた。(中略)二人は互いに異性意識から全く解放されていて、そのために却って男が、女が、どこまでも自由に――つまり、豊かに、鋭く、描出されている。
ただ、この選評を読んだ人が、実際に『この人の閾』を読んだ場合、ちょっと肩透かしを食らったように感じるかもしれません。
わたしは『この人の閾 』を初めて読んだ時の感覚をよく覚えています。本屋さんでちょっと立ち読みするつもりだったのに、気がついたら全部読み終わってしまっていました。中篇をひとつ丸々立ち読みで読んでしまったいうのは、後にも先にもこの時だけです。
でも、どんな作品だったのかと聞かれると、説明するのが非常に難しいのです。結局、「一組の男女が最初から最後までずっとおしゃべりしていた話」としか答えようがありません。
今この本が手元にないので、amazonで新潮文庫版『この人の閾』の「内容紹介」を検索してみました。それを以下に引用します。
「汚くしてるけどおいでよ、おいでよ」というので、およそ十年ぶりに会ったこの人は、すっかり「おばさん」の主婦になっていた。でも、家族が構成する「家庭」という空間の、言わば隙間みたいな場所にこの人はいて、そのままで、しっくりとこの人なのだった…。
この男女は、大学時代、同じサークルにいました。女性の方が一年先輩です。大学時代も、また10年後に男性が既に結婚している女性の家に行って、ふたりだけで午後を過ごす時も、河野多恵子が「二人は互いに異性意識から全く解放されてい」ると述べている通り、恋愛感情のようなものはまったく発生しません。
作品の「内容紹介」というのは、出版社が作成してネット書店に提供しているもので、簡単に言ってしまえば、その本が「売れる」ように書くもののはずですが、そこに「すっかり『おばさん』の主婦になっていた」なんて言葉がでてくるのがすごいですよね!
でも、こうした紹介のおかげで、恋愛だとか不倫だとか、本人たちは大真面目に酔っていても、傍から見れば別に美しくも尊くもないものを過剰にありがたがったり、過度に期待したりする人たちには最初から読まれないので、ちょうどいいのかもしれません。実際、保坂和志の小説は、わからない人には全然理解できないようです。同じく第113回芥川賞の候補になり、落選した車谷長吉は、自分が落選した恨みもあってか、「毒にも薬にもならない保坂和志の小説」と
『この人の閾』には、ドラマチックな展開は何ひとつありません。恋愛を描かなくても男女の関係を描けるし、ストーリーというものが殆どなくても非常に面白い小説になり得るということを証明してみせたのがこの作品であり、河野多恵子の「本当に新しい男女を活々と表現していた」という評は、その意味で、作品の核心をついていたと思われます。
ただ、ここからはわたしの感想になるのですが、谷崎潤一郎賞と平林たい子賞をW受賞した『季節の記憶』や、『カンバセイション・ピース』などの代表作、それから最近の『ハレルヤ』を読んだ上で考えてみると、1995年の保坂和志は「新しい小説」を書こうとしていたのかもしれないが、「新しい男女」を書こうとしていたわけでは必ずしもなかったのではないか、という気がします。
日野啓三は「バブルの崩壊、阪神大震災とオウム・サリン事件のあと」という時代性の中で、『この人の閾』の価値を見出し、強く推しました。しかし――話が少し微妙になるのですが、ああした事件が起こったからこの作品が誕生したというわけではなく、事実はむしろ逆で、1995年という年だったからこそ、より多くの人が『この人の閾』という作品の価値に気づくことができたのではないか、とわたしは思うのです。
保坂和志はデビュー時から今までずっと保坂和志であり、たとえ阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件が起きなくても、おそらく『この人の閾』は書かれたはずです。ただ、その作品が芥川賞を受賞するためには、時代性や「新しい男女」の姿といった
つまり、時代性や「新しさ」というのは、実は作者の問題ではなく、むしろ読者(選考委員も読者であることに変わりはありません)の問題なのです。作者の方――これは主に純文学系に顕著なのかもしれませんが――は、おそらくあまり意識せずに書いているのではないでしょうか。そして、その作品が文学賞を受賞するというのは、選考委員たちの、その時点における思想や文学観に偶々 合致したということに過ぎないのかもしれません。
でも、たとえ芥川賞を獲らなくても、保坂和志の小説はその価値を知る人びとの間でひっそりと読まれ続けたのではないかと思います。
本当は『この人の閾』についても書きたいのですが、残念ながら今手元にないため、今回は『ハレルヤ』を取り上げ、次回詳しく書いてみたいと思います。
※1 事件直後、地下鉄の運転は再開されたものの、「霞ヶ関」駅では停車せず、通過扱いになった。
――という感覚、あるいは意識は、2021年も終わろうとする現在、わたしたちにとって、それほど特異なものではないような気がします。
でもそれは、コロナ禍によって初めてもたらされたものではありません。もっとずっと前から存在していました。
では、いつからなのでしょうか。こういうふうに言うと、3.11を思い起こす方が多いかと思いますが、わたしにとって、こうした感覚、意識の源を探ると、「1995年」という時間点に辿り着きます。
1995年1月17日に阪神淡路大震災が起こり、3月20日には地下鉄サリン事件が起きました。特に地下鉄サリン事件の時には、日常的に東京にいた時期だったので身近に感じざるを得ない状況でした。わたしは今でも、事件直後、自分の乗った地下鉄の車窓の闇の中に「霞ヶ関駅」が浮かび上がり、そのまま通過していった情景を覚えています。※1
――そんな年の7月、第113回芥川賞を受賞したのが、保坂和志の『この人の
この作品を強く推した選考委員は日野啓三と河野多恵子でした。
候補作は全部で6篇あったのですが、日野は他の作品にはまったく触れず、『この人の閾』についてだけ述べるという異例の選評を書きました。その一部を引用します。
バブルの崩壊、阪神大震災とオウム・サリン事件のあとに、われわれが気がついたのはとくに意味もないこの一日の静かな光ではないだろうか。
河野多恵子は、次のように述べました。
本当に新しい男女を活々と表現していた。(中略)二人は互いに異性意識から全く解放されていて、そのために却って男が、女が、どこまでも自由に――つまり、豊かに、鋭く、描出されている。
ただ、この選評を読んだ人が、実際に『この人の閾』を読んだ場合、ちょっと肩透かしを食らったように感じるかもしれません。
わたしは『この人の
でも、どんな作品だったのかと聞かれると、説明するのが非常に難しいのです。結局、「一組の男女が最初から最後までずっとおしゃべりしていた話」としか答えようがありません。
今この本が手元にないので、amazonで新潮文庫版『この人の閾』の「内容紹介」を検索してみました。それを以下に引用します。
「汚くしてるけどおいでよ、おいでよ」というので、およそ十年ぶりに会ったこの人は、すっかり「おばさん」の主婦になっていた。でも、家族が構成する「家庭」という空間の、言わば隙間みたいな場所にこの人はいて、そのままで、しっくりとこの人なのだった…。
この男女は、大学時代、同じサークルにいました。女性の方が一年先輩です。大学時代も、また10年後に男性が既に結婚している女性の家に行って、ふたりだけで午後を過ごす時も、河野多恵子が「二人は互いに異性意識から全く解放されてい」ると述べている通り、恋愛感情のようなものはまったく発生しません。
作品の「内容紹介」というのは、出版社が作成してネット書店に提供しているもので、簡単に言ってしまえば、その本が「売れる」ように書くもののはずですが、そこに「すっかり『おばさん』の主婦になっていた」なんて言葉がでてくるのがすごいですよね!
でも、こうした紹介のおかげで、恋愛だとか不倫だとか、本人たちは大真面目に酔っていても、傍から見れば別に美しくも尊くもないものを過剰にありがたがったり、過度に期待したりする人たちには最初から読まれないので、ちょうどいいのかもしれません。実際、保坂和志の小説は、わからない人には全然理解できないようです。同じく第113回芥川賞の候補になり、落選した車谷長吉は、自分が落選した恨みもあってか、「毒にも薬にもならない保坂和志の小説」と
毒
づいたりしていました。『この人の閾』には、ドラマチックな展開は何ひとつありません。恋愛を描かなくても男女の関係を描けるし、ストーリーというものが殆どなくても非常に面白い小説になり得るということを証明してみせたのがこの作品であり、河野多恵子の「本当に新しい男女を活々と表現していた」という評は、その意味で、作品の核心をついていたと思われます。
ただ、ここからはわたしの感想になるのですが、谷崎潤一郎賞と平林たい子賞をW受賞した『季節の記憶』や、『カンバセイション・ピース』などの代表作、それから最近の『ハレルヤ』を読んだ上で考えてみると、1995年の保坂和志は「新しい小説」を書こうとしていたのかもしれないが、「新しい男女」を書こうとしていたわけでは必ずしもなかったのではないか、という気がします。
日野啓三は「バブルの崩壊、阪神大震災とオウム・サリン事件のあと」という時代性の中で、『この人の閾』の価値を見出し、強く推しました。しかし――話が少し微妙になるのですが、ああした事件が起こったからこの作品が誕生したというわけではなく、事実はむしろ逆で、1995年という年だったからこそ、より多くの人が『この人の閾』という作品の価値に気づくことができたのではないか、とわたしは思うのです。
保坂和志はデビュー時から今までずっと保坂和志であり、たとえ阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件が起きなくても、おそらく『この人の閾』は書かれたはずです。ただ、その作品が芥川賞を受賞するためには、時代性や「新しい男女」の姿といった
理由づけ
が必要だったと言えるのかもしれません。つまり、時代性や「新しさ」というのは、実は作者の問題ではなく、むしろ読者(選考委員も読者であることに変わりはありません)の問題なのです。作者の方――これは主に純文学系に顕著なのかもしれませんが――は、おそらくあまり意識せずに書いているのではないでしょうか。そして、その作品が文学賞を受賞するというのは、選考委員たちの、その時点における思想や文学観に
でも、たとえ芥川賞を獲らなくても、保坂和志の小説はその価値を知る人びとの間でひっそりと読まれ続けたのではないかと思います。
本当は『この人の閾』についても書きたいのですが、残念ながら今手元にないため、今回は『ハレルヤ』を取り上げ、次回詳しく書いてみたいと思います。
※1 事件直後、地下鉄の運転は再開されたものの、「霞ヶ関」駅では停車せず、通過扱いになった。