第14話 伊集院版『こゝろ』? モデル小説?(伊集院静『いねむり先生』篇)

文字数 4,641文字

 前回は『群像』4月号のレビューということで、現代文学の最前線といった作品を読んでみたのですが、今回はまたがらりと趣きを変えまして、昭和テイスト満載のエンターテインメント作品を読んでみました。
  
 伊集院静氏の『いねむり先生』です。
 この作品は既に二回テレビドラマ化されているそうなのですが、わたしはそちらは見ていないので、小説のみに関するレビューになります。

 伊集院静氏は小説家として旺盛に活動されているだけでなく、直木賞や小説現代長編新人賞の選考委員等も務め、今や大衆文学の世界における重鎮と言っていい存在ですよね。

『ノボさん 小説正岡子規と夏目漱石』(2013)という作品があるように、伊集院氏が夏目漱石に傾倒しているのはよく知られています。
 わたしの『いねむり先生』に対する第一印象は、この作品は伊集院版『こゝろ』なんだな、というものでした。

 主人公のサブローと、サブローが「先生」と呼ぶ人物――他にも何人かの人物が出てくるのですが、全編ほとんどこのふたりの交流を中心に物語は進みます。

 わたしが読んだ集英社文庫版『いねむり先生』(2013)の作品紹介に「自伝的長編小説の最高峰」と書かれているように、当作品は作者伊集院氏の自伝的要素が強く、主人公のサブローは伊集院氏自身がモデルになっています。

 ということは、「先生」にもモデルがいるわけです。
 作品内では名前は伏せられているのですが、作品紹介では、あっさり「色川武大(いろかわたけひろ)」と名前が明かされています。
 もっとも、『百』や『生家へ』といった色川氏の作品名は、作中にそのまま示されているので、作品紹介に名前が載っていなくても、「わかる人にはわかる」書き方になっています。

 色川武大。
 今は以前ほど読まれていないかもしれませんが、第五回泉鏡花賞を受賞した『怪しい来客簿』や、川端康成文学賞を受賞した『百』、読売文学賞を受賞した『狂人日記』等の代表作を持つ、日本文学史にその名を残した作家です。

 ただ、色川氏の作品として最も人口に膾炙したのは、もう一つのペンネームである阿佐田哲也(「朝だ、徹夜だ!」というシャレ)で執筆した『麻雀放浪記』だったかもしれません(わたしは小説の『麻雀放浪記』は読んでいないのですが、真田広之さん主演の映画は見たことがあります)。

『麻雀放浪記』の主人公「坊や哲」は作者の色川氏と重なり合う人物として描かれていました。実際、色川氏は〝雀聖〟や〝麻雀の神様〟といった異名を持つ麻雀の達人で、作家だけでなく、プロのギャンブラーとしての顔も持つ人でした。

 さて、伊集院氏の『いねむり先生』の話です。
 この作品の内容をざっくり紹介すると、主人公のサブローと先生が、麻雀とか競輪とか、ひたすらギャンブルに明け暮れる物語です(こういうところは、漱石の真面目な『こゝろ』とはかなり趣きの異なる「先生と私」の物語ですね!)。

 前述したように、本文中では「先生」の名前が伏せられているのに、作品紹介にあっさり「色川武大(阿佐田哲也)」と記されていることからも、出版社的にはこの作品をモデル小説として売ろうという意図があったと推察されます。
 
 モデル小説として見た場合、この作品の登場人物のモデルは錚々たる顔ぶれです。
 例えば、サブローは先生の家で、Iさんという歌手と知り合い、一緒に麻雀をします。

 ボクが一番歳が若かったので、Iさんの車がくるのを道端に立って待った。
 Iさんはボクより身体が大きかった。
 先刻、麻雀をしている時も思ったのだが、Iさんの手が大きいのに驚いた。

 この「身体が大き」く、「手が大きい」Iさんというのは、井上陽水さんのことです。

 Iさんが誰なのか作中では明かされないし、巻末の村松友視(ともみ)さんの解説でも触れられていないのですが、Iさんのモデルが誰かは、わたしは読んでいてすぐわかりました。

 色川氏と陽水さんの交流は有名でした。
 これは『いねむり先生』の内容とは無関係なのですが、色川氏が亡くなった時、誰か(作者は忘れました。元担当編集者とかだったかな?)が書いた追悼文をわたしは新聞で読んだ記憶があって、そこにはこんなエピソードが紹介されていました。

 色川氏が原稿を書いている(昭和の作家ですから、もちろん手書きです)と、後ろで陽水さんが「ねえ、遊ぼうよ」と催促する。色川氏が「ちょっと待ってろ」と言いながらペンを動かしていると、待ちかねた陽水さんが色川氏の書き損じの原稿を丸めて、後ろから色川氏の背中目がけて投げつける……。

 その追悼文を書いた人は、ふたりの関係の親密さと、色川氏が「怒らない」ことに驚いたと結んでいた――ような記憶があります(おぼろげな記憶を頼りに書いているので、もちろん原文通りではありません)。

 それにしても、ビッグネームなのに、やっていることは「子供か!」とツッコミたくなるようなエピソードですよね。
『いねむり先生』でも、男の世界――というより、けっこう子供っぽいエピソードの数々が描かれています。そうしたエピソードを通してビッグネームの一面を知ることができる点も、この作品の大きな魅力になっていると思います。

 とは言っても、やはり最大の読みどころは、「先生」こと色川武大の人物像でしょう。サブローと先生の出会いのシーンは次のように描かれています。

 店の奥にテーブル席がひとつだけあった。
 カウンターの客の背中を避けながら奥に着くと、その人が首をうなだれて目を閉じていた。
 ぽっこりと出たお腹が赤ん坊のようで、そのお腹の上に両手を行儀良く揃えて置いたぽっちゃりとした手も赤ん坊そのままのように見えた。

 タイトルが『いねむり先生』という通り、「先生」にはところかまわず眠ってしまう症状があるのです。これはナルコレプシー、俗に眠り病と呼ばれる難病であり、更に「先生」が日常的に幻覚や「尖ったもの」に対する恐怖症などに苦しんでいたことが、作中で明らかにされていきます。

 例えば、「先生」と一緒にタクシーに乗ったとたん、「先生」が眠り込んでしまい、自宅のある神楽坂に着いてもなかなか起きません。なんとか目を覚ました先生がタクシーを降りた後、サブローは急に不安になります。そこでタクシーを戻して先生を探すのですが、見つかりません。
 さんざん歩き回ったサブローは、お寺の境内のベンチにひとりで座っている「先生」をようやく見つけ出します。

 先生の頭上で悲鳴のような音を発している欅の枝と葉。さらにその上空で瞬き続ける星々。降り注ぐ天体の瞬きと騒々しい季節風の中で、先生は身をかたくして何かを見つめていた。
 その姿には安堵も平穏もないように思えた。ただ寂寥だけがひろがっていた。
 ボクは不安になった。見ていて先生の、あの巨躯が少しずつちいさくなっていく錯覚にとらわれた。
「先生……」
 胸の中でつぶやいたが声にはならなかった。どうしてよいのかわからなかった。
 あれほど人から慕われ、ユーモアにあふれた人が、こんなふうに吹き溜まりの中で、ただの石塊(いしくれ)のように闇の中に置き去りにされていた……。

 このような「先生」に、サブローはどうしようもなく惹かれていきます。それは、サブロー自身が深い心の闇を抱えていたからでした。 

『いねむり先生』の冒頭近くに、こんな一節があります。

 二年半ほど前、ボクは長くつき合っていた若い女性とようやく所帯を持った。すったもんだしたあげくの結婚であったが、ボクなりに放埓な暮らしに終止符を打ち、再出発しようとしていた。そんな矢先に妻が癌であることがわかり、明日死んでもおかしくないと医者に宣告された。(中略)妻は嘱望された女優であった。ボクは病院を取り囲んだ取材陣に隠れるように家と病院を往き来した。二百日後、死は唐突にやってきた。やり場のない憤りと虚脱感はボクを酒とギャンブルにのめり込ませた。

 この「嘱望された女優」のモデルは、夏目雅子さんです。

 今の伊集院氏は作家として超有名なので、そのイメージが強いですが、伊集院氏が小説家として注目されたのは、短篇集『乳房』(第12回吉川英治文学新人賞受賞作)を刊行した1990年以降のことです。

 伊集院氏は元々大手広告代理店の社員で、華やかなショービジネスの世界で活躍していた人なのですが、1985年に夏目雅子さんが白血病で亡くなった当時は、妻の看病のため仕事をしておらず、ワイドショーなどでは一般人の夫という扱いだったようです。

 夏目雅子さんは、実はわたしの世代ではあまり作品を見たことはなくて、出世作と言われる『西遊記』の三蔵法師役も、リアルタイムでは見ていませんでした。
 ただ、大ヒットした映画『鬼龍院花子の生涯』のテレビCMの、「なめたらいかんぜよ!」というドスの利いた台詞はうっすら覚えています。

『いねむり先生』の作中では、「先生」と同様、妻の名も伏せられているのですが、村松友視さんの解説の中には、はっきり名前が出てきます。
 夏目雅子さんの映画の代表作としては、前述した『鬼龍院花子の生涯』のほかに、『時代屋の女房』があるのですが、その原作者が村松友視さんなんですね(ちなみに原作は第87回直木賞受賞作)。

 村松友視という名前にピンとこなくても、「ワンフィンガーでやるも良し、ツーフィンガーでやるも良し」という、かつてのサントリーオールドのテレビCMに出ていた人と言えば、「ああ」と思う方も多いのではないでしょうか。

 昭和という時代は「小説家の時代」でもあって、有名作家がけっこうCMに出ていましたよね。狐狸庵先生として知られた遠藤周作氏が、ネスカフェゴールドブレンドの「違いがわかる男」に出演していたりとか……。

 閑話休題。
『いねむり先生』の話に戻りますが、伊集院氏としては、この作品が有名人のゴシップ的興味で読まれるのが嫌で、あえてモデルたちの名を伏せたのかもしれませんが、読者としてはやはりモデルが誰かを知って読む方が断然面白いというのが、わたしの正直な感想です。
 
 ただ、この作品が読者を感動させるところは、有名人ゴシップとは関係なく、サブローと「先生」の魂の交流です。
 最愛の妻を亡くし、失意のどん底にあったサブローは、「酒とギャンブルにのめり込」んだ生活の中で、幻覚の発作に襲われます。その時、サブローの苦しみを理解し、救ってくれたのは、自分も同じように幻覚の苦しみを抱えている「先生」でした。作中、わたしが最も印象的だと感じたシーンを以下に引用します。

「助けてくれ」
 怯えた犬のようにうろたえながら、ボクは泥水の中を逃げまどっていた。
 その時、四つん這いになって泥水の中に埋っていたボクの手がゆっくりと何かにつかまれたような感触がした。ボクは思わず手を引っ込めそうになったが、もう片方の手にも、その感触は伸びて、ボクの両手は何かに包まれたようになった。
 生暖かい感触だった。
 包まれた手が静かに持ち上げられ、顔を上げると、そこに先生の顔が月明りに照らされていた。
「大丈夫だ」
 先生は言った。
「大丈夫だよ。連中は去って行ったよ」

 昭和という時代にノスタルジーを感じる方、有名人の逸話を読むのが好きな方はもちろん、現代ではおそらく失われてしまった、濃密で純粋な人間関係を読んでみたい方に、『いねむり先生』はお薦めの一冊です。

                         (伊集院静『いねむり先生』篇・了)
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