第1話 今村夏子の衝撃(『むらさきのスカートの女』、『こちらあみ子』篇)

文字数 3,646文字

 今村夏子さんと言えば、2019年、第161回芥川賞を受賞した『むらさきのスカートの女』が有名ですが、わたしは受賞当時は読んでいなくて、最近、紀伊國屋書店(台北支店)で単行本を見つけて買って読んでみたんです。結果、けっこう衝撃を受けちゃいました。

 何が衝撃って……とにかく、変!

 すごく平明な文章で淡々と描かれているのですが、そのせいでこの作品の「変」が余計際立ちます。最初は、語り手に対する無意識の信頼感からか、語り手の観察の対象である「むらさきのスカートの女」(文字通り、いつも紫色のスカートをはいている女)のことを変な人だと思って読んでいるんですが、そのうちに本当に変なのはむしろ語り手である「わたし」の方なのだと気づいてしまう時のホラー感。日常が孕む狂気、ねじれた奇妙なユーモア……。

『むらさきのスカートの女』を読んで、俄然この作家に興味が湧いてきたわたし、今村夏子さんのデビュー作も読んでみました。デビュー作は「こちらあみ子」、第26回太宰治賞受賞作です。この作品に短篇「ピクニック」を加えた単行本『こちらあみ子』によって第24回三島由紀夫賞も受賞していますから、現在の日本文壇で非常に注目度の高い作家と言っていいと思いますが、読後感を一言でいえば……変、へーーん‼

『むらさきのスカートの女』も面白かったのですが、この作品が「むらさきのスカートの女」とそれを執拗に観察し続ける「わたし」の関係性の物語なのに対し、『こちらあみ子』の方は、主人公の少女と彼女を取り巻く世界が描かれているという意味で、より器の大きい作品であるようにわたしには思われました。

 この作品の主人公は、タイトル通り「あみ子」という女の子。この子がとにかく、変な子。どこがどう変なのでしょうか。うーん、なんて言えばいいんだろう。譬えれば、水木しげる女の子バージョン?! えっ、余計わからないって⁇(汗)

 水木しげるさんの代表作は、言うまでもなく日本妖怪マンガの金字塔『ゲゲゲの鬼太郎』ですが、他にも『ほんまにオレはアホやろか』などの自伝における、あまりに自由すぎる幼少期のエピソードの数々も有名ですよね。あの水木さんの幼少期をイメージし、主人公を女の子にすれば、あみ子のイメージにけっこう近いかもしれません。

 ただ、水木さんの自伝との最大の相違点は、あみ子がやっぱり女の子だというところ。あみ子は実は心根のやさしく、無垢な女の子で、しかも小学校の時からずっとある男の子に片思いしています。それが水木さんの自伝にはない、ある透明で痛切な感情となって読者の心を揺さぶるのです。

『こちらあみ子』の冒頭近くに、すごい文章が出てきます。

 あみ子には前歯が三本ない。正確には、あみ子から見て真ん中二本のうち左側が一本と、その左一本、更に左がもう一本。※1

 あみ子は現在十五歳。花も恥じらう年頃の乙女なのです。それが前歯三本ないって、いったいどういうことなのか……。
 しかもですね~、前歯が三本なくなった原因が、なーんと片思いの相手(「のり君」という同い年の男の子)にパンチで殴られたからって……!! これを衝撃と呼ばずして何を衝撃と呼べばいいのか、いやもう本当に。

 ここまで読んだ方は、「のり君」をとんでもない奴だと思うでしょう。女の子に手をあげるなんて! しかも前歯を三本も折るなんて! 最低最悪、人間のクズ……。
 ところが――ネタバレを避けるためにこれ以上は書けないのですが、その理由を知ったら、おそらくあなたも、「そりゃあ、殴られるよ」と思っちゃいます。思っちゃうんですよ、これが。思っちゃうんだけど、切ない。だって、あみ子は本当に純粋に「のり君」が好きなんだもん。すっごく一途な女の子の片思い。あみ子ちゃん切ないなあと思いながらも、やっぱり「まあ、そうなるよね」と思ってしまうこの感じ。あのクッキーを食べさせられたらねえ……ああっ、これ以上は言えません。

 もう一つ、あみ子がどんな女の子かわかる印象的なエピソードを紹介しましょう。
 あみ子の今のお母さん(書道教室の先生)は継母なのですが、あみ子の弟になる子供(あみ子が弟だと思い込んでいただけで、実は妹)を死産してしまいます。退院後しばらくして、少し元気になったお母さんが書道教室を再開することになります。教室再開のお祝いに、お母さんにプレゼントをあげようという兄の提案を受けたあみ子は、「弟のおはか」という墓標を作り、庭の金魚の墓の隣に立てます。お母さんの手を引いて庭に連れ出し、褒められると信じてその墓標を見せるあみ子。でも、それを見たお母さんは心が壊れてしまいます。

 この小説から読者が受ける感覚。それは結局、言葉では表現しようのないものなのかもしれません。だって、『こちらあみ子』を読むまでは知らなかった――少なくとも意識せずにいた感覚なのですから、そもそも名前をつけようがないとも言えるでしょう。でも、正にその一点によって、この作品はただの「変な子」のお話ではなく、純文学になっていると思うのです。

 純文学と大衆文学の違いって、何なのでしょうか。
 わたしは、こう考えます。世間一般の常識、道徳観、価値観に寄り添って書くのが大衆文学、そういった常識、道徳観、価値観に揺さぶりをかけるのが純文学。
 そう――

 揺さぶられる感覚!

 これですよ、皆さん!
 この感覚があるかないか、そこに純文学と大衆文学を分かつ境界が存在するのではないでしょうか。
 揺さぶられる感覚は「快」とばかりは限りません。「不快」な場合もあります。それまで確固たるものだと思い込んでいた常識や世界の壁が崩れ始めれば、底知れぬ不安に捉われることもあるでしょう。
 
 大衆文学は、どんなに波乱万丈のストーリーだったり、どんでん返しの結末だったりしても、物語は最終的に収まるところに収まり、社会常識や一般道徳という枠を逸脱することはありません。もちろん、だからと言って、大衆文学が純文学より劣っているなどという意味ではないのです。

 読者が安心して愉しむことのできる作品世界を描くのは簡単なことではありません。大衆文学の場合は、作者がある程度社会経験を積んだ、成熟した人間であることが必要条件になる気がします。実際、芥川賞受賞者と直木賞受賞者では、明らかに直木賞受賞者の年齢の方が高いです(その意味で、朝井リョウさんの24歳での直木賞受賞は、その若さが当時話題になっていましたよね)。

 逆に純文学は、ストーリー的にはほとんど何も起こらなくても、読者の常識や道徳観、価値観、場合によっては世界そのものを揺さぶってきます。ですから、十代の人がその感性に任せて書いた初めての作品が、その新しさによって大きな純文学の賞を射とめるということも十分あり得るわけです。
 余談ですが、エンターテインメントの新人文学賞を謳っている「第15回小説現代長編新人賞」を18歳の現役女子高校生が受賞して話題になりましたが、その作品は――まだ読んでいないので何とも言えないのですが、書評などを読む限り――エンターテインメントというよりむしろ純文学寄りなのではないかという気がします。もっとも、現在の「小説現代長編新人賞」の前身である「小説現代新人賞」は、あの橋本治を輩出した文学賞なので、元々純文学とエンタメの境界のあいまいな文学賞なのかもしれません。興味深いですね。

 さて、『こちらあみ子』の結末近く、わたしにとって最も印象深かった一節を引用しましょう。

「応答せよ。応答せよ。こちらあみ子」
 誰からもどこからも応答はない。※2

 片方しか残っていないオモチャのトランシーバーで、あみ子は呼びかけます。あみ子は弟ができたら、二人でトランシーバーを使って「スパイごっこ」をするのを楽しみにしていたのでした。でも、お母さんが死産していたのは弟ではなく妹だとわかった時、あみ子はたった一人、トランシーバーで呼びかけます。「誰からもどこからも応答はない」にも拘わらず。

 あみ子は、いったい誰に――いや、何ものに向かって、呼びかけているのでしょうか。
 作品の中では明示されていないのですが、この作品の投稿時の原題が「あたらしい娘」であったことが、一つのヒントになる気がします。
 もしかしたら、変なのはあみ子ではなく、彼女を変だと思うわたしたちの方なのではないかという逆転の発想が、この原題からは感じられます。「あたらしい娘」であるあみ子は、わたしたちが目にしたことのない「あたらしい世界」に向かって呼びかけているのかもしれません。たとえ今は応答はなくとも、いつの日か応答する者が現れるのではないか、現れないといったい誰に断言できるでしょうか。
 そう感じさせるだけの力が『こちらあみ子』には確かにあり、それは正に文学の力であるように、わたしには思えたのでした。


※1 今村夏子『こちらあみ子』、ちくま文庫、2014年、P13。
※2 同上書、P110。
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