第27話 わたしの好きな落語家エッセイ・3(柳家小三治『ま・く・ら』前篇)
文字数 5,871文字
落語には「マクラ」(枕)と呼ばれる、一種の導入部があります。
落語というのは、基本的に江戸時代のお話です。だから当然、現代のわたしたちの生活との間には距離があります。
寄席にきたお客さんたちが自然にお噺の世界に入っていけるように、落語家は現代と江戸時代の間に「橋」をかける。
その「橋」が「マクラ」なのだ、とわたしは理解しています。
例えば、元は上方噺で、後に江戸落語にもなった演目に「たちきり」※というのがあります。
この噺のサゲは「ちょうど線香が立ち切れました」というのですが、これは江戸時代、芸者さんをお座敷に呼ぶと、線香を立てて、その線香が燃え尽きるまでの時間を一つの単位としてお座敷代を計算していたことを知らないと、意味がわからないんです。
「たちきり」のような噺をする時には、落語家は「マクラ」で、こういう江戸時代の習慣について説明しておくというわけなのです。
ですから、一般的に「マクラ」はそんなに長いものではありません。橋が長すぎたら、向こう岸に渡るまでに疲れてしまいますもんね。
ところが――
この「マクラ」の概念を覆した落語家がいます。
伝統芸能の世界は非常に保守的なものです。その形式に関わることとなれば猶更 ……。
この一事だけで、不世出の落語家だということがわかります。
その落語家とは――
柳家 小三治 。
この人の「マクラ」は(いつもではないんですが)、ながーいんです。しかも、めちゃくちゃ面白い!
「マクラ」だけで、完全に一つの独立したお話として成立しているんです。その後に本編であるはずの落語がくるのですが、場合によっては、「マクラ」がメインで落語がオマケなんてことすらありました。
――と言うと、「もしかして落語があまり上手じゃなかったの?」と(ばちあたりな)誤解をする人がいるかもしれません。
とんでもない‼
この方は戦後の落語史の中で、間違いなく最高の落語家の一人に数えられる人でした。
1981年には芸術選奨文部大臣新人賞、2004年には芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。
2010年には落語協会会長に就任。そして、2014年には「人間国宝」に認定されています。
人間国宝ですよ、皆さん‼
落語家の人間国宝は史上三人います。
一人目は五代目柳家小 さん、二人目は上方落語の桂 米朝 、そして三人目が柳家小三治。
柳家小三治は小さんの弟子ですから、師匠と弟子が共に人間国宝という、空前にしておそらく絶後の壮挙でした。
柳家小三治の「古典落語」のネタの中で、わたしが一番好きなのは「死神」です。
小三治以前では、「死神」と言えば、六代目三遊亭圓生が、その代名詞になるほど有名でした(『昭和元禄落語心中』の八雲のイメージには、どこかに圓生の影があります)。
他には、立川談志の「死神」も非常に有名です。
ただ、わたし的には、一番好きなのが小三治の「死神」。
とぼけた飄々とした味わいの中に滲む凄み。
小三治を形容する時、よく「飄々とした芸風」という言葉が使われるのですが、それだけではないんです。
滑稽噺の名人としてさんざん客席を笑いの渦に巻き込みながら、その中に
その冷めた視線が、「死神」という――人の運命を見通す、人を超えた存在になんとも言えないリアリティーを与えていて、人の命が蝋燭となって並んでいるという、「死神」の不気味なラストの光景が
公式チャンネルがないため、URLを載せることは控えますが、YouTubeで「柳家小三治 死神」で検索すると出てくるはずですので、ご興味のある方はぜひ聴いてみてください。
さて、ここから柳家小三治著『ま・く・ら』をご紹介しましょう。
本書は前述の通り、小三治の面白すぎる「マクラ」を録音して文字起こししたものなんです。
ですから、各篇の末尾に録音場所と録音時間が明記されています。また、お客たちが笑ったところは「(笑)」と書かれています。
小三治は、「マクラ」でいったい何を語っていたのでしょう。
基本的には、小三治自身の体験談です。
文字で読むと、エッセイのようでもあり、私小説のようでもあり、奇妙な味の短篇のようでもある……そして、やっぱり落語なんです。
ちょっと目次を見てみましょう。
最初の二篇は「ニューヨークひとりある記」、「めりけん留学奮闘記」。
すごいですよね、いきなり「ニューヨーク」ですよ!
しかも、これは1992年に語られた「マクラ」ですから、小三治53歳の時です。
1939年生まれの53歳が、ひとりでふらっとニューヨーク旅行へ出かけてしまうんです。
その理由というのが――
ニュージーランドへ行った時、英語ができないために爪きりを買うのに苦労したからだっていうんです。
ニュージーランドへ行ったときなんか、爪きり買うのに大変な思いしたんですから(笑)。爪が伸びてきちゃってね、どうしようもないんですよ。弱っちゃってねえ。薬局へ行きゃあいいんだろと思って、確かにあることはあったんですがね。
しょうがねえから、手まねと顔つきで、
「アウ、アウ……パッチン。パッチン。」(笑)
「アウ、ネイル・カット」(笑)
すぐ分かるんですね。あ、そうか、ネイル・カットっていうのか。あ、そうだよ。爪ってネイルって、そう言ったもんねって……。
そうやって言って暮らしてれば少しっつ耳で覚えますからね。
ヨシ! 英語覚えるには、自分一人で行かなきゃ駄目だ。他人 の手を借りてたんじゃ英語は覚えられない! 自分で一人で行こうッ‼ て思い立って一人で行ったのが三年前の秋のことでございました。
いや、でも師匠、今更英語を覚えなくてもいいんじゃ……?
言うまでもありませんが、この時の小三治はその芸にますます円熟味が増し、もはや押しも押されもせぬ大看板 。
日本にいれば、それこそ楽屋でふんぞり返って、前座に小言 でもいっていればいい立場なんです。
それが大学生の「自分を見つめ直す旅」じゃあるまいし、一人でニューヨークくんだりまで……?!
しかも行った先では、ぼったくりタクシーに乗ってしまったり、ようやくホテルに着けば「客」と思われず、大荷物を持っているのに「ボーイ」が全然手伝ってくれなかったり……さんざんな目にあうんです。
つい、どうしてそこまでして、と思ってしまいます。内容はすっごく面白いんですけど……。
次の「めりけん留学奮闘記」は、小三治が50歳の時、「カリフォルニア大学バークレー校」に三週間語学留学した話です。
実際に行ってみると、学生募集期間は既に終了してしまっていて、入学できないことがわかります。
ところが、小三治師匠、諦めません。
受付の女性が「ペラペラ何か」言ってきても、「アイ・ウォント・トゥ・スタディ・イングリッシュ」の一言で押し通します。
受付のアメリカ人女性も困ってしまって、「ガラス張りのドアのむこう」で「上司らしい男の人」と相談します。
声はもちろん聞こえない(聞こえても内容はわからない)のですが、小三治は次のように想像します。
「困っちゃってんですよ、ホラあの人。さっきから帰れって何度も言ってるんですけどね、ちっとも帰らないんですよ。パスポート見せてもらったら五十歳ってんでしょう。ずいぶん『ノン』ってやったんですけどね、ぼんやり立ってホラ今涙ぐんでるでしょう。年寄り泣かせるとあと厄介ですからねぇ。何とかなりませんかね、あれ」
ってなことを言ったんでしょう(笑)。
小三治にかかれば、アメリカ人も落語の登場人物になってしまいます。
結局学校側が折れて、レベル確認のための筆記試験を受けさせてもらえたのですが、どうやら向こうがそのまま忘れてしまったらしく、三時間も「狭い一室」に放置されるハメになります。
でも、小三治師匠、この時間を無駄にはしませんでした。なんと荷物の中から辞書を取り出して……(師匠、それはカンニングというのでは……?)
おかげで普通の人は知らないような答えが書けてしまったため、上から二番目のクラスに入ってしまいます。
一日目の授業でいきなり、「パースト・パーフェクト・プログレッシブ」(過去完了進行形)が出てきて、小三治は面食らいます。
第一、そんな文法が要るんですか世の中に。必要ないよ。人間として許せないよー。過去完了進行形ですよ。常識で考えてみたってわかります。
過去でもう完了しちゃったんですよ。それを今さらなぜ進行させる必要があるのか(笑)。
そこで「次の週から一番下のクラス」に編入します(極端から極端へ、ですね!)。
日本の英語教育というのは、文法重視です。だから、小三治は最初、他のクラスメートが自分より英語の文法を知らないことにほくそ笑みます。
喜んでください。今度のクラスは一番難しくても現在進行形。単数現在三人称の動詞にsを付けるかどうか。ね、さっきの問題、あんなンです。
ところがね、HeやSheの現在(形)の、動詞にsを付けるっていうこんな常識なことをね、スペイン人もドイツ人もイタリア人も知りゃがらねぇの。ざまあみやがれ! ですよ(笑)。
ところが、小三治はだんだん奇妙なことに気づきます。簡単な英文法も知らないはずの他のクラスメートたちが、先生の冗談は理解して笑う。小三治だけ意味がわからず、「キョトンと」してしまうのです。
そこで小三治は次のような結論に至ります。
よく考えてみりゃね、ドイツ語もフランス語もスペイン語もイタリア語もね、英語も、みんなあれ親戚なんですよ。親戚なの、先祖おんなじ。(中略)
英語でグッド・モーニング、ドイツ語で言うと、グーデンモルゲン。今まで気がつかなかったけど、これ両方おんなじだよォ。ちょっと口跡の悪い、発音のはっきりしない、ゴニョゴニョゴニョゴニョとモノを言う人が酔っ払って言ったら、両方おんなじになります(笑)。
なるほど、深いですね~(笑)
それにしても、なぜそこまでして英語を学ぼうと……??
あたしはね、この英語の学習を始めるに当たって一つの目標を立てました。十年計画です。十年経ったときに字幕なしで英語の映画を理解してみたい。楽しめるようになりたい。
純粋に趣味の話だった‼
小三治のフットワークの軽さ、趣味の多彩さは落語界広しといえど、特筆に値するものだったと思います。
有名なものはバイクで、落語家仲間でチームを結成し、ヤマハのナナハンで北海道をツーリングしたりしていたんです。
しかも、そのチームの名前が「轉倒蟲 」というのだから洒落 ています。
もっとも、本当に転倒しちゃったら大変なんですが……。
このバイクの話は、『ま・く・ら』の中の「バイクは最高!」で詳しく語られています。
更に、自分のバイクを停めている駐車場にホームレスが住みついてしまった事件の顛末が「駐車場物語」で語られていて、こちらはまるでロアルド・ダールの短篇を読むような、なんとも奇妙な味のお話です。
他にも俳句、スキー、ダイビングなどいろいろやっています。小三治は自分の趣味について、「バイクは最高!」の中で以下のように語っています。
いろいろ今まで趣味……私は趣味で生きてるようなもんで、しょうがないから一部では落語も趣味だなんて言ってみたりもしますけど、そうかもしれません。趣味の中の一番好きだったものか、あるいは深入りしてしまったものか、あるいはたまたま実益を兼ねてしまったものというような(笑)……
小三治がいくら落語の天才でも、前座からの修行が「趣味」でできるような生易しいものだったはずはありません。
でも、そういう苦労は一切語らない。さらっと、「私は趣味で生きてるようなもんで」と言ってしまう。
そこに人間としての凄みがあるというか、とにかく、カッコいいですよね。
古今亭志ん生『なめくじ艦隊 志ん生半生記』、春風亭柳昇『与太郎戦記』、柳家小三治『ま・く・ら』の三冊を、「戦争」というものを基準にして見てみると、世代の違いがくっきりと浮かび上がります。
志ん生は直接兵隊に取られることはなかったものの、慰問のために満州へ行き、現地で敗戦を迎えます。
柳昇は徴兵され、実際に戦場に赴いた世代。
そして、昭和十四年(1939年)生まれの小三治は、6歳の時、東京で敗戦を迎えました。
伝統芸能である落語の世界で
それは小三治が、ようやく就学年齢に達した時に「戦後」を迎えた世代だった、ということと大きな関係があるのかもしれません。
語学留学先のカリフォルニア大学の図書館に、落語の本があるのを発見して、小三治は驚きます。
そうそう、ここの図書館でびっくりしました。書庫に入って「落語」ってえところを探したらあるわあるわ、明治から大正・昭和の落語の本がゾロゾロ。日本では手に入らないような、もちろんわたしの持ってない、見たこともないようなものが、なんでこんな所にあるんだ!
アメリカの懐の深さってえものに、こういう所でも思い知らされた気がしました。
びっくりしたというより、この国の怖ろしさ、これァ、かなわねえなァ。
これは余談ですが、太平洋戦争の時、アメリカの軍隊では兵士に日本語を学ばせました。
その口頭練習を重視する独特の学習法は「アーミー・メソッド」と呼ばれ、日本語教授法関連の本には必ず出てくるんです。
ちなみに日本文学研究者ドナルド・キーン氏などは、「アーミー・メソッド」で日本語を学んだひとりです。
「鬼畜英米」と言って、太平洋戦争中は英語を極力排除し、野球用語の「セーフ」を「安全」と言い替えたりしていた日本とは大きな違いですね。
小三治はそれを身をもって知っていた世代だけに、「これァ、かなわねえなァ」という感慨に至ったのではないでしょうか。
さて、ここまでで既に5500字くらいになってしまったので、ここまでを前篇とし、稿を改めた後篇で、『ま・く・ら』の中でも名編の誉れ高い「玉子かけ御飯」についてご紹介したいと思います。
※ わたしが聴いたことのある「たちきり」は江戸落語バージョンですが、元の上方噺バージョンは、成瀬川るるせさんに教えていただいた、大正上方落語ファンタジー『うちの師匠はしっぽがない』にも出ていました。るるせさん、ありがとうございます!
落語というのは、基本的に江戸時代のお話です。だから当然、現代のわたしたちの生活との間には距離があります。
寄席にきたお客さんたちが自然にお噺の世界に入っていけるように、落語家は現代と江戸時代の間に「橋」をかける。
その「橋」が「マクラ」なのだ、とわたしは理解しています。
例えば、元は上方噺で、後に江戸落語にもなった演目に「たちきり」※というのがあります。
この噺のサゲは「ちょうど線香が立ち切れました」というのですが、これは江戸時代、芸者さんをお座敷に呼ぶと、線香を立てて、その線香が燃え尽きるまでの時間を一つの単位としてお座敷代を計算していたことを知らないと、意味がわからないんです。
「たちきり」のような噺をする時には、落語家は「マクラ」で、こういう江戸時代の習慣について説明しておくというわけなのです。
ですから、一般的に「マクラ」はそんなに長いものではありません。橋が長すぎたら、向こう岸に渡るまでに疲れてしまいますもんね。
ところが――
この「マクラ」の概念を覆した落語家がいます。
伝統芸能の世界は非常に保守的なものです。その形式に関わることとなれば
この一事だけで、不世出の落語家だということがわかります。
その落語家とは――
この人の「マクラ」は(いつもではないんですが)、ながーいんです。しかも、めちゃくちゃ面白い!
「マクラ」だけで、完全に一つの独立したお話として成立しているんです。その後に本編であるはずの落語がくるのですが、場合によっては、「マクラ」がメインで落語がオマケなんてことすらありました。
――と言うと、「もしかして落語があまり上手じゃなかったの?」と(ばちあたりな)誤解をする人がいるかもしれません。
とんでもない‼
この方は戦後の落語史の中で、間違いなく最高の落語家の一人に数えられる人でした。
1981年には芸術選奨文部大臣新人賞、2004年には芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。
2010年には落語協会会長に就任。そして、2014年には「人間国宝」に認定されています。
人間国宝ですよ、皆さん‼
落語家の人間国宝は史上三人います。
一人目は五代目柳家
柳家小三治は小さんの弟子ですから、師匠と弟子が共に人間国宝という、空前にしておそらく絶後の壮挙でした。
柳家小三治の「古典落語」のネタの中で、わたしが一番好きなのは「死神」です。
小三治以前では、「死神」と言えば、六代目三遊亭圓生が、その代名詞になるほど有名でした(『昭和元禄落語心中』の八雲のイメージには、どこかに圓生の影があります)。
他には、立川談志の「死神」も非常に有名です。
ただ、わたし的には、一番好きなのが小三治の「死神」。
とぼけた飄々とした味わいの中に滲む凄み。
小三治を形容する時、よく「飄々とした芸風」という言葉が使われるのですが、それだけではないんです。
滑稽噺の名人としてさんざん客席を笑いの渦に巻き込みながら、その中に
ひやっ
とするような、なんとも言えない冷めた視線がある。その冷めた視線が、「死神」という――人の運命を見通す、人を超えた存在になんとも言えないリアリティーを与えていて、人の命が蝋燭となって並んでいるという、「死神」の不気味なラストの光景が
ありあり
と聴く者の目に浮かびます。公式チャンネルがないため、URLを載せることは控えますが、YouTubeで「柳家小三治 死神」で検索すると出てくるはずですので、ご興味のある方はぜひ聴いてみてください。
さて、ここから柳家小三治著『ま・く・ら』をご紹介しましょう。
本書は前述の通り、小三治の面白すぎる「マクラ」を録音して文字起こししたものなんです。
ですから、各篇の末尾に録音場所と録音時間が明記されています。また、お客たちが笑ったところは「(笑)」と書かれています。
小三治は、「マクラ」でいったい何を語っていたのでしょう。
基本的には、小三治自身の体験談です。
文字で読むと、エッセイのようでもあり、私小説のようでもあり、奇妙な味の短篇のようでもある……そして、やっぱり落語なんです。
ちょっと目次を見てみましょう。
最初の二篇は「ニューヨークひとりある記」、「めりけん留学奮闘記」。
すごいですよね、いきなり「ニューヨーク」ですよ!
しかも、これは1992年に語られた「マクラ」ですから、小三治53歳の時です。
1939年生まれの53歳が、ひとりでふらっとニューヨーク旅行へ出かけてしまうんです。
その理由というのが――
ニュージーランドへ行った時、英語ができないために爪きりを買うのに苦労したからだっていうんです。
ニュージーランドへ行ったときなんか、爪きり買うのに大変な思いしたんですから(笑)。爪が伸びてきちゃってね、どうしようもないんですよ。弱っちゃってねえ。薬局へ行きゃあいいんだろと思って、確かにあることはあったんですがね。
しょうがねえから、手まねと顔つきで、
「アウ、アウ……パッチン。パッチン。」(笑)
「アウ、ネイル・カット」(笑)
すぐ分かるんですね。あ、そうか、ネイル・カットっていうのか。あ、そうだよ。爪ってネイルって、そう言ったもんねって……。
そうやって言って暮らしてれば少しっつ耳で覚えますからね。
ヨシ! 英語覚えるには、自分一人で行かなきゃ駄目だ。
いや、でも師匠、今更英語を覚えなくてもいいんじゃ……?
言うまでもありませんが、この時の小三治はその芸にますます円熟味が増し、もはや押しも押されもせぬ
日本にいれば、それこそ楽屋でふんぞり返って、前座に
それが大学生の「自分を見つめ直す旅」じゃあるまいし、一人でニューヨークくんだりまで……?!
しかも行った先では、ぼったくりタクシーに乗ってしまったり、ようやくホテルに着けば「客」と思われず、大荷物を持っているのに「ボーイ」が全然手伝ってくれなかったり……さんざんな目にあうんです。
つい、どうしてそこまでして、と思ってしまいます。内容はすっごく面白いんですけど……。
次の「めりけん留学奮闘記」は、小三治が50歳の時、「カリフォルニア大学バークレー校」に三週間語学留学した話です。
実際に行ってみると、学生募集期間は既に終了してしまっていて、入学できないことがわかります。
ところが、小三治師匠、諦めません。
受付の女性が「ペラペラ何か」言ってきても、「アイ・ウォント・トゥ・スタディ・イングリッシュ」の一言で押し通します。
受付のアメリカ人女性も困ってしまって、「ガラス張りのドアのむこう」で「上司らしい男の人」と相談します。
声はもちろん聞こえない(聞こえても内容はわからない)のですが、小三治は次のように想像します。
「困っちゃってんですよ、ホラあの人。さっきから帰れって何度も言ってるんですけどね、ちっとも帰らないんですよ。パスポート見せてもらったら五十歳ってんでしょう。ずいぶん『ノン』ってやったんですけどね、ぼんやり立ってホラ今涙ぐんでるでしょう。年寄り泣かせるとあと厄介ですからねぇ。何とかなりませんかね、あれ」
ってなことを言ったんでしょう(笑)。
小三治にかかれば、アメリカ人も落語の登場人物になってしまいます。
結局学校側が折れて、レベル確認のための筆記試験を受けさせてもらえたのですが、どうやら向こうがそのまま忘れてしまったらしく、三時間も「狭い一室」に放置されるハメになります。
でも、小三治師匠、この時間を無駄にはしませんでした。なんと荷物の中から辞書を取り出して……(師匠、それはカンニングというのでは……?)
おかげで普通の人は知らないような答えが書けてしまったため、上から二番目のクラスに入ってしまいます。
一日目の授業でいきなり、「パースト・パーフェクト・プログレッシブ」(過去完了進行形)が出てきて、小三治は面食らいます。
第一、そんな文法が要るんですか世の中に。必要ないよ。人間として許せないよー。過去完了進行形ですよ。常識で考えてみたってわかります。
過去でもう完了しちゃったんですよ。それを今さらなぜ進行させる必要があるのか(笑)。
そこで「次の週から一番下のクラス」に編入します(極端から極端へ、ですね!)。
日本の英語教育というのは、文法重視です。だから、小三治は最初、他のクラスメートが自分より英語の文法を知らないことにほくそ笑みます。
喜んでください。今度のクラスは一番難しくても現在進行形。単数現在三人称の動詞にsを付けるかどうか。ね、さっきの問題、あんなンです。
ところがね、HeやSheの現在(形)の、動詞にsを付けるっていうこんな常識なことをね、スペイン人もドイツ人もイタリア人も知りゃがらねぇの。ざまあみやがれ! ですよ(笑)。
ところが、小三治はだんだん奇妙なことに気づきます。簡単な英文法も知らないはずの他のクラスメートたちが、先生の冗談は理解して笑う。小三治だけ意味がわからず、「キョトンと」してしまうのです。
そこで小三治は次のような結論に至ります。
よく考えてみりゃね、ドイツ語もフランス語もスペイン語もイタリア語もね、英語も、みんなあれ親戚なんですよ。親戚なの、先祖おんなじ。(中略)
英語でグッド・モーニング、ドイツ語で言うと、グーデンモルゲン。今まで気がつかなかったけど、これ両方おんなじだよォ。ちょっと口跡の悪い、発音のはっきりしない、ゴニョゴニョゴニョゴニョとモノを言う人が酔っ払って言ったら、両方おんなじになります(笑)。
なるほど、深いですね~(笑)
それにしても、なぜそこまでして英語を学ぼうと……??
あたしはね、この英語の学習を始めるに当たって一つの目標を立てました。十年計画です。十年経ったときに字幕なしで英語の映画を理解してみたい。楽しめるようになりたい。
純粋に趣味の話だった‼
小三治のフットワークの軽さ、趣味の多彩さは落語界広しといえど、特筆に値するものだったと思います。
有名なものはバイクで、落語家仲間でチームを結成し、ヤマハのナナハンで北海道をツーリングしたりしていたんです。
しかも、そのチームの名前が「
もっとも、本当に転倒しちゃったら大変なんですが……。
このバイクの話は、『ま・く・ら』の中の「バイクは最高!」で詳しく語られています。
更に、自分のバイクを停めている駐車場にホームレスが住みついてしまった事件の顛末が「駐車場物語」で語られていて、こちらはまるでロアルド・ダールの短篇を読むような、なんとも奇妙な味のお話です。
他にも俳句、スキー、ダイビングなどいろいろやっています。小三治は自分の趣味について、「バイクは最高!」の中で以下のように語っています。
いろいろ今まで趣味……私は趣味で生きてるようなもんで、しょうがないから一部では落語も趣味だなんて言ってみたりもしますけど、そうかもしれません。趣味の中の一番好きだったものか、あるいは深入りしてしまったものか、あるいはたまたま実益を兼ねてしまったものというような(笑)……
小三治がいくら落語の天才でも、前座からの修行が「趣味」でできるような生易しいものだったはずはありません。
でも、そういう苦労は一切語らない。さらっと、「私は趣味で生きてるようなもんで」と言ってしまう。
そこに人間としての凄みがあるというか、とにかく、カッコいいですよね。
古今亭志ん生『なめくじ艦隊 志ん生半生記』、春風亭柳昇『与太郎戦記』、柳家小三治『ま・く・ら』の三冊を、「戦争」というものを基準にして見てみると、世代の違いがくっきりと浮かび上がります。
志ん生は直接兵隊に取られることはなかったものの、慰問のために満州へ行き、現地で敗戦を迎えます。
柳昇は徴兵され、実際に戦場に赴いた世代。
そして、昭和十四年(1939年)生まれの小三治は、6歳の時、東京で敗戦を迎えました。
伝統芸能である落語の世界で
てっぺん
までのぼりつめた小三治は、同時に大きく外に開かれた目と、非常に強い好奇心を持っていました。それは小三治が、ようやく就学年齢に達した時に「戦後」を迎えた世代だった、ということと大きな関係があるのかもしれません。
語学留学先のカリフォルニア大学の図書館に、落語の本があるのを発見して、小三治は驚きます。
そうそう、ここの図書館でびっくりしました。書庫に入って「落語」ってえところを探したらあるわあるわ、明治から大正・昭和の落語の本がゾロゾロ。日本では手に入らないような、もちろんわたしの持ってない、見たこともないようなものが、なんでこんな所にあるんだ!
アメリカの懐の深さってえものに、こういう所でも思い知らされた気がしました。
びっくりしたというより、この国の怖ろしさ、これァ、かなわねえなァ。
これは余談ですが、太平洋戦争の時、アメリカの軍隊では兵士に日本語を学ばせました。
その口頭練習を重視する独特の学習法は「アーミー・メソッド」と呼ばれ、日本語教授法関連の本には必ず出てくるんです。
ちなみに日本文学研究者ドナルド・キーン氏などは、「アーミー・メソッド」で日本語を学んだひとりです。
「鬼畜英米」と言って、太平洋戦争中は英語を極力排除し、野球用語の「セーフ」を「安全」と言い替えたりしていた日本とは大きな違いですね。
小三治はそれを身をもって知っていた世代だけに、「これァ、かなわねえなァ」という感慨に至ったのではないでしょうか。
さて、ここまでで既に5500字くらいになってしまったので、ここまでを前篇とし、稿を改めた後篇で、『ま・く・ら』の中でも名編の誉れ高い「玉子かけ御飯」についてご紹介したいと思います。
※ わたしが聴いたことのある「たちきり」は江戸落語バージョンですが、元の上方噺バージョンは、成瀬川るるせさんに教えていただいた、大正上方落語ファンタジー『うちの師匠はしっぽがない』にも出ていました。るるせさん、ありがとうございます!