第4話 時間と記憶というテーマ(『きことわ』篇3)

文字数 1,861文字

『きことわ』のテーマは、「時間と記憶」です。
 芥川賞選考委員のひとり(元東京都知事)は、「プルーストを想起した」と言っていたんですけれど、さすがにプルーストまでいっちゃうのはどうなのかなあ、と選評を読んで思ってしまいました。
 確かに、ここまでストレートに時間と記憶を主題に据えた作品は日本文学の中では珍しいのかもしれないですが、そういう作品がないというわけでもないですよね。

 わたしは『きことわ』を読んで、北杜夫の『幽霊』を想起しました(笑)。選考委員の中では誰も『幽霊』に言及していなかったので、先ずは『幽霊』の有名な冒頭、わたしがかつてしびれた一節をここに引用したいと思います。

 人はなぜ追憶を語るのだろうか。
 どの民族にも神話があるように、どの個人にも心の神話があるものだ。その神話は次第にうすれ、やがて時間の深みのなかに姿を失うように見える。――だが、あのおぼろな昔に人の心にしのびこみ、そっと爪跡を残していった事柄を、人は知らず知らず、くる年もくる年も反芻しつづけているものらしい。そうした所作は死ぬまでいつまでも続いてゆくことだろう。それにしても、人はそんな反芻をまったく無意識につづけながら、なぜかふっと目ざめることがある。わけもなく桑の葉に穴をあけている蚕が、自分の咀嚼するかすかな音に気づいて、不安げに首をもたげてみるようなものだ。そんなとき、蚕はどんな気持ちがするのだろうか。※1

 うーん、やっぱりすばらしい!
『きことわ』ではなく『幽霊』について語りたくなってしまったくらい……(はは!)
 人間にとっての記憶というものが、本当に美しく表現された文章ではないでしょうか。

 「忘れる」ということは、「記憶が失われる」ことを意味しません。もし記憶が失われてしまうものだとしたら、わたしたちが日々の生活の中で、いきなり過去の事柄を思い出すという事実を説明できないからです。

 わたしたちは、過去の記憶を「反芻しつづけている」にも拘わらず、そのことに「無意識」でいます。それが「忘れる」ということの正体です。だから何かのきっかけで「ふっと目ざめ」ると、「忘れていたはずの」過去の記憶が一気によみがえってきたりするのです。

『きことわ』の場合、貴子と永遠子が「目ざめた」のは、「葉山の別荘」が解体されることになったのがきっかけでした。

 一般的に、わたしたちは「時間」というものを、過去から現在までを貫き、未来へ向かって伸びてゆく一本の線のようにイメージします。歴史の教科書は、正にそういう時間観に基づいて記述されているわけですが、実はわたしたちの生活において、時間はいつもそんなふうに規則正しく、直線的に流れてはいません。

 わたしたちは、実に頻繁に過去を思い出します。例えば、一杯のコーヒーを飲む時でさえ、そのマグカップを

買ったか、

買ったかを思い出したりします。つまりわたしたちの「現在」には様々な「過去」が流入してくるのです。
 しかも、それらの「過去」はあまり正確ではありません。同じ時間に同じ場所で同じ経験をしていたはずなのに、各自の記憶がおかしいほど食い違ったりします。また、アルバムで見た写真や親から聞かされた話などが、いつの間にか自分の記憶になってしまっていることも往々にしてあります。

 こうしたことを、わたしたちは皆知っています。でも、そうした抽象的な時間認識だけでは小説にならないのは言うまでもありません。
 芥川賞の選考会において、『きことわ』を強く推した選考委員のひとりは池澤夏樹さんでした。ちなみに、池澤さんは選考委員の中で唯一西村賢太さんの『苦役列車』に全く言及せず、黙殺する態度を採りました。そのことを西村さんがエッセイに書いたりして、当時ちょっとした話題になりましたよね。まあ、選考委員と作家の間に禍根が残るというのは、太宰の時代から芥川賞あるあるですし、それもプロ作家の芸のうちと言えばそうなのでしょう。

 閑話休題(それはさておき)
 池澤さんは『きことわ』について、「時間というテーマを中心に据えた作品である。抽象的なものを具体的に語るのが小説だとすれば、これは希有な成功例と言うことができる」と評しました。
 
 なるほど~~!!

 抽象的なものをいかに具体的に語るか、それが小説を書くという作業の核心であるわけですよね。
 
 ――というわけで、次回は朝吹さんが『きことわ』の中で、抽象的な時間や記憶というテーマを、どのように具体化しているのか見てみたいと思います。

※1 北杜夫『幽霊』、新潮文庫、P5。
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