第9話 保坂和志が教えてくれたこと(保坂和志『この人の閾』、『ハレルヤ』篇2)

文字数 3,068文字

『ハレルヤ』は、2018年に新潮社から単行本として出版されました。表題作の他に「十三夜のコインランドリー」、「こことよそ」、「生きる歓び」という全部で四つの短篇が収録されています。

 ちなみに、「こことよそ」は、その年の最も優れた短篇小説に贈られる第44回川端康成文学賞を受賞しており、この単行本は保坂和志の最近の著作の中でも代表作と考えていいと思います。
 ただ、作者本人は受賞の知らせを聞いた瞬間は、「ハレルヤ」の方が受賞作に選ばれたのかと思ったのだそうです。

 保坂和志は、自他共に認める、日本文壇きっての猫好きです。何しろ本人が「小説は二の次、一番大事なのは猫の世話」と公言しているのだから筋金入りだと言えます。

 表題作の短篇「ハレルヤ」は、2018年『新潮』4月号に発表された作品で、「花ちゃん」という片目の猫が、作者の家に来てから18年8ヶ月後に迎えた死が描かれています。
 
「花ちゃん」との出会いは、「花ちゃん」がまだほんの仔猫だった時に遡ります。作者は奥さんと一緒に、奥さんのお母さんのお墓参りで行った谷中墓地で「花ちゃん」に出会ったのでした。

 その当時、作者夫婦は家を探していました。「住みたい」と唯一思えた家は、値段のことで交渉がうまくいかなくなっていました。ところが、「花ちゃん」がきてから一週間もしないうちに、急に交渉がうまくいって購入できることになります。
 作者と奥さんは、「花ちゃん」には「神さまがついている」と思います。

 あの谷中墓地で、私たちには見えなかったが花ちゃんの向こうに神さまが立っていて、
「この子は目が片方しかないから、そのかわりに新築の家をつけてやることにしよう。」
 と言っていた、と家の話が決まったあと私と妻は話した、この話はその後も何度も二人でした、というか私がした。私はあのとき本当に花ちゃんの向こうに神さまが立っていた風景になっている、妻はこの風景にどこまで賛成かわからないが妻も花ちゃんに神さまがあのときだけでなくずうっとついていたと言っている。※1

 普通なら句点(「。」)を打つところを、読点(「、」)でつなげ、作者の思考をそのまま文字化したような文章は、最近の保坂作品の文体の特徴です。およそストーリーというものがなく、作中で事件というものが殆ど起こらないため地味な印象を与えがちですが、保坂和志は実は極めて実験的な作家でもあるのです。

「花ちゃん」との出会いを回想した時、小さな片目の猫の隣に神さまが立っていた風景が見える――それは非常に美しい記憶ですが、保坂和志はこうした記憶を、人間のみが持ち得る尊いものだとは必ずしも考えていません。

 私はあのとき谷中の墓地で、陽だまりですやすや眠っていた小さい和菓子のおまんじゅうみたいだった花ちゃんの向こうに神さまが立っていたと、見てきた光景のように思い出す、私は人間だからそのようにしか思い描くことができない。※2

「人間だからそのようにしか思い描くことができない」。保坂和志は、動物には動物の、人間とは異なる、「言語を介さない」独特の記憶があることを猫を通して知ります。

 猫は心に(よぎ)る感触をそのまま持つ、記憶というのは生き物が生きるために必要だからあるわけで、生き物はたぶん

記憶する能力を持っている、それなら言葉は記憶の、逆に阻害要因ということにならないか? 言葉ができる人ほど、言葉があるから人間が動物から、ひとり離陸した、とか人間はこんなにも記憶できると言うだろうが、それと逆がありうる、それを忘れたら生きてはいけないようなことは言葉を介させずに記憶する。(傍点部原著者)※3


 私小説というのは、近代日本文学が生んだ独特の小説形式ですが、この形式の玄妙さは、さりげない日常を描きながら非常に深いところにすっと届いてしまう点にあります。「ハレルヤ」も、日本文学という土壌だからこそ実を結んだ、一個の美しい果実だという気がします。

「花ちゃん」の前、作者の家には「チャーちゃん」という猫がいました。その猫は白血病で僅か四歳と四ヶ月で死んでしまいます。「チャーちゃん」の死後2年ほどしてやって来たのが「花ちゃん」なのです。

「花ちゃん」は女の子なのですが、なかなか「暴れん坊」で、作者の奥さんが台所で包丁を使っている時、三段跳びの要領で奥さんを掠めるように移動します。その度に、奥さんは「花ちゃん!」ではなく、「チャーちゃん!」と呼び間違ってしまいます。
 また、作者自身も、死んで横たわっている「花ちゃん」を、思わず「チャーちゃん」と呼んでしまうのです。

 そうした出来事から、作者は「過去」と「現在」に対して独特の認識を持つに至ります。このレビューでも取り上げた朝吹真理子の『きことわ』における時間認識とはまた異なっていて、わたしにはとても面白く感じられました。

 過去の出来事は現在の私の心、というより態度によってそのつど意味、というのでなく様相、発色が変わる。(中略)それなら現在が過去の原因になりうるか? 過去が現在の結果になりうるか? と考えたとしても時間がどっちからどっちへと流れているイメージは変わっていない、そうではなくてきっと、時間においてはいつも過去と現在が同時にある、だからそれは時間というものではないのかもしれないし、過去と現在というものでもないのかもしれない。では未来は? それはきっとない、しかし未来を考えた途端に未来は生まれるが、それは姿を変えた現在と過去でしかない。※4 

 時間をめぐる認識は更に作者の死生観へとつながっていきます。

 時間のイメージが、流れないで、過去と現在が同時にあると考えている人たちがいるとしたら、その人たちは死を生の終わりであるとは考えないだろう、生には終わりはあるかもしれないがそれを死とは呼ばない、というような。※5 

 作者は、ひとりで哲学的な思考に遊んでいるわけではありません。作者はこうした時間認識を持つことによって、ようやく「チャーちゃん」と「花ちゃん」の死を受け入れることができたのです。逆に言えば、受け入れがたいものを受け入れるために、人は考え、言葉を綴るのです。

 最後に、この作品の中でとても印象に残っている一節を引用したいと思います。

 花ちゃんはチャーちゃんのいないことに悲しんでいた私の前にやってきた、花ちゃんは一九九六年十二月十九日のチャーちゃんの旅立ちから丸二十一年に一日だけ足りない二〇一七年十二月十八日に旅立った、花ちゃんは十八年と八ヵ月、チャーちゃんの旅立ちから数えれば二十一年かけて、死は悲しみだけの出来事ではないということを私に教えた、とも言えるし、私が花ちゃんとの十八年八ヵ月の歳月をかけて死が悲しみだけの出来事ではないように花ちゃんの生きることを見ていったとも言える。※6

 読み終わった後、自分の周りを改めて静かに眺めてみずにはいられない気持ちになります。さりげない日常が持つ美しさと悲しさ、また日々の微小な出来事からも、わたしたちは生の深淵に触れられるということ――保坂和志の作品は、わたしたちが生きる上でとても大事なことを、そっと教えてくれているような気がするのです。

                   (保坂和志『この人の閾』、『ハレルヤ』篇・了)

※1 保坂和志『ハレルヤ』、新潮社、2018年、P10~P11。
※2 同上書、P11。
※3 同上書、P20~P21。
※4 同上書、P18~P19。
※5 同上書、P19。
※6 同上書、P19~P20。
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