第26話 わたしの好きな落語家エッセイ・2(春風亭柳昇『与太郎戦記』篇)

文字数 5,142文字

 わたくしは春風亭柳昇と申しまして……大きなことを言うようですが、今や春風亭柳昇と言えば、わが国では……わたしひとりでございます。

 ――当たり前じゃん!

 という自己紹介(?)を毎回高座に上がる度にやっていたのが、今回取り上げる『与太郎(よたろう)戦記(せんき)』の著者・春風亭(しゅんぷうてい)柳昇(りゅうしょう)です。

 ちなみに長寿番組「笑点」の司会者としてお馴染みの春風亭昇太は、この柳昇の弟子です。

落語家は老いてからが華」という台詞が『昭和元禄落語心中』※1に出てきますが、柳昇も老いてますますその飄々とした佇まいに磨きがかかり、この人が高座に上がっただけで、その名の通り「春風」が吹いてくるような、なごやかな気持ちになったものです。

 若いうちは「新作落語」を得意にしていても、一定の年齢に達すると「古典落語」に回帰する落語家が多い中で、柳昇は生涯、新作を得意にしたことでも知られます。

 晩年には日本演芸家連合会長、落語芸術協会理事長などの要職に就き、1990年には勲四等瑞宝章を受章。落語界の重鎮だったと言っていい人でしたが、高座はあくまで軽快で楽しく、落語に出てくる呑気な人物を地でいくようなイメージがありました。

 ところが、『与太郎戦記』を読むと、柳昇が何度も生死の境をくぐり抜ける壮絶な戦争体験をしてきた方だったということがわかります。

 また本書は、戦時下の庶民の生活を知る上でも一級資料だと思われます。

 柳昇――本名秋本安雄の元へ「入隊通知」(いわゆる「赤紙」)が届いたのは昭和十六年(1941年)二月のことでした。

 この時点ではまだ「柳昇」ではないので、暫くは「安雄」と書くことにします。

 入隊の前日、安雄は親戚の家を回ってあいさつをしました。当時は入隊の挨拶にきた人に「お汁粉」をふるまうという習慣があったため、安雄はお汁粉を食べ続けるハメになりました。

 入営の前の日は、親戚の家を挨拶して歩いた。どこの家へ行ってもお汁粉が出た。支那※事変も三年半となり、そろそろ食べる物が不自由になってきたころだ。お汁粉は最大のごちそうだった。好意を無にするわけにはいかず、一日まわって帰って来たときには、餅がノドまでつまっていた。

 その後で、非常に印象的な場面が出てきます。

 親戚回りを終え、母がわかしておいてくれた風呂に入った安雄は、「明日はいよいよ、シャバとおわかれか」と感慨に浸ります。

 ただ、悲壮感というより、当時の教育の影響で、けっこう意気軒高としたものがあったようです。

 すると、風呂場に父親が入ってきて、安雄に向かって「背中を流してやろう」と言います。

 安雄は一旦断るのですが、父親が「淋しい顔をした」ので、やっぱり流してもらうことにします。

 親父は、なにもいわずに、背中を流しつづけた。親父は、明治三十七、三十八年のあの日露戦争に従軍した一等卒である。
「だいじょうぶだよ、しっかりやるよ」
 と私がいうと、背中で父は、ただ、
「うん」
 といった――。

 保阪正康『昭和史のかたち』(岩波新書)に拠れば、昭和四、五年ごろまでは、日本社会にはまだある程度の言論の自由があり、総合誌に軍部批判や社会主義に基づく文章を発表することも可能だったようですが、そうした社会風潮は「昭和十年代半ば」を境にして一気に変わります。

 以下、『昭和史のかたち』からの引用です。

 ところが昭和十年代半ば(一九四〇年前後)になると、そういう流れは消えていき、皇紀二千六百年を(たた)える皇国史観が前面に出ている。日中戦争が泥沼に入っていくとき、その戦争を「聖戦」と位置づけ、あらゆる批判を封じこめるという意図が、こうした総合誌の目次の中にも歴然と窺える。「言論」の幅を狭めるために、戦争という時代にあっては情報は一元化されるというのが歴史上の原則である。

 安雄が入隊通知を受け取ったのは、正にそういう時期だったのです。

 言論統制の厳しい社会の中では、誰も表立って「戦争反対」などと口にはできません。もし不用意なことを口走って、誰かに密告されでもしたら、憲兵に連れていかれて恐ろしい目に遭わされるという時代でした。

 だから、安雄の父親は何も言いません――いや、言えないのです。

 それでも日露戦争に従軍していた父親は、戦争がどんなものなのか知っています。もしかしたら、息子とは二度と会えないかもしれない。そんなことを考えながら、黙って息子の背中を流していたのに違いありません。

 しかも、安雄は一人息子でした。

「うん」という父親の一言の中には、どんな思いがこもっていたのでしょうか。

 ――かくして、安雄は「歩兵第百一連隊、第一機関銃中隊」に入隊します。

 入隊そうそう、安雄はこんな洗礼を受けます。

 早速、軍服に着がえる。子供のころからアコガレの〝兵隊さん〟の服を着、肩の一ツ星を見るのは、ヘンテコな気持ちである。私の軍服はダブダブだったので、
「大きすぎます」
 と申告したら、
「軍衣に身体を合わすんだ!」
 としかられた。

 本書は終始軽快なテンポで綴られているのですが、そのために軍隊の不条理さ、戦争というものの理不尽さが、かえってくっきりと浮き彫りになるように思われます。

 ちなみに、「肩の一ツ星」というのは、最下級の「二等兵」であることを示しています(ちょっとややこしいのですが、「二等兵」の上の位が「一等兵」になるのです)。

 安雄は「内地」(日本国内)勤務を三年ほどした後、中国の戦地に送られます。

 中国で、安雄は死神の冷たい手に頬を撫でられるような経験をします。上海(シャンハイ)から船で青島(チンタオ)に渡る途中、激しい敵機の空襲に晒されたのです。

 重機関銃を()ちながら、安雄ははっきりと「死」を覚悟します。

「おれもいよいよ最後かな」
 と覚悟をした。しかし最後と思っても、恐怖はまったく感じない。ただし、それは重機関銃を射っているあいだだけだ。弾丸を射ちきると、ドッとこわくなる。弾薬手が一名ついていなければならないのだが、負傷者も出て手不足なので、一人二役で弾薬手の役もやらねばならない。補弾板を装填するわずかのあいだが、とても長く感じられ、心細さがヒシヒシとこたえる。
「だれか一人ぐらい助かるだろう」
 射ちながら、考えていた。
「だれか助かって、自分がここで勇敢に戦って、壮烈な戦死をしたと、故郷の親たちに話をしてくれるだろうナ……」
 人間というものは、この期におよんでも、ヘンな欲があるものだ。

 ここで言う「ヘンな欲」とは、いったいどんな欲なのでしょう?

「よくやった、安雄」
 と両親に認めてもらい、そして、ひたすらほめてもらいたかった。

 誰かに認めてもらいたい。
 褒めてもらいたい。

 そうした欲――あるいは願望は、「死」を覚悟した人間の頭に最後に浮かぶほど強力なものなのでしょうか。

 大けがを負ったものの、九死に一生を得た安雄は、ようやく再び懐かしい日本の土を踏みます。

 でも、それは華々しい「凱旋」とはほど遠いものでした。

 生きて再び見られぬと思った故国に着いたが、うれしいという気持ちは湧かなかった。私たち傷兵は、まるで荷物かなにかのように船からおろされ、佐世保の駅についた。
 一人の兵隊が短くなった煙草を捨てた。すると五十年輩のキチンとした服装の人がつかつかとそばに寄ってきて、その煙草を拾って吸った。私はがくぜんとした。戦争に負けるということは、人間をこんなにいやしくするのだろうか。

 戦後、安雄は落語家「春風亭柳昇」となるわけですが、四十九歳の時、若き日の戦争体験を綴ったエッセイを出版します。それが本書『与太郎戦記』なのです。

 その「まえがき」に、次のような言葉が記されています。

 馬鹿馬鹿しいお笑いを……というのは私たち落語家(はなしか)がよく使うセリフですが、世の中には馬鹿馬鹿しい……というお噺がよくあるものです。
 それがまた当人が真剣であればあるほど、第三者から見ればたまらなく可笑(おか)しい、ということもよくあります。
 戦争がそうです。
 戦争は生き死にに関わる、文字通り生命(いのち)がけのものです。その生命がけの中での馬鹿馬鹿しいお噺。
「そんな馬鹿な!」
 と読者のみなさまは思われるでしょうが、実際にあったのです。それを私は忠実に書いてみました。

 わたしのような、戦争の「せ」の字も知らない世代が、戦争を経験した世代について何か書こうとするのは、実は不遜極まりないことなのかもしれません。

 でも、もし柳昇が柳昇にならず、秋本安雄のまま「壮烈な戦死」を遂げていたとしたら、戦争をこのように相対化する視点を持つことはなかったのではないでしょうか。

 前述したように、柳昇は「新作落語」を得意とする落語家として大成しました。

 落語というのは基本的に面白おかしい噺ですが、「名人」と呼ばれる落語家は「古典落語」の中の人情噺――いわゆる「泣かせる噺」を得意にします。

 例えば、江戸落語には「芝浜」という大ネタがあり、古今亭志ん朝(前回取り上げた古今亭志ん生の実の息子。やはり名人と呼ばれた)が「芝浜」を()るとなれば、志ん朝の一言一句を聞き漏らすまいと客席は水を打ったようにシーンと静まり返ったものなのです。

 柳昇はそういう「泣かせる噺」はほとんど演りませんでした。飄々と高座に上がり、明るく呑気な「新作落語」を語り、さっと下がる。

 客席も「大爆笑」というわけではないのですが、肩肘張らずに楽しめて、聞き終わった後、なんとなくなごやかな気持ちになる――落語界の重鎮となっても、柳昇はそんな自分のスタイルを決して崩そうとはしませんでした。

 晩年の高座では、滑舌が少し悪くなったり、噛んでしまったりすることもありましたが、それすら一種の愛嬌になっていました。

 でもそれは、悲惨で不条理な戦争をくぐり抜けた人が語る「明るさ、楽しさ」であったことが『与太郎戦記』を読むとよくわかります。

 戦争に敗れた故国に立った柳昇——いや、秋本安雄を襲ったのは、深い絶望でした。

 日本は今後、どうなるのだろう……と考えた。日本に外国の娯楽を与え、日本人をホネぬきにするのかナ……と考えた。そんなことを言っている人もいたのだ。
 地名も建物もみんな英語に書きかえ、日本語も奪い去るのだろうか……とも思った。

 当時は、戦争に負けた日本では「日本語が使えなくなる」という噂があったんですね。

 それなのに、柳昇はなぜ「落語」という伝統話芸の世界に進む気になったのでしょうか。

〝だが待てよ〟と考え直した。日本軍に占領されていた中国で、中国の人は全部中国服を着て中国語で話していたではないか。
 民族の誇りなど、そうたやすくなくなるものではないだろう。アメリカが日本にはいってきて日本人に英語を押しつけても、日本人は逆に日本語に愛着を持つにちがいない――。そうなれば落語など、かえって盛んになるかもしれない。

 つまり、柳昇にとって、落語とは失われた日本人の誇りを取り戻す一つの手段だったのです。

 高座での飄々とした、気楽で呑気そうなイメージとは裏腹に、柳昇の中には一本、鉄のような反骨精神が通っていたことがわかる記述です。

 本書のタイトルである「与太郎」とは、「熊さん・八っつぁん」と共に落語の主要登場人物の一人ですが、その役柄から「間抜けな人」の代名詞でもあります。

 何も知らずに兵隊に取られた一庶民が、戦場で何を見、何をし、何を思ったか

『与太郎戦記』には、「まえがき」の言葉通り、思わず笑ってしまうユーモラスなエピソードや場面がたくさん出てくるのですが、その底にはとても大きな問題が潜んでいるように感じられます。

 (ひるがえ)って現代は――

 終結の

もたたぬロシアとウクライナの戦争。

 世界規模で進行中のコロナ不況。
 
 徴兵制のある台湾では、一時期四ヶ月にまで短縮されていた兵役が、一年に延長されることが決まりました。

 また日本国内も、きな臭いニュースが目立ってきたような……。 

 そんな2022年も暮れようとしているこの時――

 春風亭柳昇『与太郎戦記』

 しんしんと更けゆく冬の夜の底で、改めて読んでみたい一冊のような気がします。

※1 雲田はるこ『昭和元禄落語心中』(講談社)。2016年~2017年にアニメ化、2018年にNHKでドラマ化されている。
※2 現在、中国を表す「支那」は差別的用語とされているが、版元のちくま文庫(2005年)は「読者の皆様へ」の中で、「著者が故人であり、また歴史的な背景などから、表現の削除、言いかえなどは行っておりません」と述べている。ちなみに本書の初出は、春風亭柳昇『与太郎戦記』(立風書房、1969年)である。

                         (春風亭柳昇『与太郎戦記』篇・了)
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