第25話 わたしの好きな落語家エッセイ・1(古今亭志ん生『なめくじ艦隊』篇)
文字数 5,328文字
今回は、だらだらと書いていきますので、どうかテキトーにお付き合いいただければ幸いです。
えっ、それならいつもと同じじゃないかって……
はは、お後がよろしいようで……って、これじゃあ、終わっちゃうじゃないですか!
まだ始まってもいませんよ‼
余談ですが、落語家の高座で噺にサゲがついた後、「お後がよろしいようで」って言うのは、「自分の後から出てくる人の用意が整ったようですから、私はこれにて下がります」っていう意味なんですね。
まあ実際、最初が前座、次が二ツ目、最後に真打 という順番で出てくるので、後から出てくる人のほうがすごいことは確かなのですが、それでもさりげなく自分の後から出てくる人を立てる感じで、素敵な言葉だなあ、と思います。
落語家は噺家 とも呼ばれて、とにかく話をするプロなわけですが、文字で読む落語家さんの話――つまり、落語家エッセイを、わたしは密かに愛読しています。
その中で「ベスト・スリーは?」と訊かれたら(って別に誰にも訊かれてはいないんですが)、わたしの答えは――
左から古今亭志ん生『なめくじ艦隊 志ん生半生記』(ちくま文庫)、春風亭柳昇『与太郎戦記』(ちくま文庫)、柳家小三治『ま・く・ら』(講談社文庫)
の三冊です。
わたしが関東の出身のためか、江戸落語の噺家の作品ばかりになってしまいました。
あ、上方落語を聞かないというわけではなくて、例えば桂枝雀さんは大好きでした。DVDや著作も持っているくらいです。
でも、今回は上記の江戸落語の噺家さんのエッセイを、三回に分けてご紹介していくことにしたいと思います。
第一回は、古今亭志ん生『なめくじ艦隊 志ん生半生記』。
古今亭志 ん生 は「昭和の大名人」と言われた落語家で、晩年は落語協会会長を務めたり、紫綬褒章、勲四等瑞宝章などを受賞したりしているのですが、酔って高座に上がって噺の途中で寝てしまったとか、いろいろ破天荒な「志ん生伝説」を残しています。
また、通称「なめくじ長屋」と呼ばれる長屋でずっと貧乏暮らしをしていたことも有名です。
その貧乏生活とはいかなるものだったのか、というのが本書の読みどころの一つなのですが、とにかくそんじょそこらの貧乏じゃない、ものすごい貧乏です。
ちょっと引用してみましょう。
あたしは四人子供がいて、いま高校へ行ってるのが末ッ子で、その上が馬生ですがね。この馬生が生れた頃は苦しくて苦しくて、産婆さんに払う金がない。しかもそれが難産でねェ、やっと生れた。ところが一文なしなんで、
「実はね、一文なしなんですよ。といって生れちゃったものを元の通りにするったってそうはいかねえ、いまにきっとどうにかなってお払いするから……」
と言いにくいけれども言ったんです。するとその産婆さんは、
「生れたものを元の通りにゃ出来やしません。しょうがないでしょう」
と、いうわけ。
産婆(助産師)さんを呼んでおいて、いざ生まれたら「お金がないんです」って、現代なら即警察沙汰でしょうけれど、この産婆さんが冷静に、「生れたものを元の通りにゃ出来やしません。しょうがないでしょう」と納得してしまうところが、これまたすごいですよね。
それにしても――
「生れちゃったものを元の通りにするったってそうはいかねえ」って……もし「元の通り」にできるなら、するつもりだったんでしょうか?
全身落語家とでもいうのか、現実の生活がそのまま落語みたいですね。
こういう貧乏生活を送っていたところへ、「変な人」がきて、「家賃のいらねえ家がある」と志ん生に勧めます。それで、件 の「なめくじ長屋」に引っ越すことになるのですが――
もちろん、「なめくじ長屋」というのは後からそう呼ばれることになるのであって、その時はもちろん、そんなとんでもない長屋だとは知らなかったのです。
いざ引っ越してみると、さすがの志ん生も大いに驚くことになります。
その長屋は、震災後すぐ建てた家なんですが、そこいらは池みたいなところだったのを埋めたてて建てたもんで、土地がひくいから、ちょっと雨でも降ろうもんなら、あたり一面海みたいになって、家の中へ水が入ってくる。だからカベなんかには、ちゃんと前の洪水のあとがついている。とにかくおそまつな急ごしらえのバラックなんですよ。
そういう立地が最悪な土地なので、虫の巣窟――いや、魔窟と化していたのです。先制攻撃を仕掛けてくるのは蚊の軍団――
夜になったんで、電気をつけたんですナ。ところが、なにしろまわりが空家でまっ暗でしょう。そこへぽつんと明りがついたものだから、蚊のやつがソレッとばかり押しよせてきた。夜なんぞ家の前に立ってみると、蚊柱とでもいうんでしょう、あれが立っていて、中へ入って〝いま帰ったよ〟といったとたんに、ワアッと蚊の群が口の中にとびこんで、口がきけなくなる。だから、いきなり蚊帳の中へとびこんで、そこで口をきいたり、めしを食ったりするんですよ。そうして蚊帳の中から外をみるてえと、蚊の群衆のために向うは見えませんや。とてもものすごい蚊なんです。
もう蚊の軍団に家を乗っ取られているような状況です。
それでも、「まア蚊の方は、蚊帳さえあれば防ぐことが出来ます」ということで、なんとこれでもまだ前座みたいなものだったのです!
真打は――そう、後にこの長屋の通称ともなる
ここはナメクジの巣みたいなところで、いるのいないのってスサマジい。それも小さいかわいらしいやつならまだしも、十センチ以上もある茶色がかった大ナメクジが、あっちからもこっちからも押しよせてくる。よくナメクジに塩をかけるとまいっちまうというけれども、そこのナメクジは、塩をかけたくらいでまいるような生やさしい奴ではないんですよ。
十センチ以上もある茶色がかった大ナメクジ!
ああ、もうダメ。
想像しただけで鳥肌が……。
完全にホラーの世界じゃないですか!
そうは言っても、志ん生本人は、一日の大部分の時間は高座に上がっているんだからまだいいんです。
悲惨を極めたのは、家にずっといなければいけない志ん生の奥さんです。
女房が蚊帳の中で、腰巻ひとつで赤ン坊をおぶって内職していたんですが、どうも足のうらの方がかゆいんで、ハッとみると、大きなナメクジが吸いついていやがる。世のなか広しといえども、ナメクジに吸いつかれた経験をもつ人は少ないでしょう。
いや、「少ないでしょう」って……。
いませんよ、そんな人!
そもそも「腰巻」って女性の和服の下着ですから、作中にははっきり書かれていないですけど、着物を全部質に入れていたんじゃないかと推察されます。それで赤ン坊をおぶって内職して、挙句の果てにナメクジに血を吸われるって、どんな生活なんですか?
いくら控え目に見ても、地獄ですよね。
それに血を吸うって……ナメクジじゃなくて蛭 だったんじゃ……⁇
文豪泉鏡花の名作「高野聖 」に、主人公の若い僧が森の中を歩いていくと、上から無数の蛭が落ちてくるという、読んでいるだけで身体がむずむずしてくる場面がありますが、この「なめくじ長屋」の描写もそれに勝るとも劣らない
さて、その後日本は次第に戦争が泥沼化していき、志ん生は軍の命令で、満州へ慰問興行へ行くことになります。
ところが――
ここで大変なことが起こるのです。
志ん生が日本を発ったのが昭和二十年(1945年)5月、そして8月15日にそのまま中国で敗戦を迎えてしまったため、帰国できなくなってしまうのです。
軍からの援助が一切なくなり、いきなり異国の地に放り出されたような身の上。
しかも、ロシア軍が進駐してくるというので、「女は青酸カリをのんで自殺する、男は出刃包丁かなんかで死んじまおう」という大変な混乱状態。
でも、何かをしてお金を稼がなければ「アゴが乾あがっちまう」ので、同じく慰問興行に参加していた円生という落語家と一緒に「二人会 」をすることにします。
「こんなさわぎじゃ、興行どころじゃあるまい」と思っていたら、なんと80人もの人が集まってきたというのです。
志ん生は思わず、やってきた人に次のように訊ねます。
「あんた方は、あしたソ連の兵隊がやってきたら、みんな死んじまおうというのに、よくもまあ落語なんぞ聞きにくる気になりましたね……」
というと、
「イヤ。どうせ死んじまうんですから、笑って死にたいと思いましてね」
と案外おちついているんですよ。
そこで志ん生は、次のように考えます。
人間てえものは、いよいよ自分は助からん、あしたは死んじまうということになると、欲も得もなくなるもんですね。
「欲も得も」ある時は、焦ったり、怒ったり、じたばたしたりする。それがなくなってしまったら、人間は「案外おちついて」、最後はせめて面白おかしい話を聞いて笑いたい、それだけでいい、と思うものなのでしょうか。
ところが――
いざ、落語が始まると、観客たちは笑わなかったんだそうです。
まず円生が高座へ上がったが、とたんに、「エーエ、ワアーッ」と泣きだしちまう……だが、少し間をおいて、またやりはじめたが、「ワーッ」とくるんです。笑わせる話をするのに、泣かれたんじゃネ。とうとう何もやらずに帰って来ましたよ。
戦後、志ん生は「化ける」(芸人の芸が長足の進歩を遂げ、まるで別人のようになること)のですが、この満州体験が大きかったと言われているそうです。
それは、極限状況に置かれた人間の様々な姿をつぶさに見つめた、ということなのかもしれません。
志ん生は満州で一度は死を覚悟するところまで追いつめられるのですが、ある人に救われます。
元々知り合いが大連の浪花街のデパートで働いていて、そこに志ん生は自分で作ったタバコを売りに行ったのですが、その人も手元不如意で買ってもらえない。途方に暮れていたところへ、たまたまそのデパートへ仕事で来ていた別の人が、志ん生を助けてくれたのです。
食うや食わずで「乞食に毛の生えたよう」だった志ん生を、その人は自宅に連れていってご馳走してくれます。
しかも、家に戻る途中で豚肉を買ったのですが、
「師匠(落語家に対する敬称)、わたしが肉を買うけれども、家へかえったら女房に、あんたがそれを買ったようにわたしがいいますから、あんたがこれを手土産にしたつもりでいて下さいよ」
家に帰ると、その人はその通り奥さんに告げます。奥さんは「こんなけっこうなものを」と志ん生に頭を下げる。助けた方が助けられた方に、
それだけではありません。満州は寒冷な土地ですが、なにしろ志ん生は「乞食に毛の生えたよう」な状況で、ロクに着る服もなかった。
すると、その人は「あなたの方が先に内地(日本)へ帰ることになるだろうから、これを預かっておいてほしい」と言って、「ふとんと洋服、それに衿 に毛皮のついたりっぱな外套」を渡してくれたのだそうです。
もちろん、実際にはその人から志ん生への贈り物なのですが、相手に恩を着せないようにわざと「預かっておいてくれ」と言ったわけなんですね。
更に「志ん生さん、これ、さっきの肉のお礼に家内が……」と言って、「千円の金」まで差し出してくれたのです。
志ん生の顔を立てただけでなく、さりげなく自分の妻の顔も立てているんですね。志ん生はあくまで「豚肉は自分のお土産だった」という演技を続け、「おうように受け取った」そうですが……
わたしは、奥さん、全部知っていたと思いますよ。
演技をしていたのは、きっと志ん生だけではなかったのでしょう。
因果はめぐると言いますが、後に志ん生は、その人の生き別れの息子さんを探すために、今度は自分が一肌脱ぐことになります。
人間の運命ってふしぎなもんですね。あたしがそのデパートを訪ねた時に、階段を上がって、右へまがって行ったときにその人に出くわしたんですが、左へまがって行ったら、その人とは恐らく永遠に会うことはできなかったでしょう。
そしてこの人に会わなかったら、きっとあたしは今ごろ生きてはいなかったでしょう。
もし階段を右へまがらず、その人とめぐり会っていなかったら、不世出の「昭和の大名人」として、志ん生が戦後の落語史に、その名を刻むことはなかったのです。
本書は、「解説」の矢野誠一氏によると、志ん生自身が語った内容を、門下の落語家金春亭馬の助がまとめたものだそうですが、それでも描かれた内容が、志ん生の半生の記録であることに変わりはありません。
人生というものの不思議さ。
人と人が出会うという奇蹟。
そして、人間というものの
それらが決して深刻ぶらない、軽妙でユーモラスな「語り」で綴られていく古今亭志ん生『なめくじ艦隊 志ん生半生記』――
落語家エッセイという枠を超え、福沢諭吉の『福翁自伝』などと共に、明治以来の日本人が書いた自伝の中でも、代表的な一冊ではないかとわたしは思います。
(古今亭志ん生『なめくじ艦隊』篇・了)
えっ、それならいつもと同じじゃないかって……
はは、お後がよろしいようで……って、これじゃあ、終わっちゃうじゃないですか!
まだ始まってもいませんよ‼
余談ですが、落語家の高座で噺にサゲがついた後、「お後がよろしいようで」って言うのは、「自分の後から出てくる人の用意が整ったようですから、私はこれにて下がります」っていう意味なんですね。
まあ実際、最初が前座、次が二ツ目、最後に
落語家は
その中で「ベスト・スリーは?」と訊かれたら(って別に誰にも訊かれてはいないんですが)、わたしの答えは――
左から古今亭志ん生『なめくじ艦隊 志ん生半生記』(ちくま文庫)、春風亭柳昇『与太郎戦記』(ちくま文庫)、柳家小三治『ま・く・ら』(講談社文庫)
の三冊です。
わたしが関東の出身のためか、江戸落語の噺家の作品ばかりになってしまいました。
あ、上方落語を聞かないというわけではなくて、例えば桂枝雀さんは大好きでした。DVDや著作も持っているくらいです。
でも、今回は上記の江戸落語の噺家さんのエッセイを、三回に分けてご紹介していくことにしたいと思います。
第一回は、古今亭志ん生『なめくじ艦隊 志ん生半生記』。
古今亭
また、通称「なめくじ長屋」と呼ばれる長屋でずっと貧乏暮らしをしていたことも有名です。
その貧乏生活とはいかなるものだったのか、というのが本書の読みどころの一つなのですが、とにかくそんじょそこらの貧乏じゃない、ものすごい貧乏です。
ちょっと引用してみましょう。
あたしは四人子供がいて、いま高校へ行ってるのが末ッ子で、その上が馬生ですがね。この馬生が生れた頃は苦しくて苦しくて、産婆さんに払う金がない。しかもそれが難産でねェ、やっと生れた。ところが一文なしなんで、
「実はね、一文なしなんですよ。といって生れちゃったものを元の通りにするったってそうはいかねえ、いまにきっとどうにかなってお払いするから……」
と言いにくいけれども言ったんです。するとその産婆さんは、
「生れたものを元の通りにゃ出来やしません。しょうがないでしょう」
と、いうわけ。
産婆(助産師)さんを呼んでおいて、いざ生まれたら「お金がないんです」って、現代なら即警察沙汰でしょうけれど、この産婆さんが冷静に、「生れたものを元の通りにゃ出来やしません。しょうがないでしょう」と納得してしまうところが、これまたすごいですよね。
それにしても――
「生れちゃったものを元の通りにするったってそうはいかねえ」って……もし「元の通り」にできるなら、するつもりだったんでしょうか?
全身落語家とでもいうのか、現実の生活がそのまま落語みたいですね。
こういう貧乏生活を送っていたところへ、「変な人」がきて、「家賃のいらねえ家がある」と志ん生に勧めます。それで、
もちろん、「なめくじ長屋」というのは後からそう呼ばれることになるのであって、その時はもちろん、そんなとんでもない長屋だとは知らなかったのです。
いざ引っ越してみると、さすがの志ん生も大いに驚くことになります。
その長屋は、震災後すぐ建てた家なんですが、そこいらは池みたいなところだったのを埋めたてて建てたもんで、土地がひくいから、ちょっと雨でも降ろうもんなら、あたり一面海みたいになって、家の中へ水が入ってくる。だからカベなんかには、ちゃんと前の洪水のあとがついている。とにかくおそまつな急ごしらえのバラックなんですよ。
そういう立地が最悪な土地なので、虫の巣窟――いや、魔窟と化していたのです。先制攻撃を仕掛けてくるのは蚊の軍団――
夜になったんで、電気をつけたんですナ。ところが、なにしろまわりが空家でまっ暗でしょう。そこへぽつんと明りがついたものだから、蚊のやつがソレッとばかり押しよせてきた。夜なんぞ家の前に立ってみると、蚊柱とでもいうんでしょう、あれが立っていて、中へ入って〝いま帰ったよ〟といったとたんに、ワアッと蚊の群が口の中にとびこんで、口がきけなくなる。だから、いきなり蚊帳の中へとびこんで、そこで口をきいたり、めしを食ったりするんですよ。そうして蚊帳の中から外をみるてえと、蚊の群衆のために向うは見えませんや。とてもものすごい蚊なんです。
もう蚊の軍団に家を乗っ取られているような状況です。
それでも、「まア蚊の方は、蚊帳さえあれば防ぐことが出来ます」ということで、なんとこれでもまだ前座みたいなものだったのです!
真打は――そう、後にこの長屋の通称ともなる
なめくじ
の「艦隊」です。ここはナメクジの巣みたいなところで、いるのいないのってスサマジい。それも小さいかわいらしいやつならまだしも、十センチ以上もある茶色がかった大ナメクジが、あっちからもこっちからも押しよせてくる。よくナメクジに塩をかけるとまいっちまうというけれども、そこのナメクジは、塩をかけたくらいでまいるような生やさしい奴ではないんですよ。
十センチ以上もある茶色がかった大ナメクジ!
ああ、もうダメ。
想像しただけで鳥肌が……。
完全にホラーの世界じゃないですか!
そうは言っても、志ん生本人は、一日の大部分の時間は高座に上がっているんだからまだいいんです。
悲惨を極めたのは、家にずっといなければいけない志ん生の奥さんです。
女房が蚊帳の中で、腰巻ひとつで赤ン坊をおぶって内職していたんですが、どうも足のうらの方がかゆいんで、ハッとみると、大きなナメクジが吸いついていやがる。世のなか広しといえども、ナメクジに吸いつかれた経験をもつ人は少ないでしょう。
いや、「少ないでしょう」って……。
いませんよ、そんな人!
そもそも「腰巻」って女性の和服の下着ですから、作中にははっきり書かれていないですけど、着物を全部質に入れていたんじゃないかと推察されます。それで赤ン坊をおぶって内職して、挙句の果てにナメクジに血を吸われるって、どんな生活なんですか?
いくら控え目に見ても、地獄ですよね。
それに血を吸うって……ナメクジじゃなくて
文豪泉鏡花の名作「
すさまじさ
だと思います。さて、その後日本は次第に戦争が泥沼化していき、志ん生は軍の命令で、満州へ慰問興行へ行くことになります。
ところが――
ここで大変なことが起こるのです。
志ん生が日本を発ったのが昭和二十年(1945年)5月、そして8月15日にそのまま中国で敗戦を迎えてしまったため、帰国できなくなってしまうのです。
軍からの援助が一切なくなり、いきなり異国の地に放り出されたような身の上。
しかも、ロシア軍が進駐してくるというので、「女は青酸カリをのんで自殺する、男は出刃包丁かなんかで死んじまおう」という大変な混乱状態。
でも、何かをしてお金を稼がなければ「アゴが乾あがっちまう」ので、同じく慰問興行に参加していた円生という落語家と一緒に「
「こんなさわぎじゃ、興行どころじゃあるまい」と思っていたら、なんと80人もの人が集まってきたというのです。
志ん生は思わず、やってきた人に次のように訊ねます。
「あんた方は、あしたソ連の兵隊がやってきたら、みんな死んじまおうというのに、よくもまあ落語なんぞ聞きにくる気になりましたね……」
というと、
「イヤ。どうせ死んじまうんですから、笑って死にたいと思いましてね」
と案外おちついているんですよ。
そこで志ん生は、次のように考えます。
人間てえものは、いよいよ自分は助からん、あしたは死んじまうということになると、欲も得もなくなるもんですね。
「欲も得も」ある時は、焦ったり、怒ったり、じたばたしたりする。それがなくなってしまったら、人間は「案外おちついて」、最後はせめて面白おかしい話を聞いて笑いたい、それだけでいい、と思うものなのでしょうか。
ところが――
いざ、落語が始まると、観客たちは笑わなかったんだそうです。
まず円生が高座へ上がったが、とたんに、「エーエ、ワアーッ」と泣きだしちまう……だが、少し間をおいて、またやりはじめたが、「ワーッ」とくるんです。笑わせる話をするのに、泣かれたんじゃネ。とうとう何もやらずに帰って来ましたよ。
戦後、志ん生は「化ける」(芸人の芸が長足の進歩を遂げ、まるで別人のようになること)のですが、この満州体験が大きかったと言われているそうです。
それは、極限状況に置かれた人間の様々な姿をつぶさに見つめた、ということなのかもしれません。
志ん生は満州で一度は死を覚悟するところまで追いつめられるのですが、ある人に救われます。
元々知り合いが大連の浪花街のデパートで働いていて、そこに志ん生は自分で作ったタバコを売りに行ったのですが、その人も手元不如意で買ってもらえない。途方に暮れていたところへ、たまたまそのデパートへ仕事で来ていた別の人が、志ん生を助けてくれたのです。
食うや食わずで「乞食に毛の生えたよう」だった志ん生を、その人は自宅に連れていってご馳走してくれます。
しかも、家に戻る途中で豚肉を買ったのですが、
「師匠(落語家に対する敬称)、わたしが肉を買うけれども、家へかえったら女房に、あんたがそれを買ったようにわたしがいいますから、あんたがこれを手土産にしたつもりでいて下さいよ」
家に帰ると、その人はその通り奥さんに告げます。奥さんは「こんなけっこうなものを」と志ん生に頭を下げる。助けた方が助けられた方に、
あべこべ
に頭を下げているんですね。それだけではありません。満州は寒冷な土地ですが、なにしろ志ん生は「乞食に毛の生えたよう」な状況で、ロクに着る服もなかった。
すると、その人は「あなたの方が先に内地(日本)へ帰ることになるだろうから、これを預かっておいてほしい」と言って、「ふとんと洋服、それに
もちろん、実際にはその人から志ん生への贈り物なのですが、相手に恩を着せないようにわざと「預かっておいてくれ」と言ったわけなんですね。
更に「志ん生さん、これ、さっきの肉のお礼に家内が……」と言って、「千円の金」まで差し出してくれたのです。
志ん生の顔を立てただけでなく、さりげなく自分の妻の顔も立てているんですね。志ん生はあくまで「豚肉は自分のお土産だった」という演技を続け、「おうように受け取った」そうですが……
わたしは、奥さん、全部知っていたと思いますよ。
演技をしていたのは、きっと志ん生だけではなかったのでしょう。
因果はめぐると言いますが、後に志ん生は、その人の生き別れの息子さんを探すために、今度は自分が一肌脱ぐことになります。
人間の運命ってふしぎなもんですね。あたしがそのデパートを訪ねた時に、階段を上がって、右へまがって行ったときにその人に出くわしたんですが、左へまがって行ったら、その人とは恐らく永遠に会うことはできなかったでしょう。
そしてこの人に会わなかったら、きっとあたしは今ごろ生きてはいなかったでしょう。
もし階段を右へまがらず、その人とめぐり会っていなかったら、不世出の「昭和の大名人」として、志ん生が戦後の落語史に、その名を刻むことはなかったのです。
本書は、「解説」の矢野誠一氏によると、志ん生自身が語った内容を、門下の落語家金春亭馬の助がまとめたものだそうですが、それでも描かれた内容が、志ん生の半生の記録であることに変わりはありません。
人生というものの不思議さ。
人と人が出会うという奇蹟。
そして、人間というものの
すごさ
。それらが決して深刻ぶらない、軽妙でユーモラスな「語り」で綴られていく古今亭志ん生『なめくじ艦隊 志ん生半生記』――
落語家エッセイという枠を超え、福沢諭吉の『福翁自伝』などと共に、明治以来の日本人が書いた自伝の中でも、代表的な一冊ではないかとわたしは思います。
(古今亭志ん生『なめくじ艦隊』篇・了)