第5話 抽象的テーマの具体化(『きことわ』篇4)

文字数 2,354文字

 時間と記憶という抽象的テーマが、『きことわ』の中ではどのように具体化されているのでしょうか。
 先ず、独特の文体が挙げられると思います。
『きことわ』を開いて、ちょっと離れた距離からページ全体を眺めてみるとすぐわかるのですが、意識的にひらがなの多い文章になっています。

 しかも、「いきすだまがとびまわる」「石目をくくむ」「音もなく雪が(しず)れる」といった、和語、あるいは古語のような言葉が頻出するのです。こういう朝吹さんの文体は、日本近代文学的な文体が話題になった西村賢太さんより、実はもっとずっと古いところへすっと入っていくような感じがあります。

 しかもこうした独特の文体が、地の文とも主人公のモノローグともつかず、流れるようにつづられていきます。ちょっと引用してみましょう。二十五年ぶりに永遠子と再会することになった貴子が、別荘で永遠子を待っている場面です。

 台所の水錆びもすくなく、ていねいに巻かれた柱時計の振り子がしきりと揺れている。ひとしく流れつづけているはずの時間が、この家には流れそびれていたのか、いまになってすこし多めに時を流して、外との帳尻を合わせようとしているのかもしれなかった。待ち合わせの時間までにこの家の時間は外に追いつくのか。何の書き込みもないまま、うっすら黄ばんでいるカレンダーが壁にかかっている。貴子は、身のうちに流れる生物時計と、この家の時刻と、なべて流れているはずの時間が、それぞれの(ことわり)をもってべつべつに流れていたように思えた。また時計が鳴る。やはり鳴りすぎると貴子は思った。※1

 こうした一節と、永遠子と再会した貴子が開口一番、「百足がでたの百足が」と大騒ぎするという、現在三十三歳という年齢にしてはちょっとあどけなさすぎるような場面が、最初はややミスマッチに感じられるのですが、読み進めていくうちに、作者が描こうとしているのは、時間の中からよみがえり、またどこかへ去ってゆく記憶そのものであって、貴子も永遠子も、そうした記憶たちに一時的に場所を提供しているだけの器にすぎないのではないかという気がしてきます。

 また、ふたりは同じ時間を同じ場所ですごしたはずなのに、それぞれの記憶は一致するところもあれば、一致しないところもあるのです。
 例えば、永遠子は別荘の近くの「食料店」の隅の自動販売機に道路反射鏡があったと言います。冬の夜、風呂上がりにふたりで「ながい一本の赤いマフラー」を巻いてコーラを買いに行った姿が反射鏡に映っていたと永遠子は語るのですが、その記憶が貴子にはありません。代わりに貴子は、自動販売機の傍に「はまゆう、はまなす、はまなでしこ」が咲いていたこと、「永遠子の被った麦わら帽子が風にとばされ、ながい髪が揺れていた」という夏の思い出を語ります。

 ひとりの人間の記憶というものは、北杜夫が『幽霊』の中で書いたように「心の神話」なのです。だから、同じ時間に同じ場所にいても、それぞれ異なるのがむしろ当たり前なのかもしれません。ただ、『きことわ』の独自性は、時間の流れの中から個人の「心の神話」を(すく)い取ろうとするのではなく、貴子と永遠子というふたりの器にもられた記憶を混ぜ合わせることによって、流れすぎてゆく時間の姿を逆照射的に浮かび上がらせるところにあったのではないでしょうか。
 
 『きことわ』には『苦役列車』と同様に、近代日本の価値観の上に成り立っている部分があることを前の部分で指摘しました。しかし同時に、エゴイズムが日本近代文学のキーワードとなったように、個人というものの確立が近代日本における重要テーマの一つだったとしたら、貴子と永遠子、それぞれの「個」の輪郭が次第に薄れ、混然と溶け合っていく様は、物語の方向性としては極めて反近代的だと言えるのかもしれません。

 葉山に別荘を持つという近代日本貴族階級の末裔のような「貴」子。彼女が別荘の管理人の娘「永遠」子と二十五年ぶりに再会し、必ずしも一致しない思い出を語り合う。その幾重にもかさなり合った記憶を透かして、永遠に流れつづける時間を読者に見せるのが『きことわ』の構成だと考えれば、ふたりのネーミングは極めて象徴的です。

 作品の冒頭近くに大変印象的な、そしてわたしがこの作品の中で一番好きな一節があります。
 貴子の母親の春子が運転する車の後部座席で、八歳の貴子と十五歳の永遠子が互いにじゃれ合っているうちに、お互いの身体がからみ合ってしまうという場面です。

 貴子が永遠子の頬をかむ。永遠子が貴子の腕をかむ。たがいの歯形で頬も腕も赤らむ。素肌をあわせ、貴子の肌のうえに永遠子の肌がかさなり永遠子の肌のうえに貴子の肌がかさなる。しだいに二本ずつのたがいの腕や足、髪の毛や影までがしまいにたがいちがいにからまって、どちらがおたがいのものかわからなくなってゆく。永遠子が貴子の足と思って自分の足をくすぐり、貴子も永遠子の足と思ってまちがえる。貴子の肌は熱い。永遠子の肌はつめたい。それもひっつきあううちに体温をとりかわし皮膚もかんたんにとけてゆく。薄荷と甘いにおいとがからがる。※2

 貴子と永遠子が混じり合う。かさなりあった肌がとける。そこには少女らしい甘やかな艶めかしさがあります。エロティシズムではなく、艶めかしさ。それこそ、この作品における「具体化」の精華なのではないでしょうか。
 最後に改めてタイトルを見てみると、やわらかなひらがなで記された『きことわ』という四文字が、これ以上ないほどの的確さで作品世界を表しているように、わたしには思えたのでした。

                               (『きことわ』篇・了)

※1 朝吹真理子『きことわ』、新潮文庫、P42。
※2 同上書、P15。
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