第22話 「来客」とは誰か?(色川武大『怪しい来客簿』篇2)

文字数 1,807文字

 色川武大は『怪しい来客簿』の中で、自らのナルコレプシーについて、以下のように書いています。

 私は、睡眠のリズムが狂ってしまう病気を持っているので、ベッドできちんと眠ろうとしても、三十分、長くて一時間ほどしか眠ることができない。そのかわり、一定の間隔をおいて五分か十分くらいずつ、眠りの発作が襲ってくる。発作がくると、電圧器がショートするように私の身体はピタッと暗黒に閉ざされて、街を歩いていても、どこに居ても暴力的な眠気のために失神状態におちいってしまう。食事している最中に発作がきて、半分失神しながら箸を動かしているうちに灰皿の吸殻を食べてしまったりする。
(「見えない来客」より)

 トーマス・マンの『トニオ・クレーゲル 』に「滑稽と悲惨」という言葉が出てきますが、「半分失神しながら箸を動かしているうちに灰皿の吸殻を食べてしまった」などというのは、正に「滑稽と悲惨」としか言いようのないものだと思います。

 こうした色川武大の日常は、幻想――あるいは異界と地続きなところがあるのです。

 

が、頻々と私のところを訪ねてくるようになった。父のところにではなく私のところにだ。或いはそうやって方々の縁者のところを訪ねていたのかもしれない。叔父は生きている頃とおなじように、や、といいながら、すっすっとあがりこんでくる。ごきげんいかがですか、というと、うん、といって、微笑しながら肉親に近い気のこもった(まな)ざしで私を見ている。(中略)そうしてふと立ちあがって、

、戸口の方に歩いた。

(「墓」より。傍点部南ノ)

「頻々と私のところを訪ねてくる」叔父は、既に鬼籍に入っているのです。その叔父と普通に挨拶を交わす「私」。
 叔父が急に立ち上がって、「水のような表情」になるというところを読んで、わたしは思わずぞっと寒気がしました。叔父が紛れもなく異界の存在になっていることがわかる、見事な表現ですよね!

 それにしても、『怪しい来客簿』というタイトルに籠められた意味は、いったい何なのでしょうか。

「来客」という言葉の中には、前回引用した「空襲のあと」で語られたような、実際に家に遊びに来る「客」だけではなく、こうした叔父のような存在も含まれているのは言うまでもありませんが、中学生の頃に浅草で垣間見たり、また青春無頼の日々にドヤ街で出会ったりした、有名無名の人びとのことでもあるのです。

 読了後のわたしの感想なのですが、色川武大の言う「来客」とは、自分が人生の中で束の間出会ったり、擦れ違ったりした人びとの総称なのではないでしょうか。

「月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり」というのは松尾芭蕉の『おくのほそ道』のあまりに有名な冒頭の一文ですが、わたしたちは皆、この世の旅人のようなものなのだという思想が、『怪しい来客簿』の底流としてある気がします。

 同じく「墓」の中で、色川武大は以下のように記しています。

 家系図や墓などは有っても無くても同じなのである。我々は木の股から生まれたわけではない。しかし又、我々はどこへ流れ去っていくのであるか。

 最終話の「たすけておくれ」の中の次の言葉は、とりわけわたしの心に深く沁みたものです。以下、引用します。

 なんまいだぶつ、とはいかなる意なりや、と試みに僧侶に(たず)ねてみると(浄土真宗の僧侶であったが)、ああそれは、たすけてくださいということです、と答える。この回答は、私のような仏教の門外漢をも、なるほどと感じさせるものがある。
 では、誰に助けを求めているのですか。
 誰に、というものでもないのです。ただ、そう念じるのです、一切のものに。

『怪しい来客簿』には全部で17篇の連作短編が収められているのですが、その一篇一篇をゆっくり読んでいくと、色川武大の眼が「怪しい来客」たちを(とお)して、いかに深く、世の中や人生を見つめていたかよくわかります。
 そして、病に苦しんだ文学者の神経の不思議な

が、他に類を見ないユニークな幻想を読者に見せてくれると同時に、文学作品でしか味わうことのできない深い感動をもって、わたしたちの心を震わせるのです。
 
 作家が文学を書くというより、作家そのものが文学だった。

 ――そんな読書体験をしてみたい方に、『怪しい来客簿』はお薦めの一冊です。

                         (色川武大『怪しい来客簿』篇・了)
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