第6話

文字数 4,259文字

「ねえ、フィンレイ、いま聞こえてる?」
『聞こえてるよ、オリヴィア。どうしたの? イトコさんは大丈夫?』
「うん、いまは私の部屋にひとりでいるから、大丈夫よ。気遣ってくれてありがとう、優しいフィンレイ」
『どういたしまして、オリヴィア。それで、なにか用事?』
「そうだった、あなたに聞きたいことがあるの」
 ベッドに腰掛け、おろした足をそわそわと揺らす。その下の影を見つめながら、オリヴィアは小声で今日のことを話した。人間社会を知らない竜に首都や奨学金、寮といった言葉を説明するうちに、だんだんと実感が伴っていく。
(私が、首都の学校へ行く…… 奨学金をもらって、寮に入って、勉強する。私、なんかが、本当に?)
 しかし、テオはオリヴィアの成績なら可能だという。そこにはまったく実感がわかない。
『なるほど。それは、すごいことなんだね。おめでとう、オリヴィア』
「ありがとう、フィンレイ。でも、決まりじゃないわ。試験だって受けないといけないし、それに……」
『それに、なに? 怖いことでもあるのかい、オリヴィア。首都はイトコさんがいるなら、きっと守ってくれるよ。騎士さんなんでしょう?』
「そのことじゃないの。そのことじゃなくて……
 ねえ、フィンレイ。私たち、首都に行ってもこうしてお話しできるかしら。影を通して、私はあなたのところに、行ける? この町が実は特別で、この町だからあなたとお話しできて、この町だからあなたのところに行けるんだって、そういうことはない? もしそうなら、私、首都には行かないわ。首都以外にも、この町の外には絶対行かない。お義母さんに疎まれ続けてでも、ここにいる」
 揺れていた足を止め、縋りつくように少女は問いただした。首都に行くか行かないか。それは人生で大きな選択になることだ。だからこそ、従兄は、返事は自分が帰ってからでもいいと言った。将来を考える時間と機会をくれたのだ。
 だが、見えない将来よりも、生まれて初めての友達の方が、オリヴィアにとってはずっと大切だった。
『……それは、大丈夫だよ、オリヴィア。町は関係ない。オリヴィアだから、僕は話ができるんだ。オリヴィアだから、僕のところに来ることができる。オリヴィアが僕を嫌いになるまで、そのことは心配しなくていい』
「あなたを嫌いになったりなんてしないわ!」
 的外れなことを言う友達に、つい声を荒らげる。オリヴィアはあわてて口を押さえた。再び、声量を抑えて影に語りかける。
「怒鳴ってしまってごめんなさい。でも、どうかわかって。私があなたを嫌いになるだなんて、そんな悲しくなるようなこと、もう言わないで」
『ああ、ごめんね、オリヴィア。僕のせいで、また君を傷つけてしまった』
「ううん、いいの。ねえ、フィンレイ。もっと自信を持って。私、あなたとずっと友達でいるわ。約束する。それに、どこに行ってもあなたと話せるなら、怖いものもなにもないわ。
 テオ兄さんの言うとおり、お義母さんとは距離を置いた方がきっといいのだと思うし……」
『じゃあ、首都に行くのかい?』
 フィンレイの言葉に、オリヴィアはもう一度その意味を考えた。首都の学校に通う。継母とも距離を置くのなら、長期休暇でも帰らない方がいいだろう。返事の望めない手紙くらいで、きっとちょうどいい。学校の卒業後に戻るかどうかはわからないが、首都のほうが仕事は多いだろう。
 つまり、この町を完全に出ることになる可能性がずっと高い。
「……この町を出るのは怖いわ。旅行にも行ったことがないのに、いきなりひとりで引っ越しなんて。でも、あなたがいてくれるなら、きっと大丈夫って思えるの」
『僕はそっちには行けない。こうしてお話しすることしかできないよ。それでも大丈夫?』
「大丈夫。あなたとお話しするだけで、心が安らぐもの。それに、お休みの日にはいままで通りそちらに行けるのよね?」
『うん、そうだよ、オリヴィア。君はどこにいても、望む限り、ここに来ることができる』
 竜の言葉が体に浸透していく。それで少女は心を決めた。
「それなら、いまと変わらないわ。どうせこっちに友達なんていないんだもの。私、この町を出て、首都に行く」
『頑張って、オリヴィア』
「ありがとう、フィンレイ。
 ……ああ、でも、転入試験に落ちたらどうしよう。そのときは慰めてね」
『努力家のオリヴィアならきっと大丈夫だと思うけど、そうなってしまったら、慰めるよ。
 すごいなあ、オリヴィアは。外に出る勇気があるなんて。勇敢なオリヴィア。君はやっぱりすごい』
「そんなことないわ。勇気をくれたのはあなたよ、優しいフィンレイ」
しばらく、影からの返事がなかった。それはきっと、翼を羽ばたかせたり尻尾を揺らしたりしているせいだろうと、オリヴィアは笑った。

 返事を聞いたテオの行動は早かった。学校まで同行して校長に推薦状と成績表を用意させ、予定を繰り上げて首都へ帰っていった。元々話をつけていたのかなにかコネでもあるのか、さほど日を置かず、首都に試験を受けに来るようにと記された手紙が来た。生まれて初めて辻馬車に乗り、首都へ行って、即日試験を受け、翌日に面談をして、結果の通知方法を聞かれたので実家に手紙で送ってほしいと頼み、再び辻馬車に乗った。目を回す暇すらない一週間の代償として、家に帰り着いたあとは本当にまるまる一日眠ってしまったほどだ。
「なんだか、まだ疲れが抜けてない気がするわ……」
「大丈夫かい、オリヴィア。眠ったらどう?」
「ありがとう、フィンレイ。でも眠らないわ。折角来たのに、もったいない。それに、あまりに忙しくて、ここ何日か全然お話しできてなかったもの。私、あなたとたくさんお話がしたいの。お弁当だって持ってきたんだから」
 久々に来た薄暗い地底湖のほとりで、少女は竜に体を預けた。竜は首を曲げて、頭を少女に近づける。
「……うん、お話ししよう、オリヴィア。と言っても、僕はまったくいつも通りだったよ。せいぜい、地底湖の魚に大きいのを見つけたくらい。いまはいなくて残念だ」
「大きい魚ね、見てみたいわ。ただでさえ、地底湖の魚って大きいのに、さらに大きいなんて。ねえ、どのくらいだったの?」
「ええと、確か、オリヴィアと同じくらいだったよ」
「……それ、本当に魚? そんな大きな魚、聞いたことがないわ」
 思わずといった様子で地底湖に身を乗り出すオリヴィアに、フィンレイはくすくすと笑い声をもらした。
「本当だよ。僕も驚いた。物知りのオリヴィアでも、知らないんだね。ますますびっくりだ」
「知らないことなんていっぱいあるわ。試験でも、わからないところがあったし…… 首都も、見たことないものだらけで…… 私、本当に大丈夫かしら。面談だって、全然うまくいかなかったわ。人と話すのなんて、苦手だもの」
 オリヴィアは思わずため息をつく。試験自体は、わからないものもあったものの、おおむね問題はなかったような気がしている。問題は面談だ。聞かれたことには答えたし、頑張って相手の目を見るようにもしたはずだが、その実、緊張しすぎてよく思い出せない。
「結果は手紙で送ってくれるんですって。早くて来週、遅くて再来週。落ち着かないわ」
「……すごいなあ、オリヴィアは。本当にすごい。生まれた場所を出て、新しいところに行くなんて。僕には怖くてできないよ」
 フィンレイは首をもたげ、洞穴に頭を向けた。二人のいる空洞から伸びているその洞穴は、風の音を届けても風そのものはもたらさない。空洞から一歩も出たことのないフィンレイは、ここが洞窟の行き止まりだとは知っていても、洞窟の全容は知らない。
「向こうが気になるの、フィンレイ?」
「……うん、気になるよ。見てみたい。でも、僕はここを出ちゃだめなんだ。ここにいなくちゃ。ひとりぼっちでここにいなくちゃいけないんだ」
 首をぐるりとと巻いて、フィンレイは目をつむった。少し遠い鼻先にオリヴィアは歩み寄る。そして、トン、と軽くはたいた。
「フィンレイ、あなたはもうひとりぼっちじゃないわ。私がいる。それなのに、いまもひとりぼっちみたいに言うのはやめて。まるで、私がどこにもいないみたいで、悲しくなるわ」
「……ああ、ごめんよ、オリヴィア。本当にごめん。君は僕の友達になってくれた。僕はもう、ひとりぼっちじゃない……」
 大きな青い目が少女を見つめる。見つめられた少女は照れ隠しに、もう一度、トンとはたいた。
「ねえ、フィンレイ。もしも外に興味があって、勇気が出ないなら、私がついて行ってあげる。あなたが私と一緒にいてくれたように」
「本当かい、オリヴィア」
「もちろんよ、フィンレイ。あなたが望むなら、私はいつでもそばにいるわ」
 竜の尻尾が揺れ、ぱしゃりと湖面が跳ねる。
 フィンレイはそっとオリヴィアから頭を離し、風の鳴る洞窟を見つめた。音しか知らない風、オリヴィアから聞いただけの空、薄暗闇の向こうには本物のそれらがある。他にはなにがあるだろうか。
「ねえ、オリヴィア」
「なに、フィンレイ」
「本当に、ついてきてくれる?」
「ええ、もちろん」
 フィンレイはオリヴィアを見た。彼女が離れたのを確認して、四本の足でそっと立ち上がる。おそるおそる、洞窟に近づく。洞穴の出口で立ち止まると、追いついたオリヴィアが、左前脚にそっと手を当てた。
「こっちにも光苔はちゃんとあるのね」
「うん、そうみたい。ずっと奥まで続いてるよ」
 そう言って、少しの間、奥を見つめた。オリヴィアはなにも言わない。
 竜はそんな少女を一度見て、もう一度洞窟の奥を見据えて、ゆっくりと一歩目を踏み出した。
 のし、のし、と前だけ見て歩くフィンレイにあわせて、オリヴィアも歩き出す。彼の足に転ばされないように注意しながらも、右手は離さない。はじめて踏み入った洞窟はオリヴィアが思っていたより天井が高く、顎をあげて見上げると、フィンレイの頭よりずっと上に光苔が見えた。淡い光がフィンレイの白い皮膚に落ちている。大きな青い目は、固定されているかのように前方を向いている。同じように前を見ても、オリヴィアには先はあまり見通せない。ここは地底湖の反射がないので、空洞広場よりもさらに暗いのだ。
 フィンレイの目には、この先が見えているのかしら。
 そう考えて竜の目を見ても、少女には答えはわからなかった。
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登場人物紹介

オリヴィア

赤い髪の女の子。引っ込み思案気味だか実は頑固者で、一度言い出したら聞かないタイプ。きわめて努力家だが自己評価が低い。

フィンレイ

寂しがりで知りたがりな竜の子供。たぶん男の子。普段は異世界の洞窟に棲息しており、影を通してオリヴィアに語り掛けている。

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