第9話

文字数 3,176文字

「起きなさい、竜と少女よ。すでに日は昇りました」
 かけられた言葉で瞼をあけると、二人の前に誰かが立っていた。足下は布――ドレスに覆い隠されていて見えない。銀糸が織り込まれているのか、煌めく黒いドレスは腰のあたりで金色の帯によって絞られている。白い手の覗く袖はドレスと繋がっておらず、同じく金色の留め具で二の腕に固定。肩を覆う黒髪は緩やかに波打ち、木漏れ日を受けて艶めく。長い前髪が右目を隠しているが、金の左目は駄々っ子を見守るような眼差しを二人に注いでいた。まどろみの中にいる二人はその柔らかな表情に安心感を覚え――、それが見知らぬ誰かだと気づいて大慌てで居住まいを正した。
 オリヴィアは勢いよく立ちあがって足に貼り付いたスカートをはがし、フィンレイは起き上がれないのでとりあえず首を持ち上げて、寝そべり状態を改める。あたふたと体を動かす二人が落ち着くのを、女性は微笑ましげに待っていた。
「目は覚めたようですね」
「はい、おかげさまで…… あの、失礼ですけど、どなたでしょうか。あ、私はオリヴィアです。オリヴィア・ターナーといいます。こっちは友達のフィンレイです。竜だけど、悪い竜じゃなくて、すごく優しい竜で、ええと」
 竜を背にして言い募ろうとするオリヴィアを、その女性はじっと見つめた。そして、竜に視線を移す。
「外に出ただけでなく、名まであるのですね、竜よ」
「僕を知っているの?」
「ええ。知っています。この国の誰もが、あなたがいることは知っていた。けれどまさか、洞窟から出てくるとは思っていませんでした」
「誰も、迎えに行かなかったんですか」
 無意識に声を尖らせる少女を、竜と女性は静かに見つめた。そして、女性は首肯する。
「なにせ、とても高いところにいましたから。この国の誰も、あそこに登ることはできないのです。竜である、彼以外には」
 すらりとした腕が伸び、遙か上空を示した。竜と少女はつられて首を巡らせる。森のわずかな隙間から見えるのは、少し離れた場所にある切り立った崖。自分たちが落ちてきたような洞穴はどこにも見えない。
「……見えないほど、高いところにある、ということですか」
「その通りです、少女よ」
「オリヴィアです」
「そうでした。そして彼はフィンレイ……
 私の名乗りがまだでしたね。私はセポネ。この国を治める者です」
「えっと……、つまり……
 女王様ですか!? 失礼いたしました、私、知らなくて!」
 慌ててひざまづこうとするオリヴィアを、セポネは手で制した。スカートを握ったり離したりと落ち着きをなくす少女を横目に、竜が口を開く。
「なぜ、ここに来たんですか、女王陛下」
「あなたが洞窟を出たと、森の精から連絡がありました。人間と一緒に落ちてきて、傷だらけである、とも。
 てっきり、人間が竜退治にきたのかと思っていましたが、その様子では違うようですね」
「わ、私はフィンレイの友達です! 退治なんて、そんなことしません! この傷は、その、落ちたときに私をかばって、森にぶつかる前に下敷きになってくれたからで…… 私がつけたようなものだけど、そんなつもりはなくて……」
「気にしないで、オリヴィア。君に怪我がなくてよかった」
 慎重に近づいてくる竜の頭を、オリヴィアは撫でた。ありがとう、と呟く。その様子を女王は見つめていた。
「友達をかばって、ついた傷だったのですね。竜の回復力ならすぐに治ると思いますが、治療は必要ですか?」
「竜のお医者様がいるんですか?」
「いいえ。私が、魔法を使います」
 目を丸くするオリヴィアに、セポネは小さく笑った。口元の笑みを保ったまま、人間の少女に問いかける。
「魔法を見たことはないのですか?」
「な、ないです。首都の、王宮には宮廷魔術師様がいると聞いていますけど、王族の方以外はお会いできないとも聞いていますし……」
「あなたの国の魔術師は、ずいぶんもったいぶっているのですね」
 少女の返答を聞いて、セポネはまあ、と驚いた。それを、呆れられたとオリヴィアは感じた。けれど、その対象は自分ではない。自分の国の、宮廷魔術師だ。
 黒い女王は異国の少女を軽んじず、説いて聞かせる。この国において魔法は、特別なものではない、と。
「特別じゃない…… でも、そうですよね。だって、フィンレイは竜だし、さっき女王様は森の精から連絡を受けたと言って、じゃなくて、おっしゃられていましたし」
「ええ、そういうことです。それでは、フィンレイ。いますぐに傷を治しますか? それとも、自然治癒に任せますか?」
「女王陛下に、僕なんかの傷を治してもらって、いいんですか?」
「……あなたも、この国の民ですから」
 女王は一瞬目を伏せて、答えた。それを聞き、竜も少しうつむく。けれど、隣に立つ少女を見て、顔を上げた。
「では、お願いします、女王陛下。このままでは、オリヴィアが帰れない」
「わかりました」
 オリヴィアが横にずれるのを見て、フィンレイはゆっくり歩み出た。彼が女王の前で頭を垂れると、彼女はその大きな額に手を置いた。オリヴィアは二人の様子をじっと見守る。女王の口が小さく動いたかと思うと、至る所にあった竜の傷があっという間にふさがっていった。
「もう、痛くないです。ありがとう、女王陛下」
「友達を治してくださって、ありがとうございます、女王様」
 同時に頭を下げる二人に、女王はどういたしましてと答えた。顔を上げさせ、語りかける。
「さて、フィンレイ。貴方は、飛ぶ練習をしなくてはいけません。申し訳ありませんが、この森は貴方の住処にはできないので、洞窟に戻ってもらうしかないのです。
 けれど、飛ぶことさえできれば、どこへでも遊びに出かけることができます。森を越えて、湖を越えて、どこへでも」
「でも、女王陛下。僕、飛び方がわかりません。洞窟の出口からも落ちちゃって…… 翼を動かしてみたけど、あまり意味はなかったし」
「大丈夫、私が教えます。一ヶ月もあれば、飛べるようになるはずですよ」
「教えてもらいましょうよ、フィンレイ。あの洞窟に戻らないといけないことは残念だけど、外に出る自由はあるようだし。
 ……そういえば、あの水平線は海じゃなくて湖だったのね。太陽の下の湖ってきっと素敵よ。一緒に見に行きましょう」
 フィンレイは自分を見上げるオリヴィアと、答えを待つセポネを交互に見て、自分の体があけてしまった穴から空を見上げた。
「よろしくお願いします、女王陛下」
「こちらこそ、よろしくお願いします。
 次に、オリヴィア」
「は、はい」
 少女はぴんと姿勢を正す。もじもじと指を組んでしまわないよう、指を太股に貼り付けた。癖で目を逸らしそうになるが、失礼すぎると思い、頑張って我慢する。ありありと伝わる彼女の緊張に、セポネの目尻が下がった。
「貴方は、一度お帰りなさい。もう一度ここへ来るのは、きちんとした食事をとって、ベッドで眠ってからです。
 慣れない野宿は疲れたでしょう。もしも疲れで熱が出てしまったら、私に人間は治せません」
「僕も、それがいいと思うよ、オリヴィア。だってオリヴィア、ご飯がないでしょう?」
「それは……、確かに、少しおなかが空いてきたけど……」
 青い目に諭されて、少女は返事に詰まった。友達が心配だが、自分が心配させてもいけない。ちらりと女王を見る。金の左目に敵意や害意はない。言葉のまま、初対面の自分を心配してくれている。
 深呼吸を一つ。朝の森の空気は冷たく、心地いい。
「わかりました。帰って、きちんと休みます。
またね、フィンレイ。練習、頑張ってね」
「またね、オリヴィア。僕、頑張るよ」
 竜と少女は、初めて青空の下で、別れを告げた。
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登場人物紹介

オリヴィア

赤い髪の女の子。引っ込み思案気味だか実は頑固者で、一度言い出したら聞かないタイプ。きわめて努力家だが自己評価が低い。

フィンレイ

寂しがりで知りたがりな竜の子供。たぶん男の子。普段は異世界の洞窟に棲息しており、影を通してオリヴィアに語り掛けている。

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