第8話
文字数 2,213文字
水滴が顔に当たったような気がして、竜は目を覚ました。なぜか重たい瞼に力をこめて押し上げる。
「フィンレイ! 起きたのね、よかった…… ごめんなさい、私があんなことを言ったばっかりに……」
「目から水が出てるよ、オリヴィア。湖の妖精になったの?」
口を開けると、妙に力が入らなくて、なんだかふにゃふにゃとした声になった。
「違うわ、なにを言ってるのよ、もう……
もしかして、意識がはっきりしないの? そうよね、痛いよね、ごめんなさい……」
友達の目からずっと水……、涙が出ていることが不思議で、そして悲しげな顔をしていることがたまらなくつらくて、フィンレイはどうしていいかわからなくなった。きっと自分がなにかしたのだろうと思って、記憶をたどる。
久しぶりに会ったオリヴィア。くねくねの洞窟。本物の風。外の光。青い空と白い雲。緑の森ときらきらの水平線。小さな黒い鳥。そして、背中の小さな体温と、全身に浴びた風。
「……僕、飛べなかったんだね」
オリヴィアに傷がないことを確認して、フィンレイは再び瞼を閉じた。景色はたいして変わらない。ぽつぽつと顔に当たる涙が、より強く感じられた。
「あなたのせいじゃないわ、フィンレイ。鳥が飛ぶのも、人間が歩くのも、練習がいるんだもの。それを忘れて、飛んだことのないあなたに、飛んでみせてなんて言った私が悪いのよ。ごめんなさい。体中、傷だらけになって…… 私を守ってくれたのよね。本当にごめんなさい」
オリヴィアはまだ泣いている。君は悪くないよと言っても、彼女は聞き入れてくれない。どれほど言ってもそうだろう。それをフィンレイはよく知っている。なにせ、いままでなにかある度に、あなたは悪くないとどれほどオリヴィアが言ってくれても、それに納得しきれなかったフィンレイだ。
「オリヴィア、君は悪くない。そして、僕も悪くないと君は言ってくれる。だったら、きっとどっちも悪くないんだよ。これは、そう、事故ってやつだ。だから、もう泣かないで。君が泣くと、僕はとても悲しいんだ」
一生懸命なフィンレイの言葉に、オリヴィアは思わず彼の大きな頭をぎゅっと抱きしめた。そのまま少女は何度も竜の名前を呼び、時に謝り、時に礼を言って、泣き続ける。させるがままに、竜はそれを受け止めた。
しばらくそうしていると、オリヴィアは落ち着きを取り戻した。そっとフィンレイから離れて、体の様子を聞く。
「なんだか全身痛いけど、すぐに治る気がするよ」
「本当に? 確かに、あまり血とかは出てなかったけど…… 骨とか、折れてない?」
「うーん、たぶん。だんだん痛みも引いてきてるし」
「それなら、大丈夫なのかしら」
「うん、大丈夫だよ。それより、オリヴィア、聞きたいことがあるんだ」
「なあに、フィンレイ」
「オリヴィアの後ろの、明るい丸いのはなに? それと、どうしてここはこんなに暗いの?」
フィンレイが伏せた状態で彼女を見上げると、そのシルエット越しに、大きな明るい、丸いものが見える。それに、彼が覚えている景色よりもずいぶんと暗い。光苔の明かりもない。なにかが上にたくさんあって、丸いものはその隙間から見えている。フィンレイには、それらが不思議でならなかった。彼にとって、洞窟は世界で一番暗い場所のはずだったので、それよりも暗いところがあるなど、想像していなかったのだ。
少女は後ろと言われて素直に振り向いた。暗い森が見えるが、明るい丸いものなどない。はてなと首を傾げると、ごめん、上だよ、とフィンレイが言った。なるほど、竜は伏せているので、のぞき込むオリヴィアの向こう側は、彼女の後ろと言えなくもない。納得した少女は上を向いた。
視界に入るのは鬱蒼と生い茂る森の枝葉。竜の巨体にへし折られて穴が開いた部分からは夜空が見える。なんの変哲もない、夜の森だ。
この中に、明るい丸いものに該当するのは、一つしかない。
「月のことかしら。お月様よ。いまは夜だから、太陽の代わりに、月が照らしてくれるの」
少女の言葉に、竜はぱちぱちと目をしばたたせた。大きな目がゆっくりと周囲を見渡す。
「あれが月…… 森は、上に覆い被さるんだね」
「忘れていたわ。あなたは、太陽も月も、見たことがないんだってこと。ごめんなさい」
「気にしないで、優しいオリヴィア。
それよりも。こんなことを聞きたくはないんだけど…… オリヴィアは、帰らなくていいの?」
昼が夜になるには時間がかかることは、オリヴィアと会話するうちに学んだことの一つだ。もっともな質問に、オリヴィアは彼に寄り添ったままで答えた。かまわない、と。
「どうせ、お義母さんは私がいないことになんて気づかないもの。明日は学校もお休みの日だし」
「じゃあ、明日に帰るんだね。明後日は学校があるんでしょう?」
「怪我をしているあなたをおいて、帰りたくなんてないわ」
「だめだよ、オリヴィア。学校をさぼるのは悪いことだって、前に言っていたじゃないか」
「学校より、友達が大事よ」
言い切るオリヴィアに、竜の尻尾が揺れる。せわしなく目を動かす様子に、少女は思わず噴き出した。
「前から思っていたけど、フィンレイってわかりやすいわね」
「そうかなあ。オリヴィアがそう言うんなら、そうなのかも」
夜の森に、二人分の笑い声が小さく響く。体をくっつけて、竜と少女は瞼を閉じた。
「フィンレイ! 起きたのね、よかった…… ごめんなさい、私があんなことを言ったばっかりに……」
「目から水が出てるよ、オリヴィア。湖の妖精になったの?」
口を開けると、妙に力が入らなくて、なんだかふにゃふにゃとした声になった。
「違うわ、なにを言ってるのよ、もう……
もしかして、意識がはっきりしないの? そうよね、痛いよね、ごめんなさい……」
友達の目からずっと水……、涙が出ていることが不思議で、そして悲しげな顔をしていることがたまらなくつらくて、フィンレイはどうしていいかわからなくなった。きっと自分がなにかしたのだろうと思って、記憶をたどる。
久しぶりに会ったオリヴィア。くねくねの洞窟。本物の風。外の光。青い空と白い雲。緑の森ときらきらの水平線。小さな黒い鳥。そして、背中の小さな体温と、全身に浴びた風。
「……僕、飛べなかったんだね」
オリヴィアに傷がないことを確認して、フィンレイは再び瞼を閉じた。景色はたいして変わらない。ぽつぽつと顔に当たる涙が、より強く感じられた。
「あなたのせいじゃないわ、フィンレイ。鳥が飛ぶのも、人間が歩くのも、練習がいるんだもの。それを忘れて、飛んだことのないあなたに、飛んでみせてなんて言った私が悪いのよ。ごめんなさい。体中、傷だらけになって…… 私を守ってくれたのよね。本当にごめんなさい」
オリヴィアはまだ泣いている。君は悪くないよと言っても、彼女は聞き入れてくれない。どれほど言ってもそうだろう。それをフィンレイはよく知っている。なにせ、いままでなにかある度に、あなたは悪くないとどれほどオリヴィアが言ってくれても、それに納得しきれなかったフィンレイだ。
「オリヴィア、君は悪くない。そして、僕も悪くないと君は言ってくれる。だったら、きっとどっちも悪くないんだよ。これは、そう、事故ってやつだ。だから、もう泣かないで。君が泣くと、僕はとても悲しいんだ」
一生懸命なフィンレイの言葉に、オリヴィアは思わず彼の大きな頭をぎゅっと抱きしめた。そのまま少女は何度も竜の名前を呼び、時に謝り、時に礼を言って、泣き続ける。させるがままに、竜はそれを受け止めた。
しばらくそうしていると、オリヴィアは落ち着きを取り戻した。そっとフィンレイから離れて、体の様子を聞く。
「なんだか全身痛いけど、すぐに治る気がするよ」
「本当に? 確かに、あまり血とかは出てなかったけど…… 骨とか、折れてない?」
「うーん、たぶん。だんだん痛みも引いてきてるし」
「それなら、大丈夫なのかしら」
「うん、大丈夫だよ。それより、オリヴィア、聞きたいことがあるんだ」
「なあに、フィンレイ」
「オリヴィアの後ろの、明るい丸いのはなに? それと、どうしてここはこんなに暗いの?」
フィンレイが伏せた状態で彼女を見上げると、そのシルエット越しに、大きな明るい、丸いものが見える。それに、彼が覚えている景色よりもずいぶんと暗い。光苔の明かりもない。なにかが上にたくさんあって、丸いものはその隙間から見えている。フィンレイには、それらが不思議でならなかった。彼にとって、洞窟は世界で一番暗い場所のはずだったので、それよりも暗いところがあるなど、想像していなかったのだ。
少女は後ろと言われて素直に振り向いた。暗い森が見えるが、明るい丸いものなどない。はてなと首を傾げると、ごめん、上だよ、とフィンレイが言った。なるほど、竜は伏せているので、のぞき込むオリヴィアの向こう側は、彼女の後ろと言えなくもない。納得した少女は上を向いた。
視界に入るのは鬱蒼と生い茂る森の枝葉。竜の巨体にへし折られて穴が開いた部分からは夜空が見える。なんの変哲もない、夜の森だ。
この中に、明るい丸いものに該当するのは、一つしかない。
「月のことかしら。お月様よ。いまは夜だから、太陽の代わりに、月が照らしてくれるの」
少女の言葉に、竜はぱちぱちと目をしばたたせた。大きな目がゆっくりと周囲を見渡す。
「あれが月…… 森は、上に覆い被さるんだね」
「忘れていたわ。あなたは、太陽も月も、見たことがないんだってこと。ごめんなさい」
「気にしないで、優しいオリヴィア。
それよりも。こんなことを聞きたくはないんだけど…… オリヴィアは、帰らなくていいの?」
昼が夜になるには時間がかかることは、オリヴィアと会話するうちに学んだことの一つだ。もっともな質問に、オリヴィアは彼に寄り添ったままで答えた。かまわない、と。
「どうせ、お義母さんは私がいないことになんて気づかないもの。明日は学校もお休みの日だし」
「じゃあ、明日に帰るんだね。明後日は学校があるんでしょう?」
「怪我をしているあなたをおいて、帰りたくなんてないわ」
「だめだよ、オリヴィア。学校をさぼるのは悪いことだって、前に言っていたじゃないか」
「学校より、友達が大事よ」
言い切るオリヴィアに、竜の尻尾が揺れる。せわしなく目を動かす様子に、少女は思わず噴き出した。
「前から思っていたけど、フィンレイってわかりやすいわね」
「そうかなあ。オリヴィアがそう言うんなら、そうなのかも」
夜の森に、二人分の笑い声が小さく響く。体をくっつけて、竜と少女は瞼を閉じた。