第7話

文字数 3,313文字

 途中で何度か休憩を挟みながら、二人は洞窟を進み続けた。洞窟内部は曲がりくねっているが分かれ道はなく、迷う心配はなさそうだ。そのことにオリヴィアは少しだけ安心した。ゴウ、と風が吹き付ける。強い向かい風に、オリヴィアは思わず目をつむった。
「あ!」
「どうしたの、フィンレイ」
「いま、いまの! もしかして、いまのは風?」
「……ええ。ええ、そうよ。いまのが風」
「いまのが、風。僕の翼のせいじゃなくて、自然の、本物の風……」
 立ち止まるフィンレイの足を、オリヴィアはそっと撫でた。
 いままで、聞いたことはあっても感じたことのなかったものに、彼はいま初めて触れたのだ。その感動は、少女にもわかる。先日、首都の喧噪を目にした時の自分も、同じように感動したのだから。
「ありがとう、オリヴィア。もう大丈夫だよ、先に進もう」
「もういいの?」
「うん。風の音は、いつも聞いていた。それって、風はいつも吹いてるってことだよね? だったら、ここに立ち止まってなくても、先に進んでも、風はずっとある」
「そうね、そのとおりよ。それじゃあ、進みましょう」
 踏み出す竜の足に手を添えて、オリヴィアも前に進む。進むにつれ、反響する風の音と風そのものの強さが変わっていく。明るさが変わりはじめたあたりで最後の休憩をして、ゆっくりと進み続けた。
「だいぶ明るくなってきたわね。風も吹きっぱなし」
「うん。それに、光苔がなくなっちゃった。それとも、光ってるけどわからないのかな」
「たぶん、ないんだと思うわ。だって、ほら、足下の土が乾いてる。苔って、湿ったところに生えるものだから、きっと出口の近くにはないのよ」
「なるほど。さすがだね、物知りなオリヴィア」
「本で読んだだけよ。
 ……ああ、フィンレイ、あれ!」
 進む先の側面から、真っ白な光が差している。オリヴィアは思わずそれを指さした。
「外の光よ。あそこは角で、曲がった先が出口なんだわ」
「外の光……」
 少しの間、フィンレイは立ちすくんだ。ちらりと、自分の足元を見る。そこにいるのはオリヴィアだ。人間の少女。小さな友達。
「外は、どんなところかなあ」
 足下の友達を転ばさないように、慎重に歩く。角を曲がると、出口から光があふれていた。あんまりまぶしくて、目を細める。目測もしづらいが、出口まではまだ少しあるようだ。
「あんまり見ていると、目が焼けてしまうかも。見つめすぎてはだめよ、フィンレイ」
 わかったよ、と返して先に進む。明るさに目が慣れてきても、外の様子は分からない。
「……? 待って、おかしいわ、フィンレイ。出口はあんなに大きくて、もうずいぶん目も慣れたのに、外の景色が見えないなんて」
「やっぱり、外には出られないのかな」
「そんなはずないわ。風は入ってきてるんだもの」
 オリヴィアは首を傾げて思案する。けれど、知らないものはわからない。とにかく進もうという意味を込めて、とんと竜の足を叩く。それを合図にフィンレイは再び歩き出した。
 そして、出口まであと数メートルというところで、オリヴィアはやっと理解した。
「……ここは、崖の中なのね」
出口からは空しか見えない。数メートルを歩ききって、二人は下をのぞき込む。
「地面がないね」
「……だめね。とても高い。木のてっぺんが、ずいぶん下にある。向こうは海みたいだから、そこなら落ちても平気かもしれないけど……」
「飛び降りたら、怪我しちゃいそうだね」
 そう言いながらフィンレイがばさりと翼を動かすと、地上をのぞき込んでいたオリヴィアは勢いよく顔を上げた。
「ねえ、フィンレイ。あなた、飛べない?」
「え? 飛ぶ? 僕が?」
「ええ、あなたが。だって、竜なのでしょう? 大きい翼もあるし」
「どうだろう、わかんないや。一生見れないと思ってた本物の空を見られただけでも、僕は大満足だし……」
「そう…… そうね。フィンレイがそれでいいなら、私もいいわ」
 そう言って、オリヴィアは乗り出していた体を引っ込めた。隣にいる竜を改めて見上げる。
 爪は泥で少し汚れている。胴はごつごつした真っ白な鱗に覆われ、所々薄い影が落ちている。たたまれた翼も白く、鳥よりもコウモリのそれに近い。首も頭も白いなかで、目の青だけが宝石のように輝いていた。
「……フィンレイは、きれいね」
「えっ? そう? そんなことないと思うけど。全部真っ白で、色もないし、鱗でごつごつしてるし」
「いいえ、きれいよ。全部真っ白で、雪みたい。でも、目だけ青いの」
 フィンレイは体を小さく揺すった。翼を広げかけて、あわてたようにたたむ。首をうろうろと伸ばし、自分の動きをどうにか最小限にとどめようとしていた。
「オリヴィアの赤い髪も、素敵だよ」
「……血の色よ、素敵じゃないわ。でも、ありがとう」
 短い髪を引っ張るように摘んで、少女は礼を言った。もう一度外を見る。青空ときらきらする水平線、海は空よりも濃い青で、さらに手前は森の緑色。ふと思いついて、オリヴィアは崖の下を指さした。
「フィンレイ、下にあるのが森よ。濃さは木によってまちまちだけど、全体的に緑色ね」
「森、森かあ。そして、緑色」
「ええ、その奥は海で、青色。空も青だけど海より薄い青。雲は白ね」
「外の世界は、色も明るいんだね。それに、海ってまぶしいんだ。知らなかった」
「きっと、空の明るさが反射してるからだわ。地底湖も、光苔を反射して、明るかったでしょう。起きていることはそれと同じよ」
「そうなんだ。全然違って見えるのに、同じことなんだね」
 フィンレイは首を伸ばして、地上をのぞきこんだ。オリヴィアもそれに倣う。木々の上を黒い影が通り過ぎた。
「オリヴィア、いまのはなに?」
「鳥だと思うわ。結構大きかったわね」
「鳥かあ。翼があったね。僕もああやって飛べるのかなあ」
「……じゃあ、飛んでみる?」
「うーん、やったことがないから、やっぱり怖いよ」
「そう……」
「……がっかりした?」
「そんなことないわ」
 勝手に期待して勝手に気落ちした。そんなことを知られたくなくて、オリヴィアは洞窟に体を戻した。フィンレイはなおも崖の下を見ている。時々吹き込む風にあおられないよう、オリヴィアはそっと竜の陰に体を隠した。そんな自分の様子をフィンレイが気遣わしげに見ている。それに気づいたオリヴィアは、大丈夫だと示すために小さくうなずいた。
 彼は一度瞬きして、再び外の景色に目を向ける。少女は座り込んで、そんな竜を見つめた。
 初めて見る景色に、彼はなにを思っているのだろう。感動しているのだろうか。もっと知りたいと思っただろうか。それとも、これで十分だと考えるだろうか。人間と竜は違うから、思いも寄らないことを考えているのかもしれない。
 いろいろなことを考えるが、オリヴィアはフィンレイに声をかけない。風を感じながら、ただじっと時間を過ごす。そのうち、フィンレイが首を曲げて、オリヴィアにねえ、と尋ねた。
「飛べるかな? 僕も、あの鳥みたいに。君みたいに、違うところに行けるかな」
「私にできるんだから、きっとあなたもできるわ、フィンレイ」
「本当?」
「ええ、きっと。そして、どこに行っても私はずっと一緒よ。あなたがそう言ってくれたように」
「……うん。うん、ありがとう、オリヴィア。
ねえ、僕の背中に登れるかい?」
 フィンレイが身を屈めると、オリヴィアは立ち上がって、そのごつごつとした鱗に手をかけた。足もかけて、どうにかよじ登る。バスケットはおなかで覆い被さるようにして挟み、両手を広げてしがみついた。
「これでいい?」
「うん、たぶん。絶対に離さないでね」
「あ、ちょっと下がって助走をつけた方がいいわ、きっと。その方が遠くに飛べるの。その、人間の運動の時は、だけど」
「ありがとう、やってみるよ」
 フィンレイは言われたとおりに後退し、出口から距離をとった。翼を広げた状態で、走り出す。人間とは比べものにならない速さで出口に到達し、羽ばたいて――、
 そのまま、墜落した。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

オリヴィア

赤い髪の女の子。引っ込み思案気味だか実は頑固者で、一度言い出したら聞かないタイプ。きわめて努力家だが自己評価が低い。

フィンレイ

寂しがりで知りたがりな竜の子供。たぶん男の子。普段は異世界の洞窟に棲息しており、影を通してオリヴィアに語り掛けている。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み