29、ジャクリーヌ・ド・エノー(2)

文字数 1,342文字

 トゥーレーヌ公ジャン様と結婚したジャクリーヌ・ド・エノーは1415年にギュイエンヌ公ルイ様が亡くなったことで王太子妃となったが、1417年にはジャン様も突然亡くなってしまった。そして1418年4月、ジャクリーヌはワレラン兄さんの孫にあたるブラバント公ジャン4世と結婚した。ジャクリーヌ17歳、ジャン4世は15歳であった。

「ジャン4世はワレラン兄さんの孫だったよね」
「そうなの。ブルゴーニュ公ジャン様の弟、ブラバント公アントワーヌ様とワレラン兄さんの娘、ジャンヌ・ド・サン=ポルの長男がジャン4世だった。アントワーヌ様がアジャンクールの戦で戦死し、ジャン4世は12歳でブラバント公位を継承したわ」
「戦争は多くの者の命を奪い、その家族の運命も変えてしまった。ジャン4世は伯父であるブルゴーニュ公の命令に逆らうことはできなかったに違いない」
「2人は従弟でもあったから、ローマ教皇マルティヌス5世の承認を得て結婚したわ」
「教会大分裂はどうなったの?」
「コンスタンツ公会議で教会大分裂は解消され、マルティヌス5世はその後選ばれた教皇だったの。でも対立教皇のベネディクトゥス13世は退位を認めずに自分こそ正しい教皇であると主張し続けたわ」
「ベネディクトゥス13世はアラゴンの大貴族ルナ家出身だった」
「そうなのよ。1412年、アラゴンの王位継承者がいなくなって次の王を決める会議の時、ベネディクトゥス13世は他の候補者ではなくカスティーリャ王子のフェルナンドに票を入れたわ。支持をすると約束されていたからよ。その会議、カスペの妥協が行われたのは1412年だった。その後1415年にルイ様が亡くなり、1417年にはジャン様が亡くなった」
「アラゴンの王位継承と2人の王太子の死が何か関係あるのか?」
「ヨランド・ダラゴンはアラゴン王家出身だった。アラゴン王位はフアン1世の弟マルティン1世が継ぎ、その子マルティーノが跡継ぎになるはずだった。でもマルティーノが父マルティン1世より先に亡くなり、マルティン1世が亡くなった時、アラゴンに後継者がいなくなってしまった。カスペの妥協の時はヨランド・ダラゴンの長男ルイも候補者の1人に選ばれていた。それなのに対立教皇ベネディクトゥス13世の裏切りでアラゴン王位はカスティーリャ王子に奪われてしまった、だからきっとヨランド・ダラゴンは娘をフランス王妃にするためにあらゆる手段を使ったのよ。ルイ様とジャン様の死はカスペの妥協の後だったわ!」
「・・・・・」
「ごめんなさい、ピエール。ジャクリーヌの話をしていたのに、どうして私は対立教皇やアラゴン王位の話をしてしまったのかしら」
「教会分裂や対立教皇、アラゴンの王位継承の問題はフランスの歴史も大きく変えているように思う。でも誰もそのことには気づいていない」

 ジャクリーヌは叔父のヨハン3世と領土を巡って争っていた。そしてジャン4世が頼りにならないとわかると1422年に対立教皇ベネディクトゥス13世の介入で結婚は無効とされた。1427年、ジャン4世は23歳の若さで亡くなり、弟のフィリップ・ド・サン=ポルも1430年に亡くなり、ワレラン兄さんの血筋は途絶え、サン・ポル伯とリニー伯は叔母である私が継承することになった。

 


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