第33話:染谷君子が東大医学部に合格

文字数 1,722文字

 そして、2014年の春も希望の学校に合格、不合格で、塾を離れる子。思い通りの成績を残せず脱落していった子が22人。新しく希望を持って入ってくる子が23人となった。今年は特に型破りで、個性的な子はいなかった。猿田剛一は2年生になり成田中学の看板ストライカーに成長し、当たりの強いフォワードとして成田では有名になった。

 勉強の方も学年でベストスリーを争い、文武両道で頑張っていた。将来、佐倉高校を目指して頑張ってきた。2014年4月11日、早朝、MB銀行の重松さんから電話で豪ドル円が上昇してるので104円で売ると良いと言われ104円で526万豪ドルを売り残金が109411万円と遂に10億円を超えた。

 2014年は初期の佐光英才塾の卒業生からアメリカ東海岸のアイビーリーグのペンシルベニア大学に1人が合格し、西海岸のUCLA「カリフォルニア大学ロサンゼルス校」に2人が合格し、東大に2人、京大に2人、東工大2名、一橋大学2名、早稲田2名、慶応3名の合格者を輩出した。もちろん、この3人の写真と合格大学を佐光英才塾の教室の正面に張り出した。

 授業の時、必ず、彼らの写真を張り出した。この業績を目にした佐光夫妻は、ここまで来たかと感極まり自宅で涙した。その姿を見た猿田剛介と母の姫子さんが、すごい事ですねと驚いた。佐光俊充が、猿田剛介に、お前も米国の大学に挑戦するなら資金を援助してやると言った

 すると、笑いながら、まだまだ、足元にも及びないと言った。しかし挑戦は、したいだろと聞くと、もちろんですと答えた。2014年4月から染谷兄弟が、祖父母のすすめで医学部を受験するために医歯系の予備校に入ったと連絡が入った。この年は佐光英才塾でも塾生の入れ替わりが激しく退塾生が43名、入塾生が43名だった。

 今年は特に個性的な子は入塾せず、最近の傾向として個性的な子供が少なくなった気がした。夏休みが始まり9月を迎える頃には急成長した子とそうでないこの差がはっきりとして、彼らも、自分でその差に敏感に気づいた。また秋になり、夏と秋で20人以上の塾生が入れ替わった。そうして2014年が終わり2015年を迎えた。

 染谷君子が東大医学部と慶応医学部を受験すると連絡が入った。そして、2015年3月に染谷君子が東大医学部に合格した、一報が入った。そこで、佐光夫妻が上野の精養軒で合格祝いのパーティーをしようと2015年4月2日に染谷兄弟を呼んた。店に着くと染谷君子が佐光陽子に受かったと抱きついてうれし涙にくれた。

 そして合格祝いのパーティが始まり、ジュースで乾杯して佐光俊充が染谷君子に合格の弁を聞かせてと言うと、すっかり大人びて、思い起こせば7年以上前の年末、私達の両親が突然の高越事故で亡くなり、その後、佐光夫妻に拾って、成田の佐光夫妻の家から小学校へ通わせていただいた。その後、運良く筑波大付属駒場中学に合格でき、上野のマンションに住み、翌年、弟の染谷次郎も同じ中学に合格して上野に住むようになった。

 お金の管理や学校への支払いも、ここにいる佐光陽子さんにお願いた。3年後、筑波大付属駒場高校に合格すると祖父母が両親とのいさかいのことは忘れて、君達を立派な医者に育てたいと言ってくれ、佐光夫妻の元から独立して、医学部系の予備校に入り、今回、運良く、東大医学部に合格できたと語った。

 最後に、小学校自体に経験した成田の森の新緑の季節の木々の緑が、本当に新鮮で美しかった事を昨日の様に思い出しますと締めくくると拍手が起き、陽子さんが良く1人ぼっちで頑張ったわねと言うと染谷君子が号泣。その一部始終を聞いていた弟の染谷次郎が1つ上の姉は、困ったもので、彼女が成功すると直ぐに、僕も期待される年回りだと笑いながら言った。

 でも私も東大か慶応医学部、最低でも東京の医学部に絶対入りますと決意を新たにした。そして、また新年度が始まった。この年は、いままで一番出入りが激しく退塾生が53人、入塾生が56人となった。入塾しても、ついて行けないと思うと、あきらめの早い子が非常に増えてきたのだ。石の上にも三年という我慢強い子が少なくなった証拠だろうと、佐光夫妻はなげいた。
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