第32話:看護婦の母の活躍

文字数 1,731文字

 私達親子は、できる限り頑張りますので、何卒宜しくお願いしますと頭を下げた。すると、佐光陽子が、今日、もう少しで塾が終わりますので一緒に成田へ行きましょうと言った。そして、その晩に成田に帰り、猿田親子のために10畳の洋室を貸し与えた。2日後、猿田姫子が息子さんが引っ越し屋に依頼して、引っ越して来た。荷物は少なめだった。

 その晩から猿田姫子さんが得意の料理の腕を披露して、多くの種類の料理を作ってくれ、陽子さんと2人で買い物に行ってくれるようになった。その後、成田日赤病院に昼間の外来看護婦として採用された。そして9月から猿田姫子さんはバスで10分の成田日赤病院に内科の看護婦として通い始めた。佐光俊充が家賃は出世払いとして免除すると言った。

 すると猿田姫子さんが、この、ご恩、一生忘れませんと深々と頭を下げた。やがて涼しくなり10、11、12月と季節が移った。そんな12月20日の夜、佐光俊充の父、佐光俊一90歳が、急に胸が痛いと電話をして来て、猿田姫子さんと佐光俊充が駆けつけると、苦しんでるので猿田姫子さんが成田日赤病院に電話して、佐光俊充に車を回すように言った。

 10分足らず、病院の救急室のストレッチャー乗せ、駆けつけた循環器科の先生が心筋梗塞だと言い、緊急手術となり、ステントを入れる手術を始めて、1時間後、佐光俊充と猿田姫子さんが病室に入ると、手術した佐藤先生が早く手術できたので術後の問題はないでしょうと言った。しかし何せ、高齢なので精密検査をして1週間以上の入院をしていただきますと告げた。

 そして2013年があけた。佐光夫妻が初詣でに行き、父の回復を祈願して来た。2013年1月5日、佐光俊一90歳が退院してきた。退院時の佐藤先生の話では高齢なので心不全が怖いので、少しでも調子が悪くなったら直ぐに病院に来て下さいと言った。薬は猿田姫子さんの言うことを聞いて、きちんと飲んで下さいと言った。

 その後2月の寒い早朝、父の佐光俊一から電話で、おかあさんが大変だと言ったので佐光夫妻と猿田姫子が父の家にい行くと母の佐光照美さん88歳が冷たくなっていた。念のため猿田姫子が確認すると脈が触れず死亡を確認し直ぐに電話すると成田日赤の循環器の佐藤先生が10時に来てくれ、死亡診断書を書いてくれることになった。

 その時、佐光淳一も胸が苦しいと言うので佐光俊充と佐藤先生と猿田姫子が成田日赤に行った。診断の結果心不全の初期症状かも知れないと言われ、大事をとって入院となった。その後、2月16日の寒い夜、成田日赤病院から佐光俊一さんの危篤の連絡が入って。佐光夫妻が病院に急行すると父が、むしの息で、後は頼んだぞと言い、息を引き取った。

 享年90歳。その後2月21日、家の近くの成田の葬儀場で佐光俊一の葬儀が行われ近所から55人の参列者が集まり故人の地元での活躍ぶりが語られた。葬儀を終えると佐光家の菩提寺に30人もの人が列をなして出かけ、佐光俊一の生前の善行の数々にお礼がのべられた。やがて、暖かくなってくると受験が始まり、次々と合格、不合格の情報が入った。

 猿田剛介は今年、中学に入り、地元の成田中学へ通い始めて、サッカー部に入った。佐光俊充の古くなったパソコンをもらって佐光英才塾のパンフレットや試験問題などを印刷する手伝いをした。2013年、染谷次郎が筑波大付属駒場高校に合格したとの知らせが入った。この年の夏は猿田剛一はサッカー部の練習に参加して真っ黒に日焼けした。

 彼は当たり負けしなくて足も速いので1年から控えのフォワード、ミッドフィルダーとして試合に出た。集中力もあり1年生でクラス、ベストスリーの常連で特に英語、国語、社会、数学、理科の主要五科目が良かった。秋にはクラスでトップ学年でベストスリーまで成績を上げた。そして2013年12月のテストで、主要5科目の合計点数で1年生でトップをとった。

 やはり佐光俊充が集中力があると見込んだだけのことはあった。やがて2014年があけた。この頃、染谷兄弟からの話で、両親と祖父母の断絶が両親の死で解決して、可愛い孫たちの学費と生活費を祖父母は出してくれる事になったと電話で染谷君子さんから連絡が入った。
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