第5話:英才進学塾の活動開始

文字数 1,759文字

 もし、駄目になりそうだったら、すぐ言ってくれと、大屋が言った。そして、講師の給料は月に10万円と言うと、それじゃ赤字じゃないと言うと仕方ないさ。みんなで頑張って黒字にしていこうと言って部屋を出た。その後、不動産屋へ行き、藤岡が代表として、契約してきた。7月25日土曜日に開校する事にした。

 明日、7月15日から池袋、新宿、渋谷、東京でビラ配りを佐光と重野、藤岡と大屋の2人ずつに分かれて、やることにした。明日は、各自、手書きして、コピーしてきて欲しいと言った。費用は領収書と交換で支払うと藤岡が言った。7月15日から進学塾開校のちらしを池袋、新宿、渋谷、東京で若い人に配った。

 その結果、7月25日には、高校生168人が集まり、土曜の10時~11時、11時半~12時半、13時~14時、14時半~15時半、16時~17時、17時半~18時半の6回、土日2日で12回、1回14人平均。3人とも、経済学部出身で株の情報を持っていたので、平日は、株投資をしようと言うことになり、お互いに電話で情報交換することにした。

 必要な時には、藤岡の和光市の実家の離れを借りて、日本株投資の勉強会を開くことにした。藤岡は投資予算30万円、大屋と佐光は10万円だった。やがて1970年10月になり10月3日土曜日に進学塾が始まり、上々の滑り出しで土曜の午後16時から17時と、日曜日の16時から17時の勉強会を開き、最初から、質疑応答の実践形式ではじめた。

 すると、かなり優秀な生徒が多く、個々に、進学したい大学がわかっており、的確な指導ができたようで、12月の高校での一斉テストでも成績を上げた生徒が多く喜ばれた。その後、1971年になり受験生全員に、その合否を必ず知らせてるように勉強会の時に伝えた。やがて、1971年3月を迎えて、志望校に合格できたのが168人中148人で合格率88%となった。

 合格した大学名を書いて、合格者数を書いた表を進学塾の窓と教室にに貼りだした。翌年の3月毎週、新宿、渋谷、池袋で進学塾のビラを配り、高校生の授業料3千円と書いて、道行く人に配りまくった。そして1971年の新年度は208人、今年も質疑応答形式で授業を進めた。ちなみ3人の講師の月給、10万円、やがて、1972年となった。

 1972年3月の志望校に合格できた人数は183人で88%の合格率だった。この合格率88%は、他の進学校に比べて、十分に対抗できる素晴らしい成績だった。1973年は223人となり、1クラス19人となったが、同じ方法、質疑応答形式で授業を継続した。こうした方が、各人の能力に応じた進学のための教育ができるからだった。

 人数が増えた分、講師の月給も15万円まで増やした。1973年5月1日火曜日、重野陽子が佐光俊充に、おりいって、お話ししたいことがありますと言い、佐光を呼び出した。喫茶店が開いたばかりの10時頃、人に聞かれないように奥の席に座った。そして、話し始め、重野が佐光さんのこと、最初、尊敬していたがその尊敬の気持ちが愛情に変わったと言った。

 でも私自身が人に束縛されるのが嫌いで、同じ場所で同じ事をずーと継続するのは苦手なので、ふらっと一人旅に出たり勝手な所がある。そのため、きちっとした結婚というのは、あわないかもしれない。でも、佐光さんのことは大好き、一緒にいたい、だから一緒にいさせて欲しいと言った。自分勝手な所のある私だから、佐光さんと正式に結婚して束縛する事もしたくない。

 そのため、内縁の妻で良いのですと、精一杯の勇気を振り絞っているような顔で話した。それを聞き、佐光が、僕もその方が、性に合ってるかもしれないと答えた。最後に、重野が私小さい頃に大病をして、あまり長く生きられないかも知れないし、子供は作れない可能性が非常に高いとも医者に言われたと打ち明けた。

 その話が終わると重野は感情が、高ぶったのか、涙を流し始めてハンカチで拭いても拭いても涙が止まらなくなかった。すると、佐光が重野の手をしっかり握り、わかった大丈夫、しっかり守ってやるよと語った。それに対して、わがままなですけど、今、佐光さんを好きという気持ちに嘘はありませんと伝えた。しばらくして、落ち着いて、昼食を食べてから、外に出た。
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