第55話 5-6 陥落

文字数 1,187文字

 一九四三年十月中旬。
「グーテン ターク。ご用件を伺います」
「ユダヤ女がドイツ人を装い軍需工場に潜入して、極秘情報を持ち出そうとしています」
「詳しく教えて頂けますか」
「工場名は、デッサウ合成化学、不埒な奴の名前はハナ・リリエンタール」
 四角く赤い公衆電話ボックスから告げる男の頬から口角が今にも笑い出しそうに吊り上がっている。
「御通報に感謝します。貴方のお名前を 」
 更に口角を吊り上げた小柄な男は受話器を置き、小さな笑いと共に足早に立ち去った。

「ハナ・リリエンタールか」
「どなたですか」
 何の予告もなく事務所に踏み込んだスーツ姿の男二人。
 鍵十字を掴むライヒスアドラーの裏に『Geheime(ゲハイメ) Staatspolizei(スタッツ ポリッツアイ)』の文字と番号が刻まれた楕円のプレートを無言で突き出す。
「聞きたい事があるので同行願おうか」
「リリエンタールさん、何があったんだ」
 ハナに手招きするゲスターポを見ていたランゲは目を白黒させ問う。何も悪いことはしていないから大丈夫、と向かいのデスクから立ち上がったままのランゲを落ち着けたハナは、婚約指輪を外すと託し、数日経っても戻らなかったら、例の封筒で連絡して下さいと小声で言い添えた。 
 ハナは狼狽えることなく気丈に振舞い、車に乗り込むと澄み切った表情で不安顔のランゲに頷き工場から連行されていった。

「お前はユダヤ人か? 何の情報を持ち出そうとしているんだ?」
 的外れな嫌疑は誰かの密告に違いないとハナは思うが、何も答えず静まる部屋でゲスターポが煙草を燻らせながら、ゴンゴンと棒状の物で机を突いて鈍い音を立てる。
 質問に対し意に添わぬ切り返しをすれば、アルマイトの灰皿を吹き飛ばして吸殻と灰を撒き散らし、床でカラカラと音が立つ。
 威嚇に応じぬと見たゲスターポの男は、調べは付いているぞと一方的に喋り始めた。
「身分証やパスポート、ドイツ人たる書類は親衛隊が手を廻した公式の偽造品」
「それは大使館員暗殺事件裁判での協力予定者ステラ・フォン・シュルツの心証を良くする為」
「裁判が中止となる見込みの今では忖度する必要などない」
 ハナが薄々勘付いていた通り、親衛隊即ち政府の目論見がこの厚遇を提供していたと一方的に喋った男は、良いか、よく聞けよ、と注意を惹くと言葉を続けた。
「パリに派遣され臨終に立ち会ったドイツ国防軍顧問外科医は、死因に疑問を呈していた」
「他殺を訴えていた彼は昨年末に突然お亡くなりになった」
「政府に背く証人候補者は、皆なぜか他界する」
 ハナの耳を抉じ開けるその話が本当なら、謀略の為担ぎ出そうとしているステラに親衛隊が何かを強要するだろう。そして、これ以上抗い続ければ、奴らの心証を害してステラの身に危害が及ぶかも知れない。
『政府に背く証人候補者は、皆なぜか他界する』
 ステラを危険から遠のけないと。
 観念したハナはゲスターポの手に落ちた。
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