第4話 1-3 境遇

文字数 1,939文字

 装飾の名残が窺える補修された入口周り。
 破壊された外壁に黄色のペンキで書き殴られたユダヤ人を侮辱する言葉と六芒星(ろくぼうせい)
 割れたままの窓ガラス。
 小石を食むタイヤの音だけ響く車内に男の声が響く。
「家に向かいます。宜しいですか」
 自宅まで送ると申し出て、車中で語り合う時間と、ステラが欲するであろうハナの下宿先を確認する機会を作る気遣いを見せたのは従僕兼車馬係のサリッサ・スクゥトム。
「気遣いありがとう。戻りましょう」
 ゆっくり流れる市街地の景色。
 足早に通り抜ける者、襤褸布(ぼろぬの)に包まり横たわる者、焚火で暖をとる者、空き缶を前に蹲っている者、プラカードを胸と背に職を求める者、売り物を前に声を嗄らす者、掴み合い殴り合う者、色を(ひさ)ぐ女、窓拭きの小銭欲しさに車へ群がる子供達。窓や壁が壊され、落書きに埋め尽くされた建物。
 メアツェーデス・ベンツの革張りシートに身を埋め、アームレストへ頬杖を突くと、ガラス窓の向こうの心荒む光景に瞼を閉じた。
 自分も街の中で当て所なく彷徨っていたかも知れず、運に恵まれたから高級車の車内にいられるのだとステラは思う。
 幼き頃、由緒ある名家シュルツ家の養女になった途端に何もかもが一変した。
 周りの庶民とは違う、特権階級であると自覚させられる生き方を間接的に強いられた。
 衣食住は当然に、教育や交友についても干渉された。同年代の庶民の子と一緒に遊ぶのを良しとされず、シュルツ家の娘だからと家柄の望ましい子息息女以外から遠ざけられたが、自然と気が合い共感するハナとの関係への干渉は頑として拒み続けた。
 遠慮など何もいらないのにハナが気を遣った。  
(相談だけでも良かったのに)

 門扉が開く音で目が覚めた。
 門衛の礼に会釈を返すと、外周を踏破するには一日では足りないと言われる広大な敷地に進入する。野生動物が路面を横切る鬱蒼とした森を潜り、広大な猟場を眺め、端が遠く見えない冬枯れの農場を抜け、丘陵の牧場を掠め、清らかな小川を渡る。刈り込みと手入れの行き届いた庭園の石敷きの車路を滑る様に走る事暫し、地域住民からシュルツ城と呼ばれる本邸が月明かりに照らされ見えてきた。
 塔や要塞の要素など何もなく、中世貴族の居城とは趣の異なる虚飾を廃した建築は、歴代領主揃っての質実な性格を反映しているのだと母から聞いた。
「お待ちしておりました、お嬢様」
「出迎えありがとう」
 八人いる使用人がエントランスホールから廊下への両側に並び出迎える。
 暖房の効いた廊下を歩きながら夕食を尋ねるメイド長のニースフォーツへ軽く済ませたいと答えれば奥様がお待ちですと言われ、軽く済まない用件と察して食欲が減退する。

「入りなさい」
 静々と見える重い足取りのステラが母の部屋に進み入る。
 余計な物を置かず広々とした部屋の所々に配置された重厚な調度品。壁を飾る聖母子像は写真と見紛う色鉛筆画。母と幼少のステラを兄が描いた展覧会受賞作。
 眩い笑顔で待ち構える母ゲルトルート・フォン・シュルツ。
 ある難点を除けば素敵な女性だと心底思っているステラが帰省の挨拶を述べながら視線を流し、テーブルの上を捉えた途端に背筋の産毛が逆立つ。
 結婚適齢期に達してから発達した特定の危機回避能力が促すまま部屋を出ようとした。
「お待ちなさい、ステラ」
「うっ  はい」
 引き留める母の笑顔は、言わなくてもこれが何か分かりますよね、と告げる。掌が示すテーブルを眼球だけ動かし捉えると、嫌な予感の通りに気分を滅入らせる表紙付き写真台紙の山。
 強張る表情筋の口元を吊り上げ、(いびつ)な笑顔を急拵え(きゅうごしらえ)すると母に向いて言う。
「わ~ぁ、今回も大勢の物好きどもが  あ いぇ、何でもありません」
 口から全部出掛かった本音を聞いた母が素に戻り掛けたので慌てて口を慎む。
「素晴らしい殿方達が一度でもお会いしたいと仰っているの。どうかしら」
 輝く笑顔に戻った母は知らない。ある難点とはこの事だと。
 どうもこうもない落胆の溜息を堪え、言い訳の引き出しから言葉を選び始めたステラに母は畳み掛ける。
「この方なんか素晴らしいのよ。見て」
 ローレライよりも高く思える見合い写真の山から一冊手にすると開いて差し出す母に呆れながらも、反射的に手が前に出ていた。
(あ しまった!)
 気付けど既に遅く、無下(むげ)に戻せぬ手をうろうろさせると、引いて胃の辺りへ添えた。
「お母様。絶妙に いや、生憎と 胃の調子が優れませんので  また後日に致します」
「何か良く分からないけど、いけないわね。クーシェレ、来て頂戴! クーシェレ!」
「お、お母様! こんな私にお構いなく!」

【文中補足】
メアツェーデス・ベンツ メルセデス・ベンツの現地読み
ローレライ ライン川に面する岩山 高さ約130m
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