第10話 1-9 粘土板

文字数 1,720文字

 約半年前、大学の研究室での初日。
 考古学の指導教授からステラに渡されたのは大判の写真二枚。読んだ事はあるかと問われ否定すれば、アラム語のエレファンティネ・パピルスとペルセポリスの碑文だと言う。
 幼い頃から読み書き出来た古代ペルシア語と帝国アラム語を研究対象とするステラは、潰れて読めない箇所は飛ばしたが、渡された写真の小さな文字をルーペ片手にアラム語で読むとフランス語に翻訳しつつ読み終えた。
 興奮してステラに詰め寄った教授は翌日、教え子の学芸員が意味不明として協力を求めてきた粘土板がある、是非読み解いて貰いたいと新しい写真三枚を手渡す。
「全部読めましたが、これ、意味不明です」
 なぜかは分からないが、その写真が示す碑文に魅入られたステラは論文の課題にすると告げて譲り受けると、帰りも遅くなり雨も降ってきたので、迎えに来たアコニテンの大きなバッグへ、それは防水性能を自慢する特注品に、大きな印画紙三枚を収めて家路についた。

 それ以降ステラが写真を睨み続ける時間が増えた。
 古代ペルシア楔形文字で何が書いてあるかは理解出来たが、今まで解読してきた出土品のいずれとも違う内容に戸惑い悩む。
 もしかすると暗号かも知れない、などと想像しては頭を掻き、天を仰ぎ、腕を組む。分からない、との幾つもの呟きを、通りを流れる風に任せ歩いている。
「お嬢様、危ないっ!」
「わぁっ! なっ、何?」
 考えに耽っていたステラはぐいと腕を引かれ歩を止めた。転居した大きな貸間からパリ七区ヴェルヌイユ通り、アラン通り、リル通りへと通っての買物の途中。
 車馬の暴走でも、物が降ってくるでも、落とし穴でもないが、アコニテンが溜息を吐いて指差している。
「馬糞は拾って薔薇の堆肥にすべきですね」
「そうね、全くだわ。  え、そうなの?」
 家に籠ってばかりでは良くないとアコニテンに手を引かれ買い物に歩いたが、帰路で再び足を止めさせられた。
「ここを良く覚えておいて下さいね」
 広い庭園の奥にホテルの佇まい。尋ねれば何かあったらここに駆け込めば良いですと言われ、入場門に掲げられた標識を読む。
L'()ambassade(アンバサド) d'()Allemagne(アルマーニュ)。ドイツ大使館ね、分かった。 で、ここ、どこ?」
 全然駄目じゃないですか、と呆れたアコニテンは手を伸ばし、指し示すと言う。
「このリル通りを何も考えずに真っ直ぐ行けば新しい貸間です。覚えましたね?」
「分かった。 で、どこ行くんだっけ?」 
 なんと、まぁ、気の毒な、と毒づくと、今言った貸間へ帰りますね、と指し示した小さな手を繋いで歩く。 
 その姿は迷子の姉の手を引く妹。

「お嬢様、食事の時くらい研究の事は忘れて下さい。幼児じゃないのですから」
 ラジオから流れるリュシエンヌ・ボワイエの歌うパーレ・モワ・ダムールの温かな歌声とピアノの音色が雰囲気を和らげるダイニングでアコニテンがお小言を零らす。
 その姿はだらしない姉を叱る妹。
「えっ? あ、はい。 恥ずかしいわね」
 テーブルマナーを母から厳しく躾けられたステラだが、膝上のナプキンにぽろりぽろりと零していた。アコニテンが用意する食事は誰から習ったか、好みの食材や味付けで、温かい出来立てを差し出されれば、両親や他の使用人の目を気にする必要もないので食が進む。だが、考えが頭に集中すると疎かな手元から零してはアコニテンに零される。

 バスタイムを終え部屋に戻ると、既に意訳を終えた三枚の粘土板の意図を考える。
 ペルシアからギリシャを見て遥か遠くの天を衝く山、その向こうのガッリア人パリシイ族の泥の街で、男娼の使節婦人なる者は少年と体の関係になるが、痴情の縺れで相手を殺すと、夥しい人々が殺される原因になる。
(何だこれ? 何を言いたいのか分からん)
 同性愛者でなくても、人間は加害行為に及ぶ。だが、それが原因で大勢が殺される必然性は全くない。偶然そうなる事ですら無茶苦茶だと思うステラは、粘土板を残した者は何時代の何者で、何を伝えたかったのか考え、手掛かりを得ようと行動に移った。

【文中補足】
L'ambassade d'Allemagne (在仏)ドイツ大使館
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