第77話 8-3 姿を消した王妃

文字数 1,819文字

 紀元前四七三年、ペルシア帝国。
『首都の死者、アダルの月十三日は五百人。十四日は三百人。百二十七属州の合計は七万五千人』
 王の許しの元、王妃は帝国全土で二日に亘りユダヤ人に仇なす者を返り討ちとさせた。
 民族絶滅を企てた宰相ハマンとその息子十人全員を磔刑(たっけい)に処した翌年。
 王の代理として祭祀を執り行う王妃は宰相と共に、王都シューシュからパールサへ向かう道中にあった。
 不快を増す蒸し暑さの余り天を仰げば、暗灰色の雲が低く流れ、降り始めた雨粒は次第に大きさを増す。広く長い街道を吹き抜ける蒸し暑い強風、時に突風に翻弄されながら足を速める一行は宮殿へと急ぐ。
 王妃、宰相、忠実なる四人の賢人宦官(かんがん)、八人の王妃専属護衛役オイ・メロポロイ、配下の警護兵士多数、いずれも嵐の襲来に小走りで王妃専用のタクール宮殿を目指す。
「早く、こちらへお越し下さい!」
 先遣されていた宦官は、荒れ狂う風に掻き消されまいと、宮殿から声を張り上げた。
 それは、一行の背後に低く垂れ込める煤色(すすいろ)の雲が低い唸りを上げながら渦巻き迫る不気味な光景からの事。宮殿からの呼び掛けも掻き消す殴り付ける雨と強風は勢いを増す。
「お妃様、お急ぎ下さい!」
 従者が告げたその時、視力を奪う閃光と耳を聾する轟音を伴う雷撃が一行を包めば、周囲の全員が意識を失った。

 宮殿とその周囲に動く物はなく、静寂が全てを支配する。一人の意識が戻りその隣を起こし、その場に伏していた皆が立ち上がると周囲を見渡し始めた。今の今迄荒れ狂っていた嵐が消え去った事を信じられぬ宮廷宦官達は我が目を疑い、目を凝らし周囲を探す。
 濡れた階段を降り、飛沫を蹴散らし前庭を走り、這って物陰を覗く。声を張り上げ飽く事無く呼び掛け続ける。その有様を見た皆が倣う。それは水面を打つ滴で広がる波紋の如く、国中から全属州へと波及し続けた。
「王妃は、宰相は、どこにおられるのか!」

 観兵式での閲兵を終えての帰り、城下の祭りを眺める国王は何事かと問う。
「あれは、ハマンの謀略による民族絶滅の危難を退けた日を永久に忘れる事なく祝い続けよと、王妃エステル様と宰相モルデカイ様がユダヤの民に命じた祭典です」
一年前に失踪した王妃と宰相、いずれもユダヤ人であったと知る国王は疑問を呈した。
「我がペルシアは異民族、文化、宗教を寛大に認めてきた。初代国王が解放したバビロニア捕囚の民とその子孫に最大の融和を示し、妃に娶り、宰相に任じても、彼らはユダヤ人であり続けようとするのか」
 国王の側近は私見ながらと断って言う。
 興隆極める異文化たるバビロニアに何代も囚われ続けた間、自分は何者であるかを宗教への帰属意識に求めたなら、その繋がりは根強く、改宗など容易に出来ないものだと。
「世の覇者は我がペルシア帝国である。融合せずにあり続けようとする者は、いずれ国を蝕む異物として消し去らねばならない」
 良くない方向へ話が進むと見込んでも、反論は命懸けと知る臣下達は黙っている。
「全てのユダヤ人を帝国から消し去れ!」
 既に経済の中心を担っているユダヤ人を排斥すれば、兵員と戦費拠出を拒まれると知る賢人達は国王を宥め鎮めようとする。
 帝国ユダヤ人の最高位たる王妃と宰相が不在になった事で既に十分で、マーダから新たに王妃を娶り、ペルシア人宰相を据えて帝国内を盤石なものとし、後は来るべきギリシア軍との戦争に注力すべきと助言する。
 優先すべきは戦争準備、特に戦費の提供元たるユダヤ人を絶やせない現実を突き付けられた国王は、謁見に浴す皆が吸い込まれる緑色の瞳に宿る怒りを鎮め翻意したが、代わりに妃と宰相と随行者達に起きた事、関係する物、存在した全てをこの世から消せと命じた。
 妃達と結び付く書物を初めとするあらゆる事物が姿を消し、記憶を語る者の軟禁と口封じまで行われた。王はこれら消し去った事実も全て消し去れと命じるとその通りに行われ満足した。
 しかし、王位を狙わんと画策する護衛隊長アルタバヌスは、侍従のスパミトルとミトリダテスに命じ、密かに粘土板に経緯を残させ、政争の具として隠しておくべしと地中深く埋蔵させた。

 時は流れ、王も、護衛隊長も、侍従も全て討たれ、粘土板を知る者はいなくなった。
 王妃エステルと宰相モルデカイは、ユダヤ教の祭典プーリームを除けば、史実と人々の記憶から完全に消え去った。
 その後、王妃と家臣全員が邂逅を果たすのは、二千四百年程経た後のドイツでの事。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み