第62話 6-4 焦燥

文字数 2,034文字

 一九四四年五月二十六日 金曜日。
「マグフリート、電話だぞ。歯医者からだ」
 警備員控室の電話が鳴ると呼ばれた。
 電話の相手が求めるフルネームとカルテ番号を記憶から(そら)んじて伝えると、奥歯治療の予約日時と、説明通りに治療を行うが、助手も技工士も参加しないと言われた。
「分かりました。では当日伺います」
 Som,28.Mai/13:30
 日時を手帳にメモしていると、まだ診療する歯医者があったのかと同僚に問われ、やっと予約が取れましたと答えた。
 空襲の被害を受け、或いは戦火を避けようと長期休診にする医院が多いのは事実だ。
 実在する歯科医院の予約連絡を装った符牒を淡々と告げたのはスクゥトム。奥歯の治療は予定通りの決行。助手はステラ。技工士はハナ。工場の心臓部である動力源を破壊するこの計画は危険が伴う事から、余計な随行者がいないと聞いて安心している。

 五月二十八日 日曜日。十三時三十分。
 虫歯が痛く食事が出来ないと周囲に偽ったマグフリートは昼過ぎの定時巡回に出た。
 多忙となった工場は交代制勤務となり、休日返上で稼働している。
 熱源棟に入り、軽口を交わす汽缶技師が、遅い昼休みの為事務所棟に向かう。マグフリートは警備点検表の確認項目全てにチェックマークを手早く入れて入口脇に置くと、膨大な熱を放つ汽缶を睨む。
 壁の工具掛けからドライバーとペンチとプライヤーをポケットに突っ込むと、別側のポケットから取り出した厚手の綿手袋の上に牛床革の手袋を重ねて嵌める。
 手順を思い出しつつ全身を焙る熱波を浴びて汽缶のメンテナンスタラップを上る。手にした工具を汽缶上部にある安全弁へ伸ばし、全箇所を動作しない様に細工した。
 全身汗まみれのままタラップを下り、『常に開け』と表示札の掛かる逃し管と給水管のバルブを閉じた。次に『蒸気送り出し弁』の乗用車並みの大きさのハンドルを、各方面行き五つ全て閉じた。
 一度手袋を脱ぐと場内の水道で赤くなった両の掌を冷やす。
 汗で湿っている衣服で手を拭くと、熱を持ったままの手袋を嵌め、仕上げの細工に向かう。『常に閉じろ』表示の排水管のバルブを開けに掛かる。これが終われば後は逃げるだけだ。
「!」
 元々動かないのではと思わせるそれは、握力の限りを尽くし捻っても微動だにしない。
「畜生!」
 伝わってきた熱に負け、手袋を外した掌で工具掛けからパイプレンチを握ると冷たさが心地良い。出入口近くに掛かっている雨合羽の上衣も取って戻ろうとした時、ドアの外から伝わってきた音を聞き取ると耳を欹てる。視線の先の壁掛け時計は十三時四十八分。
 初めの音が膨張しては減衰する中途で次の膨張音が重なるサイレン。
「空襲警報か!」
 足早に戻り、開いた雨合羽を排水管が側溝に突き出す周囲へ被せて飛沫除けにする。パイプレンチの歯をバルブのハンドルへ掛けて食い込ませ、じわりと柄の端に力を掛ける。
 早く戻らないと怪しまれる焦り。バルブが開かない苛立ち。早々に警報が解除され、戻った汽缶技師に見つかり騒がれる恐れ。
 それらが入り交じり全身から更なる汗となり下着と作業服を湿らせる。
 力任せだと華奢な作りのハンドルが割れ、操作出来ず計画に狂いが生じる。ハンドルが割れたまま放置された周囲のバルブが目に入ると不安が過る。額を伝い目に沁みる汗に構わず、じわりとパイプレンチを傾け続けた。
 シー  シューッ  ブシューッ!  
 唇の端を吊り上げたマグフリートは更にパイプレンチを倒し込んでハンドルを回した。
 シュゴーッ!
「ぅ熱っつ!」
 噴出した過熱水蒸気が狭い側溝で暴れ、雨合羽を吹き飛ばすと、周囲に飛散した熱湯と湯気を避けようと飛び退りよろけて尻餅をついた。離れたまま様子を見れば、周囲を霞ませるもうもうたる蒸気が尽きるのは思ったよりも早かった。
 陽炎が揺れる高熱の気体が触れるのを躊躇わせるが、意を決しバルブを閉めようと手を触れれば、手袋が焦げる熱が伝わる。左手の手袋を脱いでハンドルに被せ、右手に左手を添えて力の限り閉め込む。
 渋いハンドルの逆回しを続け、排水管から噴き出していた陽炎の噴出が止まった。
 下着も制服も汗で全身に張り付いたまま、工具類と雨合羽を元の位置に戻して外へ出れば、鼓膜を叩く対空高射砲の射撃音。熱源棟を施錠すると警備員詰所に走って戻った。
「遅いぞ! 三番立哨点に行け!」
「はい、済みません!」
 非常事態なのでなぜ遅くなったかは聞かれなかった。足を止めず備え付けの鉄ヘルメットを被り、受け持ちへと小走りで向かう。
 外構の三番立哨点からは、動力棟から事務所棟までが見渡せる。
『汽缶を空焚きすると、遅くとも二十分で設計上の限界を超え容器が破裂する』
『破裂した汽缶から高温高圧の空気が音速以上で拡散する為、爆弾の破裂と遜色ない』
 スクゥトムの説明から、その瞬間は伏せねばならないと自分に言い聞かせた。監視を続ける間も伝わる爆発音と地揺れが記憶を呼び覚まし、警鐘を鳴らし始めた。
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